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クジラの木  作者: 大谷寺 光
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第1部

第一章:マザー・ツリー

第二章:ダイビング・マガジン

第三章:業務週報

第四章:並木家




マザー・ツリー


 アルミ箔が蒸着された発泡ウレタンマットにゴロンと横になると、鬱蒼と茂った木々が創り出す密度の濃い闇のフレームに縁取られた天の川の断片が、祐介の上に降り注がんばかりに瞬いた。焚火から立ち上る火の粉がクルクルと不規則な軌跡を描きながら、その星に向かって旅立っていったが、それらは星に届くどころか森の上まで到達することも無く、あっけなくその生涯を終えた。彼らは、星になるという志の半ばにて静寂が支配する暗闇に吸収されるのだった。 静寂? いや、そこには数多の音が満ちていた。焚火のはぜる音。川が奏でる水音。風が木々の梢を揺らし、幾億もの葉が擦れあう音。草むらに潜む虫の声。遠くで声を上げる獣の叫び。何処かの枝で羽根を休める鳥の囁き。それらの音が充満する空間は決して静かとは言えなかったが、人工的な音を排除した自然のオーケストラが奏でる音楽は、やはり「静寂」という表現がピッタリだと思った。

 寝転がったまま祐介が「うん」と伸びをすると、天の川が切り取られたキャンバスを、更に二つに切り分ける様に黒い影が宙を走った。ムササビだ。こんな夜はテントで眠るのは勿体ない。祐介は、焚火の脇に敷いたマットで眠ることにした。明日の最終アタックの工程を頭の中で反芻しながら目を閉じると、今日一日の遡行の疲れがドンヨリと身体を包み込み、抗い難い睡魔となって祐介にのしかかった。ほどなく眠りに落ちた彼の寝息は、森の自然のオーケストラに、また一つ新たな音階を重ね、静寂の演奏会に色を添えた。先ほどのムササビが、今度は反対方向に向かってコンサート会場を滑空した。


 翌朝、目を覚ました祐介は、燻って青白い煙を立ち昇らせているだけ火床に新たな枝をくべ、小さな火を熾した。夜の盛大な焚火と異なり朝のそれはまた違った趣が有る。昨夜、天の川の断片を見せてくれていた木々のフレームから覗く映像は、今は澄み切った青空の断片へと変わっていた。所々に散在する雲の白さが、微妙なグラデーションを持った青にアクセントを加えている。その白いアクセントは、夏の風に吹かれて少しずつ位置を変えていった。

 その火を使ってコーヒーを淹れると、ゆっくりと時間をかけて朝食を採った。朝食と言っても、手の込んだ料理などしない。麓で買い求めた冷凍肉まんが、昨日一日かけてザックの中で解凍されているので、それを焚火で焙って温める程度だ。それを食べながら、ポン酢を持って来るのを忘れたことを後悔する祐介であった。

 食後のコーヒーを飲みながら見回すと、生い茂る木々の間隙をぬって降り注ぐ光の滝が、薄暗いコンサート会場を演出するスポットライトの様に地上の下草や苔むした岩を所々明るく浮かび上がらせていた。そこで演奏しているのは、昨夜の重厚で不気味な、それでいて心を落ち着かせる交響楽団ではない。それは、明るく陽気なバンド演奏といったところだ。祐介は立ち上がり、尻に付いた泥や砂を叩き落としながら、今日の最終アタックに向けた準備を開始した。


 ここは岩手県の西部にある、とある山中だ。赤や黄色、青色の石を踏みながら一日かけて本流を遡上した、人里から遠く離れた地点である。川が蛇行する部分の内側に形成された、水面よりも3メートルほど高い位置に有る平らな一角が、昨夜のテン場であった。祐介が初めてここを訪れたのは、中学2年の頃、山釣り師であった父に連れられて来た時のことである。それ以来、祐介はこの川を上る度に、この一角をテン場として利用してきた。一人で来るようになってからも、もう何度もここで夜を明かし、「勝手知ったる我が家」と言ってよかった。祐介は父とは異なり、釣りよりも沢登りそのものに魅せられたと言っていい。鬱蒼と茂るブナ林を深く刻むように流れる川を、テントを背負って遡行することが、祐介にとってかけがえの無い息抜きとなっていた。以前は、ザイルやハーネスを使って懸垂下降などを行う冒険や探検の要素に心惹かれたものだが、今は清らかな川に足を浸し、日本に残された美しい自然を満喫しながらユックリと登る山遊びが好きだった。この本流筋を更に一日かけて昇り詰めると、この川の源頭に到達し、そこを越えたところは秋田県である。この分水嶺を境に、こちら側に降った雨は太平洋へと流れ、あちら側に降った雨は日本海へと注ぐ。ここに来る度に祐介は、そんな壮大な自然の摂理を肌で感じて、一人感慨にふけるのであった。


 テン場を撤収すると、本流筋に降りて遡行を開始した。右岸と左岸を行ったり来たりしながら、遡行し易いルートを選択する。そして小一時間ほど昇ったところで、見覚えのある特徴的な岩を認めた。それは重さ数トンもありそうな石灰岩で、丸くなって寝ている猫の様に見える。それが目印だ。祐介はその岩に、勝手に我が家の愛猫と同じ名前を付けていた。その「きなこ」の手前で本流を離れ、右岸から出会う小さな枝沢に取り付いた。父と来る時は釣りが目的なので、ここから先もそのまま本流を遡行するのだが、祐介一人の時は終着点が違うのだ。

 それは本流とは異なり、階段状の急峻な斜面を滑り落ちる水量の少ない流れであった。祐介は自分の背丈ほども有る段差を、いくつも乗り越えた。それらを乗り越える度に、小さな淀みにとり残された岩魚たちが、突然姿を現した得体の知れない生物に驚いて逃げ惑い、右へ左へと走る姿を見せた。そんな愛嬌の有る岩魚が、祐介は大好きだった。

 その斜面との小一時間ほどの格闘の末、遂に祐介は尾根近くまで登り詰めた。上がった息を整える為の休憩がてら、後ろを振り返って腰を下ろすと、今、自分が登って来た沢が眼下に見えた。その遥か先には、昨夜のテン場沿いを流れる本流が森の緑と空の青を反射し、所々岩にぶつかっては白く弾けている様子が伺えた。昨日は遥か高く、谷を圧し潰すかの様にそびえていた山々も、今見回せば、手を伸ばせばその頂きに届きそうな程に低くなり、その代わりに空が近く、大きくなっていた。今、祐介の背後に鎮座する大岩が最後の難所であった。


 祐介にとってその大岩は、言ってみれば顔見知りの様なものだ。ここに来るたび顔を合わせる旧知の仲であった。この枝沢のどん詰まりに立ちはだかるコイツは、クライミング装備が必要なほど大きくはないが、ボルダリングの基本テクニックくらいは持ち合わせていないと攻略できない意地の悪い奴だ。だがコイツとの付き合いが長い祐介は、その「クセ」を熟知している。どこにどんな手掛かり、足掛かりが有って、それらをどういった順番でホールドしてゆけば攻略できるかも判っている。今となっては、それは尾根筋に出る為の儀式の様な意味合いを持っていた。ここに至る前に、比較的緩やかな斜面を選んで、予め尾根筋に出てしまうという選択肢も有ったが、それではつまらない。この大岩を攻略してこそ、この行動に意義が生まれる様な気がしていた。だからこそそれは儀式と言えた。

