(22)
身体機能回復と状態確認を兼ね、ライラは毎日忙しい合間を縫って救施場内を散歩をしている。
そう、未だ治療中の身であり、静養を余儀なくされる立場ではあるライラだが、忙しい身の上であった。休憩どころか食事の時間さえ必死にならないと捻出できない程度には、毎日しっかり忙しいのである。
ライラ自身、それもまた薬術師の宿命だなぁと呑気に受け入れていた。その為、休憩時間を捻出する努力すら怠る始末だ。それでも毎日休憩及び散歩の時間が捻出されるのは、ひとえにサキ及びその他薬術師達の涙ぐましい努力の結果であり、レイルの怒りの成果であった。
ライラが食事も取らずにせっせと薬の調合をしていれば、いつの間にか食事を持ったレイルが目の前に立っているのである。
レイルの整った顔には、明確な怒りの表情は浮かんでいない。ただその美しい瞳を、冷ややかな怒りが染め抜いているだけである。まだ長い付き合いとは到底言えないライラであろうとはっきり分かる怒りが浮かんだ瞳に見下ろされると、即座に食事へと移行するより他なかった。
おかげでライラは毎日三食食事を取り、なおかつ休憩を取った上で散歩にまで時間を取っていた。休暇中ではなく職務中であるにもかかわらず、これほどまでに余裕のある時間を過ごしていいのだろうかと、ライラは盛大な罪悪感を食事で必死に飲み込む毎日だ。
「そもそもあんたは療養中だろう」
「……はっ!」
ライラの散歩中は、護衛騎士であるレイルも隣を歩いている。護衛兼倒れた際の救護要因であるが、今のところ倒れたことは二度ほどしかないので安心してほしい。
そんなライラであったが、呆れきった口調で告げられたレイルの言葉に、胸を貫かれるかのような衝撃を受けた。
今の自分が療養中の身であると、事あるごとに認知からすっぽ抜ける己の記憶力に衝撃を受けたライラはよろめき、歩みを止めた。
「……いやでも、お給金が出ている以上仕事では?」
「死にかけた人間を病床でこき使う以上、給金が出ないならば奴隷以下だろう」
実際に奴隷として扱われていた人にそう言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
そして、そんなことを言わせてしまった事実を反省した。
飲み込む言葉の多い薬術師は、身内にはお喋りになる者が多い。普段口を噤む分、遠慮をしない相手には気を抜きすぎるのである。薬術師同士ともなれば、作業を行いながら延々と喋っているほどだ。
修羅場の渦中で、ばたばたと倒れていく仲間に動揺一つ見せず延々と会話を続ける薬術師達を見た人々が、怪談として語り継ぐ程度には、よく喋る。
それでも、相手に言ってはいけない言葉同様に、言わせて引けない言葉があることをライラは知っている。そこに自身の未熟さや薬術師の事情など、一切関係が無い。
たとえレイルが気にした風でないとしても、あえて相手の傷に触れるような行為をする必要も無いのだ。
気をつけようと、ライラは今一度気を引き締める。そうして改めて歩を進めた先で奇妙な存在を目にし、再度足を止めた。
裏庭の片隅に、昨日まで存在しなかった長椅子があった。その向こう側から白い煙が立ち上っている。
「火事……?」
それならば一大事だが、よくよく見れば長椅子の上に人が横たわっていた。その人の上から毛布が掛けられているようなのだが、子どもなのか身体が薄いからなのか、すぐには存在に気がつけなかった。
しかし歩を進めるにつれ、横たわっている人物の名と側に立つもう一人の正体に気がついた。
「ハリス上薬一師、どうなさったのですか? またお腰の具合が?」
長椅子に横たわるのは、昨日も力強く患者を心配した拍子に持病の腰を痛めたハリスだ。側に立っている姿勢のいい中年の男は、彼の護衛騎士である。
「ビオス騎士もこんにちは」
「こんにちは。ライラ下薬三師、レイル騎士」
