第21話 変異
三百段の石段はあっという間に駆け登ることが出来た。
最後の方はほとんど衝撃が走らなかった。
頂上にある木で出来た肌色の鳥居をくぐると、山に向かって吼えた。
「狐が清。訳あってここを通らせてもらいます」
拒否しても高天原の道はこじ開けられる。
ただ、それは正規の手段ではないから、どれほどの影響が出るのかは分からない。
もしかしたら、正確に道が出来ず人世と神世の間に放り出されるかもしれない。
「名もなき神に会いに行くのか?」
「はい」
「通さぬ……と言うしかないのだろうな」
「申し訳ございません。私は絶対に神様と会わなければいけないので」
「……」
妻奈備神の沈黙。
今の私にはその沈黙を待つだけの余裕がない。
扉を無理やり開けて何が起こるかは分からないが、覚悟は決まっている。
「では――」
「待ちなさい! 蛇祇山 妻奈備神として、汝に問う」
山から降り注いだ言葉は、私を非難するものでもなく、私を止めるものでもなかった。
「急いでおります!」
「その質問に答えられれば、高天原の道を開けよう」
「分かりました」
リスクを考えれば、今ここで妻奈備神の問いに答えた方が正解なのだろう。
「では、問うぞ。神とは。神とはなんぞ」
「神……ですか?」
問いの意味を探るように慎重に問い直した。
「そうだ。私は今回の事でつくづくそう思った」
神とは何か。
「神とは何かを司り人々のためいる存在……ではないのでしょうか?」
「それは、神たちが言う神の姿だろう。そうではない。清が思う神とはなんぞ?」
私が思う神と言う存在。
神様のように何も司らないような神もいる。香ヶ池さんのように恋に生きる者もいる。
河津さんのようにその土地を守るために命をかける者もいる。
みんながみんな、自分の意思で生きている。
それは人間も変わらない。誰かのために生き、自分のために生きる。
「神は――いません」
「いない?」
「はい。神も人も変わりません。
たまたま人から神と呼ばれただけなのです」
神と言う存在の否定。私が出した答えはそれだった。
神であらせられる妻奈備神には申し訳ないかもしれないが、私は人世に生きてつくづくそう思った。
「それは本心か?」
「稲荷が直系葛の葉の末子清の名において」
私の一族は神として祭られているところがある。
若いといえども神の名に連ねる身としてもそう思う。
「神が神を否定するか」
妻奈備神は深く呟いた。
「大宮諏訪開神……
いや、河津と言った方が馴染みあるかな?
彼が高天原を裏切った。
立律若日子からは八岐大蛇と清、お前の足止めを頼まれてしまった。
私はつくづく考えるようになったよ」
「……」
「清。高天原の道が開けた後、何をする?」
この質問に答えられないはずがない。
「もちろん、神様を助けに」
「彼の神をか。それは神々を敵に回す事になるかもしれないぞ」
「覚悟の上です」
声が降り止んだと同時に本宮の扉が勢いよく独りでに開いた。
ここに入ったらもうすぐ目の前だ。
山に向かって深々と頭を下げると、本宮の中に飛び込んだ。
本宮の中は光にあふれ、身体をここではないどこかへと運び始めた。
じっとしていると身体がむずむずする。早く走りたい。
早く追いかけたい。
どれだけ急ごうとそれが無駄なのは分かっているが、心が囃したてられるとどうしてもこの光の中をかき分けてしまう。
もうちょっと。もうちょっと。
時間が長い。
後少しなのは分かっている。
それが待てない。
後、少――
「出た!」
光の波が唐突に終わりを告げた。それは神世の到着を意味する。
地面に降り立って周りを見回す。ここはいつも見慣れた高天原二丁目。
ここから本殿まではそう遠くない。
もう、止まらない。
足が大地を蹴った。空気の流れが変わった。
テンポよく蹴り飛ばす四本の足が、私の身体を風のように運んでいく。
いつもよりもどの時よりも速く動く足。
私は心に決めたんだ。あの時、神様に命を救われた時、私は誓った。
だから、今で十分満足だ。
私の眼の下を草が去っていき、道が去っていく。
遠く先にあった建物が目の前まで近づき、目の前にあった道が遥か後ろに置き去りにされた。
見慣れた道を飛び越えて高天原の本殿が見えた。
「止まれ!」
予想していた通り、高天原の前には大量の兵士が私を止めようと列をなしていた。
手に持つ、武器を私の方に向け、敵意を持った眼差しで、私の方を見ている。
「いいえ、通らせてもらいます!」
走る勢いを少しも落とさず、爪を立て、二本の前脚を踏みしめた。
大地を踏みしめた前脚は、自分でも驚くほど高く身体を宙へと誘った。
空中で身体を捻り、天地が反転したかと思うほど視界が大きく動いた。
まるで、鳥のように空を滑った私の身体は、そのまま兵士の列を軽々と飛び越え、本殿へと駆け込んだ。
目に飛び込んできた見慣れた姿。それは見たくてもずっと見られなかったもの。
神様の姿を見た瞬間、もう私の口は止まらなかった。
「神様!」
その言葉をどれだけ我慢しただろうか!