 まず、顔の高さに有る割れ目に右手を添え、左手は大きく伸ばした所の出っ張りを掴む。そして身体を左に倒しながらグィと持ち上げ、今まで右手でホールドしていた割れ目に右足を掛けると同時に、右腕を伸ばし1メートル程上の段差を掴むという、少々トリッキーなアクションからその儀式は始まる。これにより三点支持が完成し、身体は安定するが、次の動きは中々厳しい。祐介が初めてこの岩に取り付いた時、次の動きを見つけ出すために、2時間を費やしたほどだ。今は大した仕事もしていない左足が次の主役だ。その左足を岩に沿って少しずつ左に移動させる。つま先に全神経を集中させて。更に左へ・・・。もう少し左へ・・・。

 「有った」

 そこには、ほんの僅かだが、つま先を引っ掛けることが可能な、出っ張りと言うにはあまりにも微かな「スジ」が有る。それで支え得る体重は決して多くはないが、次に右足を支点に身体を伸ばす際、その左足のサポートが有るか無いかが、この岩の攻略の成否を握っている。その「スジ」を見付けるまでは、何度トライしても次の段階に進むことが出来なかったのだ。祐介は、その頼もしい「スジ」に左のつま先を掛けると、少し時間をおいた。呼吸を整える為だ。そして右手、右足のホールドを確認し、次いで左足も確認した。準備は整った。「ふんっ」という声とも息とも言えない音を発し、祐介の身体は更に左上方に向かって伸びた。そして、その大岩を山腹に保持している土手から延びるトドマツの幹を、左手がガッシリと捕らえた。ここまで来れば、後は腕力で身体を持ち上げるだけだ。少々勢いをつけて這い上がり、祐介の身体が大岩の上に躍り出た。それと同時に視界を遮る一切のものが無くなり、一気に空が開けた。


 そこは、これまでの苦労からは想像も付かない緩やかな斜面で、野球が出来そうな程のなだらかなスペースが広がっていた。山に登らない人には馴染みが無いが、急峻な山腹を登り詰めた源頭付近には、この様な長閑な一角が存在していることはよくあるのだ。ここも、そういったエリアの一つであった。黄色や薄紫の小さな草花が敷き詰められ、何か浮世離れした雰囲気を醸し出すお花畑である。祐介の居る位置の反対側、つまりお花畑の向こうには、隣の沢筋が本流に向かって流れ落ちている。そして更にその奥には、この連山の主峰がその雄大な姿を現していた。その稜線を境に、下側の森は人間の、上側の空は神の領域。この景色を見るたび祐介は、そんな思いを抱くのであった。しかし、このお花畑そのものが祐介の目的地ではなかった。主峰の山頂方向から少し右、お花畑の上縁付近にそれは有った。

 高木の無い緩やかな斜面に、一本だけポツンとそびえる大樹。その胴回りは、大人の男性が二人がかりでやっと抱きかかえられるほど太く、大きく広げた枝は毎年の厳しい冬に耐え、今はその命の脈動を発散するかのように、青い空へと腕を掲げていた。かつて、そこで翼を休めた鳥は何羽いたであろうか? 幹や葉に巣くう虫は何匹いるであろうか? 今この瞬間にも、数え切れない程の微生物やバクテリアを育んでいるそれは、まさに小宇宙と言えた。彼はこの木に逢いに来たのだ。


 そのお花畑を見下ろす様に佇む一本のブナの木。それこそが、祐介のマザー・ツリーであった。


 マザー・ツリーの足元に立った祐介は、その手を木肌に添え目を瞑った。心肺機能を持たない樹木に鼓動の様な脈動が有るはずもないが、確かに祐介はその木の営みが感じられる様な気がした。それは樹齢数百年とも思えるマザー・ツリーが、連綿と受け継いできた生命の鼓動に思えた。

 「久し振り」

 祐介は声を掛けてみたが、何も返っては来なかった。木は黙って祐介を見下ろすだけだった。それでも通じ合っている様な気がした。何も返って来なくても、木は祐介の声を聞いてくれている。そんな安心感が祐介を満たしていた。目を開けてみると、白や緑や灰色のまだら模様の木肌に蟻の行列が続き、せっせと何かを上へ下へと運んでいる。相変わらず祐介のマザー・ツリーは懐深く、全てを受け止める寛大さを持っているようだ。

 祐介はその大木が作り出す広大な木陰にザックを降ろすと、その中から丸めて仕舞い込まれたシュラフを取り出した。次いで辺りの小石をどかして簡単な平地を造り込むと、それを枕にして寝転がる。そのまま上を見上げれば、分厚く重なる幾億の葉っぱの隙間をぬって、時折、陽の光が祐介の顔に陰影を作り出した。祐介は再び瞳を閉じた。サラサラと風に揺られる梢の音が耳に心地よく、顔を撫ぜる乾いた風が眠気を誘う。鳥の声も、虫の鳴き声も、何物も祐介の眠りを阻害する因子とはならなかった。

 マザー・ツリーに抱かれて、祐介は赤子の様に眠りこけるのであった。




ダイビング・マガジン


 「・・・であるからして、角Dと角Fの角度は等しいと言え、従って三角形ADEと三角形BFGは相似形であると・・・」

 ボーッと窓の外を眺める祐介は、形を変えながら流れる雲をその目で追っていた。夏休み明けの二学期。それぞれの楽しかった休み中の興奮を引き摺っていたクラスメイトたちも、今ではその浮かれた気分を心の何処かに仕舞い込み、再び始まった退屈な学校生活に順応しようと悪戦苦闘していた。その順応の為の努力を早々に放棄してしまった祐介は、どうしても身の入らない図形や数式を小突き回しては、授業終了のチャイムが鳴るのを待っていた。


 祐介が通うのは、市内に有るとある高校だ。その、現代の建築技術の粋を凝らしたかのようなモダンで洗練された校舎からは、それが私立高校であることを誇らしげに謳っているかのような印象を与える。意外に歴史も古く、甲子園での優勝経験なども有ることから、文武両道を地で行くような活気に満ち溢れていた。幼稚園から大学まで揃った一貫教育を売り物としている一方、より高難易度の他校への受験も奨励していて、本当に優秀な生徒の中にはエスカレーター式のラインには乗らず、違う世界へと旅立ってゆく者も多い。と言うのも、これだけ大規模な私立学校法人ともなれば学費もそれなりに高く、より安価な公立への鞍替えを模索する家庭も多いわけだ。

 その一方で、私立特有の独自な教育方針や近代的な教育環境に魅力を感じている家庭も多いと見えて、県内では有数の進学校としても認知され、名前を聞けば「頭の良い学校だね」と言われる程度には評価されていた。特に優秀な生徒は英進科など、少数精鋭の特別枠に編入され、男子ならばネクタイの色が、女子ならばスカートの色が変わってエリートの称号が得られるシステムだ。

 まだ一年生の祐介には、英進などの別枠が用意されているわけではないのだが、自慢ではないが勉強だったら出来る方だ。今となっては、どうしてそうなのかは祐介自身にも判らないのだが、適当に勉強しているだけでも周りの皆よりも良い成績を修めることが出来た。そこまで目くじら立てて勉強などしなくても、成績は常に学年の上位10%以内だ。中学生の頃はそれが自分のステータスであり、テストで高得点をとることが自慢でもあった。それなのに高校に進学した頃から、その気持ちはシュワシュワと萎んでいったのだ。勉強が大切だということは判っている。より上を目指すために学業に力を入れることを否定するつもりは無いし、必要とあればその努力をする覚悟も有る。ただ、それは「今なのか?」という疑念が頭に取り付いて離れなかった。勉強を頑張ったその先に有るものが何なのかが判らない今、脇目も振らず勉学にいそしむことが絶対的に必要なことだと、どうしても思えなかったのだ。

