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第49話 伊織が仲裁

王国軍と魔王軍が白石平原で向かい合い、ついに開戦前夜を迎えてしまった世界。


人類側は「海王様救出」を掲げ、魔王軍は民を守るために防衛準備へ。

勇者・和也も、人類と魔族の間で何を守るべきか迷いながら動いていました。


そんな中、伊織はついに自分から前線へ向かうことを決めます。


怖い。

帰りたい。

布団に戻りたい。


それでも、戦争だけは嫌だから。


伊織の一言が、戦場の空気を変えていきます。

開戦前夜。

その言葉を聞いたあと、私はほとんど眠れなかった。

魔王城のベッドは相変わらずふかふかだった。

枕も柔らかい。

部屋も静か。

本来なら、私は三秒で寝ていたと思う。

でも、その夜は無理だった。

窓の外、遠くの白石平原には、二つの光が見えていた。

人類側の王国軍が焚く赤い陣火。

魔王軍の防衛陣に灯る青い魔灯。

二つの光は、暗い平原を挟んで向かい合っていた。

あの間で、明日の朝、戦いが始まるかもしれない。

そう考えると、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。

「……戦争は嫌だなぁ」

私は窓辺に座って、ぽつりと呟いた。

本当に嫌だ。

怖い。

痛そう。

面倒。

そういう理由もある。

でも、それだけではなかった。

ネブラ村の小さな女の子。

魔族領の市場でお菓子を売っていた店主。

黒曜石の湯で静かに湯に浸かっていた魔族たち。

私の海辺の村で働く漁師たち。

温泉街の宿屋の女将さん。

市場で魚を売る人たち。

人類側にも魔族側にも、普通に暮らしている人たちがいる。

その人たちが、噂と誤解だけで巻き込まれるのは嫌だった。

私はただ静かに暮らしたいだけだ。

でも、その静かな暮らしを守るためにも、今は何かしないといけないのかもしれない。

それがものすごく嫌だった。

自分から面倒ごとに向かうなんて、私らしくない。

でも。

「……寝てる場合じゃないよね」

私は立ち上がった。

その瞬間、触角がぴくりと動いた。

海ではない。

魚でもない。

遠くの平原から漂ってくる、張り詰めた空気。

たくさんの人の緊張。

たくさんの魔族の覚悟。

そして、どちらも本当は怖がっているような、変な気配。

私は自分の触角をそっと押さえた。

「便利なんだか、不便なんだか……」

私は小さくため息を吐いた。

そして、部屋の扉を開けた。

廊下には、ミナがいた。

壁にもたれて、眠そうにしながら待っている。

「伊織ちゃん」

「ミナ。寝てなかったの?」

「伊織ちゃんが絶対寝られないと思って」

「読まれてる」

ミナは少し笑った。

でも、その目は心配そうだった。

「行くの?」

「うん」

「前線に?」

「たぶん」

言葉にすると、急に怖くなった。

前線。

戦争の前。

両軍が向かい合っている場所。

そんなところに行きたくない。

本当に行きたくない。

でも、行かなかったら、朝には戦争が始まるかもしれない。

「怖い?」

ミナが聞く。

私はすぐに頷いた。

「怖い」

「だよね」

「帰りたい」

「まだ出てもないよ」

「もう帰りたい」

ミナは困ったように笑った。

それから、私の肩を軽く叩いた。

「でも、行くんだ」

「うん」

「じゃあ、私も行く」

「危ないよ」

「伊織ちゃん一人の方が危ないでしょ」

否定できなかった。

私一人だと、たぶん途中で逃げる。

もしくは、変なことを言ってさらに誤解される。

いや、みんながいても誤解される時はされるけれど。

それでも、ミナがいると少し心強い。

「ありがとう」

私がそう言うと、ミナは少し照れたように笑った。

「伊織ちゃんが真面目な顔してると、こっちまで落ち着かないし」

「私だって、できれば真面目な顔したくない」

「うん。知ってる」

そこへ、廊下の奥から水音がした。

ルナだった。

人魚用の水膜をまといながら、静かに近付いてくる。

「海王様」

「ルナも起きてたの?」

「はい。海王様が動かれる気がしておりました」

「私、そんな分かりやすい?」

