第2部
第一章:金子代議士
第二章:アルバイト
第三章:夢の館
第四章:山下家
第五章:詩織
金子代議士
「・・・以上から、本件は当該男子生徒の誤解に基づく情報であり、調査を必要とするに足る証拠は無いものと判断いたします」
物々しい雰囲気の職員会議であった。両側に顔を連ねる教員たちは皆、裁判の開始を待つ被告人の様にも見えたし、健康診断の結果を待つサラリーマンの群れの様にも、あるいは思考が停止した『でくの棒』の様にも見えた。その生気を吸い取られたかのような様子は、もし彼らが俯かずに空を見上げていたなら、きっとモアイ像の群れを想像させたに違いなかった。一方、一番奥に陣取る校長だけがにこやかな笑顔を絶やさないのが奇妙に思えた。
報告を終えた綾子は、喉がカラカラに乾いていることに、その時になってやっと気付いた。「うんうん」と、しきりに頷く校長の様子を見て安心した前田信介教頭が、会議の進行を担当する学年主任の尾鳥に向かって頷いた。
「以上、1年3組担任、青木先生からの報告でした。何かご質問が有れば挙手をお願いいたします」
尾鳥は会議に参加している面々の顔を見渡したが、手を挙げる者は居なかった。校長の様子から、その報告が既に『承認』されたことは明白であったし、そこで敢えて異議を唱えることは、会議の進行を妨げる行為だとみなされるだけで、自分にとって何の益にもならないことを皆が承知していた。会議とは名ばかりで、それは校長以下数名の首脳部に対する忠誠を証明する場としての意味しか持ってはいなかった。
「それでは次の報告に移りたいと思います。1年4組担任、熊林先生、お願いいたします」
尾鳥の声を聞きながら自席に戻った綾子は、やはりコイツらは、ただの『でくの棒』だと思った。自分もその一人だとの実感が湧いて来た。こんな茶番に緊張していた自分が、滑稽にすら思えた。
職員会議の後、校長室に呼び出された綾子は、恐る恐るドアを開けた。会議で報告した通り、琴美の一件は終わっているし、業務週報も書き直して再提出済みだ。その後のクラスでも ――少なくとも表面上は―― 大きな問題は起きていない。綾子は、どうして自分が呼ばれたのか皆目見当が付かなかった。
「失礼します」ドアを後ろ手に閉めると、来客用ソファに恰幅のいい男と、かなり若そうな男が、校長と向かい合わせに座っていた。歳の頃なら50台後半と30台前半といったところか。かなり仕立ての良いスーツとネクタイ。腕にきらめく時計も、かなりのお値段が付きそうだ。また、年かさの方は何処かで見たことが有る様な気がしたが、ジロジロ見るわけにもいかず、綾子は黙って俯いた。
更に綾子を気おくれさせたのは、二人と対峙するように座る校長の後ろに、教頭と学年主任が控えていることだった。二人は、貧相な顔を更に歪めて、中身の全く伴わない薄っぺらな笑顔で綾子を迎えていた。その表情は絵に描いたような小市民的卑屈さを包含し、強者の顔色を窺う「雑魚」の精神構造を具現化すると、きっとそのようになるのだろうと思わせた。この状況からして、この見慣れない二人が、かなりの「大物」だということが窺い知れた。
「やぁ、青木先生」そう言うと、校長は自分の座る長ソファの左側に綾子を招いた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。なにも取って食おうとは思っていませんから」校長の軽口に、綾子以外の全員が低く笑った。
「はい、失礼いたします」
綾子がソファに腰を落ち着けるのを待って、校長は話し始めた。
「こちらは郷土の誇り、栃木2区選出の代議士、公産党の金子純一郎先生です」
純一郎は「どうも」と軽い調子で片手を挙げた。どうりで見たことが有るはずだ。国政に携わる国会議員ではないか。綾子はただ「はい」と言うことしかできなかった。
「そしてこちらが先生のご子息に当たられる、金子進次郎君」
進次郎は礼儀正しく「初めまして、金子進次郎です」と頭を下げた。ほんの一瞬、ぼぅっとしていた綾子であったが、直ぐに気が付いて頭を下げた。
「あっ、わたくし、青木綾子と申します」
「金子先生が我が私立作星学院を視察にいらしたので、丁度良い機会だと思いましてね。それで青木先生をご紹介差し上げたのですよ」
「はぁ・・・」
そう言われても、自分がこの席に呼ばれた理由が、いまだに解せない綾子であった。
「カンパーーーィ!」
「カンパーイ!」
ジョッキとジョッキがぶつかる微かな音が、騒がしい店内に遠慮がちに響いた。会社帰りのサラリーマンや学生たちでごった返す居酒屋の片隅に、綾子たちは陣取っていた。綾子の前には、ハイボールのジョッキを持つ熊林奈穂美が座っている。奈穂美は隣の1年4組を受け持つ担任で、綾子の3年後輩にあたる。「先ずはビール世代」の綾子に対し、いきなりハイボールを頼む辺り、たった3年でも世代が違うことを認識せざるを得ない綾子であった。
学校が引けて帰ろうとしていた綾子に、奈穂美が声を掛けたのであった。比較的年齢が近く、お互いに一年の担任を任されているという共通項も有り、普段から二人はよく話をする仲となっていた。そしてたまには、今日の様に呑みに出るのだった。
「先輩、どう思います、あの職員会議?」
さらりとした線の細い髪を肩甲骨辺りまで伸ばし、エクボが印象的な顔を歪めて奈穂美が聞いた。そんなに表情を崩しては、せっかくの綺麗な顔が台無しではないかと綾子は思ったが、奈穂美は一向に気にする様子も無い。学生時代はモデルとかレースクイーンのアルバイトをしていたことも有るらしく、その美貌は群を抜いていると言ってよかったが、彼女がそれを鼻にかける様な素振りを見せることは無かった。そういった「あっけらかん」とした性格が好ましく、綾子はこの後輩を可愛いと思っていた。こんな妹が居てくれたら良いのになぁ。それは綾子がいつも思う、ささやかな願望だ。職場で唯一、心を許せる存在が奈穂美あのであった。
「あれねぇ。なんか・・・ 嫌よね」
綾子はジョッキを傾けながら言った。
「ですよねー。何なんだろ、あれ? みんな、あれでいいと思ってるのかなぁ?」
奈穂美は少し頬を膨らませて、ご機嫌斜めの表情を作った。女子大卒の綾子とは異なり、奈穂美は普通の男女共学の大学を出ている。おそらく、今の様なちょっとした仕草が、男子学生たちのハートを鷲掴みにしていたであろうことは想像に難くない。きっとチヤホヤされたんだろうなと思うし、周りのテーブルからチラチラと視線をよこす男たちを無視して軽くあしらう術も心得ているのだろう。少し羨ましい様な気がした。
「なんか、教師ってもっと違う感じだと思ってたなぁ・・・」
そんなこと言う奈穂美に少し興味が湧いた綾子は、逆に聞いてみた。そう言えば彼女とこういった話をしたことは無かったかな?
「奈穂美ちゃんはどういうもんだと思ってた? 教師って?」
「そうだなぁ・・・」
奈穂美は枝豆を摘まんだ手を胸の前に浮かせたまま、遠くを見るような目つきで考えた。
「なんかこぅ、もっと子供たちが中心に居る様なイメージでした」
「今の学校は、子供たちが中心に居ないと?」
「そう思いませんか、先輩? 話題の上がるのは、もちろん子供たちのことなんですが、そこで交わされている内容って結局、全て自分たちと言うか、学校目線の話なんですよね」
綾子には奈穂美の言う意味がよく判った。と言うより、全くの同感であった。若い彼女と同じ感覚を持っていることが、少し嬉しかったが、同時に「それも仕方のないことだ」という諦めの気持ちも芽生え始めている自分に、ある種の悍ましさを感じた綾子はジョッキに残ったビールをグィと飲み干し、その感覚を振り払った。
「そうね。もう少し情熱を傾けられる仕事だと思っていたわよね」
そう漏らした綾子の顔を、奈穂美が目を丸くして見ていた。その視線に気付いた綾子は、恥ずかし気に言った。
「何よ? どうしたのよ?」
奈穂美は驚きの表情を崩さず、身を乗り出して言った。
「先輩がそこまで突っ込んだ発言するなんて驚きです! やっぱり先輩も同じように感じてくれてたんですねっ!?」
綾子は自分の顔が火照るような気がした。それは酒が回って来たせいなのか、自分の無垢な理想を吐露してしまったせいなのか、自分でも判らなかった。何れにせよ綾子は、奈穂美と話している時は、ほんの少しだけ救われるような気がしていた。
「ま、まぁね・・・」
「先輩、もう一杯いきますよね? ビールでいいですか?」
そう言って奈穂美は店の奥に向かって右手を掲げ、大声を上げた。
「すいませーん! 生中お代わりーっ! あと海鮮サラダも!」
**********
数日後、いつもの朝の風景がそこには有った。
「やっべー、遅刻だ!」
祐介が教室に飛び込んだ時、クラスメイト達は既に席に着いて教師が現れるのを待っている状態であった。
「遅ぇよ、祐介!」基也の元気な声が飛んだ。皆がクスクス笑った。
「ギリ、セーフ!」
そう言いながら自分の席に座る際、祐介は琴美の肩をポンと叩いて、「押忍!」と挨拶をした。琴美は小さな声で「おはよう」と返した。
暫くすると、担任の綾子がやって来て、朝のホームルームが始まった。期末試験に向けた叱咤激励に次いで、秋の学校祭に関する注意事項やらが周知された。
その時、ある女子生徒が声を上げた。
「センセー、山下さんがオシッコ漏らしましたー」
篠崎佳澄の声だった。教室中がドッと湧いた。