 再び窓の外に目をやると、さっきまで犬の形をしていた雲が、いつの間にか魚の形になって東の空に向かって泳いでいた。




 授業の合間の休憩時間だった。

 「祐ちゃ~ん」

 吉岡基也が後ろから祐介の首に腕を回し、馴れ馴れしく話しかけてきた。基也は高校に進学して最初にできた友達で、あまり共通点は無いのだがなんとなく馬が合うので、今でもよくつるんでいる。身長は祐介と同じくらいで、高校生としては高い方であったが、バスケットボール部に所属する基也の方が、ガッチリとした印象だ。

 「夏休み、また山行ってたんか?」

 「あぁ、そうだよ」

 祐介はイチゴミルクの紙パックにストローを刺しながら応えた。すると、祐介の前の席に移動した基也が、空いた椅子に腰かけながら言った。

 「どこだっけ、いつもの山・・・ 高尾山?」

 咳込んだ拍子に、イチゴミルクが変な所に入った。暫くゲホゲホしていた祐介が、真っ赤な顔をしたまま面を上げた。

 「バッ・・・ ちげーよ! 高尾山じゃねーよ! んなとこ行くかよ!」

 「んん~・・・ 俺には山のことは判らん。・・・で、また一人で行ったん? ワンゲルの連中と行きゃぁいいのに」

 「ワンゲルは関係無ぇから。一人で行かなきゃ意味無いし」

 「ふぅ~ん、そんなもんかねぇ・・・」


 祐介が所属するのはワンゲル。いわゆるワンダーフォーゲル部だ。山をはじめ、あらゆるアウトドア活動を通して心と身体を鍛えるみたいなノリで、当然キャンプなども行う。背負ったザックの重さを量り、既定の重量を満たしていない場合は、ペットボトルに入れた水を追加して十分な「負荷」を部員たちに課すような、前時代的な風習が今でも残っている。基也のバスケット部とは異なり、決して女子にはモテない部活ナンバー1の座を、鉄道研究会、アニメ研究会と共に争っていたが、近年ではアニメ女子も増えているらしく、鉄研とワンゲルの二強時代が到来していた。

 祐介がワンゲルに入部したのは、決してそういったアクティビティが好きだからではない。この高校では全員が何らかの部活、ないしはサークル活動に参加することが義務付けられており、新入生がその希望を提出する日に遅刻してしまったのが原因で、人気の有る部にはエントリーすらできなかったのだ。ちなみに『部』は学校からの補助が出る正式な活動で、『サークル』は同好会の様な緩い活動が主となる。本来ならテニス部希望だったのだが、遅れて登校して来た祐介に残されていた選択肢は限られていた。その中でも「マシかな」と思われたワンゲルに入っただけで、祐介が山に入る時にワンゲルの連中が絡んでくることは無かった。というか、絡ませなかった。皆でお手て繋いで仲良く登りましょう、みたいな登山には全く興味が無かったし、祐介の本格的な沢登りについて来られるメンバーなど居ないからだ。

 「で、お前、あれ提出した?」と問う基也の顔をポカンと眺める祐介であった。

 「あれって?」

 「ほら、あれだよ。高校卒業後の進路希望」

 「あぁ、あれな・・・ まだ提出してない・・・ つうか、どうすっかな・・・」

 「だべーっ! ったく、一年っ時からそんな希望を提出させるって、この学校おかしくね?」

 祐介はストローに息を入れたり出したりして、空になったイチゴミルクの紙パックをパコパコいわせながら、また窓の外を見た。


 ぼんやりと考える自分の将来像と言えば・・・ 親父と同じ、技術者としての会社員なのだろうか? 別にサラリーマンになりたいわけではないが、毎日楽しそうにしている父を見た限り、それも悪くはないのかもしれないと思っている。もちろん、父が会社でどのような仕事をしているのか詳しいところは判らず、会話の端々から断片的に知っているに過ぎないのだが、それでもサラリーマンって、言うほど悪いものではないというのが祐介の印象であった。

 この話を基也にしてみたところ「絶対違う! お前は間違っている!」と強く諭されたわけだが、基也が主張している言葉の根拠に関しても、特に実感が伴っているはずもなく、結局のところ自分の将来に対して、何らかの具体的な像を描くことが出来ないのであった。

 そうなると、残された選択肢は「取りあえず大学に行っておくか」というところに落ち着かざるを得ず、「どうせ行くんだったら、より良い大学」ということになる。でも「良い大学」って何だろう? 偏差値が高ければ「良い大学」なのだろうか? きっとそうなのだろう。それを否定するに足る実例的な根拠を、祐介は持っていない。ただ、がむしゃらに勉強して「良い大学」に行った結果として得られる物が、本当にそれほど大切な物なのだろうか?

 その時、次の授業が始まるチャイムが鳴った。空に浮かんでいた魚の雲は、いつの間にか何処かへ泳いで行ってしまっていた。




 放課後の開始を告げるチャイムが鳴った。生徒たちは各々が所属する部室、サークル室に向かってバラバラと移動を開始していた。基也は「んじゃ」と言ってバスケ部の部室の有る、体育館横の合同棟に向かった。祐介も「じゃぁな」と言って片手を挙げた。

 「一応、ワンゲルの部室に顔を出してから帰るか」

 鞄を持った祐介が立ち上がり、振り向きざまに歩き出そうとした時、右後ろの机に脚を引っ掛けた。その弾みで机がガタリと動き、席にいた女子生徒が「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げると同時に、机の中身がバサリと落ちた。

 「あっ、ゴメン、ゴメン」

 そう言って祐介が散らかった中身を拾おうとすると、その女子生徒が言った。

 「ううん、大丈夫」

 二人でしゃがみながら拾い集めていると、祐介は見慣れない雑誌が混ざっていることに気が付いた。それを拾い上げてみると、表紙には『ダイビング・マガジン』とあった。

 「これ・・・」と言って雑誌を手渡すと、その女子生徒はチョッと恥ずかしそうに微笑んで「えへっ」と言って受け取った。

 「ダイビング・・・ するんだ?」そう聞くと女子生徒は言った。

 「ううん、したことは無いの。でもいつかしたいと思ってるんだ。ちゃんとライセンス取って」と笑った。


 彼女の名前は山下琴美。高校に進学して同じクラスになり・・・ そこまで考えて祐介は唖然とした。それ以外、彼女に関しては何も知らないことに気付いたからだ。出身中学は? 得意な教科は? 部活は? 見事に何も知らなかった。そんなに目立つタイプではなかったし、物静かな印象を持っていたので、今まで祐介の思考の中に琴美が入り込む余地など無かったのだろう。そんな彼女がダイビング・マガジンを持っていた。彼女の持つイメージとダイビングのギャップが不思議なコントラストを作り出していた。




