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「ねえ、セロハンテープ貸してくれない?」

隣の席の女の子は、申し訳なさそうに話しかけてきた。工作の時間、みんな思い思いに創作に挑んでいる。

「いいよ。忘れちゃったの?」英里はテープを手渡しながら聞いた。

「ううん、使い終わっちゃったの。」女の子はテープを受け取ると、自分が使う分だけ、いくつか切って机の端に貼付けた。

「いいよ、いつでも貸してあげるから。」英里は少しうれしかった。転校してきたばかりだったので、話しかけてくれると、心がうきうきした。

「ありがとう。英里ちゃんだよね。私は亜希。よろしくね。」彼女はそう言うと微笑んだ。耳の辺りで切りそろえたおかっぱ頭。そんな髪型をしていても、どことなく大人びて見える。とても英里と同じ年には見えなかった。

「私、彼女のこと好きになりそう。」英里はそのとき、そんな風に思った。


---

最後の食器を棚に入れると、部屋は新しく生活を始めることができる状態に、かろうじてなっていた。

薄っぺらい傷だらけのフローリングには、アクリル製の緑色のラグ、ちょっとの振動で倒れてしまいそうなほど安っぽい鏡台、古びて油が染み付いた台所。作り付けの扉を閉めると、蝶番のゆるみが気にかかる。扉のベニヤははがれ、黒ずみがよく見えた。

英里は段ボールを始末している亜希の方を振り向くと「終わった。」と声をかけた。亜希は顔を上げ「こっちもそろそろ。」と答える。せまいベランダへと続く窓からは、沈み行く夕日が見える。亜希の顔は逆光で陰に隠れ見えなかったが、その声からこの新しい出発に期待しているのが伺えた。

「良かった、バイトの時間に間に合って。」亜希がほっとした声を出した。

「私ががんばったからよ。」英里は恩着せがましく答える。

「ああ、のどが乾いたわ。何か冷たい飲み物買ってくる?」英里が問いかけると「ウーロン茶ならあるわ。」と亜希が台所の方へと、まだ散らかっている梱包材や場所の決まらない雑貨達を、ひょいひょいとよけて歩いてきた。

二人ともうっすらと汗をかき、頬は上気している。亜希は仕舞ったばかりの戸棚から二つのグラスを取り出し、小さな冷蔵庫で冷やされた、ノンブランドのウーロン茶を注いだ。

「甘いお菓子かなんか、ないの?疲れたから糖分が欲しくって。」英里がリクエストを出すと、亜希はとんでもないというように肩をすくめた。

「貧乏学生がそんな贅沢品を常備しているとでも?我慢して、砂糖でも舐めてよ。」

「何よ、感謝の心がないわ。私が手伝ったから、安く引っ越しできたんじゃない。」英里は頬を膨らませ、それから少し笑った。

二人して渋谷の雑貨屋で売っていた丸テーブルに移動すると、安堵のため息が出る。

これから亜希は新しい暮らしをスタートさせるのだ。

「このラグ、ちくちくするわ。」英里がラグの毛を指でなでながら言う。

「しょうがないでしょう。とっても安かったんだから。」

「じゃあ、引っ越し祝いは、ラグに敷く柔らかいブランケットにしようかなあ。」

「じゃあ、そのブランケットがあるなら、このラグはいらないってことじゃない?」亜希が笑いながら言った。

窓からの日差しが、この小さい空間を茜色に染める。二人は向かいあって、この時間を楽しんだ。

「専門学校はいつ始まるの?」英里が訊ねた。

「来週からよ。」

「それまでは、余裕があるの?」

「ううん、バイト三昧よ。こんな部屋でも家賃を払うってなったら、かなりかかるし、それに学費ローンの返済もあるから、働かないと。」亜希の眉間に少ししわが寄る。

亜希は高校を卒業してからのほんの二週間で、ぐっと痩せたような気がする。もともと細く華奢な印象だったが、それが更に病的なほど細くなっている。鎖骨までのストレートの髪を後ろで一つに縛り、その細い首が一層際立って見える。けれどその目には、これまでに見られなかったような輝きがある。きっとこの出発に期待を寄せているのだろう。

英里は静かに亜希を見つめた。彼女とはもう、小学校四年生からの仲だ。楽しいときも、つらいときも、共に過ごしてきた。育った家庭は違えども、英里は亜希のことを運命共同体だという気持ちになるときがある。すべての秘密を共有している。初めての恋、初めてのキス、初めてのセックス。彼女のことは全部知っている。

「家を出ること、おかあさんなんて言ってた?」英里が訊ねた。

「さあ、何も言わずにでてきたから。きっと今も、私が出て行ったことに気づいてないんじゃないかな。気づいたとしても、出て行ってほっとしたぐらいに思ってると思う。」亜希が投げやりな調子で返答する。

「またそんなこと言って・・・。」英里は亜希のその表情を、もう何十回と見てきた。「子供を思わない親なんていないと思うけど。なんか、ちょっとしたすれ違いか食い違いか、そんな気がするよ。一度落ち着いて話してみたら?離れると、親のありがたみもわかるんじゃない?」英里は亜希に言った。

「・・・かもしれないね。」亜希はちょっと首を傾げると、暖かみのある笑みを浮かべた。

彼女の母親は父親と離婚し、女手一つで彼女を育てた。きっと苦労も人一倍だっただろう。亜希は母親の職業を明言したことはなかったが、彼女の言葉尻から、ホステスのような仕事をしているのではないか、と英里は思っていた。

「英里は?大学はいつ始まるの?」亜希は話題を変えた。

「亜希の専門学校と一緒よ。来週から。今から楽しみ。どんなサークルに入ろうかな。」

「やだ、遊ぶ話ばっかり。」

「もちろん、勉強しに大学にいくんだけど、でも新しい出会いがたくさんあるのよ。本当にわくわくするわ。」英里は自然と声が大きくなった。

「ふふ、英里らしいわね。」亜希が言う。「だから髪型を変えたの?」

「そう。最初の印象が肝心でしょ?色を明るくして、毛先をカールさせたの。やっぱりある程度異性を意識してね。」英里は少し照れていった。

「似合ってるわよ。中身を知らなければ、多少男が寄ってくる感じ。」亜希は意地悪そうにいった。

「何よそれ。」英里はぷっと口を尖らした。

いつの間にか部屋は薄暗くなっている。亜希は立ち上がって、紐を引っ張り、部屋中を痛いほど真っ白に見せる蛍光灯をつけた。

「カーテンも閉めなくちゃ。」英里はパイプベッドを超えて、窓のカーテンを閉めた。

「そろそろ、バイトの時間だ。」亜希がうんざりというように首を振る。

「今日くらい休んだらいいのに。」亜希のその細い身体を見ると、英里は思わず言いたくなった。

「とんでもない。私に休みなんかないのよ。働かなくちゃ。」亜希がきっぱりと言い切った。

英里はコップを流しに片し、部屋を見回した。女の子一人が住むには、あまりにも質素で不用心な部屋。

名ばかりの玄関で靴を履くと、英里は亜希の目をまっすぐと見つめ言った。

「ねえ、困ったら言って。私、なんでもするから。私たちはこれまでそうやって、助け合ってきたでしょ?」

亜希の顔に幸福が滲む。

「もちろん、これからも。」亜希が言った。

英里はギシギシと鳴るアルミドアを開け、彼女を振り返る。亜希の細いシルエットは、決して弱々しいものではなかった。

「じゃあ、またね。メールするわ。」

「今日は本当にありがとう。助かった。」

英里は扉を閉め、錆びた鉄がむき出しの階段を下り、家路についた。

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