二
二
「井田君は私のこと、嫌いになったのかしら?」
英里は亜希と一緒に図書室の一角に座り、お互いの額を寄せていた。窓からは初夏の風と、校庭で騒ぐ男の子達の声が入ってくる。図書館全体に、若葉の匂いと古い紙の匂いが充満し、それを心地よいと思う少数の女の子達が、それぞれグループを作って座っていた。
「どうしてそう思うの?」古い児童図書で顔を隠しながら、亜希が小さな声で問いかける。
「だって、いつのまにかみんな知ってたもの。私たちの秘密だって、約束したのに。」英里は声がだんだんと震えてくるのを止められなかった。涙をこらえているのだ。
「秘密って?あのこと?」亜希が問う。
「うん。そう。」
亜希はしばらく考え込む。切れ長の目は本のページに注がれているが、文字を追っている訳ではない。英里はそんな亜希の様子をじっとみつめる。自分はきっと、今救いを求める顔をしている、英里はそう思った。
「井田君に聞いたの?誰かにしゃべったのかって。」
「ううん、怖くて聞けないよ。」英里は手元の本をそっとなぜる。
「じゃあ、聞いてみるのが先じゃない?井田君がしゃべったんじゃなくて、誰かが二人を見ていたのかもしれないじゃない。」
「・・・そうだよね、うん。」英里は自分を納得させるように、つぶやいた。
「でもね。」亜希は英里の手をぎゅっと握った。
「秘密を守るって、とっても難しいことよ。嫌いになったからしゃべったわけじゃなくて、うれしくて黙っていられなかったのかもしれないじゃない?秘密を守らなかったからって、責めるだけじゃだめだと思う。理由を聞いて、それから、井田君が英里のこと、まだ変わらず大好きだってことがわかれば、それ以上は問いつめない方がいいわ。きっとまた二人で楽しく遊べると思う。」亜希は言った。
「亜希って・・・」英里は少し首を傾げて亜希を見た。「亜希って、たまにすごく大人っぽいこと言うよね。」
「・・・そうかな?」亜希が小さく笑う。その白い頬の右側に、小さなえくぼができた。
「そうよ。私なんか、悩むだけ悩んじゃって、どうやって解決したらいいかなんて、思いつかないよ。」英里は頭を抱えた。ポニーテールが揺れ、首に毛先が触れる感触がある。
「ねえ、もし・・・」英里が言う。
「もし、井田君が私のことを嫌いになって、だから私たちの秘密をみんなにしゃべっちゃったんだってわかったら?」
「・・・それは英里に意地悪したいから、井田君がしゃべったってこと?」亜希は静かに問いかけた。「そしたらね、私が井田君を殴りにいく。」そして亜希が力強く言う。
「殴っちゃうの?」
「そうよ、殴りつけてやるわ。そんな卑怯な方法を使うなんて、酷いもの。」亜希は眉の上で切りそろえた前髪を、うっとうしいというように、手で払った。彼女のつるっとした額が見える。その眉にはすでに怒りが滲んでいるかのようだ。「なんか、極端。」英里が言うと、亜希が「悪には戦いを挑まなくちゃ。」と答えた。それから二人でくすくすと笑い出す。亜希の手に支えられていた本は、その振動でかたかたとなった。
「そこ、図書館では静かにね。」黒板の前に座っていた、図書担当の先生は、厳しい声を出した。
二人は「やばい」というように首をすくめ、それから目で合図をして、パイプ椅子から立ちあがった。自分の本の貸し出しの手続きをしてから、英里と亜希は廊下へと歩き出した。両側を教室に挟まれている廊下には日差しが入らず、冷んやりとした空気が流れている。放課後の校舎にほとんど人影はなく、嘘のように静かで、二人の上履きがビニールの床を踏むぺたぺたという音だけが、嫌に大きく聞こえた。
二人はランドセルを取りに、教室へと向かった。その間もおしゃべりは途切れない。「井田君に聞こう」と英里の気持ちは固まったが、それをいつ、どこで?と考えると、とたんに気持ちがなえてしまう。それを亜希が明るく、そして厳しく励ました。
「初めて男の子とキスをしたの。井田君と。なんだか、変な気持ちだったけど。でもドキドキした。」英里はその出来事の後、すぐ亜希に報告した。学校から家までの、短い秘密の時間に。新しく素晴らしいことが起こったという、興奮と歓び。そしてちょっとの不安が英里の心を占めていた。「これって、してもいいことなの?」
そんな英里に対して「気持ちが通じ合っていれば、キスしてもいいと思うわ。」と、亜希は優しく言った。
「とっても神聖で、とっても純粋だと思う。」確かに幼なすぎる、まだ早い、よくない行いだっていう大人の主張も耳に入ってはきていたが、恋しいという感情を知り始めた子供たちにとって、好きな男の子とキスをするということは、とても魅力的なことなのだ。やっぱり心からのキスなら、美しいはず。自分が小学生なのか、大人なのか、なんて関係ないのだ。
それを聞いて英里は少しほっとした。「そう、心が通じ合ったっていう気がしたわ。井田君のことが、とっても好きって、そう思った。」
「よかったじゃない。大切にしなくちゃね。」亜希が言うと、英里は更に一層、胸が高まるのを感じた。
六年三組のクラスの引き戸を開けると、教室には男子が一人だけ残っていた。
窓際の席に座っている。井田君だった。髪は汗でしっとりとぬれ、その端正な顔立ちは真剣そのものだ。英里を待っていたかのように、顔を上げる。日直が最後の戸締まりをした後だったので、窓は閉め切られ、チョークの粉と埃が床にうっすらと積もっているように見える。