 翌朝、登校すると、教室は既に喧騒の中に有った。昨夜のサッカー日本代表の試合をネタに盛り上がっている男子グループ。電撃入籍を報道された芸能人に関して好き勝手なことを言い合っている女子グループ。宿題を忘れて、授業が始まるまでに写し取ろうと奮闘する出来の悪い奴。朝から読書にいそしむ文学少女や、アニメ雑誌に没頭するイケてない男子。色々な奴らがワイワイガヤガヤと賑やかな時間を過ごしていた。そんな中、琴美は一人で自分の席に座り、ボンヤリと前を見つめていた。祐介は彼女の横を通って自分の席に着く際、「おはよう」と声を掛けた。一瞬、教室全体が静まりかえりそうな気配を見せたが、「おいーっす!」と大声で教室に入って来た基也の声が、そんな空気を混ぜっ返した。琴美もビックリしたような顔で祐介を見つめていたが、次いで恥ずかしそうに小さな声で「おはよう」と応えた。

 「おぅ、祐介! 昨日の香川のボレーシュート見たか!?」

 朝っぱらから元気のいい基也が、いきなり教室の話題の主導権をかっさらって話しかけて来た。奴はいつだってそうだ。でもそれがイヤミじゃないのは、奴の朗らかな性格によるところが大きかった。

 「あぁ、見たよ。ってか、あれは長友のセンタリングが凄かったよな」

 そう答えると、基也は祐介の肩をバンバン叩きながら言った。

 「おぅよ! 判ってるねー、さすが祐ちゃん! 俺、バスケ辞めてサッカー部に入ろっかな、マジで」

 「バーカ。お前にゃ無理だよ。だってお前、オフサイドが判ってねぇもん」

 「んなこたぁねぇよ、バカにすんなよ! オフサイドだろ、オフサイド・・・ オフサイドって何だ?」

 教室中がドッと笑った。祐介が琴美にも笑顔を向けると、琴美も遠慮がちに微笑んだ。


**********


 そこは戦場であった。敗走する米軍が最後のヘリを離陸させる時、誰もが自分だけは助かろうと群がり腕を伸ばす。怒号が満ちていた。罵声も飛び交っていた。悲鳴が聞こえた。子供の泣き声も。かつてテレビのドキュメンタリー番組で観た、そんな混沌の中に祐介は身を置いていた。

 「おばちゃん! 俺カレーパン!」

 「痛い! チョッと何すんのよ! アタシ玉子サンドね!」

 「アンタたち、チッとは野菜も食べなさいよ!」

 「もう塩昆布しか残ってねーのかよっ!」

 「あーっ! それ私のメロンパン!」

 昼休みの売店は、いつもの様相を呈していた。その混乱の中、要領良くカツサンドと焼きそばパンとタラコのお握りをゲットした祐介は、売店横に設置された自販機でいつものイチゴミルクを買い、教室に向かって歩いていた。そこに琴美がトボトボと歩いて来た。あのダイビング・マガジンの一件以来、なんとなく声を交わすようになっていた二人だったが、声をかけるのはいつも祐介の方からで、琴美から掛けてくることは無かった。

 「山下ぁ。今から売店?」

 俯き気味に歩いていた琴美は、祐介の存在には気付いていなかった。いきなり声を掛けられてビクッとした琴美は、目を真ん丸にして、その声の主を見つめた。それが祐介であることが判ると、ホッとしたように顔をほころばせ、僅かに笑った。緊張してこわばっていた全身から力が抜けて、安堵した表情で応えた。

 「うん・・・ チョッと出遅れちゃった」

 「今から行ってもロクなもん残ってねーぞ。サラダくらいしか。」

 「そっかな。そうだよね。じゃぁサラダでいいや」

 「そんなんじゃ、午後の体育で動けなくなっちまうぞ」

 そう言って祐介は焼きそばパンを差し出した。

 「えっ? いいよ、そんな・・・ 悪いし・・・」

 「構わねーよ。食えよ」

 「えぇ・・・ でも・・・」

 そうやってモジモジする琴美に祐介は言った。

 「じゃぁサラダ買って来いよ。それと焼きそばパンを交換しようぜ。それなら文句無いだろ?」

 「えっ、あ・・・ うん・・・」

 「じゃぁ、教室で待ってっから」

 そう言い残すと、祐介はサッサと教室に向かって去っていった。廊下には琴美がポツンととり残された。

 人影も途絶えた売店には、祐介の言う通り、サラダしか残ってはいなかった。売店のおばちゃんは琴美を見ると、人の好さそうな顔で声をかけた。

 「あら、琴美ちゃん。まぁーたサラダだけ? 太っちゃいないんだから、もっとちゃんと食べなきゃダメよ」

 おばちゃんには「ダイエットしてるから」と嘘をついている。

 「うん。でも、朝と夜はしっかり食べてるから大丈夫」

 「そんなこと言わないで。ほら、琴美ちゃんの為に鮭マヨのお握り、一個取っておいたから。これも食べな」

 琴美はそれを受け取ると、笑って答えた。

 「うん。有難う、おばちゃん」


 売れ残ったサラダと鮭マヨを抱えて教室に戻ると、窓の外を眺めながら祐介が一人でカツサンドを食べていた。お握りは既に食べ切っているようだ。クラスメイトの半分くらいは ――主に男子生徒は―― さっさと校庭や体育館に散って、サッカーやらバレーボールやらで遊んでいる。席に着いた琴美が声をかける。

 「な・・・ 並木くん・・・」

 「おぅ。やっぱサラダしか無かったか? おっ、鮭マヨもゲットか? やるじゃん」

 祐介は右後ろに向き直って座り直し、焼きそばパンを琴美の机に置くと、代わりにサラダを掴んだ。そして琴美の方を向いたまま、サラダのパックを開けた。

 「俺、トマト嫌いなんだよな。後でトマトだけ返すよ」

 そう言って笑う祐介に「ありがとう」と言うタイミングを逸した琴美は、代わりにこう言った。

 「トマト美味しいじゃん。好き嫌いしちゃダメだよ」

 祐介は笑いながら、残りのカツサンドを頬張った。


 「ダイビングの話、聞かせてよ」

 まだ焼きそばパンを食べ切っていない琴美に向かって、祐介は言った。空になったイチゴミルクをパコパコいわせながら。

 「うん。前も言ったけど、まだライセンスは持ってないんだ。スクーバの場合、ライセンスって言わずにCカードって呼ぶんだけどね。でもいつか海に潜って、クジラを直接この目で見てみたいって思ってるの」

 「へぇー、クジラかぁ。いいなぁ、俺も見てみたいな」

 「でしょ? 真っ青な海に潜って、宇宙遊泳みたいに漂いながらクジラと一緒に泳ぐのが夢なんだ」

 「いいじゃん、いいじゃん。やっぱ若者は夢を語らなきゃだよ!」

 「なに年寄りみたいなこと言ってるのよ?」

 二人は笑った。いつになく琴美は饒舌だった。祐介が聞き上手なのだろうか? 琴美にしてみれば、こんな話をクラスメイトにしたのは初めて ――むしろ隠していた―― だったが、祐介が相手だと、素直にどんなことでも話せそうな気がした。