ビオスは貫禄のある厳格な顔つきと重厚な雰囲気を纏っているが為、彼のほうが護衛対象と勘違いされることも多い。しかしハリスの護衛をもう何十年も務めている凄腕での騎士である。
王族の護衛騎士として勧誘を受けたこともあるらしいが、彼が護衛対象を変えたことは一度も無いと聞く。
なんでも、昔ハリスによって治療を受けたことがあるらしい。
昔重い病を患っていた子どもが健やかに成長し、長年騎士を務められるほど元気になった様を見られるのは嬉しいことだ。ビオスはライラよりとても年上で、彼を癒やしたのは自分ではないにしても、なんだかしみじみと感じ入るものがある。
つい微笑ましい気持ちで見つめてしまうのは、薬術師あるあるだ。
「ぬ! ライラにレイルだと!? 薄着でうろついてはいないだろうな!? この忙しい時期に風邪などひいてみろ! 体調不良が尾を引き、浮かれた行事多き長い冬を寝込んで過ごすなど切ないであろうが! そして腰は無事だ! ありがとう!」
ハリスは他者の案じ方が独特だなと、ライラはいつも思う。
大声、特に怒声に対し敏感に反応するレイルでさえも、警戒ではなく形容しがたい視線を向けているほどだ。
怒声は常に彼の身を害すものであったが、ハリスのそれは案じ以外の何物でも無いので、複雑な気持ちにもなるだろう。慣れたライラとてそう思うのだから、レイルは尚更であろう。
そしてレイルを複雑な心境に陥らせたハリスは現在、毛布の重さに溺れていた。
「腰は一切無事ではないし、その上で幼子らと遊ぼうとするので追い出されて尚、子どもらが甘い芋を食べたことがないというので焼いている爺さんがこれだ」
「あー……」
道理で甘い匂いがすると思った。
煙を出している枯れ草を前にして甘い匂いがしていれば、それは葉以外の何かを焼いているはずだ。
ただし葉から甘い匂いがしていれば、とりあえずその葉は燃やさない方がいい。
「芋は時間をかけて焼けば甘くなる! だが若造共にそんな時間はないだろうが! 手間と時間さえかければいいことは、暇な爺婆の役目だ!」
毛布に溺れるハリスをよく見れば、溺れながらも長い木の枝で木の葉の山を調整している。山の高さを見るに、芋の量はとても多そうだ。
「後で食ってやってくれ。ちなみに爺さんが焼く芋は、異様に美味い」
「わあっ、それは楽しみです。ご相伴に預かります」
焼いているハリスではなく、ビオスのほうが誇らしげな顔をしている。ライラは、なんだか自分事のようにくすぐったい気持ちになった。
薬術師が報われる瞬間というのは、きっとこういうときなのだ。
ハリス達と別れたライラは、両手を天に突き上げながら伸びをした。身体を動かせば、身に纏った甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「焼き芋、楽しみだね」
「芋に特別思い入れはないがな」
「じっくり焼いた芋は美味しいよ」
「……あんたらがそういうのなら、そうなんだろうな」
苦笑に近い笑みを零したレイルは、ぽつりと呟いた。
「飢えを満たすには到底届かず、かろうじて生を繋ぐ為に口にする物と、満足感を得るために手をかけた物では、同じ材料でも天と地の差があるだろうことくらいは、多少分かる気がする」
そこにあったのが憎しみや怒りではなく、苦笑だったことにライラはほっとした。そうしてそっと言葉を選び、何でもないこととして口にする。
「愛も籠もってるから尚のことだよねー」
レイルは答えなかった。答えようがなかったのだろう。害以外の何かを与えられることすら稀だったレイルにとって、それ以外のものを、まして関わりの浅い相手から渡される経験など無いに等しかったはずだ。
そうと分かっていたけれど、ライラは言葉を重ねるつもりはなかった。レイルにはこれからたくさん、そういったことに慣れてもらわなければならないのだ。
何せレイルはこれから、それこそうんざりするほどの愛に曝されて生きるのだ。