「ギャハハハハ」
「マジ、ウケるー」
いつも佳澄とつるんでいる女子生徒数人が、大袈裟に騒ぎ立てた。驚いた祐介が振り向くと、椅子に座ってジッと俯く琴美が居た。その足元は何かの液体で、丸く水たまりの様になっていた。彼女のシューズはその水たまりの中に有ったが、祐介は直ぐに気が付いた。濡れているのは琴美のシューズだけだ。琴美はそれを履いておらず、彼女の脚は水溜まりを避けるように、その手前にちょこんと揃えられていた。祐介は全てを理解した。誰かが下駄箱の中に有った琴美の上履きをビショビショに濡らしたのだ。そしてそれは、篠崎佳澄とその一派の仕業であることも。それを履くわけにもいかず、手に持って教室まで来た琴美は、びしょ濡れのシューズを足元に置いていたに違いない。しかし濡れたシューズから染み出た水が、ジワジワと広がって水溜まりを作り、あたかもオシッコを漏らしてしまった小学生のようになっていたのだ。
教室の喧騒は収まらなかった。誰もが勝手に騒いでいた。
「ちょっとぉ、アイツ、ヤバくない?」
「アハハハハ」
「お子ちゃまかよーっ!」
佳澄たちの執拗な嘲りは続いていた。祐介が両手で机をバンと叩いて立ち上がった拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れた。教室中が水を打ったように静まり返った。何処からともなくひそひそ声が聞こえた。
「何マジんなってんの、並木のヤツ」
「アイツ、山下と付き合ってるらしいぜ」
「えぇーっ、マジー?」
祐介がクラスメイトたちを睨み返すと、そのヒソヒソ話は止まった。綾子がツカツカと琴美に歩み寄った。そして濡れた足元を見てため息の様なものを漏らすと、何も言わず振り返り、教壇に向かって歩き出した。その際、一瞬だけ祐介と目が合ったが、綾子はそれに気付かない振りをして教壇に戻った。
「学園祭の出し物を決めたいと思いますが・・・」
それを聞いた祐介の頭に血が上った。琴美の言う通りだった。「無駄だよ」「何もしてくれないよ。してくれるわけ無いじゃん」琴美を思いやる様な態度をとっていたのは、俺を騙す嘘だったのか? 最初から琴美の為に何かをしてくれるつもりなんて無かったのか? 絶望にも似た気持ちを抱えながら、祐介は琴美の腕を掴んで立たせ、そのまま廊下に向かって歩き出した。
「基也、お前のバッシュ借りるぞ!」
「あ、あぁ、部室に有るよ。場所判ってるよな?」
それには応えず、祐介はズンズンと歩いた。腕を引っ張られる形でそれに続く琴美は、ただ俯くだけだった。琴美が手に持ったびしょ濡れのシューズから水が滴り落ちた。二人の通り道の脇に座っていた男子生徒が、それを見て言った。
「うわっ! 汚ぇ!」
祐介が男子生徒を睨みつけると、そいつは首をすくめて視線を逸らした。誰もが、それが尿ではないことは承知していた。しかしクラスの「流れ」から、皆がそれを尿として扱うことで暗黙の合意がなされていた。その男子生徒も、その合意に従ったまでだ。
二人が教室を出ようとしても、綾子は何も言わなかった。それを黙て見送った後、綾子は教室に残った生徒たちに向かってこう言った。
「学園祭の出し物、何か希望は有りますか?」
バスケット部の部室のベンチに座り、琴美はハンカチで手を拭いていた。その横で祐介は、基也のロッカーを探し当て、そこから練習で使っているバスケットシューズを引っ張り出した。それを琴美に手渡しながら言った。
「ゴメン、琴美の言う通りだったよ」
「何が?」
「青木だよ! 何にもしてくれねぇ! アイツ、最低な奴だよ!」
「そんなこと無いよ。青木先生、いい人だよ」
「んなわけ有るかよっ! 琴美がこんな目に合ってるのに、何も言わなかったんだぞ!」
「ううん、青木先生、いい人だよ。森下先生も、小野先生も、みんな個人的にはいい人だよ」
「個人的には?」
「そう、個人的には」琴美は続けた。
「一対一ならいい人なんだよ、教師って。でも学校っていうか、組織が絡んでくると、やっぱりそっちを優先しちゃうんじゃないかな。先生たちにも生活とか立場が有るから、しょうがないよ」
「そんな言い訳が通用するのかよ!」
そう言いながらも祐介は、そんな言い訳が通用することを知っていた。「確かにそうだ」という心当たりは枚挙にいとまが無かった。テレビなどで報じられるイジメや自殺のニュースを見ると、問題が発覚した直後に ――つまり、よく調べてもいない段階で―― 「学校側の対応に問題は無かった」などと平気で記者会見していたりするし、担任教諭が「体調不良」で入院し、マスコミの前から雲隠れする姿を見続けて来た。それは学校に限らず警察や一般企業でも同様で、当初は被害者に寄り添うような対応をしていたにも関わらず、裁判沙汰になったりすると途端に態度をひるがえし、証拠書類の隠蔽や改竄、破棄などが行われる。酷い時には、「非は被害者に有り」などと自己保身に終始するありさまだ。かと言って、普段接している教師や警官などの個々人が「悪人」であるはずも無く、結局、彼らが所属する組織に害をなさない範囲に限って言えば、彼らは皆「善人」なのであった。
「クソツ!」祐介は拳でロッカーを殴った。
「祐介・・・」
以前、勢いでそう呼んだことは有ったが、琴美が初めて、祐介をちゃんと名前で呼んだ。さっき、自分のことを「琴美」と呼んでくれたことが、チョッとだけ嬉しかったのだ。
「吉岡君のクツ、大き過ぎるよ。ほら」
そう言ってベンチから立ち上がると、自分の足元を祐介に見せた。それを見た祐介は言った。
「ホントだ。親父のクツ履いてる子供みたいだ。しかも臭ぇし」
琴美がアハハと笑った。祐介も釣られて笑った。
**********
綾子は自宅へと向かう車中で、しきりに考えていた。今日の琴美の一件で自分が取った行動を正当化する理由を、先ほどからずうっと考えていた。しかし考えれば考える程、自分がクズ以下のゲスであるという方向にしか思考が発展せず、その度に最初から考え直すという愚かなループに陥っていた。傷付いたレコード盤が針を飛ばすように、終わりの無いリフレインが続いていた。ギュッと握り締めたステアリングには、じっとりと不快な汗が滲んでいた。
「だって、どうすれば良いって言うのよっ!」
思わずステアリングに拳を打ち付けた。
問題を大きくすれば学年主任に目を付けられるし、そんなことをしたら、折角、馴染んできたこの仕事を失うことにもなりかねない。学生は3年もすれば卒業してしまうが、教員はこれからもずっとここで働かねばならないのだ。一つ一つの判断がもたらす結果の重大性は、教員の方が大きいと言えまいか? そうだ、そうなのだ。この組織で生き続ける教員は、大袈裟に言えば人生が掛かっているのだ。優先されるべきは、教師側の理論なのだ。だからイジメは無かった。学年主任が言うように、この学校が求めている「イジメなど無かった」という報告が、この状況では最も適切な結論なのだ。
綾子はやっと胸を撫で下ろした。自分の言動を正当化する理論に行き着いたからだ。たとえ自分勝手な理論であっても、それを信じるという姿勢を貫けば、後は「意見の相違」という逃げを打って自己保身は可能なのだから。綾子はやっと、ステアリングを握る両手の力を抜くことが出来た。
その時、助手席に置いたハンドバグの中で、スマホがビートルズの「イン・マイ・ライフ」を奏で始めた。路肩に車を停め、急いでスマホを取り上げると、未登録の番号からの電話だ。心当たりは無かったが、綾子は応対した。
「もしもし、青木でございます」
「もしもし、綾子さんですか? 進次郎です」
「???」
一瞬、それが誰なのか判らず、返答に困った綾子であったが、直ぐに思い出した。校長室で面会した、あの地元出身代議士の息子だ。どうして彼がこの番号を知っているのか? 綾子は訳が分からず言った。
「あっ、はい・・・ ご無沙汰しております」
自分でも間の抜けた対応だと思い、赤面する綾子であったが、そんな様子に気付くことも無く、電話口の進次郎は言った。
「いきなりスミマセン。今、お電話大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。車は路肩に停めましたので」
「驚かれたでしょう? ちょっと用事で栃木に来ているものですから。一緒にお食事でも如何かな、と思いまして」
「えっ、あの・・・ はい・・・ えっ?」
アルバイト
駅前のロータリー横を抜け、二人の自転車は大型書店の前で停まった。ダイビング・マガジンの今月号を買うという琴美に、祐介が付き合った形だ。早速、目的の雑誌を見付け、さっさとレジに向かう琴美。その後ろを追う祐介が背中に向かって言った。
「もうチョッと立ち読みして行こうぜ。せっかく来たんだし」
「やめなよ、立ち読みなんて。みっともないよ。どうせマンガでしょ?」
「いいじゃん、マンガだって。今日は少年ジャンボの発売日なんだよ」
「ダメダメ。行くよーっ」
そう言ってレジを済ませてしまった琴美に続いて歩きながら、マンガコーナーに後ろ髪を引かれる祐介であった。
その時、いきなり立ち止まった琴美に、祐介がぶつかった。
「おぉっと。何だよ、急に立ち止まって」
琴美は何も言わず、店内の壁を見つめていた。
「えっ? 何?」
祐介も壁を見た。そこには張り紙が有った。琴美はそれを見ているのだ。その張り紙には、こう書かれている。
アルバイト募集!