 「でもクジラなんて、何処に行けば見れるんだ? 南の島とか? いや北の方かな?」

 「日本でも見られるよ」

 「日本!? マジか!?」祐介が素っ頓狂な声を上げた。

 「だって昔、日本は捕鯨国だったでしょ? ってことは日本近海にもクジラは居るってことだよ」

 「そっか。確かにそうだな。沖縄とかかい?」

 「ううん、小笠原」

 「おが・・・ 東京都じゃねーかっ!」

 「そうだよ。東京でクジラが見れるんだよ! 凄いでしょ!」

 二人のグジラ談義は昼休み中続いた。琴美のダイビング・マガジンを覗き込みながら、祐介はゲラゲラ笑い、琴美はクスクス笑った。二人が笑う度、琴美の学生鞄にぶら下がっている、まん丸くデフォルメされたクジラのマスコットが揺れた。その様子を遠巻きに見つめるクラスメイトたちの冷めた視線に、祐介が気付くことは無かった。そう、琴美だけはそれを感じ取っていた。




業務週報


 退屈な授業が終わり、5時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。例によって生徒たちは、バタバタと部活に向けて一斉に動き出した。祐介も教科書やノートを鞄に放り込むと、ワンゲル部室に向かおうとした。その際、琴美に向かって声をかけた。

 「山下ぁ、お前、何部なんだっけ?」

 「あっ・・・ えっ・・・ 私、英会話部」

 そう言って何かを机の中に隠した。何だ? 昼休みと感じが違うぞ。そう思った祐介が言う。

 「どおした? 具合でも悪いのか?」

 琴美が慌てて応える。何だかドギマギした様子だ。

 「ううん、何でもない。大丈夫だよ」

 そう言いながらも表情は硬く、青ざめているようにすら見えた。琴美の両手は机の中に差し込まれたままだ。明らかに様子がおかしかった。

 「何隠してるんだよ?」

 祐介が琴美の腕を掴んで引っ張った。

 「何でもない、あっ・・・」

 すると、ダイビング・マガジンが滑り落ちた。それは何者かに踏み付けられたようにグシャグシャになって、無残な姿を晒していた。その表紙には、極太の油性マジックで何かが書き込まれている。

 『臭ぇんだよ!』

 『バーカ!』

 『死ね ブタ』

 祐介がそれを拾い上げた。

 「こ・・・ これ・・・」

 琴美は黙って自分の机の一点を見つめていた。その顔には、恐怖にも似た表情が張り付けられ、その身体は小刻みに震えていた。薄く開いた口からは、微かな声が漏れている様であったが、祐介にはそれを聞き取ることが出来なかった。

 「何だよ、これ・・・」

 琴美は何も言わなかった。

 「誰がやったんだよ」

 琴美の目からは、涙が溢れそうだった。その様子から、質問の答えが返ってくるとは思えなかった。祐介がクラスメイトに向かって声を上げようとしたその時、琴美が彼の腕を掴んだ。それは弱々しい力だった。

 「いいの、並木君・・・ いいから・・・」

 「だってお前、こんなことされて・・・」

 「いいの! 放っといて! 余計なことしないで!」

 その強い口調に祐介がたじろぐと、声を落として琴美が続けた。

 「ゴメン・・・ でもいいの、いつものことだから・・・ 何でもないの・・・」

 琴美の涙を貯める目を、祐介は呆然と見つめた。


**********


 「それは放ってはおけないわね」

 その日の放課後、祐介は職員室に来ていた。自分の席に座っていた担任の青木綾子は、キャスター付きの回転椅子をクルリと回し、机を右脇に抱える様な姿勢で祐介を見た。薄っすらと青が混じる清潔なシャツに、膝下まである黒を基調としたスカートを履いていた。そのスカートの中では、彼女のスラリとした脚が組み合わされている。綾子は腕組みをして続けた。

 「で、並木君は山下さんがイジメされているところを目撃したの?」

 「いえ、直接見たわけではありません。ただ、山下が持ち込んだ雑誌に落書きされているのを見ました」

 祐介は琴美の涙を思い出していた。同じクラスメイトでありながら、彼は琴美がイジメられていることなど、全く気づいていなかった。そんなことが自分の身の回りで起こるなんて、信じられない気持ちだった。

 「なるほど・・・ じゃぁ誰がやったか心当たりは有るのかしら?」

 「いえ、それは・・・ 全く有りません」

 「そう・・・」

 暫く考え込んだ綾子は、祐介の目を見つめながら言った。

 「判った。じゃぁこの件は先生に任せて頂戴。責任持って対応します」

 祐介の表情が明るくなった。

 「でも人に言い触らさないようにね。問題がこじれると厄介だから」

 「判りました。よろしくお願いします」

 やっぱり先生に相談して良かった。祐介は一礼しながら「失礼します」と言って職員室を後にした。綾子はそれを黙って見送った。

 「さぁーて、どうしたものか・・・」と綾子が考えを巡らせ始めた時、自分の左肩に何者かの手が置かれるのを感じた。振り返るとそこには、学年主任の尾鳥が立っていた。

 「青木先生。今の生徒が言っていた件、業務週報で報告願いますよ。お願いします」

 「は? あっ、はい。判りました」

 そう答えた綾子であったが、何故、学年主任がそんなことを念押しして来たのかは判らなかった。


**********


 部活終了後の下校途中、先の交差点で信号待ちをしている琴美を認めた祐介は、自転車を漕ぐスピードを上げて、それに追い付いた。

 「よっ。山下」

 「あっ、並木君」琴美は自転車に跨ったまま祐介を見た。先ほどの件があるから、すこしぎこちない笑顔だ。祐介はニコニコしながら言った。

 「もう大丈夫だよ。青木に言っといたから」

 「何を?」

 「何をって、雑誌に落書きされたことだよ」

 祐介は『イジメ』という言葉を使えなかった。そんな残酷な言葉を、当人に向かって使えるはずなど無い。しかし琴美は、目を逸らして沈んだ声で言った。

 「無駄だよ」

 祐介の顔から表情が消えた。時間が止まったような感じだ。信号が青に変わったが、二人は交差点のこちら側から動かなかった。他の生徒たちは、そんな二人に注意を払うことも無く、賑やかに横断歩道を渡って行った。

 「えっ、何で? 青木は『任せとけ』って言ってたけど・・・」

 「何もしてくれないよ。してくれるわけ無いじゃん」

 信号が点滅を始めた。三人組の上級生が、駆け足で信号を渡った。

 祐介には判らなかった。琴美の口から出た言葉の意味が、本当に理解できなかった。

 「何でだよっ! 何で『してくれるわけ無い』んだよ!」

 「だって・・・」

 祐介は琴美の顔を覗き込んだ。それを避けるように琴美は顔を背けた。代わりにこう言った。

 「私のことは気にしなくていいよ、並木君。それに・・・ もう私には話しかけなくてもいいからね」

 「何だよそれ! 何でそうなるんだよ!」

 信号は赤になっていた。

 「だって並木君もイジメられちゃうよ」

 「ふざけんなよ!」と言おうとした祐介であったが、彼がそう言う前に琴美が言った。

 「ゴメンね、並木君・・・ ゴメンね・・・」

 「な・・・ 何でお前が謝るんだよ。わけ判んねぇよ・・・」

 「だって・・・」

 琴美の目から大粒の涙が零れ落ちた。幾つも幾つも零れ落ちた。琴美は子供の様に両手の甲で目頭を抑え、それをゴシゴシと擦ったが、それでも止めどなく涙は流れ落ちた。「だって・・・」ともう一度言った。