「はい」

「そっか……」

分かりやすいらしい。

ルナは真剣な顔で言った。

「人魚王国の海路部隊にも、戦闘を避けるよう再度伝えてあります。私もご一緒いたします」

「危ないよ」

「海王様をお一人で行かせるわけにはまいりません」

「海王様じゃないけど、ありがとう」

ルナは嬉しそうに頷いた。

その後、私はベルゼリアさんのところへ向かった。

魔王城の会議室には、まだ灯りがついていた。

予想通り、ベルゼリアさんは起きていた。

というより、寝ていなかった。

机の上には報告書と地図が山のように積まれている。

グランさんとヴァルガさんもそばにいた。

レオンもいた。

アリサもいた。

大輔もいた。

みんな寝ていない。

本当に全員働きすぎである。

「伊織様」

ベルゼリアさんが顔を上げる。

「どうされましたか?」

私は会議室の中央まで歩いた。

そして、できるだけはっきり言った。

「前線に行きます」

会議室の空気が止まった。

グランさんがすぐに言う。

「危険です」

レオンも眉を寄せる。

「君が動けば、状況がさらに不安定になる可能性がある」

「分かってる」

大輔も静かに言った。

「お気持ちは分かりますが、王国軍の一部は伊織さんが洗脳されていると考えています。直接出れば、かえって強硬派に利用されるかもしれません」

「うん」

アリサも難しい顔をしている。

「魔法的な洗脳の検査を要求される可能性もありますね」

「それは嫌」

「ですが、可能性としてはあります」

「うん」

私は全部分かっているわけではない。

でも、危険なことくらいは分かる。

私が前に出れば、もっと混乱するかもしれない。

それでも。

「でも、ここで待ってても戦争になりそうだから」

私は言った。

「だったら、私が直接言う」

ベルゼリアさんは静かに私を見ていた。

その紫色の瞳には、心配と驚きが混ざっている。

「伊織様」

「はい」

「怖くはないのですか?」

「怖いです」

即答した。

「すごく怖いです。行きたくないです。帰りたいです。布団に戻りたいです」

ミナが横で小さく笑った。

私は続けた。

「でも、戦争はもっと嫌です」

会議室が静かになった。

「人類側も魔族側も、みんな勘違いしてるだけなんですよね?」

レオンが頷く。

「大部分はそうだ」

「だったら、話せばいいと思う」

「それで済まないから、ここまで来ている」

「うん。でも、話さないともっと済まない」

自分で言っていて、少し変な日本語だと思った。

でも、今はそれしか言えなかった。

「みんな怒ってるし、怖がってるし、疑ってる。でも、本当に戦いたい人ばかりじゃないと思う」

私は白石平原の方角を見た。

窓はないけれど、なんとなくそちらを見てしまう。

「あそこにいる人たちも、たぶん怖いんだよ。魔族も人間も」

グランさんの表情が少し変わった。

ベルゼリアさんも静かに目を伏せる。

「だから、私が行って言います」

私は深く息を吸った。

「みんな落ち着いて話そう、って」

自分でも、単純すぎると思う。

でも、私に言えることなんて、それくらいしかない。

戦略とか政治とか外交とか、難しいことは分からない。

だけど、落ち着いて話すことくらいは必要だと思う。

今の両軍に一番足りないのは、たぶんそれだ。

ベルゼリアさんはしばらく黙っていた。

それから、静かに立ち上がった。

「分かりました」

「ベルゼリアさん」

「私も参ります」

「え」

今度は私が驚いた。

「魔王が前線に出るの?」

「はい」

「危なくない?」

「危険です。ですが、魔王軍を止めるには、私が直接命じる必要があります」

ベルゼリアさんはまっすぐな目で言った。

「そして、人類側と話すのであれば、魔王である私が逃げるわけにはいきません」

働きすぎの人は、こういう時だけすごく強い。

私は少し困った。

でも、ベルゼリアさんがいないと、魔王軍を完全に止めるのは難しいのだろう。

グランさんが膝をつく。

「陛下、私もお供します」

「グラン。兵は連れてきすぎないように」

「承知しております」

「威圧的な陣形も禁止です」

「はい」

私は念を押した。

「太鼓と角笛も禁止」

グランさんは真剣に頷く。