フロアスタッフ 若干名
倉庫スタッフ 若干名
仔細面談 店長
琴美が振り返った。ニヤニヤと悪戯っぽく笑っていた。
「ヤる?」
「えっ? バイト!?」
琴美のニヤニヤは止まらない。祐介は慌てた。
「マズイよ。校則で禁止されてるんだぜ」
「大丈夫だって。倉庫スタッフなら表に出ないし」
「いや、そういう問題じゃなくって・・・」
「だって、ライセンス取るにもお金がかかるんだよ。お小遣いだけじゃ、いつ取れるか判んないじゃん」
確かに琴美の言う通り、お小遣いを貯めているだけでは資金は貯まらないだろう。必要な金が貯まった頃には、既に二人は高校を卒業している可能性が高い。
「それはそうだけど・・・」
祐介の躊躇など意に介さず、琴美はレジに向かって戻って行った。祐介は慌てて琴美の腕を掴んだ。
「お、おい。ちょっと待てって!」
腕を掴まれて振り返った琴美は、祐介の目を直視しながら言った。
「私はやるよ。祐介は? やるの? やらないの?」
ため息混じりに祐介は言った。
「判ったよ。やるよ、やりゃぁいいんでしょ?」
「判ればよろしい」
琴美はニッと笑った。
**********
二人の交際は続いていた。東京に軸足を置いている進次郎であったため、その頻度はさほど高くはなかったが、父、金子純一郎のおひざ元である栃木に来る度に、彼は綾子を連れ出してレストランなどで食事をした。進次郎に連れられて訪れる店は、どれも綾子が入ったことの無いような高級店で、ドレスコードが有る様な店ばかりであった。それらは綾子の知らなかった華やかな世界であり、自分がそういった店に出入りしていることが、なんだか儚くて脆い夢のように感じられた。これがいつまでも続くのだろうか? そんな筈は無いという考えも、心の奥底にこびり付いて離れなかった。
そもそも、どうしてウチの学校と金子代議士との間にコネクションが有るのか判らなかったが、あの校長室での顔合わせは、一種のお見合いのような物であったことが判る。では、何故自分だったのか? 自分が、校長のお眼鏡に適って紹介されたとは思えないし、やはり金子氏側が青木綾子という女を『指名』してきたと考えるのが自然だ。
「前から気になってたんですが・・・ 進次郎さんはどうやって私を知ったのでしょうか?」
「それは簡単なカラクリです。たまたまですが、父の筋から作星学院の機関誌を見る機会が有りましてね。そこに掲載されていた写真・・・ 確かクラブ活動の紹介写真だったと思いますが、そこに映り込んでいた綾子さんを見かけたのですよ」
「それで私を?」
「えぇ。学校の視察というのは言い訳です。舟木校長に無理を言って綾子さんをご紹介頂いたというのが真相なんです」
そう言って進次郎は照れたように笑った。確かにそういったことも有るかもしれないと思った。そのような小さなきっかけで、代議士の息子と親密な関係になるとは、人生なんて解らない物だとも思った。ただ、それが自分にとって幸運なのかと問われると、自信を持って肯定できないような気がした。これは自分が求めていた物なのだろうか? それに、何か重要なことを見逃している様な気もした。
食事を終えて、レストランに併設されたバーで軽くワインを飲んでいる時であった。進次郎が問うた。
「綾子さんは、どうして教職の道を?」
「子供が好きで」
それは嘘ではなかった。確かに大学時代、子供が好きで教育者の道に憧れ、教職課程を専攻したのだ。だから「子供が好きで」というのは嘘ではないのだと、綾子は自分に信じ込ませようとした。でも今は・・・ そういう声が聞こえた。他の誰でもない、自分自身の内なる声だ。今の自分が、あの当時に理想として描いた教師像とはかけ離れていることを感じずにはいられなかった。生涯にわたって続く信頼関係を築いた恩師と生徒。そんなものはただの幻想であった。学校という排他的な組織に飲み込まれ、そこで要領よく立ち回ることで精一杯だ。大学卒業当時の夢や希望は打ち砕かれ、日々の雑多な職務に追われるのみで、生徒のことなど考えている暇は無い。自分を犠牲にしてまで教育に尽す教師という理想像は、気まぐれに吹く風に煽られた砂埃に映り込む影の様なものだ。何かの弾みで姿を現す幻想でしかなく、それは実体を伴わない。教師という職業は、そんな甘っちょろいものではなかった。
自己嫌悪にも似た感情が湧き上がるのを抑え切れない綾子は、話題を変えることで考えることを放棄した。
「私なんかのことより、進次郎さんの話を聞かせて下さい」
「僕ですか? 僕の話なんかつまらないですよ」
そう言いながら、自分の話をする機会を窺っていた様子であった。自分の華麗な経歴と、前途揚々な将来をについて語れば、どんな女だって心を動かさざるを得ないはずだし、実際、今まではそうだった、という鼻持ちならない自信というか、不遜な態度を感じ取った綾子であったが、それを口にすることはしなかった。だって自分が、人のことをとやかく言えるほどの高潔な人間ではないことは、自分が一番よく判っているのだから。
「今は都内の一般企業で武者修行中なんですが、いずれ国政に打って出るつもりです」
自信に満ちた態度で、進次郎は高らかに宣言した。公産党の有力議員の息子ということで、地方行政からの下積みを経るとか、行政官庁で事務方としての経験を積むとか、最低でも父親の秘書として実績を上げるとか、そういった立身の苦労を知ることもなく、いきなり国政選挙に立候補するというのは、単に『親の七光り』と呼ぶのではないかという気もしたが、それに関しても綾子は発言を控え、代わりにこう言った。
「それは素晴らしいです。きっと進次郎さんの様な誠実な方ならば、支持して下さる方も多い筈です」
にこやかに言いながら綾子は、微かな吐き気をもよおした。
食事の後、運転手付きの高級車で進次郎が送ってくれた。家の前まで送ると言ってきかなかったのだが、「ちょっと買い物がしたい」と嘘をついて駅前のロータリーで降ろして貰った。「じゃぁ買い物が済むまで待っています」と食い下がる進次郎を追い払うのに苦労してしまったが、本当は買い物などしたくは無いのだ。自分の本心を隠し、上っ面だけを繕った騙し合いの様な会話に、なんとなくモヤモヤした感情が鬱積して、そのまま自宅に帰る気になれなかっただけなのだ。そんな嘘で塗り固めたでまかせが、しゃぁしゃぁと流れ出る自分の口にも驚いたし、自身ですら気づいていなかった己の本性が垣間見えた様な気がして、憂鬱な想いが沸き上がるのを抑えられなかった。いっそのこと、何処か静かな店で一人飲み直したい気分であったが、あいにく綾子には、そういった習慣が無い。一人でフラリと飲みに行ける男性が羨ましかった。かといってコンビニで買い込んだビールを、自宅でテレビを見ながら一人で飲む気にもなれない。奈穂美を電話で呼び出そうかとも考えたが、学生時代ならいざ知らず、社会人になってまで先輩の都合で後輩を連れ回すような体育会系のノリは、綾子に馴染みのある付き合い方ではなかった。綾子は一度は手にしたスマホを、再びバッグに仕舞った。結局、目に付いた書店にフラフラと入って行った。
**********
「祐介、コレ。店長にお願いして一冊だけ借りて来た」
そう言って琴美が差し出したのは、ダイビング・マガジンの最新号だった。
「おぅ、サンキュ。琴美も見るだろ?」
「うん」
二人が居るのはバイト先の休憩室だった。地元書店の倉庫での、雑多な整理作業というのがそのバイト内容だ。その店は書籍だけでなく、レンタルCD、DVDのほか、文房具なども扱う大型店舗で、その一角にはコーヒーショップなども併設されていた。その店頭の書籍コーナーに並ぶはずの雑誌の中から、一冊だけ借りて来たという具合である。祐介だけでなく、女子の琴美までもそういった地味な裏方作業を選んだのには理由がある。まず第一に、肉体労働の方がバイト代が高く、短期間に稼ぐことが出来るから。そして第二に、二人が通う高校では夏休みなどの長期休暇以外は、基本的にバイトが禁止されているからだ。ハンバーガー・ショップの様な、人目に触れる華やかなバイトは出来なかった。
二人して雑誌を覗き込みながら琴美が聞いた。
「ねぇ、幾ら溜まった?」
「う~ん、3万5千円くらいかな」
「えぇ~。もうちょっと溜まってるはずじゃない?」
「しょうがねぇだろ。TRI4THの新譜とか、ダウンロードしたんだから」
「ダメだよー、無駄遣いしちゃぁ。そんなんじゃCカードの講習受けられないよー」
「大丈夫だって! ちゃんと残業で埋め合わせるから」
「ホントかなぁ・・・」
その時、休憩室のドアを開けて店長が顔を覗かせた。
「琴美ちゃーん、チョッとフロアお願いできるかな?」
休憩室で祐介とくつろいでいた琴美に、お声が掛かったのだ。
「はーぃ、判りましたー」
琴美は直ぐに応えたが、祐介の表情が険しくなった。
「大丈夫か、人前に出て? ウチの学校、バイト禁止されてるんだぜ。誰かに見られたら・・・」
「大丈夫っしょ、チョッとなら。学校にはダマでバイトしてるってことは、店長も知ってるんだし」
ダイビング・マガジンを祐介に手渡すと、琴美は休憩室を後にした。それを祐介は、不安そうに見送った。
琴美がレジカウンターの横で棚の整理をしていると、その後ろを通り過ぎようとした客が立ち止まった。
「山下さん・・・ あなた・・・」綾子であった。
「先生・・・」琴美は言葉を飲んだ。
「バイトは禁止されているの、知っているわよね?」
「はい・・・ すいません・・・」
「ご両親はこのこと知ってるの?」
その時、店長が外出先から戻って来た。二人の緊迫した様子に気付いた彼は、ドギマギしながら近づいた。
「あの~・・・ どうかいたしましたでしょうか?」
琴美が言った。
「こちら、担任の青木先生です」
店先ではなんだから、という店長の配慮で、二人は休憩室へと向かった。店長は琴美よりも青い顔で、それを見送った。それは、倉庫業務しかさせないという琴美との約束を破って働かせ、学校にバレてしまったことに対する罪の意識からか、あるいは禁止されていると知りながら、高校生を働かせた書店に対する学校側の対応を恐れてのことなのかは琴美には判らなかった。おそらく後者の方であろう。先ほどまでそこに居た祐介は休憩を終わらせ、既に倉庫の方に出払った後であった。琴美は、彼がここに居なくてよかったと思った。
「このことは、あなたのご両親はご存じなのかしら?」
綾子は休憩室のパイプ椅子に腰かけると、店頭での質問を繰り返した。その椅子は、先ほどまで祐介が座っていたものだ。琴美はもう一つの空いた椅子に座ると、俯きながら答えた。
「いいえ、知りません」
綾子の溜息混じりの声が漏れた。チョッと考えてから続けた。
「どうしてお金が必要なの?」
確か琴美の家は、市内でも指折りの開業医だったはずだ。経済的に何らかの問題を抱えているとは考え難い。もし本当に必要な金であれば、親が出してくれるだろうに。
「ダイビングのライセンスを取ろうと思ってるんです。クジラと一緒に泳いでみたくって」琴美は正直に答えた。
「クジラ?」綾子の声が1段階、跳ね上がった。
「講習とか受けるのにお金がかかるんです」
琴美にそんな趣味が有るとは知らなかったが、それを親に黙っている理由も判らなかった。だからダイビングの雑誌を学校に持ち込んでいたのか。綾子は、職員室で祐介から相談を持ちかけられた時のことを思い出した。それと同時に、あの件に関しては、実は何もやっていないことにも思い当たった。祐介には「任せて」という様なことを言ってしまった気がするが、実際、綾子は琴美の為に何もしていなかった。学年主任らの圧力に押され、その意向に沿うように立ち回っただけで、彼女のことなどこれっぽちも考えていなかったことに、今気付いたのだ。若干、罪滅ぼしの気持ちが湧いた。
「判りました。じゃぁ、この件は学校には黙ってて上げる。ただし、今すぐにバイトは辞めなさい。さすがにそこまでは黙認出来ないわ」
「はい・・・ 判りました」そう言うと琴美は更に俯いた。
「お店の人には、ちゃんと説明しておくのよ」
綾子は席を立った。琴美は顔を上げようともしなかった。休憩室を出る際、机の上にダイビング・マガジンが有ることに気付いた。そしてドアを開けようとした瞬間、祐介が入って来た。
「琴美、居るかー・・・ あっ」
「並木君・・・」
綾子が振り返ると、顔を背けて座る琴美が居た。彼女は何も言葉を発しなかった。ほんの少しの間、重苦しい時間を三人が共有した後、綾子は黙って祐介の前を通り過ぎた。休憩室を後にする綾子を、祐介は睨みつけていた。歩きながら綾子は思った。この状況は、琴美のシューズが水浸しにされた事件の再現フィルムの様ではないかと。そして、二人と自分の間を分かつように横たわる淀んだ沼の底に、自分の口から漏れ出た言葉が滓のように沈殿している風景が心に浮かんだ。以前、職員室で祐介に伝えた言葉。あれは、今となってはただの嘘でしかなかった。
綾子が去った後、祐介は琴美の隣に腰かけながら言った。
「だから言ったじゃん、ヤバイって」
「う、うん・・・」
「厄介なことにならなきゃいいけど・・・」
「学校には黙っててくれるって言ってくれたよ、青木先生」
そう返しながらも、琴美自身がそれを信じているわけではなさそうだった。
「それ信じられんのかよ? 俺、青木のこと、もう全く信用してないから。てか、一番信用しちゃいけない奴じゃね?」
「やっぱ、そうなのかなぁ・・・」
夢の館
綾子が再び進次郎に呼び出されたのは三日後のことであった。いつもの様に運転手付きの高級車で迎えに来た進次郎は、綾子と二人で後部座席に座ると直ぐに話を切り出した。
「平日の夜に呼び出したりして申し訳ありません。あまり時間が無いものですから」
そう陳謝する進次郎であったが、例によって話の見えない綾子は 「はぁ」と答えることしかできなかった。
「今週の土曜日、開けておいて貰えませんか?」
「土曜ですか? はい、大丈夫だと思います」
確か今週末は、顧問のサークル活動も無いはずだ。進次郎と付き合い始めるまでは、綾子は特にすることも無い週末を過ごすことが多かったのだ。予定など有るはずも無い。それより、そういった約束を取り付けるだけであれば、電話やメールで事足りるはずである。何故わざわざ、直接逢って話をする必要が有ったのだろう?