 「ばっ・・・」

 祐介には、琴美にかける言葉が見つからなかった。

 「バカ、泣くなよ」

 祐介は泣き止まない子供をあやす様に、琴美の頭をなでてやった。それでも琴美は謝り続けた。

 「ゴメンね・・・ ゴメンね・・・」

 信号は、何回目かの赤に変わった。


**********


 「青木先生」

 学年主任の尾鳥であった。パーマをかけた頭髪を過剰な整髪料でオールバックに固め、ボリュームを抑え込んだ頭部が、血色の悪い大き過ぎる顔を更に強調していた。爬虫類の粘着性を想起させるその顔の質感は、見る者の嫌悪を誘う。顔に張り付けられた醜悪な両目は小さく、油で汚れて黄ばんだレンズの奥から不快な眼差しを投げかけていた。若干の鉤鼻の下には、しゃくれ気味の顎の上に乗った不格好に大きな口が有り、その口元から垣間見れる歯の隙間から覗く舌は、おぞましい生物の幼虫ででもあるかの様に、ネチネチとのたくっていた。

 「尾鳥先生、何でしょうか?」

 「先生の業務週報、読みました」尾鳥が言っているのは、各クラス担任が毎週末に提出する定期的な報告書のことであった。

 「はい・・・」

 「中に『イジメ』という記述が有ったのですが・・・」

 「はい、山下という女子生徒が・・・」

 「先生!」

 尾鳥は声のトーンを上げて、綾子の声を遮った。まるで、聞かれてはならない犯行計画を、迂闊にも口にしてしまった頭の悪い子分に釘を刺す様な、テレビドラマに有りそうなわざとらしい感じだ。

 「はい?」

 「軽々しくそういう言葉は使わないで下さい。軽率ですよ。そういうことが有ったかどうかも、まだ判らないんですよね? まさか、本当にイジメが有ったなんて思ってるんじゃないでしょうね?」

 綾子が書いたのは、本当に『聞かれてはならない』単語だったらしい。少なくとも尾鳥の価値観に則って言えば。

 「あっ、はい・・・ スミマセン・・・」

 「まず、そういった行為を裏付ける物的証拠が無いこと。第二に、被害者本人からの申し出が無いこと。さらに、加害者が不明なこと」

 「は、はい・・・」

 「以上の状況を鑑みると、学校としてはそういった行為が存在したと認めるわけにはいきませんね」

 いつになく早口でまくし立てる尾鳥が、いつもに増して高圧的な態度でごり押しをした。綾子は一応、言ってみた。

 「雑誌に落書きされてるのを見たという生徒が・・・」

 「それが証拠であると?」

 「そ・・・ それは・・・」

 「チョッとした悪戯でしょう。大袈裟に取り上げるほどの事ではないかと。それに学校としては、そういった雑誌の持ち込みは禁止しているハズです。この学校内に有ってはならない物が証拠になるなどということは有り得ません。もしそれが証拠だと主張するのなら、何故そういう雑誌が持ち込まれていたのかを、まず最初に調べる必要が有りませんか?」

 面倒臭くなった。自分が何を言ったって、聞いてくれる様子は微塵も感じられない。むしろ学年主任に目を付けられて、今後の仕事に支障を来たす方が問題だ。ここで自説を主張すること自体、得策とは言えないだろう。そういうことで、今日のところは納得しておくことにした。

 「はい、おっしゃる通りです」

 「だからイジメは無かったということでいいんですよね?」

 「はい、そうです」もう、それでいいと思った。

 「校則違反の雑誌を持ち込んだことは、この際目をつむりましょう。その生徒の・・・ 山下さんでしたっけ? 彼女のためにも。ですから、業務週報はお戻しします。適切な表現に書き直して再提出して下さい、青木先生」

 「承知いたしました」

 「あっ、それから、その落書きを目撃したという生徒には・・・」

 上司が求める答えを返すこと。それは社会人にとって、何よりも大切なことである。それは教育現場であっても例外を成すものではなかった。

 「ご心配には及びません。ちゃんと言っておきます」

 それを聞いた尾鳥は満足そうに頷いた。

 「この件に関しては、既に教頭先生のお耳に入れてあります。次の職員会議で『ちゃんとした』結果報告をお願いしますよ。経過報告ではなく、結果報告を」

 「はい。ご期待に沿うようにいたします」

 今は納得できないようなことでも、数年後には「言う通りにしておいて良かった」と思える時が来るのであろう。綾子はボンヤリと、そんな風に思った。

 「教頭先生も、青木先生には期待していらっしゃいます。お若いのに見込みが有るという様なことをおっしゃっていましたから。しっかりやって下さいね」

 「はいっ」

 「それでは、よろしく」

 立ち去る尾鳥の背中に向かって綾子は一礼した。自分の何が「見込みが有る」のか判らなかった。同時に「何かが違う」と感じたが、深く考えることはやめた。この職場では、そういった物事を掘り下げる行為が歓迎されないことは判っていたし、自分の為にもならないことも承知していた。またそれによって、何かがより良い方向に転じることも無いことは、まだ若い綾子にとってすら自明であった。

 子供が好きだからという理由で教師の道を選択したが、実際の教員現場の現状は、綾子が夢見ていた物とは程遠かった。今はその『現状』に適応することが彼女の最大の関心事であったし、それ以外のことは求められていなかった。それ以外のことをやらない人間が求められていた。


**********


 それからも祐介は琴美に話しかけた。こうして二人は、徐々にその距離を詰めていった。たとえ教室のクラスメートから冷たい視線が投げかけられようとも、そんなことは気にしなかった。そんな祐介がクラス内で「浮かず」に、今まで通りの立場を維持できたのは、本人の成績や性格に寄るところも大きいが、意外にも基也が多大に貢献しているのであった。基也はクラスの人気者であり、中心人物である。その基也が祐介の親友である以上、祐介に滅多なことなど出来るはずではないのだ。その流れで、琴美に対する嫌がらせも減少傾向にあった。


 そんなある日、物理の授業で実験が行われた。実験室で5~6人の班に分かれ、それぞれが水の電気分解の実験を行う。班分けは出席順であったが、祐介と琴美は同じ班になりそびれてしまった。並木と山下なので出席簿上は比較的近かったのだが、丁度、二人の間で班が分かれてしまったわけだ。

 最初、祐介は心配で、琴美の班の方をチラチラと盗み見していたが、取りあえず問題なく溶け込んでいるように見えて少し安心した。そして実験が佳境に入った辺りで、基也の声が響いて我に返った。実験の方に注意が行ってしまい、琴美のことをケアできない時間帯が続いていたのだ。

 「山下ぁ、あぶれてるんならコッチに来いよ」

 突然、声をかけられた琴美が、ビックリした様子で基也を見た。琴美の班の誰かが、琴美をつま弾きにしたのであろう。何もすることが無くて手持無沙汰の琴美を見かねた基也が、自分の班に彼女を呼んだ声だった。

 「えっ、いいの?」

 「構わねぇよ。来いよ」

 琴美はそのまま、基也の班で実験を続けた。それを見た一部の女子生徒は、言いようのない険しい顔をしていた。

 「何あれ。ムカつく」

 そんな囁きが聞こえてきたが、基也に対してその様な言葉を使う勇気を彼女たちは持ってはいない。祐介は基也に向かって拝むようなポーズを取り「有難う」という意思を伝えると、頷くような仕草を基也が返した。


 何かある度に基也は、二人のことを思って行動してくれていた。それは若干、お節介のような色合いを帯びることも多かったが、いずれにせよ祐介たちは、基也の心遣いに大いに助けられていた。そのことは祐介にも判っている。一度、祐介は面と向かって基也に礼を言ったことが有る。