「承知しました」

「土下座も禁止」

「……承知しました」

また少し間があった。

本当に戦場で土下座するつもりだったのかもしれない。

怖い。

ヴァルガさんも頭を下げる。

「使節団として同行いたします。武装は最小限に」

「お願いします」

大輔はすぐに動き出した。

「会談場所を白石平原中央に設定しましょう。どちらの陣にも属さない位置です。簡易の天幕を用意します」

「天幕?」

「立ち話では収拾がつきません。正式な場にした方が、両軍とも引き下がりやすい」

「なるほど」

こういうところ、大輔は頼りになる。

商人だけど。

いや、商人だからかもしれない。

アリサは魔法陣を描き始めた。

「防御結界と音声拡張の準備をします。攻撃魔法ではなく、会談保護用です」

「助かる」

レオンは地図の駒を動かす。

「王国軍側には和也を通して連絡。魔王軍側はベルゼリアが直接命令。人魚王国にはルナから海路待機を継続。会談参加者を限定する」

「限定?」

「全軍を前に話すと混乱する。王国軍指揮官、強硬派代表、勇者和也。魔王軍側はベルゼリア、グラン、ヴァルガ。転生者連合から俺たち。君は中央」

「中央やだ」

「中央でないと成立しない」

私は小さくうなった。

また中央。

私の人生、最近中央に置かれすぎている。

端っこで魚を焼きたいのに。

でも、今は仕方ない。

私は頷いた。

「分かった」

その一言で、会議室が一斉に動き出した。

伝令が走る。

魔法通信が飛ぶ。

魔王軍へ防衛待機命令が出される。

王国軍へ会談提案が送られる。

白石平原中央に、戦闘禁止の仮会談場を作る手配が始まる。

私はその様子を見ながら思った。

もう後戻りできない。

いや、後戻りしたい。

でも、できない。

白石平原へ向かう馬車の中は、妙に静かだった。

私、ミナ、ルナ、ベルゼリアさん、レオン、大輔、アリサ。

別の馬車にグランさんとヴァルガさん、少数の護衛。

魔王軍は遠くに待機。

威圧しないように、旗も最小限。

太鼓も角笛もない。

よし。

一方、人類側からは、和也が王国軍の指揮官を連れて来ることになっている。

こちらも大軍は動かさない。

ただし、遠くには王国軍の陣が見えるはずだ。

馬車の窓から外を見ると、朝の光が平原を照らしていた。

空は少し白い。

夜が明けたばかりの時間。

本来なら、私はこの時間に魚を焼く準備をしている。

それなのに今日は、戦争を止めに向かっている。

「人生って分からないね」

私が呟くと、ミナが笑った。

「伊織ちゃんの場合、分からなすぎるよ」

「本当に」

ルナが静かに言う。

「海王様が動かれる以上、きっと良い方向へ向かいます」

「そうだといいけど」

ベルゼリアさんは真剣な顔だった。

「伊織様。もし危険を感じたら、すぐに下がってください」

「ベルゼリアさんもね」

「私は魔王ですので」

「魔王でも危ないものは危ないです」

ベルゼリアさんは少し驚いて、それから柔らかく笑った。

「分かりました」

珍しく素直だった。

レオンは相変わらず冷静だ。

「会談で重要なのは、事実確認だ」

「事実確認」

「伊織は拘束されていない。洗脳されていない。魔王軍についたわけではない。魔王軍も人類侵攻を企てていない。交流協定は軍事同盟ではない」

「うん」

「これを短く、繰り返し、全員に聞かせる」

「分かった」

「余計なことは言うな」

「余計なこと」

「黒曜石の湯に住みたくなった件などだ」

「言わないよ!」

危ない。

でも確かに、絶対言ってはいけない。

私が魔族領の温泉を気に入っていることがまた広がったら、余計に誤解される。

大輔も頷く。

「今回は言葉を慎重に選びましょう」

「私、言葉選び苦手なんだけど」

「知っています」

「知ってるんだ」

アリサが真面目に言う。

「必要なら私が補足します。ただし、専門用語が多くなるかもしれません」

「それはそれで不安」

「努力します」

努力する人が多い。

みんな、少しずつ不安である。

やがて、白石平原が見えてきた。

広い平原だった。

草は低く、風がよく通る。

その平原を挟んで、左右に軍勢がいた。

片側は王国軍。

青と白の旗。

鎧を着た兵士たち。