ライラからは勿論、薬術師の中で生きるとはそういうことである。そうして、人の中で生きるとは、本来そういうことなのだ。
ライラは隣を歩くレイルの前に躍り出た。勢い余ってくるりと一回転してしまった身体はそれでも止まりきれずよろめいたので、レイルが支えてくれる。
まるでダンスをしているようだが、実際は介助にすぎない。ライラは治療が早かったので寝込んでいた時間自体は少なかった。それなのにこれだけ足腰が弱ってしまうのだから、つくづく人とは動くことを前提として作られているのだと思う。
そして、そうして作られているのなら、やはり動かし続けることが筋だと思うのだ。
だからライラは、支えてくれたレイルの腕から一端抜け、改めて彼と向き合う。そして、恭しく手を差し出した。
「というわけで、愛を籠めた手を繋ぎませんか」
今のライラには、愛を籠められる存在が言葉と手くらいしか思い浮かばなかった。けれどハリスの焼き芋より先に愛を実感してほしいと思ったのである。
レイルは面食らった顔をした。衝撃を受けたと言うよりは、きょとんと呆けた顔をしている。
しかしやがて、花がほころぶように笑った。そうして今度はライラが面食らっている間に、さっさとその手を握ってしまう。
手を差し出したのはライラだったのに、手を引いて歩き出したのはレイルだった。慌ててついていきながら見上げたレイルは、どこか機嫌がいい。
レイルはライラのように鼻歌を歌ったりしないけれど、そうしていても違和感はなかっただろう。
人の傲慢さによって檻に入れられていたこの人は、もうどこにだっていける。誰にも咎められず夢を見た先へ、いつだって駆けだしていけるのだ。
けれど、ここに縛り付ける原因となったライラの手を取ってくれたレイルは、こんなにも機嫌良く笑ってくれた。
ライラはそっと目を伏せる。
この人の為に何が出来るだろうと考える時点で、きっと己は傲慢なのだろう。それに、出来る何かよりさせる何かのほうが多いに決まっている。
それでも一緒にいたいと願う気持ちを人が恋と呼ぶのなら。あなたの為に出来る何かを探す気持ちを愛と呼ぶのなら。その傲慢さを持って、レイルの幸いを一生探し続けたい。
薬術師としての自分を変えることは生涯出来ない。けれど、自らの信条を減らすことは出来ずとも増やすことは出来るはずだ。
「ライラ? どこか痛むのか?」
歩の速度が緩んだライラを案じた声が降り注ぐ。
「そうじゃないんだけど……なんだか急に、恥ずかしくなってきて」
少しだけ嘘でほとんど本当を告げれば、レイルは何だそれと片眉を動かした。確かに自分で言っておいて何だと思われるだろうが、事実なのだから仕様がない。
「……好きな人と手を繋ぐって、恥ずかしいんだねぇ」
未熟者なのは百も承知だが、どうしようもない。
口に出してしまえば、改めて恥ずかしさが襲ってきた。じわじわと熱くなっていた頬と首筋が、自分でも分かるほど急速に熱を持つ。
レイルの瞳に映るライラは、発熱状態に見えるだろう。その自覚があればあるほど恥ずかしくなってくるのでどうしようもない。
悪循環に陥っているライラの上から、深い溜息が降ってきた。
「…………この手の忍耐と線引きを、まさか俺がすることになるとは思わなかった」
すみませんと謝るべきか、頑張ってくださいと応援するべきか、よろしくお願いしますと頭を下げるべきか。
ライラは悩み続け、レイルも沈黙を続けた。
しかし結局、ハリスの焼き芋ができあがるまで繋がれた手が離されることはなかったので、ライラはそれら全てを次回の課題として、未来の自分に押しつけることに決めた。
これが薬術院で監督生を務めながらも、常に提出日前日に徹夜で課題を済ます実力を持った薬術師の決定だ。
つまりは後で盛大に苦しみ抜くと分かっていても、持って生まれた気質だけはどうしようもないのである。