 「基也、有難うな」

 シリアスな話をするタイプではない基也が、照れ隠しでおどけた。

 「何だよ、裕ちゃん。改まって。イチゴミルク代なら返してもらったゼ」

 「お前が居てくれるお陰で、俺はこのクラスでやっていけてるから・・・」

 祐介の言う意味が判っている基也は、恥ずかしそうに言った。

 「そりゃぁ、まぁ、なんだな。お前と山下が、なんつうか・・・ 幸せになってくれたら俺も嬉しい訳だし・・・俺って正義の味方なわけだし・・・」

 何を言っているのか良く判らなかったが、二人を応援してくれていることだけは伝わった。やっぱり友達って、良いもんだなと思った。

 「ホントに有難う。いつか琴美と一緒にお礼しなきゃな」

 そんな他人行儀なこと言う祐介に、基也が突っ込みを入れた。

 「礼なんて要らねぇよ。つまらねぇこと言うなよ。ただし、二人の間に産まれた子供の名付け親は俺だからな。覚えとけよ!」

 「うっせぇよ、バーカ」


 そう考えると、イジメなどというものは、微妙なパワーバランスの上に成り立っている幻想なようなもので、何ら絶対的な意味など持ってはいない。従って本来であれば、それに人の一生を左右するような力が備わっているはずなど無いのだ。だがしかし、それは攻撃される人間の退路を断ち、心を踏みにじり、そして隔絶された見えない容器の中に押し込んでしまう。そうして当人の人生を変えてしまう程の、あるいは人生を終わらせてしまう程の大きな打撃を加える点において、もっともタチの悪い攻撃手段であると言えた。そういった意味で、それはレイプ、暴行、強盗、詐欺などよりも遥かに卑劣で、許さざるべき犯罪なのである。

 祐介が寄り添うことで、琴美に対する表立ったイジメは姿を消し、事態は良い方向へと動いているかのように思えたが、それは見えない裏側に姿を隠したのであって、ある意味、より陰湿な手段へと姿を変えただけなのであった。イジメる側は、自分の優位性や存在意義を誇示するためにイジメるのだから、攻撃対象が無くなれば新たな獲物を見繕うか、形を変えたイジメを継続するように出来ている。つまりイジメる側の精神構造や行動原理は至極単純で幼稚なのだ。そんな奴らに負けたくはない。その気持ちから始まった琴美との関係も、次第に絆を育み、いつしか大切な友人同士となっていた。琴美にとっても祐介は、かけがえの無い特別な存在として受け入れられていた。




並木家


 祐介は自室のベッドに寝転がり、脚を組んだ姿勢で琴美に借りたダイビング・マガジンを読んでいた。そこには、色とりどりの熱帯魚が、サンゴ礁の合間で泳ぐ姿が有った。祐介は、自分がそういったサンゴ礁の間をぬって泳ぐ姿を想像してみた。「きっと気持ちいだろうなぁ」そう言ってウンと伸びをした。その時、雑誌の記事に出ている、見慣れない文字が目に付いた。

 「このBCDってのは何なんだ?」

 雑誌から目を離さずそう言うと、床のローテーブルで別の雑誌を読んでいた琴美が答えた。

 「それは浮力調整装置のことだよ。色んなタイプが有るけど、今はショルダーベルトタイプが主流かな。水中で簡単に中層に浮くことが出来るから、無重力みたいな感じになるんだって」

 「へぇ~、やっぱ海に潜るとなると、色々装備が必要なんだな」

 琴美は読んでいた雑誌をパタンと閉じて言った。

 「そりゃそうだよ。だって危険と隣り合わせだもん。適切な機器を適切に使わなきゃ事故になっちゃうよ」

 その時、部屋のドアが開いて祐介の母、優子が顔を出した。普段なら、祐介の部屋にコーヒーを持って来ることなど決して無い。息子の部屋に上がり込んでいる女子が気になって仕方がないのか、その手にお盆に乗せたお菓子とアイスコーヒーを携えて、ニコニコしながらやって来た。何も、今日初めて連れてきたわけでもないのにだ。

 「いらっしゃい、琴美ちゃん」

 「あっ、おばさん。お邪魔してます! わぁっ! わたし『たけのこの里』大好きっ!」

 琴美はコーヒーよりもチョコレートの方が気に入ったようだ。

 「でしょ? この前、そんなこと言ってたから。祐介なんか、絶対『きのこの山』の方が旨いって言うのよ」

 「えぇ~、判ってないなぁ男子わぁ。絶対『たけのこ』ですよねっ、おばさん!」

 女子供に『きのこの山』の旨さは判るまい。祐介はそんな風に思った。

 「うっせぇな、それ置いたらさっさと行けよ」

 「はいはい。じゃぁ下に居るから、何かあったら声かけてね」

 「はぁ~い」




 「ねっ、並木君のことも教えてよ」読みかけの雑誌をテーブルに伏せて琴美は言った。その瞳は好奇心でキラキラと輝いていた。

 「教えるって、何を聞きたいんだ?」対して、祐介はベッドに寝転がったまま、雑誌から目を離さず応えた。

 「ハイッ!」琴美は小学生の様に手を挙げた。

 「はい、山下さん」学校の先生の様に、それを指さす祐介。

 「並木君はどうして山に登るんですか?」

 「山?」

 「そう、山に登るって言ってたよね? 『そこに山が有るから』みたいなやつ?」

 「うぅ~ん・・・ 俺の場合はそうじゃないな。俺は『マザー・ツリー』に逢いに行くんだよ」そう言うと手に持った雑誌を閉じて枕元に置き、上体を起こしてベッドに腰かけた。

 「マザー・ツリー?」

 「そう。林業では、木を伐採する時に、わざと一本だけ残したりするんだ。それは、その土地固有のDNAを残すため、みたいな理由なんだけど、本来はそういった木をマザー・ツリーって言うのさ。でも、俺が言ってるのはそういうヤツじゃない」

 「ふむふむ、詳しく聞かせたまえ」眉毛をピクピクさせながら、必要以上に真面目な顔で琴美がおどけた。

 「教えるの止めよっかな」

 「ゴメン! お願い! 教えて!」そう言って琴美は両手を顔の前で合わせて、初詣でよろしくお願いした。祐介はちょっと改まって続けた。

 「山に入ると、それこそ数え切れないくらいの木が生えてる。でもその中に、なんとなく気になるというか、波長が合うみたいな感じがする木に出会うことが有るんだよ。そういった木を見つけ出すために山に入る人も居るくらいなんだぜ」

 「へぇ~、木の波長ねぇ・・・」

 「そう、その木にもたれかかってると、癒されるっていうか心が落ち着くっていうか、嫌なこととか全部忘れて生き返るみたいな感じがするんだ。他の木だと、絶対にそういった感じにはならないのさ」

 「うんうん、それで」

 「それでって言われても、別に何も無いんだけど・・・ だから俺は、その木に逢いに行った時は、何もせず一日、ただボーッとしてるだけなんだ。バカみたいだろ?」

 「へぇーっ! それって凄くいい! ううん、全然バカみたいじゃないよ。すっごく、すっごく羨ましい」

 「そう思う?」

 「思う思う! きっと並木君にとってその木は、私にとってのクジラみたいな存在なんだね。私の場合、まだ出会ってないけど」

 「あっ、そうだ」

 そう言ってベッドから飛び降りると、祐介は勉強机の引き出しを開けて中からジャムの瓶を取り出した。その中には、正四面体の様な形状をした褐色の粒が入っていた。粒の大きさは朝顔の種ほどで、瓶を振る度にカサカサと音を立てるさまは、カレー屋にディスプレイされているスパイスの瓶詰を思わせた。