「良かった! チョッとしたパーティが有りましてね。私がアテンドしますので、綾子さんに同伴願いたいのです」
「パ・・・ パーティですか?」綾子の声がひっくり返った。
「はい。父、純一郎のパーティが宇都宮で開催されるのですが、私も出席しなければならないのですよ」
いわゆる政治資金パーティと言われる奴だ。そのお題は『公産党、 金子純一郎君を励ます会』らしい。テレビのニュースなどで耳にすることは有るが、こんな胡散臭いパーティが本当に行われているなんて、綾子にとっては一種の驚きであった。
「そこで是非、皆さんに綾子さんを紹介させて下さい。紹介と言っても、相手は地元企業のお偉いさんばっかり。つまりオヤジばっかりですので、そんな堅苦しく考えなくても大丈夫です」
どう考えても気の乗らない話であった。また、そこで紹介されるということが、いったいどんな意味を持つのか、あるいは持たないのかも綾子には判らなかった。
「私・・・ 困ります。そんな席に着て行くような服、持ってませんし・・・」
進次郎の顔がパッと明るくなった。「待ってました」という言葉が聞こえてきそうだった。
「じゃぁ、今から買いに行きましょう!」
やっと判った。綾子がそんなお上品な服など持っていないことを、彼は見抜いていたのだ。だからこそ、わざわざやって来て、直接逢おうとしたのだ。よくよく考えてみたら、車は最初からその店に向かって走っているようではないか。綾子は自分が辱めを受けているような気もしたし、惨めな感情が湧かないことも無かったのだが、こういった進次郎の強引さも、今ではあまり気にならなくなっている自分にも気付くのだった。
そのパーティは市内のホテル、ニューコクラで行われた。一応、県下では最も格式のあるホテルとして知られ、その佇まいは綾子のような小市民を気後れさせるのに十分な煌びやかさを備えていた。ワンフロアを丸ごと貸し切った大広間では、県内有数の各企業から数多の経営者や重役たちが列席し、公産党支持者たちによる中身の無い馴れ合いが繰り広げられていた。特に、国土交通省の族議員である金子純一郎がばら撒く公共事業目当ての土木、建築、運送系の企業は大量のパーティ券を購入し、その裏でとてつもない額の金が政治資金として動いていた。そんな連中が純一郎本人へのご機嫌伺いをした後に、すぐさま取って返し、息子である進次郎の所にやって来てはヘコヘコとお世辞を並べ立てるのは、体調問題によって引退間近と噂される純一郎の後継者に対し、今のうちに顔を繋いでおきたいという意地汚い下心ゆえである。
そんな『地元の名士たち』に、いちいち紹介される綾子は、訳も判らずただニコニコと応対するだけであった。彼女が着ているのは、一生行くことなど無いと思っていたフォーマルドレスを専門に扱う店で購入した ――いや、買ったのは進次郎だが―― 一流ブランドのAラインドレス。アカデミー賞の授賞式などで、大女優やセレブ達が着こなすドレスと比べても遜色は無い。鮮やかなブルーを基調とし、大きく開いた胸元と、大胆なカットで露になった背中が、オヤジたちの淫猥な視線を釘づけにしていた。そんな豪奢なドレスに身を包む綾子の立ち姿は、金にまみれて見た目も内面もドロドロとなった老人たちの中に毅然と立つ女神の様に見えた。『掃き溜めに鶴』とは、こういう状況を指すのかもしれない。
「いやいや、これまたお綺麗なお嬢さんだ。将来の進次郎先生の奥様候補ということですな。わっはっは」
「これで純一郎先生も、安心して引退できるというものですな。いやいや、チョッと口が過ぎました。わっはっは」
最後は必ず「わっはっは」で締めくくられる、そんなおべっかを全身に浴び続け、綾子は眩暈に似た感じすら覚えた。自分の身体が、薄汚れたオヤジたちの嫌らしい視線に嘗め回されて、大勢の前で犯されている様な気分であった。ひょっとしたら自分は、あの店で買ったドレスなどは着ておらず、本当は全裸なのではないかとすら思えた。そんな気を紛らわすために、フロアボーイが給仕するドリンクをついつい飲み過ぎてしまった綾子は、いつの間にか酔っぱらっていた。
気が付くと綾子は、見覚えの無い一室に居た。どうして自分がこんなところに居るのか判らなかったが、隣にはそんな綾子を心配そうに見つめる進次郎が居た。パーティが開催されているホテルの最上階にあるスイートルームだと進次郎は言った。
「綾子さん、ちょっと飲み過ぎてしまったようですね。緊張なさってたみたいだし」
冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出すと、キャップをひねって開封し、それを綾子に渡した。そのボトルは、何とかの天然水、みたいなコンビニでよく見かける奴ではなく、どこかから輸入された海外のオシャレな水であった。それを受け取りながら、まだガンガンする頭で理解した。飲み過ぎて気分が悪くなり、進次郎が介抱するようにこの部屋に連れて来られたのだ。隣に進次郎が座ると、綾子の身体はユサユサと上下に揺れた。それで自分がベッドに腰かけていることに初めて気付いた。
「綾子さん」
進次郎が綾子の手を乱暴に掴むと、その手のペットボトルが床に落ち、トクトクと音を立てて流れ出る中身が、毛足の長いカーペットに丸い染みを作り出した。
「進次郎さん・・・ 私・・・」
綾子が全てを言い終わる前に、進次郎が言った。
「綾子さん。僕と一緒に東京に来てくれませんか」
慌てて綾子が答える。
「私・・・ そんな先のこと、まだ考えていません」
「それじゃ、今から考えて下さい。いや、一緒に考えましょう」
そう言って進次郎は綾子を押し倒した。
「あっ、ちょっと・・・ 進次郎さん・・・」
それを拒もうとした綾子であったが、その抵抗は直ぐに止まった。よくよく考えてみれば、そこまで強く拒む理由など、無いと言えば無いではないか。こういうのもアリかな、と思った。今まで、周りの都合に流され続けて来た人生だ。もう一度流されたところで、今更どうということもあるまい。今まで、自分の我が通ったことなど一度も無いではないか。ここで進次郎に抱かれたからといって、それが何だと言うのだ。確かに進次郎は、ちょっと鼻持ちならないタイプではあったけれども、少なくとも今の綾子にとって、優しくしてくれる唯一の男性ではないか。たとえその優しさが偽りであったとしても、綾子がそれを受け入れることに、何の躊躇が必要だろう?
進次郎の肩越しに見上げる天井では、埃が溜まった照明が淡い光を発していた。もっとちゃんと掃除すればよいのに、と綾子は思った。進次郎の動きに呼応するかのように、ギシギシとベッドが軋んだ。新進気鋭の若き代議士の妻。それは、夢の様な未来を約束する言葉なのか。それとも、新たな苦悩の種を生み出すだけなのか。あるいはそれは、今抱える辛苦の姿を、別の外観に装うだけなのかもしれない。それを機に、ひょっとしたら自分は生まれ変われるかもしれないが、自分がそれを心から欲しているわけでも、心から喜んでいるわけでもないことは知っていた。
このホテル、外面だけは豪華絢爛に飾り付けてはいるが、その内部は思った程、手入れが行き届いているわけではないようだ。ここはただの『夢の館』なのかもしれない。中身の伴わない、表面だけを繕った装飾。ただ、それも悪くはないのかもしれないと、今なら思える。今は余計なことを考えず、全身で進次郎を感じよう。今の自分に出来るのは、それだけなのだから。綾子は目をつむり、進次郎の背中に回した腕に力を込めた。それに合わせて進次郎の動きも激しくなった。
綾子の喉からは、ため息のようなか細い声が漏れ、進次郎の背中に爪を立てた。何もかもを捨て去る前の自分の痕跡を、そこに残そうとするかのように。
**********
週明けの月曜日。駐車場に車を停めた綾子が、東棟の通用門に向かって歩いていると、それを引き止める声を聞いた。
「センセ。おはようございます」クラスの篠崎佳澄だった。
「おはよう、篠崎さん」
そう答えたものの、なぜ佳澄がこんなにも馴れ馴れしく接してくるのか判らなかった。佳澄は、クラスの中でも『オシャレ番長』的な存在で、教師と仲良くするようなタイプではなかったからだ。そして佳澄は唐突に言った。
「センセ、進次郎くんと寝たんでしょ?」
「えっ・・・」
何? この子は何を言っているの? 何故、進次郎を知っているの? 訳が分からず、綾子はその目を見開いた。足が止まった。
「えへへーっ、驚いた?」佳澄は小悪魔のような笑顔で綾子の顔を覗き込んだ。
「あ・・・ あなた、何を知ってるの?」
「何って、全部に決まってるじゃん。ぜーんぶ!」
「・・・・・・」
「何故かって?」
息をのむ綾子が聞いたのは、想像し得なかった事実であった。
「だって、進次郎くんは私の従兄でしたーっ!」
「!!!!」
そうか! そうだったのか! 何かを見落としている様な気がしていたのはコレだったのだ。この学校が金子代議士とコネクションを持つ理由に、もっと執着すべきだった。考えることを疎んじたツケを払う時が来たのか? 佳澄は構わず続けた。
「進次郎くんのお父様は、政治家一族である金子家に入った養子なの。その前は篠崎純一郎。つまり私のお父さんのお兄さん。だから~、私と進次郎くんは、い・と・こ」
華奢な指で綾子の顔を可笑しそうに指さした。小悪魔の顔は今や、悪魔のそれに変わりつつあった。
「私が学校の機関誌を見せたの、進次郎くんに。そしたら、写真に写ってるセンセを見て一目惚れしちゃったんだってー。それで叔父様の伝手で学校にやって来たというわけ。判った?」
今まで深く考えようとしなかった疑問の全てが繋がった。迂闊だった。何故もっと注意深く考えようとしなかったのだろう。ということはつまり、これまでの進次郎との経緯を佳澄は全て知っていたということか? そんな綾子の疑念に気付く様子も無く、佳澄は可笑しそうに続けた。
「でもセンセ、ダメじゃん。あんな安っぽい下着を着けて行っちゃぁ。進次郎くんとそういうことになるんだったら、奮発して勝負下着を着けて行かなくちゃ」
「あなた・・・」何かを言おうとしたが、何を言ってよいのか判らなかった。
「センセもウチの一族に入るんでしょ? その辺の身だしなみくらいはちゃんとしてよね。私が恥ずかしいから。もしよく判らないんだったら、私が教えてあげる」
「・・・・・・」
「で、進次郎くんって、ベッドではどんな感じなの? 子供の頃は一緒にお風呂入ったりしてたから、ちょっと興味有るんだぁ」
佳澄の表情は高校生のそれではなかった。場末のバーなどで行きずりの男を漁る娼婦を思わせた。そういった人種に逢ったことなど無いのだが。
「そんなこと教えられるわけ無いでしょ!」
「ふぅ~ん、そうなんだぁ」
「当たり前でしょ! それじゃぁあなた、私がベッドでどんな感じだったか、進次郎さんから聞いたとでも言うの?」