冒険者らしき者たち。

神官団。

数は多い。

遠目でも緊張が伝わってくる。

もう片側は魔王軍。

黒と紫の旗。

鎧の魔族兵。

魔法部隊。

獣型の魔族。

こちらも数が多い。

ただし、ベルゼリアさんの命令通り、前進はしていない。

両軍は平原の中央を空けて向かい合っていた。

その中央に、会談用の天幕が作られている。

白い布。

簡素な机。

椅子。

いや。

私は椅子を見て、少し考えた。

椅子だと、なんか偉い人たちが偉そうに座ってまた揉めそうだ。

今、必要なのはたぶん偉さではない。

落ち着くことだ。

私は馬車を降りて、大輔に聞いた。

「ねえ、椅子って片付けられる?」

「椅子ですか?」

「うん」

「可能ですが、なぜ?」

「全員、同じ高さの方がいいと思って」

大輔は少しだけ目を丸くした。

それから、すぐに頷いた。

「分かりました」

椅子が片付けられ、代わりに厚めの敷物が敷かれた。

天幕の中は、急に座敷みたいになった。

異世界の平原のど真ん中に、謎の座敷会談場が完成した。

ミナが小声で笑う。

「伊織ちゃん、また正座会議にする気?」

「正座は落ち着くから」

「そうかな?」

「少なくとも、剣を抜きながら正座はしにくいでしょ」

「それはそう」

私は真面目だった。

剣を抜きにくい姿勢にする。

それだけでも、少しは安全かもしれない。

たぶん。

王国軍側から、和也がやってきた。

隣には、白髪交じりの厳つい将軍。

さらに、金の刺繍が入った白い法衣の神官。

数名の護衛。

和也は私を見て、ほっとした顔をした。

「海王様」

「和也、無事?」

「はい」

「よかった」

和也の後ろにいた将軍が、私を見るなり目を見開いた。

「海王様……本当にご無事で」

「無事です。拘束されてません。洗脳もされてません」

先に言った。

大事なことなので。

しかし、神官が眉をひそめる。

「それは、魔王軍に言わされている可能性もあります」

来た。

やっぱり来た。

私は頭が痛くなった。

「言わされてないです」

「そう言うように命じられている可能性も」

「命じられてないです」

「その否定すら」

「無限ループやめて」

神官は少し驚いた顔をした。

私はもうこの手の会話には慣れている。

慣れたくなかったけど。

その時、反対側からベルゼリアさんが歩み出た。

魔王が現れると、王国軍側の護衛たちが一斉に武器へ手をかけた。

魔王軍側も反応しかける。

一瞬で空気が張り詰める。

まずい。

私は慌てて前に出た。

「待って!」

声が平原に響いた。

アリサの音声拡張魔法が効いていたらしい。

私の声は、天幕の外の両軍にも届いた。

全員の動きが止まる。

私は自分の声の大きさにびっくりしながらも、必死に続けた。

「武器に手をかけないで! 話し合いに来たんだから!」

王国軍側も魔王軍側も、少しずつ手を下ろした。

よかった。

心臓が痛い。

ベルゼリアさんは静かに私の横に立った。

「王国軍の皆様。私は魔王ベルゼリアです。本日、戦うためではなく、誤解を解くために参りました」

将軍は厳しい顔で答えた。

「魔王の言葉をそのまま信じろと?」

「すぐに信じていただけるとは思っておりません」

ベルゼリアさんは落ち着いている。

「だからこそ、会談の場を設けました」

神官が声を上げる。

「ならば、まず海王様をこちらへ返していただきたい!」

「返すって言い方やめて」

私は思わず言った。

「私は物じゃないです」

神官がこちらを見る。

「しかし、海王様は魔王城に」

「いました」

「魔族領を気に入ったと」

「ちょっと温泉が良かっただけです」

「温泉……?」

将軍が困惑した。

神官も固まった。

和也が小さく咳払いする。

「そこは事実です」

「和也、補足しないで」

ややこしくなる。

レオンが小声で言う。

「余計なことを言うなと言った」

「ごめん」

つい言ってしまった。

温泉の話は危険だった。

私は気を取り直す。

「とにかく、私は魔王軍についたわけでも、捕まったわけでもないです」

将軍が低い声で問う。

「では、なぜ魔王城に滞在していたのですか」

「話を聞きに」

「魔王と?」

「はい」

「なぜ?」