 「何それ!?」琴美の瞳が輝いた。

 「ブナの実。あの木はブナの木なんだよ。俺のマザー・ツリーが落とした実を持って帰ったのさ」祐介は再びベッドに腰を下ろした。

 「へぇ~、ブナの実かぁ・・・」

 祐介から奪い取った瓶を光にかざし、しげしげと見つめながら琴美が言った。

 「ねぇ、並木君。これ、少し頂戴」

 「それを? 別に構わないけど・・・」

 「へっへ~、やったぁ~」

 早速、瓶のふたを開け、その中から数粒のブナの実を取り出すと、琴美は自分の鞄にぶら下がっているクジラのマスコットを取り外した。

 「この口、実はファスナーになってるんだぁ」

 そしてクジラの口を開けて、その中にブナの実を大切そうに入れた。再び、クジラの口を閉じると、親指を立てた右手をグィと祐介に向かって突き出した。

 「私をそのマザー・ツリーに逢わせるってのはどうよ?」

 「はぁ?」

 琴美はニッと笑った。

 「お前がぁ? 無理無理無理、絶対無理」

 「どーしてよー。いいじゃーん、連れてってよーっ!」

 「だって山登るんだぜ。岩登りみたいなこともするし」

 「やってみなきゃ判んないじゃん!」

 「出来るわけ無いって!」

 「何でよーッ。やぃっ祐介! 私を連れてけっ!」

 「ダメダメ」

 そう言って祐介が琴美の手からブナの実の入った瓶を取り上げると、琴美は「あーっ、返せーっ」と取り返そうとした。祐介が両手を掲げて持つ瓶に、琴美が踊りかかる。すると、その弾みで祐介の上に琴美が重なり合う様な形で倒れ込んでしまった。しかもベッドの上で。祐介の両腕は張り付けにされたキリストのように枕の両脇に有り、それを琴美の両腕が上から押さえつけていた。

 「あっ」

 「あっ」

 一瞬、時間が止まった。二人の顔の間隔は数センチくらい。琴美は、祐介の瞳に映り込む自分の顔を見た。祐介も、琴美の瞳の中に自分を見た。その時、ドアが開いて優子が入って来た。

 「琴美ちゃん、夕ご飯食べて・・・ あっ」

 二人と一人の視線が交錯した。優子は音も無く後ずさり、そのまま静かにドアを閉めた。




 「やっぱり女の子が家に居ると賑やかでいいな。わっはっは」

 祐介の父、泰文は一番賑やかなのは自分であることにも気付かず、琴美を交えた食卓にご機嫌だった。祐介は、人間の鼻の下ってあんなに伸びるのかと、呆れる様な面持ちで父を見ていた。一方、母はと言えば、さき程、祐介と琴美が重なり合っている現場を目撃してしまったためか、なんとなく気まずい様な恥ずかしい様な雰囲気で、どちらとも目を合わせないのであった。そのくせ、溢れ出る微笑みをその顔にやんわりと貼り付け、何だか少し火照ったように頬を赤らめていた。それを見た祐介は、母が変な具合に発情してしまったのではないかと、要らぬ心配をするほどであった。

 「で、琴美ちゃんのお父さんは、何をしているのかな?」

 デレデレした泰文の質問に、少し戸惑った様子を見せたが、琴美は直ぐに答えた。

 「医者です」

 「ほぉーっ、お医者さんかぁ。そりゃ凄い」

 それは祐介にとっても初耳だった。そういえば、琴美の家族についてなど、尋ねたことも無かった。しかし、泰文は別のことに気付いたようであった。

 「えっ、ひょっとして、栄町の山下医院?」

 「はい・・・ そうです」

 山下医院とは市内有数の大病院で、正式名称は山下総合病院という。かつては小さな町医者だったが ――その頃を知る人は、今でも山下医院と呼ぶ―― その後に拡充を重ね、今では押しも押されぬ総合病院である。赤十字病院、日本医療福祉大学病院と並ぶ規模を誇る大病院の愛娘が琴美だったのだ。ただ、しきりに恐れ入る泰文をよそに、なんとなく居心地が悪そうにしている琴美を見て、あまり触れて欲しくはないのだろうと感じた祐介であった。




 「ちゃんと送ってあげるのよ!」

 母の言葉を無視して行こうとしたが、琴美はご丁寧な挨拶を始めた。

 「おじさん、おばさん、ご馳走様でした。すっごく楽しかったです!」

 「あらそう? またいつでも遊びに来て頂戴ね」

 息子一人のむさ苦しい家庭である。母は琴美という娘のような存在が嬉しかったのかもしれないと祐介は思った。

 「ウチのバカ息子をよろしくお願いします」と泰文がおどけた。

 琴美がそれに乗っかる。

 「はぃっ! 任せて下さい! シュタッ!」

 琴美は気を付けの姿勢で敬礼した。いつまでも終わりそうになかったので、祐介は声を張り上げた。

 「じゃぁ送ってくるから!」

 しつこく手を振る優子へ、しつこく手を振り返す琴美にウンザリしながら祐介は言った。

 「もういいよ。今生の別れじゃあるまいし」

 振り返って祐介と一緒に歩き始めた琴美が言った。

 「楽しかったぁ。ありがとうね」

 「うん」

 祐介は照れ臭そうに答えた。そして何気なく後ろを見ると、泰文が万歳三唱をしている姿が遠くに見えた。祐介はそれを無視することにした。琴美は気づいていないようだ。

 「並木君のお父さんて、すっごく面白い人なんだね」

 「そうかぁ?」

 そう答えながらも祐介は、実はその点は同感だった。息子とは父親を超えて行くものであるが、こと笑いのセンスに関しては、自分が父を超えられるとはどうしても思えなかった。そしてもう一度振り返ると、今度は泰文がムーンウォークをしていた。祐介は今度もそれを見なかったことにして、また歩き出した。琴美がバカ親父に気付かないよう、少しだけ歩くスピードを上げた。


 祐介は自転車を押しながら歩いた。その左側を琴美が歩いた。暫く沈黙が続いた。二人の足音以外には、自転車のベアリングが上げる、チチチチチという微かな音と、草むらに潜むコオロギの声しか聞こえなかった。空に浮かぶ月は半月で、決して明るい訳ではなかったが、暗闇に慣れた目にはお互いの表情がハッキリと見て取れた。時折、車道を車が通り過ぎる度に二人の影は大きく振られ、道脇の田んぼでメトロノームの様に揺れた。祐介がその沈黙を破った。

 「逢わせてあげてもいいよ」

 「えっ?」

 「マザー・ツリーに」

 「ホント?」

 琴美がクリクリした目で祐介を見つめた。

 「ホント。その代わり条件が有る」

 「条件って?」

 「俺をクジラと一緒に泳がせること」

 琴美の表情に花が咲いた。

 「その条件、聞きとどけた!」

 そう言うと琴美は駆けだした。

 「おぃ、ちょっと」

 「もうそこだから。ありがとね」

 この先の角を曲がったところに、例の大病院がそびえていることに今気付いた祐介であった。「じゃぁな」と言うと、琴美が手を振りながら言った。

 「今の話、忘れんなよーっ! 約束だぞーっ!」


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