「聞いたよ。当然じゃん。あんまり詳しくは教えてくれなかったけどねー。結構、酔っぱらってたらしいけど、進次郎君がゴム着けてるかチャンと確認した? あはは」
綾子は眩暈を感じた。あのホテルでの事の次第を、進次郎が詳しく語って聞かせたというのか? いや、さすがにそれは無いだろう。おそらく佳澄がしつこく聞いて、渋々、断片情報を開示したに過ぎないのであろう。そう信じたかった。だとしても気持ちが悪い。何なんだ、この一族は? およそ、一般人が理解できるメンタリティではないようだ。『反吐が出る』そんな言葉が頭を過った。ケラケラと笑う佳澄を無視し、校舎に向かって弱々しい足取りで歩き出すと、佳澄が追いすがった。
「ちょっと待ってセンセ! そんな話がしたくて呼び止めたんじゃないの!」
「他にどんな話がしたいの?」
綾子は睨みつけた。しかし、佳澄は気にしていないようだ。
「そんなに突っかからないでよセンセ。これから仲良くやって行かなきゃならないんだし」
「話って?」綾子は苛々した。
「琴美のこと」佳澄はニヤリと笑った。
「えっ?」
「アイツ、駅前のロータリー横の本屋さんでバイトしてるみたい。いいの? 放っておいて。禁止されてるんでしょ?」
そう言ってニヤニヤしながら綾子の顔を悪戯っぽく睨んだ。
「私にどうしろと?」
おそらく佳澄は琴美の後をつけて、その事実を嗅ぎつけたに違いない。佳澄だったらそれくらいの事はやりそうだ。もう少し早く、私があの子たちを見つけていれば・・・
「別にぃー。ただ、教師としての立場上、無視するわけにはいかないっしょ? もし琴美が何の処分も受けない様だったら、誰かに報告しちゃうかもー。センセがもみ消したって」
高校一年の女子が、ここまで嫌らしい顔が出来るのか。その顔はまるで、獲物を前にして薄ら笑いを浮かべ、ヨダレを流すハイエナのようではないか。
「あなたが直接、学校に報告すればいいじゃない!」
「やっだぁ! だってそれじゃまるで、私が琴美のことイジメてるみたいじゃーん!」
その日の朝の申し送りが済んだ後、綾子は学年主任に声をかけた。
「相談って何でしょう、青木先生」
そう言う尾鳥の口から溢れ出る得体の知れない物に、綾子は嫌悪を覚えた。それは目に見えぬ透明な物であったが、確実にそこに存在していた。尾鳥の醜い歯の間から流れ落ちて床に広がったそれは、ドロドロと綾子の足元を埋め尽くし、樹上の鳥の巣を狙う蛇の如く、綾子の脚に絡みついた。
「あの・・・ 実は私のクラスの生徒に、アルバイトをしている生徒が・・・」
「ほう、それは大変なことです。我々がどう対応すべきか、教頭を交えて相談せねばなりませんね」
そしてその透明な汚物は、彼女のふくらはぎから太腿、腹から胸へとヌメヌメと登り詰めた。そして遂に首に巻き付くと、その醜悪な口を開けて耐え難い悪臭の息を綾子の耳に吹きかけた。その時、綾子は悲鳴を上げた。しかしその声は誰にも届かず、暗く沈んだ水を湛える心の深淵に吸い込まれるように消えていった。そして綾子は言った。
「はい。よろしくお願いします」
例によって教頭室で三人は顔を突き合わせていた。綾子は、自分がこの二人と同類の人間であるということが耐え難い苦痛であったはずだが・・・ と思った。そして、いつの間にかそういった自分を受け入れるようになっていることに気付いていた。
「私としましては、事を荒立てることなく、二人のご両親からよく言って聞かせて頂くようにお願いするべきだと思います。それが二人にとっても最良の判断かと」
尾鳥は、さも自分が生徒のことを第一に考えているというポーズで言った。ただ、その言葉を真に受けるほど自分は初ではないと感じられることで、辛うじてまともな部分が自分の中に残っていることを確認出来て、少しだけ安心する綾子であった。
「あくまでも最終判断は、担任である青木先生の裁量にお任せいたしますが、どのようにお考えですか?」
続けて問う尾鳥の言い草では、最終的な責任は綾子に有ると言っているのに等しい。それを感じて腹立たしさを感じずにはいられなかったが、担任が責任を持つという点は、何ら非難を受けるべき考えではないだろう。それにしても、自分の考えを押し付けつつ責任だけは回避するという、尾鳥の姑息なやり口に怒りが首をもたげるのを感じる綾子であった。
「ご両親にはお伝えせず、学校内だけで対処するという選択肢は無いのでしょうか?」
両親に知らせることで、二人が酷く叱責されたりしないかと考えた綾子は、躊躇いがちに聞いた。
「それはどうでしょう?」
そう言った提言に対する答えを、尾鳥は既に用意していたようだ。
「もし、別の線で本件がご両親の耳に入ったとしたらどうしますか? 学校は知っていながらご両親への報告を怠ったことになりませんかね?」
「はぁ、それは・・・」
「もしそうなった場合の責任を青木先生、貴方が取れますか?」
訳も無く尾鳥の意見に逆らいたかった。だが、そんな気持ちを抑え込むことで、この学校における自分の立ち位置がより強固になってゆくのを感じる。綾子は言った。
「尾鳥先生のおっしゃる通りだと思います。この件は二人のご両親に委ねましょう」
それを聞いた尾鳥は大きく頷いた。二人の会話を傍で聞いていた教頭も大きく頷いた。綾子は「黙っててあげる」と琴美に言ったことを思い出したが、そのことで罪悪感を感じるのはやめておこうと思った。綾子が罪の意識に苛まれたところで、誰も得する人間は居ないのだから。
山下家
「ただいまー」
琴美がリビングに顔を出して言うと、母の加奈子が小さな声で「おかえり」と応じた。何だか空気がピンと張りつめているような気がした。そして琴美は、その理由を直ぐに理解した。この時間には珍しく、父の勲がリビングのソファに腕組みをして座っていたのだ。
琴美がそのまま二階の自室に行こうとした時、勲が言った。
「琴美、ちょっとこっちに来て座りなさい」そう言って、自分が座る向かいの席を指差した。リビングのテーブルには、琴美がアマゾンで取り寄せた海外のダイビング雑誌が封を切って置かれていた。琴美は黙って勲の向かい側に座った。
「学校から連絡が有った」
「はい・・・」琴美には、何の件か直ぐに判った。やはり担任から報告が入ったのだろう。綾子に期待した自分の愚かさを知った。
「バイトしてるそうだな」
「はい・・・ でも、もう辞めました。青木先生に見つかって・・・」
加奈子は気を使ってか、いつもより静かに台所仕事をこなしていた。心なしか遠慮気味に流される水道の水音と、時折、食器同士がぶつかるカチャカチャという音が、躊躇いがちにリビングを満たした。
「必要最低限のお小遣いは渡しているはずだが、どうしてバイトなんかやっていた?」
「ダイビングライセンスの講習を受けようと思って・・・」
「ダイビング? これか?」
そう言って勲は、テーブルの上の雑誌を指先でトントンと叩いた。まるで汚らしい物でも触るかのように。そして吐いて捨てた。
「下らん! そもそもお前に、そんなことをやっている暇が有るのか? 成績だっていまだに『中の上』ってレベルだろ? もっと他にやることが有るんじゃないのか?」
「はい・・・」
「お姉ちゃんを見てみろ。ちゃんと私の言う通り勉強して、立派に聖愛女子医大に受かっただろ。今はインターンで大学病院に務めているが、インターン明けにはウチの病院に戻らせるつもりだ。ウチの眼科を任せることになる」
「・・・・・・」
「なのにお前は・・・ そんなことで医学部に入れるとでも思っているのか?」
そこまで聞いて、流し台の前に居た加奈子が、たまらず助け舟を出した。
「お父さん。詩織と琴美を比べちゃ可哀そうですよ」
「何が悪い! 同じ親から同じDNAを受け継いでいるんだ。詩織に出来て、何故琴美に出来ない! こいつは真面目に取り組まないから、いつまで経っても負け犬なんだ!」
加奈子は黙って引き下がった。勲は再び琴美に向き直った。
「お姉ちゃんが高一の時に何て言って来たか判るか?」
「いいえ・・・」
「詩織は自分から『学習塾に通わせてくれ』と言ったんだ。成績が思うように上がらなくて、自分から言ったんだぞ! それだけじゃなく、普段からも私の言いつけ通り毎日勉強したからこそ、今の詩織が有るんだ」
「・・・・・・」
「それなのにお前は何だ? どうでもいいことにうつつをぬかしおって! だいたい、ダイビングなんかやって何の足しになると言うんだ? 水に潜ることで、お前の将来に何の得になる? そんな物、バカがやることだろ!」
「何もそこまで言わなくても」加奈子はタオルで手を拭きながらソファにまでやって来て、テーブルの上の雑誌を取り上げると、パラパラとめくって言った。
「ほら、これなんか物凄く綺麗な写真よ。お父さんも見てみて下さい」
「断る!」
「えっ?」勲のあまりにも子供染みた態度に、加奈子は逆に驚いた。その幼稚で意固地な物言いは、会話や議論を前提とはしていない。単に相手を否定することだけが目的となっていた。
「断ると言ったんだ。そんな下らん物、見る意味も理由も無い。どうして私が、そんなバカみたいな雑誌を見なきゃならんのだ? それを見た私が『おぉー、こりゃ綺麗だ』とでも言うと思ったのか? バカバカしい。誰が何と言おうと、私はそんな物は絶対に見ん! 見るわけが無い!」
先に席を立ったのは勲であった。これ以上話すことは無いと思ったのか、もう話す気にもなれないと思ったのか、琴美には判らなかった。
「バイトしたけりゃ校則が認めている範囲でやりなさい。ただし、自分の貴重な時間を下らないことで浪費することが無いよう、充分考えて行動すること! 今の自分に一番必要なことは何かを考えろ!」
勲はそのまま自室に引き上げた。琴美はただ俯いていた。加奈子はおずおずと台所に戻り、恐る恐る声をかけた。
「琴美ちゃん、先にお風呂入っちゃいなさい」
詩織に直接逢って、色々話がしたいと琴美は思った。優秀で優しい姉。詩織はいつだって琴美に優しくしてくれた。姉と最後に話したのはいつだっけ? 思い出そうとしたが、どうしてもそれが思い出せなかった。
時を同じくして、並木家でも同じ話題が取り上げられていた。
テレビを見ながら夜ご飯を食べている時であった。お笑い芸人の捨て身のロケを見ながら泰文がゲラゲラと笑っている時に、優子が泰文の脇を突いた。何か訳アリな様子だ。
「ん? 何? あっ、そうか」
優子から前もって何かを聞かされていたらしい泰文が、思い出したように言った。泰文の方から祐介に言うように、優子からお願いされていたのだろう。
「そー言や学校から連絡が有ったぞ。お前、バイトしてたのがバレたんだってな?」
バイトしていたことではなく、それがバレたことを問題視しているような言い方に、優子が一層強く脇を突いた。祐介は「やっぱり来たか」と思った。
「ダイビングのライセンスを取ろうと思ってるんだよ」