「古き盟約とか、海王伝承とか、私もよく分からない話が多かったので」

「海王伝承……」

将軍が神官を見る。

神官の顔色が変わる。

「やはり魔王軍は海王様を利用しようとしている!」

「利用しておりません」

ベルゼリアさんが静かに言う。

「我々魔族は、海王様へ感謝を伝えたかっただけです」

「海王様と呼ばないでほしい」

私は小声で言ったが、たぶん誰にも届かなかった。

神官はさらに声を張る。

「感謝を口実に、海王様を魔王軍へ取り込むつもりだったのではないか!」

グランさんが一歩前に出かけた。

「そのような侮辱は」

「グランさん、止まって」

私が言うと、グランさんはぴたりと止まった。

「承知しました」

王国軍側がざわめく。

「四天王が止まったぞ」

「海王様の一言で」

「やはり魔王軍を従えているのでは」

「違う!」

私は叫んだ。

まただ。

何をしても誤解される。

グランさんが言うことを聞いたら、従えている扱い。

言うことを聞かなかったら、魔王軍は危険扱い。

どうしろというのか。

私は両手で頭を抱えた。

「もう!」

思わず声が大きくなった。

両軍が静かになる。

王国軍も。

魔王軍も。

和也も。

ベルゼリアさんも。

全員が私を見る。

私は半分やけになって言った。

「みんな落ち着いて話そう?」

本当に、それだけだった。

でも、その声は平原に広がった。

アリサの魔法で拡張された私の声が、両軍の端まで届いたらしい。

風が吹く。

草が揺れる。

人類の兵士も、魔族の兵士も、冒険者も、神官も、魔法使いも、全員が静かになった。

私は続ける。

「怒ってるのも、怖いのも分かるよ」

たぶん分かる。

私も怖い。

「でも、剣とか魔法とか出す前に、まず話そうよ」

神官が何か言おうとする。

私はその前に言った。

「あと、立ったままだとまた喧嘩になりそうだから」

私は天幕の中の敷物を指差した。

「全員、座って」

将軍が固まった。

「座る?」

「はい」

「ここで?」

「はい」

ベルゼリアさんが少し目を丸くする。

「伊織様」

「ベルゼリアさんも」

「私も、ですか?」

「はい。魔王でも座ってください」

ベルゼリアさんは一瞬きょとんとした。

それから、ふっと笑った。

「分かりました」

彼女は敷物の上に座った。

正座で。

魔王が正座した。

その瞬間、魔王軍側が激しく動揺した。

「陛下が正座を!」

「海王様の御前で!」

「これは我らも!」

魔族側の代表たちが一斉に正座した。

グランさんも正座した。

鎧姿で。

ものすごく硬そうだった。

ヴァルガさんも正座。

魔王軍の護衛たちも天幕の外で正座し始める。

「いや、全軍はしなくていい!」

私が言ったが、遅かった。

魔王軍の前列がざざっと正座した。

何それ。

怖い。

いや、戦闘態勢よりはいいけど。

王国軍側の将軍は困惑していた。

「我々も、座れと?」

「はい」

「しかし、魔王の前で」

「魔王さんも座ってます」

「それはそうだが」

和也が静かに言った。

「将軍。ここは座りましょう」

「勇者殿まで」

「剣を抜くためではなく、話すために来たのですから」

和也はそう言って、自分も正座した。

勇者が正座した。

王国軍側がざわめく。

「勇者様が正座を」

「海王様の前で」

「ならば我々も」

将軍はしばらく迷っていた。

しかし、和也と魔王が正座している状況で、自分だけ立ち続けるのも変だと思ったのだろう。

重々しく膝を折った。

正座した。

神官も不満そうにしながら座った。

護衛たちも続く。

天幕の中は、全員正座になった。

王国軍の将軍。

強硬派の神官。

勇者和也。

魔王ベルゼリア。

四天王グラン。

魔族代表ヴァルガ。

レオン。

アリサ。

大輔。

ミナ。

ルナ。

そして私。

全員、正座。

平原の中央。

戦争寸前の両軍の間。

そこで、謎の正座会談が始まった。

私はその光景を見て、少しだけ安心した。

少なくとも、正座している間はすぐ戦えない。

たぶん。

「では」

大輔が静かに口を開いた。

「まず事実確認から始めましょう」

「そうしてください」

私は即座に頷いた。