井田君が席を立つ。英里は亜希を振り返る。亜希は「わかった」というように頷くと、自分のランドセルを取り、二人を残して教室を出ていく。
英里はポニーテールの後れ髪が気になって仕方がない。ジャンパースカートも短すぎたんじゃないだろうか。亜希に「大丈夫かな?」と目で問いかけると、亜希が安心させるように微笑み、扉を閉める。
そして英里は、井田君と向き合った。
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新入生歓迎会と称するどんちゃんさわぎが終了し、しこたまお酒を飲んだ若い男女が、群れをなして新宿の歌舞伎町を歩いていた。早朝の歌舞伎町は、腐ったゴミとアルコール、それから一晩中騒いだ人たちの疲れに淀んでいて、英里はどうしても好きになれなかった。
かくいう英里も、一晩中カラオケボックスのタバコ臭い密室に入って、のどが枯れるまで騒いでいた口なのだけれど。英里はこの新歓コンパに少し期待していたのに、男の子達のあまりの外れ具合に、必要以上にはしゃいでしまっていた。
どんなに化粧を直しても、顔の疲れは隠せず、英里は一刻も早く家に帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「今日は楽しかったな。」上級生の男子が英里に馴れ馴れしくしゃべりかける。その執拗なモーションに、英里はうんざりしていたが、このサークルでしばらくやっていくことに決めていたので、疲れた顔に必死に笑顔をはりつけ、話に応じ始めた。
「楽しかったですね、本当に。」
「また一緒に遊ぼうよ。今度はゆっくり飲むのもいいよね。英里ちゃんって、いつもどこらへんで遊んでるの?」上級生は明らかに必要のないボディタッチをしてくる。英里はそっと身体を遠ざける。
「新宿はあまり来ないですね。なんだか、治安が悪そうで。女の子同士では、歌舞伎町なんてなかなか来れないでしょう?」
「うんうん、そうだね。いかがわしい店もたくさんあるしね。まあ、男にとっちゃ、割と天国?」そういって、少しもおかしくないのに笑い出す。
「じゃあ、今度、青山とか代官山とか、落ち着いた町に行かない?俺、こう見えてもカフェ巡りとか、趣味なんだよね。」
「へえ、本当に意外ですね。」英里はちょっぴり嫌みを交えながら答えたが、本人はまったく気づいていないようだ。
コンクリートの道路はゴミだらけ。早朝の空気がさわやかだなんて、新宿には当てはまらないな、英里はぼんやりと考えながら、上級生の話を曖昧に聞き流していた。
ゴミ袋にたかる、たくさんのカラス達。薄汚れた雑居ビルには、薄汚れた数多の風俗店の看板。人目を避けるように、うつむきながら暗い階段を下りてくる、男性達。
「後ろめたいなら、行かなきゃいいのに。」英里は思わずつぶやいた。
「はい?なんて言ったの?」上級生がアルコール臭い顔を近づける。英里は思わず顔をそむけ「なんでもないですよ。」と答え、そして直後、視界に入ったものにはっと息をのんだ。
雑居ビルの細く急な階段を下りてくる女性。短いスカートからは、あまりにも細い足。彼女はうつむき、早足だ。顔はよく見えなかったが、そのつるりとした額に見覚えがあった。服装も、ちょっとした仕草も、すべて英里の記憶と一致している。
亜希だ。
彼女は一人きりで、唇をきゅっと引き、全身からは、英里のそれとは比べ物にならないほどの疲れが伺えた。
亜希が視線を感じたのか、顔を上げた。そして英里の方を見る。その瞬間、彼女の顔に見たことのない表情が浮かんだ。衝撃?絶望?思い切り誰かに顔を殴られたって、こんな顔にはならない。
亜希は再び顔を伏せ、半ば走るように駅の方向へと立ち去った。英里は思わず立ち止まり、彼女の背中をただ見つめ続けた。
「亜希だ。なぜ、こんな時間に、こんなところで。私と目が合ったのに、声をかけてこない。」
英里は亜希が出てきた雑居ビルを見上げる。どのフロアの窓にもビニールの目張りがしてあり、そこにはド派手な風俗店の名前。このビルから亜希が出てきた。英里はしばらくその意味を考えた。いや、考えなくてもわかっていたのだけれど、英里にはとても受け入れられることではなかった。
「どうしたの?英里ちゃん。」上級生が突然立ち止まった英里の手を引こうとしたが、英里は彼に配慮することも忘れ、乱暴にその手を振り切った。鞄から携帯を取り出し、アドレスから亜希の番号を出す。
「電話する?今?でも、なんて言うの?」
英里は聞きたかった。「さっき私と目が合ったよね?あんなところで何していたの?私はね、新歓コンパの帰りよ。亜希もそうなんだよね?」
英里は完全に動揺していたが、かろうじて今すぐ電話するのは思いとどまった。理由があるんだ、きっと。今日たまたまあのビルに用事があっただけ。少し落ち着いてから、ちょっとだけ聞いてみよう。軽い感じで、なんてことはないように。ただの誤解なのかもしれないし、いや、きっと誤解なのだから。
英里は目を閉じ呼吸を整えると、再び鞄に携帯を戻し、歩き出した。けれど頭の中は、先ほど見た光景の説明を、どうやって亜希に問いかけようか、そればかりが渦巻いていた。