「ダイビング?」
バイトしていることは薄々感付いていたかもしれないが、ダイビングの件は話していなかった。泰文も優子も、意外な言葉に目を丸くした。
「何だ? 山やめて海にするのか?」
「山やめるつもりは無いよ」
「ふぅ~ん」
泰文は探るような眼をした。こういう時の父は、怖いほど感が働く。
「琴美ちゃんも一緒か?」
「うん・・・」
それきり黙り込んだ泰文は、なおもジッと祐介を見ていた。この視線は怖い。何かを見透かしているような視線だ。祐介と琴美が抱える「何か」に感付いているような気がした。そもそも泰文は、バイトのことなどどうでも良いという考えの持ち主だった。むしろ、校則に逆らうくらいのバイタリティが無い方を問題にするタイプなのだから。その陰に隠された「何か」の匂いを嗅ぎつけて、今、祐介を問い質しているのだ。
更に沈黙する父の無言の圧力が「それで?」と先を促していた。その圧力に押され、祐介は少しずつ学校での出来事を話し始めた。
全てを話し終えた時、泰文は言った。
「そっか。琴美ちゃん、そんなことになってるのか・・・」
「親父はさぁ、教師ってどう思ってる?」
泰文は言い難そうに答えた。
「俺は、教師は信用しない。兄貴と義姉さんが二人とも教師だから、声に出して言ったことはないけどね」
祐介は堪らず聞いた。
「なんで信用してないの? 何かされたの?」
「俺が高校生の時、三年間ずぅーっとパワハラし続けてきた教師が居たのさ。入学して最初の授業に少し遅れたら、それ以来、卒業するまで俺をイジメ続けやがった。みんなの前で恥かかせたり、嫌なことをわざとやらせたり」
泰文にそんな過去が有ったなんて、初耳であった。祐介の質問に対し、考える時間も使わずスラスラと答えたということは、その件が今でも父の心に重く、はっきりと刻み付けられているからなのだろう。 「だから、俺が大学に行く時、お袋が『教員になれ』とか『教職課程を採れ』とか言ってきたけど、俺は絶対に教員になんてならないと心の中で誓っていたんだ」
そんな過去を背負いながら、冗談を飛ばしてい家族を笑わせている父の姿は、ある意味凄いことなのかもしれないと思えた。普通だったら、心がねじくれた人間になってしまうのではないだろうか? 琴美がイジメに遭っていることを知るまで、考えたことも無いことだった。
「まっ、全ての教師がそうだというわけではないけどね。ただ、俺の教師嫌いはそこから始まっている」
たまらず優子が口を挟んだ。
「お父さん! そういう話じゃなくて、バイトの話よ!」
「あぁ、そうかそうか。『祐介、学生の間は校則の範囲内で行動しなさい』これでいいか?」
殆ど棒読みの台詞だった。いや、棒読みと言うより、出来の悪いロボットのような言い方だ。優子が呆れて席を立ち、台所へと消えて行った。泰文はニヤニヤしながら続けた。祐介も笑った。
「クジラを見た後は、例の木に会いに行くんだろ、二人で?」
「うん、まぁ、そうなるのかな・・・」
泰文は更に声を潜めて続けた。何故、声を潜める必要が有るのか、祐介には判らなかったが。
「その時にさぁ、琴美ちゃんに釣りを教えろよ」
祐介は思わず大声を上げた。
「えぇ~、釣りぃ~? やるわけないじゃん、そんなの~」
「判んないだろ? フライフィッシングなんだからミミズ使うわけじゃないんだし」既に泰文も大声で話していた。
「無い無い。そういうタイプじゃないから、琴美は」
「大丈夫だって。一回、教えてみろって」
いつの間にか、いつもの並木家の雰囲気に戻っていた。優子も台所からいつもの笑顔を送っていた。
「自分が琴美と釣りしたいだけじゃん!」
「お前、ちょっとは親孝行しようとは思わんのかっ!?」
**********
「やっぱり青木のヤツ、俺たちの味方みたいなこと言っといて裏切りやがったんだな!」
「うん・・・」
琴美の表情は、意外とも失望とも言える複雑さを湛えていた。やはり綾子を『敵』と考えねばならないのだろうか? おそらく『味方』ではないのであろう。少なくともそう認識しなければ、自分たちが傷付けられる事態を避けることは出来ないし、彼女と親密にすることで得られる物も無さそうだ。綾子本人が瓦解させた信頼関係の礎は瓦礫と化し、その上に築き得る楼閣など有りはしないのだから。それは動かしようもない冷徹な事実であった。
そもそも、生徒より教師の方が大人であるとか、人間が出来ているという保証など何処にも無い。彼らの方がむしろ、生徒たちよりも幼稚であったり、卑劣であったり、視野が狭かったりする場合が有ることは、大人であれば誰だって知っている真理の一つだ。大学で教職課程を修めたからと言って、あるいは教員試験にパスしたからと言って、その人物に『教育者』たる資質が有るとは言い切れないのだから。だが生徒たちにとってそれは、承服し難い現実であることも、また一つの真理なのだ。そういった幻想は、教師側が自分たちの都合で勝手に作り上げた独善的な前提条件に他ならないし、それを疑う視野を持たないことは、盲目的な信仰の一種でしかない。それを「おこがましい」と思えない時点で、その教師は「先生」などと呼ばれる資格は無いことに気付くべきなのだが、琴美はまだ、その幻想を捨て切る勇気が持てないのだった。琴美は聞いた。
「祐介の方は大丈夫だった? お父さんとかお母さん・・・」
「ウチの親はあんまり面倒臭いことは言わないから。『学生の間は校則の範囲内で行動しろ』って釘刺されただけだよ」
「そっか、いいなぁ・・・ ってか、何? その棒読みみたいな言い方?」
「だって、そういう風に言われたんだからしょうがないじゃん」
琴美には意味が判らなかったが、祐介の穏やかな表情から、きつく叱責を受けたわけではないことが知れて安心した。
「いずれにせよ、暫くバイトは出来ねぇな。冬休みまで我慢するか・・・」
祐介は遠くを見るような視線で言った。
そのまま暫く日が進み、冬休みに入ったのを機に二人は例の書店で再びアルバイトを始めた。長期休暇中なので、学校に届け出さえすれば基本的に大手を振ってバイトをすることが可能だ。前回のバイトの際、店長のせいで学校側にバレて面倒なことになった経緯もあり、若干色を付けたバイト料で雇ってくれた。「二人には迷惑かけちゃったからね」とは、店長の言い草だ。仕事の内容を既に習得済みなのも二人にとっては有難かった。
例によって休憩室でくつろいでいる時であった。この部屋に来ると祐介は、綾子の事を思い出すのか、若干不機嫌になる。
「なぁ、もし言いたくなかった言わなくてもいいけど・・・」
「何よ、改まって? 私の初恋の人のこと? やっぱり気になるんだぁ?」
琴美はニヤニヤしながら言った。
「ばぁーか、んなこたぁどうでもいいんだよ!」
祐介がそう答えると、琴美が食って掛かった。
「どおでもいいとは何よ、どおでもいいとは! 私の元カレがどんな奴だったか、気にならないわけ?」
「いや、それは気になるけどさ。今聞きたいのはそんなんじゃねぇんだよ」
あんまり茶化すのも可哀想だと思った琴美が言った。
「じゃぁ、何が聞きたいのよ?」
祐介は躊躇いを振り払うかのように、意を決して聞いた。
「どうして篠崎は琴美のことを目の敵にするんだ? 以前に喧嘩でもしたのか?」
ほんの少し琴美の動きが止まった。そして声のトーンを落として言った。
「うぅ~ん・・・ 話が長くなるけど、いい?」
祐介は黙って頷いた。ちょっと考えてから琴美が喋りだした。
「佳澄の家って、運送屋やってるの知ってる?」
篠崎運送、それが佳澄の実家の家業である。市内ではそこそこ有数の会社で、かなり手広く事業を展開していた。佳澄の父、篠崎晋三が山下医院を訪れたのは、とある衆議院選挙の時。兄、つまり佳澄の叔父にあたる金子純一郎が地元の栃木2区で出馬し、その選挙活動の一環としてであった。『公産党の金子をよろしくお願いします』みたいなヤツだ。建設・運送の族議員である兄、金子純一郎と、その地元栃木で運送業を営む弟、篠崎晋三。持ちつ持たれつの醜悪な関係性が、そこに存在していることは想像に難くない。晋三にしてみれば、地元の有力病院で票集めが出来れば、兄の当選に向けて弾みが付くと考えたのであろう。自他認める『地元の名士』である自分が直接、足を運んでいるのだから、それなりの待遇を受けるべきだと本人は思い込んでいたのが事の始まりである。全ての人間が晋三のことを『地元の名士』だとは考えていなかったのである。
「篠崎運送の篠崎ですが、山下院長にお取次ぎ願います」
「診察券をここに入れて、そちらでお掛けになってお待ちください」受付をしていた医療事務の女性は、そう言って長椅子のほうを指差した。
「いやいや、私は患者ではありません。院長様に用がありまして」
「えぇっと・・・ どちらの篠崎様でしょうか?」
この時点で晋三は、自分をチヤホヤしない女に対して腹を立て始めていた。だが『地元の名士』たる自分が、些細なことで事を荒立てては名前に傷が付く。怒りをグッと飲み込みもう一度言った。
「篠崎運送の篠崎です。山下院長にお話したいことがございまして」
「ご用件は何でございましょうか?」
晋三の顔は真っ赤に染まった。怒りで体がワナワナと震えた。もう少しで大声を上げそうになったが、受付の順番待ちをしている老婆の存在に気付き、慌てて窓口を譲った。
「あっ、お先にどうぞ」
老婆の受付が完了するまで、隣で待っている間に気を落ち着けた晋三は辛抱強く事に当たった。
「山下院長に直接お話ししたいことがございまして、参ったわけです。院長にお取次ぎ願えませんでしょうか?」
しかし受付女性の対応は冷淡を極めた。
「アポイントは御座いますでしょうか?」
遂に晋三の忍耐は、その限界を超えた。アポイントも無く飛び込みで来る方が悪いことは判っている。だが自分は篠崎運輸の篠崎晋三だぞ! 『地元の名士』だぞ! あの公産党代議士、金子純一郎の弟だぞ! これが自分に対する正当な扱いだとは、到底思えなかった。気付いた時には、晋三は大声を上げていた。
「俺が用が有ると言ってるんだ! さっさと取り次がんか、このバカ女! 俺を誰だと思ってるっ!?」
病院の受付には、このような理不尽な怒りをぶつけてくる年寄りが意外に多い。受付女性もその辺の扱いには慣れたものだ。
「それでは診察券をお作りしますね~。おじいちゃん、保険証は持ってきたぁ?」
「こっ・・・ ばっ・・・」
怒りのあまり言葉を失う晋三の肩越しに、後ろから受付女性に声を掛ける者が居た。
「いったい何の騒ぎだ?」
「あっ、院長。この患者さんが院長と話したいってきかないんですぅ」
晋三は振り返って、ポカンとした顔でその男の顔を見上げた。院長の山下勲であった。身長160センチ程しかない晋三に対し、およそ180センチはありそうな山下が、怒りで頭から湯気を立てている目の前の小男を見下ろしていた。
