第20話 決意
「一つ質問していいかな?」
「えぇ、どうぞ」
「なんで、生きているんだ?」
「あら、あたしが生きているのがそんなに不思議?」
校庭に立っている、赤い髪の長身の女性。
紛れもない香ヶ池。その人だ。
「僕の見間違いか? 確かに首が飛んだような」
「あんたねぇ、大蛇が首が飛んだくらいで死ぬと思うの?」
「いや、だって、八尺瓊勾玉が……」
その言葉に、香ヶ池はあぁ、あれねと軽く笑った。
「これのことでしょ」
香ヶ池が差し出したそれは、確かに八尺瓊勾玉だった。
腕について取れなかったそれが、いつの間にか香ヶ池の手に握られていた。
「これ、どうやって、外したんだ?」
「いや、さすがの私も外せなかったよ。でも、ほら、あいつが外してくれたじゃん」
「あいつ?」
「そう、カツユがね。あたしの首を撥ねようとしたでしょ。その時にね」
河津はその瞬間のことを思い出した。
首を撥ねようとしたカツユに対して、香ヶ池は八尺瓊勾玉がついている方の手で、防御した。
結局、その甲斐もなく腕は飛ばされてしまったが。
「あっ、その時か」
「そ。そういうこと。その瞬間、八岐大蛇に戻ったわけ」
「じゃあ、あの暗闇は」
その質問に香ヶ池は悪戯っぽくにゃははと笑った。
「何のことはないよ。一瞬、世界が壊れかけただけ」
何気なく出た言葉に何を言っていいのか、信じられないと言う顔で、河津は目をぱちくりさせた。
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「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
走りながら唇を指で触った。
初めての口付けがまさか女性だとは思わなかった。
それも舌が奥にまで入れられるとは。
さすが蛇の舌と言うべきなのだろうか。
細くて長くて、本当に生き物のように私の口を動き回った。
「そうじゃなくて!」
誰も聞いていないのに、、私は空に向かって言い訳を言った。
今は、それよりも大事な事がある。
香ヶ池さんが耳打ちしたことも気になるが、今は神様のことだ。
このまま神様を追いかけてよいのだろうか。
神様が私を必要してくれるのかも分からない。
あの賢い彼だ。このまま高天原に行ったらどうなるか考えないはずがない。
本当に神様には私が必要だろうか。
神使が私から変わった時に驚きもしなかった。
私が河津さんに化けて学校に行った時、私がいない事に慌てもしなかった。
神様にとって世話する者がいるだけの存在で、それが私じゃなくても良かったのではないだろうか。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
暑さで呼吸が乱れてしまう。
噴き出した汗はすぐには乾かず、首筋を辿り服の下へと幾筋もの跡をつける。
着ている服はぐっしょりと濡れている。
汗はこの夏独特の湿気と相まって、すぐには乾かずシャツは素肌にぴったりと張り付いていた。
山の裾野にぽっかりと空いた口。
灰色をした鳥居を入り口として、そこから長い長い三百段ある石段が上へと続いている。三百段の石段を駆け上がるのは容易ではない。
走り疲れた太ももを叱咤し、石段に足を掛ける。
狐子の足が石段に触れた瞬間、静電気が起こったような激しい破裂音と共に、足から頭の先までに言いしれない衝撃が走った。あまりの衝撃に膝が折れそうになる。
妻奈備神に拒まれている!
考えたくなかったが、当然と言えば当然なのかもしれない。
河津さんですら高天原に背くことを躊躇った。
神としてずっとやってきた妻奈備神が高天原の命に背くはずがない。
それでも、私は神様を追わなくちゃいけない。
めげずにもう一歩足を進めた。結果は変わらない。
歩を進めると走る稲妻のような衝撃。
痛い!
なんで、私は走っているのだろう?
なんで、私は追いかけているのだろう?
なんで、私は登っているのだろう?
神様の神使だから?
違う。
私は、もう神様の神使じゃない。
じゃあ、どうして?
考えながらも動かす足。一歩動かすたびに衝撃に足が震える。
なんで、私は神様を追っているのだろう?
なんで、私は神使になったのだろう?
神使は他にも山のようにいる。その中で、なんで私が選ばれたのだろう?
神様と会ったのは今から三年ほど前だった。
神の神使は増やす事があっても減らしたり変えたりすることなど滅多にない。
にもかかわらず、神様は神使を私に変えた。
神様の下に仕えた時、私以外の神使がおらず驚いたのを覚えている。
三年など私が今まで生きてきた寿命の中では微々たる時間にすぎない。
いや、私以外の神様ではもっと短いものかもしれない。
そんな短い時間でしか付き合いがない人に、私はどうして。
どうしてこんなにも必死になっているのだろう?
「あぁッ」
何度目かの衝撃に耐えられなくなり、足が崩れ落ちた。
石段に膝を強く打ちつけ、その時に起こった衝撃が私の心の何かを奪い去った。
「なんで――」
倒れ込む身体を支える手さえ動かなかった。
石段に強く頬を打ちつけ、その時に走った衝撃に身体がびくんと大きく痙攣した。
目が霞む。
痛みと疲労が筋肉を締めあげ、気を抜けばそのまま意識の全てがどこかへ飛んでいきそうだ。
「――私は神使になったんだろう」
神使にならなければ私はこんな目に合わなかった。
神様と会わなければ私はこんな目に合わなかった。
痛いのは嫌だ。辛いのは嫌だ。
誰だってそうに決まっている。
「なのに――」
そう、なのに。
「――なんで、私は前に進もうとするの?」
小刻みに震える手が石段を掴む。両足が動かなければ、両手がある。
私は狐だ。
地を駆ける四本足の獣。こんなところで音をあげてなんていられない。
長い髪を辿って流れる汗の滴。それが石段に落ちて綺麗な斑点模様を描いていく。
口の中がしょっぱい。噴き出した汗が入っている。
「……あぁ、そういうこと……か」
今少しだけ、香ヶ池さんの気持ちが分かった。
「大丈夫。私の手足はまだ動く」
疲れが取れたわけではない。痛みが取れたわけではない。
それでも、私の身体は立ち上がった。
両足だけじゃダメだ。私は狐。両手両足を使って駆け登らなきゃ。
痛いのは嫌だ。辛いのは嫌だ。
でも、それよりももっと嫌な事がある。
私の四肢は使命を受けた。私を運ぶ使命を受けた。
「行くよ!」
それは私が私に対して言ったこと。
それは私が自分に課して言ったこと。
両手両足が前に動く。
歩を進める痛みは前よりも痛くない。
妻奈備神は迷っている。完全に拒みきれていない今しかチャンスがない。
後はこの石段を駆け登るだけ。