大輔が紙を広げる。

「第一に、海老崎伊織さんは魔王軍に拘束されていません」

「はい」

私は手を挙げる。

「拘束されてません」

神官が言う。

「洗脳の可能性は」

「洗脳されてません」

「それは本人には分からない場合も」

「じゃあアリサ、調べて」

私は言った。

アリサは頷き、私に向けて小さな魔法陣を展開した。

「精神干渉、記憶改変、強制命令、支配魔法。全て反応なしです」

「ほら」

私は神官を見る。

神官は少し怯んだ。

「賢者殿がそう言うなら……」

アリサの信用はあるらしい。

よかった。

大輔が続ける。

「第二に、転生者連合は魔王軍と軍事同盟を結んでいません。昨日結ばれたのは、人類・魔族間交流試験協定です」

レオンが補足する。

「内容は境界市場、食文化交流、文献交換、海路情報共有、安全保障ではなく交流の枠組みだ」

将軍が眉をひそめる。

「軍事協定ではないのか」

「ない」

レオンは短く答えた。

「むしろ軍事衝突を避けるためのものだ」

ベルゼリアさんも続ける。

「魔王領は、人類側への侵攻を計画しておりません」

将軍はベルゼリアさんを見る。

「それを信じろと?」

「すぐに信じていただけなくても構いません。ですが、少なくとも本日、こちらから攻撃しない命令は全軍に出しています」

グランさんが深く頭を下げる。

「魔王軍第一防衛隊、陛下の命を受け、攻撃行動を停止しております」

将軍は少し黙った。

天幕の外では、王国軍の兵士たちがこちらを見ている。

魔王軍の兵士たちも、正座したまま見ている。

いや、まだ正座しているのか。

足、大丈夫だろうか。

私は少し心配になった。

「第三に」

大輔が続ける。

「伊織さんは魔族領へ移住しません」

「しません」

私は強く言った。

ベルゼリアさんが少しだけ目を伏せた。

「ベルゼリアさん、残念そうにしない」

「はい」

「黒曜石の湯は良かったけど、移住はしません」

神官がぴくりと反応した。

「黒曜石の湯」

「しまった」

また余計なことを言った。

レオンがこめかみを押さえる。

「言うなと言った」

「ごめん」

神官が言う。

「魔族領の温泉に心奪われたという噂は本当だったのか……!」

「温泉は良かったです。でも魔王軍についたわけじゃないです」

「温泉で懐柔を……!」

「温泉に罪はない!」

私は思わず叫んだ。

温泉は悪くない。

黒曜石の湯は良かった。

でも懐柔ではない。

温泉は温泉。

そこは大事だ。

天幕の中が変な沈黙に包まれた。

ミナが肩を震わせている。

笑うのをこらえているらしい。

ルナは真剣だった。

「温泉による懐柔ではありません。海王様は人魚王国の湯にも、海王温泉にも、等しくお入りになられます」

「ルナ、それ助けてる?」

「はい!」

たぶん助けていない。

でも、神官は少し混乱していた。

将軍も困っている。

戦争の会談で温泉の話になるとは思っていなかったのだろう。

私も思っていなかった。

ベルゼリアさんが静かに言う。

「黒曜石の湯は、どなたでも歓迎いたします。人類側の方にも、安全を保証した上で利用していただけるよう、協定に含めてもよいかもしれません」

大輔が即座に反応する。

「温泉交流事業ですね」

「今しないで!」

私は止めた。

会談が商談になりかけている。

本当に油断できない。

神官が咳払いした。

「しかし、魔族を信用するにはあまりに危険です。過去の戦いを忘れたわけではありません」

その言葉で、空気が少し重くなる。

笑っていたミナも表情を戻した。

和也も真剣な顔になる。

ベルゼリアさんは静かに頷いた。

「その通りです。魔族もまた、人類との争いで多くを失いました」

将軍が目を細める。

「ならば、なおさら簡単に手を取り合えるはずがない」

「はい」

ベルゼリアさんは否定しなかった。

「だから、いきなり信じろとは言いません。ですが、まずは争わずに話すところから始めたいのです」

将軍は黙る。

神官も黙る。

和也が静かに言った。

「将軍。俺は魔族領を見ました」

「勇者殿」

「そこには、普通に暮らす人々がいました。市場があり、畑があり、子供たちがいました」

「……」