院長室に招き入れられた晋三は、己の虚栄心が満たされたことによって、再び冷静さを取り戻していた。院長室には大きな執務机が有ったが、晋三が座っているのは、その前に置かれた豪華な革製のソファである。壁には何やら高名な画家の作品であろうか、見たこと有るような無いような絵が飾られていた。生まれてこの方、一度も芸術などに興味を持ったことの無い晋三には、それが水彩画なのか油絵なのかすら判らなかった。
事務方の別の女性がコーヒーを運んできて、晋三と勲の前に置いた。うやうやしくお辞儀をして退出する姿は、再び晋三の慢心を満足させた。
差し出された名刺を見ながら、先ず勲が聞いた。
「さて、篠崎さん。本日はどういったご用件でしょうか?」
晋三はすかさず、持ってきたショルダーバッグの中から茶封筒を取り出し、テーブル上に置いた。中には書類らしきものが詰まっているらしく、かなりの厚みだ。晋三が茶封筒の中から引っ張り出したのは、金子純一郎の選挙ポスターと公産党の機関紙の束だった。
「次の衆院選では、金子純一郎をよろしくお願い頂きたいと思っております」
そう言って晋三は頭を下げたが、その目は上目遣いで相手の顔を覗き見るような仕草だった。退屈な時代劇で、悪代官にすり寄る越後屋だか越前屋だかの様な風情だ。
ところが、そんな晋三の顔を冷めた表情で見返す勲の対応は、にべもないものであった。
「ウチは共明党支持なので、金子氏に票を入れることはあり得ないし、病院職員に公産党の機関紙を読ませるつもりも有りません」
「へっ?」
晋三は狼狽した。想像もしなかった反応が返ってきて、その意味を理解することを脳が拒否しているかのようだ。「ふっふっふ、おぬしもワルよのぅ」「魚心あれば水心、と言うではありませんか」みたいな展開を想定していたのに、一体、何が起こったというのだ? その停止した思考回路に、勲の言葉が更に追い打ちをかけた。
「高齢者の医療費自己負担を増やす国民健康保険法の改定に前向きな公産党支持者は、ウチの病院の敷居を跨がないでもらいたい」
晋三は眼を見開いて、口をパクパクさせた。言葉が出てこなかった。自分がこのような状況に置かれていること自体、信じられないことであった。そもそも、医療費がどうのという話は聞いたことも無いし、興味も無い。晋三にとっての政治とは、いかに自分が儲けるかという話以外の何物でもなかったのだから。
「ということで、お引き取り願えますかな、篠崎さん?」
この大恥をかかされた一件以来、篠崎の方では山下をこころよく思ってはおらず、何かにつけ山下医院のことを敵視するようになっていたのであった。
「ちょっと待て。親同士のいざこざを子供が引き継いでいるってことなのか? くっだらねぇ!」
「ほんと、下らないよね。お父さんはそのことを何とも思ってはないんだけど、佳澄は中学の頃から、何かと私にちょっかい出してくるようになったんだ。てか、何とも思われてないことが腹立たしいのかもね。断るにしても、もうちょっと言い方が有ったと思うんだけど・・・」
「バカバカしいっ!」
「ねっ、そんなことよりさ・・・」
琴美が話を変えた。おそらく、これ以上この話題を続けたくはないのだろう。確かに、下らない連中の下らない生態に関する話題など、生産的な話にはならなそうだ。
「講習受けるの、こっちのほうが良くない? エントリーCカードで総費用6万5千円! プール講習2回と海洋実習2回が込みだよ! 安くない!?」
琴美が差し出す雑誌を覗き込んだ祐介が、気乗りしなさそうに言った。気の重い話が続いたので、わざと彼女を煽ったのだ。また少し、ワイワイガヤガヤとした会話を琴美と楽しみたいと思って。
「大洗? 茨城かよぉ・・・」
祐介の思惑通り、琴美が食って掛かってきた。またいつもの調子に戻ってきた。
「何よ。大洗の何が悪いのよ。ココ、お店の人が親切に色々教えてくれるんだよぉ! 魚だって美味しいし!」
「だって、この前言ってた茅ケ崎の方がオシャレじゃね?」
「オシャレは関係ないでしょ! バカ!」
「バカとはなんだ、バカとはっ!? このぺちゃパイ!」
「あーーっ! 人間、言っていいことと悪いことが有るんだぞーーっ!」
琴美は祐介に飛びかかると、その首を絞めながら前後に揺すった。祐介はガクガクと揺すられるがまま、白目をむいた。
「て・・・ 撤回します・・・」
詩織
「お姉ちゃーん!」
「琴美ーっ!」
仙台駅の北口改札を出た所で、久し振りに再会した姉妹はお互いの手を取り合い、訳も無くはしゃいだ。
詩織は7歳年上の琴美の姉であった。高校卒業後、仙台市内にある聖愛女子医大に進学し、現在はインターンとして大学病院に勤務しつつ、学位の取得を目指している。専門は眼科で、いずれは栃木に戻り、父の経営する山下総合病院に、新たに眼科を新設することが決まっていた。琴美と異なるそのシュッとした顔立ちは美人の範疇であると言えたが、若干、陰のある表情が男にとっては近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。詩織にしてみれば、それは故意に狙ったものではないものの、世の男どもが勝手に誤解して彼女の領域にズカズカと入り込んで来ない状況を、むしろ歓迎してるようであった。
「あんた、日に焼けたわねーっ! なんか、野生児みたいよ」
「うるさいなぁ。お姉ちゃんこそ、ちょっと太ったんじゃない」
「それを言うか? 君はそれを言っちゃうのか? 姉の心を慮って、もっと優しい言い方は出来んのか、んん?」
楽し気な様子のまま振り返ると、琴美は姉に祐介を紹介した。
「彼が並木祐介くん。んで、こっちが姉の・・・」
「詩織でーす。二十歳でーす。よろしく」
そう言って詩織は右手を差し出した。大人の女性の見え透いたジョークに、どう対応していいのか判らず、祐介は「ど、どうも」と言って、その手を握り返すことしかできなかった。こういった状況で気の利いた返しが出来る基也の様な性格を、祐介はこの時ほど羨ましいと思ったことは無かった。
「私の彼氏をたぶらかすんじゃないっ! 二十歳なわけねーだろーがっ!」
琴美がツッコミを入れた。自分のことを普通に『彼氏』と紹介されて、祐介はくすぐったい様なこっぱずかしい様な気分であった。多分、LINEとかで、自分のことは色々と情報が流れているのだろう。おそらく、ほぼリアルタイムで。祐介は思わず赤面した。詩織は駅ビルの地下に向かって歩き出しながら、二人に言った。
「地下駐車場に車が有るから、積もる話は後でね」
「で、何何? ダイビングのライセンスだって?」
地下駐車場から地上に滑り出た赤いPOLOが、最初の信号機で停車したのを機に話が始まった。
「以前、そんなことをメッセに書いてたけど、本当にライセンス取得するんだ?」
「うん、バイトでお金が貯まったから、この春休みに取っちゃおうと思って」助手席の琴美は答えた。
祐介は一人で後部座席に座り、宇都宮よりも大きな街、仙台の風景が車窓を流れるのを眺めていた。遅ればせながら、この仙台にも到着した北国の春は、既にその役目を終え、更に北の街へと旅立っていった後の様だ。もう、冬の名残は、何処にも見出すことは出来なかった。
「茅ケ崎だか湘南だかで取るって言ってなかったっけ?」
「う~ん。よくよく考えたらね、講習は何日もかかるの。泊りで受けるわけにもいかないし、かといって電車で通うと、お金も時間も大変でしょ?」
「んで、私の部屋に転がり込んで、宿代浮かせて通っちゃおうってわけね?」ステアリングを切りながら詩織は聞いた。
「さずがお姉さま。そゆことです」
「仙台でも受けられるんだ、そういうのって?」
「うん。こういう大きな街ならダイビング人口も多いから、かえって選択肢が広がったよ。海も近いし」
「なるほどね・・・ で、親には何て言って来たの?」と、視線で後部座席を指し、祐介のことを暗に聞いた。祐介は見慣れぬ都会の風景に見入るのに忙しく、自分のことが話題に上っていることにすら気付いていなかった。
「それは言ってない。でも、お姉ちゃんの所に泊まって、ライセンス講習受けることは正直に伝えてあるよ」
「オッケー。状況は把握した。可愛い妹の為に、『アリバイ工作』に協力しようじゃないの!」
「だから親には言って来たって言ってるでしょ!」
「じゃぁ『口裏合わせ』とでも言えばいいかしら?」
「はい・・・ お願いします・・・」
そして二人はゲラゲラ大笑いした。歳は結構離れているが、仲の良さそうな姉妹であった。詩織がステアリングを左に切り、国道から外れたところで言った。
「じゃぁ、とりあえず晩メシ食おう! 肉だ、肉! 祐介君、牛タン好き?」
「わーっ! 私、牛タン大好きーっ!」
「オマエにゃ聞いとらんっ!」
一応、お客さんということで、祐介が最初にお風呂を頂いた。仙台市郊外にある、詩織の2LDKのマンションだ。「はいどうぞ」と言って、風呂上がりの祐介に冷えた麦茶を手渡すと、自分はソファに身を沈め、缶ビールのプルトップを引いた。プシュッという音と共に泡が溢れ出し、詩織は缶に口を付けてそれを啜った。それから、毛足の長いラグの上に寝そべってダイビング雑誌を読みふけっている琴美に向かって言った。
「琴美。次、アンタが入っちゃいなさい」
それを聞いた琴美は、読みかけのページが判らなくならない様に、雑誌を開いたままうつ伏せに置いて言った。
「はーい。それじゃ、お先ー」
バスルームに琴美が消えると、リビングには祐介と詩織が残された。テレビでは楽天イーグルスと千葉ロッテマリーンズのナイターが垂れ流しになっていた。詩織は何も言わず、ビールをチビチビやりながらそれを見ていた。なんとなく気まずい感じで、その沈黙を埋めるかのように祐介が聞いた。
「野球、好きなんですか?」
「ううん、そうでもない。ただ、患者さんと会話をするのに、楽天のこと、知っといた方が何かと都合良いのよ」
そう言って、またつまらなそうに野球中継を見始めた。祐介は手持無沙汰で、琴美が置いて行った雑誌を手に取った。その時、詩織が祐介の方を見ていることに気が付いた。
「ねぇ、祐介君」
「はい?」
「琴美って、学校ではどうなの?」
「どうって・・・ 普通ですけど・・・」
祐介は詩織の質問の意図が読み取れず、当たり障りの無い答えを返した。
「ゴメンね。質問が悪かったね。琴美、学校の友達と上手くやってる? 何か問題は無い?」
「・・・・・・」
「そっか、いきなり質問じゃダメか。じゃぁ、私が何を思っているのか、それを明確にしてから聞くね」
そう言って詩織はちょっとの間、考え込んだ。バスルームからは琴美が入浴する水音が聞こえた。ご機嫌に鼻歌なども出ている様だった。
「あの子、誰かとトラブルになってるでしょ? 本人からそういう話が出たわけじゃないんだけど、LINEの文脈からそういった匂いがするの。違う?」