「もちろん、過去の争いは消えません。魔王軍を無条件に信じろとも言いません」

和也は拳を握る。

「ですが、誤解だけで剣を抜けば、俺たちは守るべき人々を傷つけることになります」

将軍は苦い顔をした。

勇者の言葉は重いのだろう。

王国軍にとって、勇者は象徴だ。

その勇者が、魔族にも普通の暮らしがあると言っている。

神官はまだ納得していない様子だった。

「だが、海王様を魔族に渡すわけには」

「だから私は渡されないです」

私はまた言った。

「私は私です。人類側の物でも、魔族側の物でもないです」

ベルゼリアさんが少し申し訳なさそうに頷く。

将軍も少し目を伏せる。

私は続けた。

「私は海辺でのんびり暮らしたいだけです」

「海王様が望まれる安寧の世界……」

神官が小さく呟く。

「違います。ただのスローライフです」

「すろーらいふ?」

「静かに暮らすってこと」

私は両軍の方を見る。

「だから、戦争されると困るんです」

本音だった。

「戦争になったら、魚焼いてる場合じゃなくなるし、温泉どころじゃないし、昼寝もできない」

ミナが小さく笑った。

でも、誰も馬鹿にしなかった。

「それに、みんなも困るでしょ」

私は将軍を見る。

「王国軍の人たちも、戦争したら怪我するかもしれない」

次にベルゼリアさんを見る。

「魔王軍の人たちも、村の人たちを守らなきゃいけなくなる」

次に和也を見る。

「和也も、どっちを守るかで悩む」

次に神官を見る。

「神官さんも、たぶん本当は誰かを守りたいから来たんですよね?」

神官は目を見開いた。

私は分からないなりに言った。

「だったら、まず話しましょう」

そして、もう一度はっきり言った。

「みんな落ち着いて話そう?」

天幕の中が静かになった。

今度の沈黙は、さっきまでの緊張とは少し違った。

将軍は深く息を吐いた。

「……海王様」

「海王様じゃないです」

「海老崎殿」

少し進歩した。

「少なくとも、あなたが魔王軍に捕らわれていないことは理解しました」

「よかった」

「洗脳も、賢者殿の確認ではない」

「はい」

「そして、魔王軍が現時点で攻撃していないことも事実」

「はい」

将軍はベルゼリアさんを見る。

「魔王ベルゼリア。こちらも、即時攻撃は控えよう」

ベルゼリアさんが静かに頭を下げる。

「感謝します」

「ただし、王都への報告と確認が必要だ」

「当然です」

神官はまだ不満そうだったが、将軍が手で制した。

「今ここで戦端を開けば、海老崎殿の言う通り、双方の民が傷つく」

「将軍……」

「我々は救出に来た。だが、救出対象が救出を求めていない以上、まず確認が必要だ」

「そうです! 求めてないです!」

私はすぐ頷いた。

「むしろ帰りたいです!」

「どこへ?」

「海辺の家に!」

そこは力強く言った。

私の目的は魔王城でも王国軍でもない。

海辺の家である。

温泉も魚もある。

観光客は多いけど。

それでも家だ。

将軍は少し苦笑した。

「なるほど。では、海辺の家へ帰るためにも、この場で戦争を始めるわけにはいきませんな」

「そうです」

話が通じた。

少しだけ。

すごく少しだけだけど。

ベルゼリアさんも頷く。

「では、本日のところは両軍とも前進を停止。会談を継続する、ということでいかがでしょうか」

レオンがすぐに文面をまとめ始める。

「一時停戦確認書を作る」

「また書類」

私は小さく言った。

大輔も筆を用意している。

「必要です。ここで口約束だけでは弱い」

「それは分かる」

アリサが魔法で複写用の紙を作る。

「両軍向けに同じ内容を配布しましょう。誤情報防止です」

「助かる」

和也が将軍を見る。

「将軍。俺も署名します。勇者として、この会談が事実であると証言します」

将軍は頷いた。

「頼む」

ベルゼリアさんも言う。

「魔王領としても署名します」

神官は不満そうだった。

しかし、完全には反対しなかった。

どうやら、少なくとも今すぐ開戦という流れは止まりそうだった。

私は心の底からほっとした。

その後、確認書が作られた。

内容は簡単だった。

一つ、王国軍と魔王軍は即時の攻撃行動を停止する。

二つ、海老崎伊織は魔王軍に拘束されていない。