祐介は迷った。でも、詩織に隠すことで、事態が好転するとも思えなかった。二人の様子を見た限り、琴美は詩織のことを信頼しきっている様だったし、姉に心配をかけない様に隠していると思えた。琴美が言えないのであれば、自分が代わりに伝えるべきか。
「はい、琴美は・・・ 琴美さんはイジメに合っています」
詩織の息をのむ音が聞こえた。薄々感付いてはいたが、第三者からハッキリ言われたことで自分の予測が的中してしまった驚きを飲み込む音だと思った。イジメ。その残酷な言葉は、本人だけでなくその家族にも容赦無い打撃を加える。
「お姉ちゃーん、この高そうなコンディショナー、使っていい?」バスルームから琴美の呑気な声が響いた。詩織は心の動揺をグッと飲み下すと、大声を張り上げた。
「無駄遣いするなよーっ!」
祐介は、最近の学校での出来事、佳澄や金子家との確執、担任教師の裏切り、全てを ――ただし、両親との問題に関しては言えなかった。それは詩織にも関わる事項で、自分がとやかく言うべきではないと思ったからだ―― かいつまんで教えた。琴美が風呂から上がる前に、話を終わらせる必要が有った。
血を分けた妹がイジメを受けているという事実、それをひた隠しにする妹の健気さ、そしてそれに対して自分が何もしてあげられなかったという罪悪感。それら雑多な思いが一度に溢れ出て、詩織の胸を締め付けた。とりわけ詩織を苦しめたのは、教師の慈悲の無い裏切り行為であった。孤立した生徒が教師から拒絶された時、その子はいったい何にすがれば良いと言うのだろう? そしてテーブルに両手を付いて頭を下げた。
「ありがとう、祐介君・・・ ありがとうね、琴美を守ってくれて。本来ならそれは、私たち家族がやらなきゃいけないことだもん・・・」その言葉には、琴美と両親の不和に関する思いも内包されていることを感じた。
「詩織さん! そんなことしないで下さい! 僕は、僕が彼女を守れているなんて思っていません」
それは祐介の本心であった。琴美がイジメられる度に、自分の無力さを痛感したし、勇気の無さを呪った。でも自分の存在が、詩織にとっても救いになっていることは判った。詩織が顔を上げると、彼女の潤んだ目に溜まっていた涙が、一本の筋を残してツーっと滑り落ちた。汗をかいた缶ビールが残した丸い水溜まりに、その一粒は溶け込んで判らなくなった。
「あの子、優し過ぎるのよ。私みたいな大雑把な性格だったら良かったのに・・・」
そう言って残りのビールを煽ると、ギュゥッと顔をしかめた。それは炭酸が喉に沁みたからの様に見えたが、実際は緩んだ涙腺を締め付けているのだということを祐介は理解していた。
**********
ダイビング講習が始まった。まずは座学だ。二人は机を並べ、学校での授業の延長の様に講義を受けた。琴美は、習ったことを大学ノートに書き留め、赤や黄色のマーカーでアンダーラインを引いたりして、ご機嫌な様子だ。普段は斜め後ろの席なので、琴美の勉強する姿を見たことは無かったが、マジマジと見ると真面目な性格が表れていて、また違った琴美の一面を見付けたようで祐介も楽しく講義を受けた。
しかし、そんな琴美の笑顔に影が刺し出した。プールでのシミュレーションだ。人工的な環境とは言え、座学と異なり実際に機材を背負って水の中に入るのは、それなりに緊張する。それは祐介にとっても同じであったが、運動が得意とは言えない琴美にとっては、より大きなプレッシャーとなってのしかかっている様だ。座学の時の楽し気な様子は霧散し、琴美は表情を硬く強張らせたまま、遂に講習の前半戦を終えた。
詩織のマンションに戻れば、それはいつもの琴美であった。姉にあれやこれやと聞かれれば、身振り手振りでその日の講習内容を語って聞かせた。詩織も「へぇ~、そんなんだぁ~」と相槌を打ち、賑やかな夜が繰り返された。しかし、琴美の心には、滓の様な何かが沈殿していることを祐介は感じていた。それを胡麻化すために、あえて明るく振舞っているのだ。そんな琴美の内心は、手に取るように判った。そしてそれは、詩織にしても同じであった。実の妹の心の動揺など、姉に判らないはずは無いのだ。そして、何事も無かったように後半戦が始まった。遂に、実際の海での海中実習だ。
琴美の顔は蒼ざめていた。緊張で呼吸が浅く、過呼吸になりはしないかと祐介を心配させるほどであった。事ある度に話しかけ、リラックスさせようと努める祐介であったが、そんな時でも琴美はぎこちない笑顔を顔に張り付けるだけだ。インストラクターからも「大丈夫ですか?」と念を押されるほどだ。唯一の救いは祐介は隣に居ることだけだ。祐介は、琴美の一挙手一投足も漏らさず注意を払い、不測の事態が起こらぬよう祈った。
最初のシュノーケリング程度の遊泳は、何とか無事にクリアすることが出来たが、次いで水深3メートルほどに潜った時、祐介の嫌な予感が的中した。琴美がパニックに襲われたのだ。祐介の視界の隅で、琴美の動きが突然、慌ただしくなった。直ぐにそちらを向くと、琴美がマスクを外そうともがいている。こういった講習では、借り物のマスクを用いるため、顔にフィットせずに海水が入り込んでくることが有るのだ。祐介は急いで近寄り、マスククリアをするようジェスチャーを送った。しかし、既にパニックを起こしている琴美の目に、祐介の姿は入らなかった。
座学やプールで学んだ手順は、琴美の頭から消え去っていた。琴美は、もがき苦しむようにマスクを外した。マスクが無くてもレギュレーターが有れば呼吸は出来るので、決して慌てる必要など無い。しかし、パニックを起こしたダイバーは、そんな当たり前の判断すら出来なくなってしまうのだ。
祐介は琴美の肩を掴んで揺すった。
「こっちを見ろ! 琴美! 落ち着け!」
しかし琴美には、自分が置かれている状態が判断できるほどの冷静さは無く、代わりに海という容赦無い自然の冷酷さに圧し潰されていた。琴美はマスクに次いでレギュレーターも自らの手でむしり取り、水面に向かって一気に泳ぎ出した。典型的な症状だ。座学で習った通りのパニック行動であった。
ここは、たかだか水深3メートルである。多少無理してでも水面まで浮上してしまえば溺れることは無い。しかし、運悪くパニックを起こしてしまった初心者ダイバーが、そのように救助されたとしても、その心には「恐怖」の二文字が刻みつけられて、二度と潜れなくなってしまうことが有るのだ。再び潜れるようになるにしても、その「恐怖」を克服するには、とてつもなく長い訓練が必要となってしまう。そうならない為にも、その「恐怖」を、この水中で抑え込む必要が有る。パニックを克服するのは、この水中でなければならないのだ。ダイバーとして一皮剥ける為には、その成功体験による自信が必要だった。
祐介は琴美の肩を、ことさら強く揺すった。そして自分のレギュレーターを咥えさせ、再びその肩を揺すった。マスクを外し、水中でぼやける琴美の目が祐介を見た。肩で息をしている。状況を理解しようと、琴美の頭は秩序立てた思考を取り戻そうと戦っていた。祐介は暫くその様子を観察し、ゆっくりと琴美の口からレギュレーターを外し、今度は自分が咥えた。その交換を何度か繰り返し、次に琴美がむしり取った自身のレギュレーターを、琴美の口に咥えさせてやった。琴美の目は、今度はしっかりと祐介を見据えていた。
その時、琴美が投げ捨ててユラユラと沈みつつあったマスクを回収したインストラクターが、二人の元へやってきた。琴美はそれを付けた。既に落ち着きを取り戻しつつある様だ。祐介は、わざと自分のマスクの中に水を入れ、そして習ったはずのマスククリアを実演して見せた。それを見た琴美は、若干まごつきながらもマスククリアを行った。琴美はパニックから生還した。
それ以降の海中実習では、琴美がパニックを起こすことも無く、最終日に至っては、海に潜ることを楽しめる様にすらなっていた。心配してくれていたインストラクターも、これなら大丈夫と太鼓判を押してくれた。そして二人はめでたく、Cカードを取得した。
その夜、詩織も加えて三人で、小さなパーティーが開催された。少しぎこちない琴美の様子に心配していた詩織も、最終日の溌溂とした様子に胸を撫で下ろしている様だ。そこにはきっと、祐介のサポートが有ったからなのだろうと感じた詩織は、再び彼に感謝の意を新たにしていた。
そんな詩織の気持ちに気付くことも無く、祐介は牛タン定食のライスをお代わりした。琴美はテールスープのお代わりだ。つられて詩織も。生ビールを追加オーダーした。
**********
「実際にクジラを見に行く時は前もって連絡するんだよ。アリバイ工作に協力する方にだって、それなりの準備ってものが有るんだからね」
そう言ってくれた詩織に、琴美はしっかりと抱き付いた。そして暫く、そのままジッとしていた。最初、詩織は「どうしたの? 変な子ね」などと言っていたが、そのうち詩織の方からも強く琴美を抱き締めた。自分より背の低い妹の頭に、頬を押し付けながら言った。
「辛いことが有ったら、祐介君に助けて貰いなさい」
「うん・・・」
二人は、また一しきり抱き合ってから別れを告げた。
別れ際、詩織は祐介に右手を差し出した。祐介はそれを握り返した。
「琴美をお願いね」
「判りました」
赤いPOLOが、仙台駅前のロータリーを回って去っていった。その際、ウインドウ越しに詩織が手を振るのが見えた。琴美は詩織に向かって大きく手を振り、祐介は行儀よく一礼した。その後二人は、東北新幹線上り方面のホームでベンチに腰かけ、次のやまびこが仙台駅に入って来るのを待った。二人の健康的な肌は、来た時よりも更に日に焼けている。合計6日間に及ぶダイビング講習を終え、首尾良くCカードを取得した琴美は上機嫌だ。しかし祐介は、詩織との会話を思い出し、栃木に戻ることへの抵抗を感じないではいられなかった。学校に戻れば、佳澄や綾子が居る。また彼女たちに、どんな酷い仕打ちをされるか判らない。琴美の父、勲との不和も解決されているわけではない。琴美が父親や彼女たちに傷付けられる姿を見たくはなかった。
「やっぱり小笠原諸島かなぁ」
「えっ、うん。あぁ、そうだね」
「何、その上の空感? 何か嫌な感じー。まさかお姉ちゃんに惚れちゃったんじゃないでしょうねっ?」
「んなわけねーだろ、ばーか」
「残りの春休みはバイトに費やして、ゴールデンウィークもバイトかな」それでも琴美は楽しそうだった。ワクワクが止まらないといった風情だ。
「小笠原って、幾らくらいかかるんだろう?」これ以上、沈んだ雰囲気を続けても仕方ない。祐介は声のトーンを上げた。
「それも調べておくよ。ホエール・ウォッチングをやってるショップが、スクーバもやってるみたいなんだ」
「おぉー、いよいよクジラとのご対面だな!」
「えへへーっ。そうなのだ!」ピースサインをする琴美の日に焼けた顔から、真っ白な歯が覗いた。祐介は、なんとしてもこの笑顔を守りたいと思った。