三つ、転生者連合は魔王軍と軍事同盟を結んでいない。

四つ、人類・魔族間交流試験協定は、あくまで民間交流と情報交換を目的とする。

五つ、今後の詳細は、代表者会談で改めて協議する。

六つ、温泉は懐柔兵器ではない。

「六つ目いる?」

私は聞いた。

大輔が真面目に答える。

「噂が出ていますので」

「そう……」

温泉は懐柔兵器ではない。

まさか、そんな文言が停戦確認書に入る日が来るとは思わなかった。

黒曜石の湯は泣いていい。

いや、温泉は泣かないけど。

署名が行われた。

王国軍将軍。

神官代表。

勇者神代和也。

魔王ベルゼリア。

深海騎士グラン。

魔族代表ヴァルガ。

賢者アリサ。

商人橘大輔。

黒崎レオン。

人魚姫ルナ。

漁師娘ミナ。

そして私。

海老崎伊織。

また署名だ。

最近、名前を書きすぎている。

でも、今回はサイン会ではない。

たぶん大事な署名だ。

私は慎重に名前を書いた。

書き終えると、天幕の外で待っていた両軍に確認書が読み上げられた。

アリサの魔法で、声が平原全体に届く。

王国軍がざわめく。

魔王軍もざわめく。

だが、武器を構える者はいない。

少なくとも、今すぐ戦う空気ではなくなった。

私はそこでようやく力が抜けた。

「よかった……」

思わず呟いた。

ミナが隣で笑う。

「伊織ちゃん、頑張ったね」

「もう帰っていい?」

「まだ会談終わってないんじゃない?」

「えぇ……」

そうだった。

開戦は止まりそうだ。

でも、まだ完全に終わってはいない。

むしろ、ここから詳しい話し合いが始まる。

代表者会談。

確認。

調整。

書類。

絶対に面倒。

でも、戦争よりはいい。

たぶん。

私はふと、天幕の中を見る。

そこには、王国軍の将軍も、神官も、勇者も、魔王も、四天王も、転生者たちも、人魚姫も、漁師娘も、全員が正座したままだった。

誰も立っていない。

誰も武器を抜いていない。

全員、膝を揃えて座っている。

平原のど真ん中で。

戦争寸前だった両軍の代表が。

正座している。

私はその光景を見て、なんとも言えない気持ちになった。

「……なんで全員正座してるんだろう」

自分でさせたのに、そう思った。

ミナが笑いをこらえながら言う。

「伊織ちゃんが座ってって言ったから」

「そうだけど」

ルナは感動している。

「海王様の前では、王国も魔王軍も等しく膝をつくのですね……」

「そういう意味じゃない」

ベルゼリアさんは正座したまま微笑む。

「ですが、不思議と落ち着きますね」

将軍も苦笑した。

「確かに、剣を抜く気にはなりませんな」

グランさんも真剣に頷く。

「正座には、戦意を鎮める力があるのかもしれません」

「たぶん足がしびれるだけです」

私はそう言った。

その瞬間、将軍が少し顔をしかめた。

神官も。

ヴァルガさんも。

グランさんですら、微妙に動きが硬い。

どうやら、みんな足がしびれ始めているらしい。

私は少しだけ笑ってしまった。

戦争寸前の平原で。

人類と魔族の代表が。

全員正座で足をしびれさせている。

変な光景だった。

でも、剣を向け合っているより、ずっといい。

私は深く息を吐いた。

「じゃあ」

全員が私を見る。

私は言った。

「足がしびれる前に、ちゃんと話し合い終わらせよう?」

全員が、なぜか真剣に頷いた。

こうして。

王国と魔王軍の会談は、全員正座のまま続くことになった。


お読みいただきありがとうございます。


今回は、伊織がついに仲裁へ動く回でした。


本人は難しい外交や戦略を語ったわけではなく、ただ「みんな落ち着いて話そう?」と言っただけ。

けれど、その一言が王国軍と魔王軍の代表たちを止め、まさかの全員正座会談へと発展しました。


戦争寸前の平原で、人類も魔族も勇者も魔王も正座。

かなり不思議な光景ですが、剣を抜くよりはずっと平和です。


次回、いよいよ第四部「魔王軍編」完結。

人類と魔族の歴史的和平が結ばれます。


ただし、伊織の「海王様じゃない」問題が解決するとは限りません。

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