その言葉をどれだけ切望しただろうか!
その言葉を! その言葉に! その言葉が!
香ヶ池さんが言ってくれた私の武器。
それは、狐火でも神使の地位でもない。真っすぐに自分を信じる心。
一度口にした誓いと言う名が私を支える真っ白な光。
私の言葉に神様は私の目を見てくれた。
「お清……その身体は……」
だから私は、今の身体に何の後悔を持とうか!
だから私は、今のこの心に何の後悔を持とうか!
だから私は、この生き方に何の後悔を持とうか!
神様に話しかけようとしたその時、傍に立っていた立律若日子が私の前に割って入った。
「神使の清か。愚かにも獣の心に身を落として、何を問う」
「神様以外が私の名前を呼ぶな!」
私の耳にも驚くぐらいの声が辺りを押さえつけた。
いつの間にであろうか。
自分の身体は人のそれではなく、人の身の丈ならば呑みこめるほどの巨大な狐の姿へと変わっていた。
口の縁に沿って並ぶ鋭い歯。
人としてあった耳はなくなり、もう頭の上の二つの耳しか残っていない。
二本の腕と二本の脚は、身体を支える四本の脚となりそのどれにも鋭い爪が生えている。
長い髪はその身を包む毛皮へと変え、垂れ下がっている長い尾が、唯一、私が人間だった頃の髪の面影を残しているように思えた。
文字通り、私の身体は完全に変わってしまった。
それは人でも神使でもない。物の怪となり果てた私の姿。
「神使の心を捨て物の怪にその身を落とすとは汚らわしい」
確かに私の姿は物の怪と呼ぶに相応しいだろう。
それでいい。
それでさえいい。
前脚を折り、私は神様に向かって、伏せるように頭を下げた。
「神様、貴方への誓いを一度たりとも忘れた事はありません」
永劫の時が果てても私は神様に仕える。
「……」
神様は口を開かなかった。
ただ、私を見てその視線をずっと投げかけていただけだった。
その眼差しを見て、私はすぐに頭を上げた。
きっと、このまま頭を下げ続けると、神様は私に言葉を掛けてくれただろう。
私が気に入るようなとても喜ばしい言葉を。
でも、そんなものはいらない!
もう、何もいらない!
「神様を貶めたその行い! 絶対に許さない!」
「物の怪風情が神に逆らうつもりかッ!」
立律若日子のその目には私はすでに神使としてさえ映っていない。
それでいい。
抑えきれない感情を囃したてるように、四本足が大地に深く傷をつけ、私の大きな身体は大砲のように身を躍らせた。
噛みついてもいい!
踏みつぶしてもいい!
避けられてもその尾ではじき飛ばしてやる!
大きな狐の姿となった狐子が走りだしたのを見て、立律若日子は地面に手の平を当てた。
その瞬間、彼の少し前に、まるで崖のような大きな土の壁がそびえたった。
これがただの土の壁とは到底思えない。
けど、そんなものでは止まらない。
そこに何が待ち構えていようと、怯むことはない。
私は顎を引いて頭をしっかりと壁に向けてそのまま勢いを弱めず突っ込んだ。
鈍器で殴られたような鈍い衝撃が頭の先から走り、一瞬で尻尾の先まで到達した。
頬を叩いた様なジーンとした耳鳴りと、痛みを教えるような苦い味が口の中に広がった。
土の壁は衝撃に耐えきれず崩れ落ち、周りは舞い散る砂に沈んでいった。
しまった!
崩れ落ちた土は柔らかく、踏ん張ろうとする足が取られてしまう。
土は意思を持ったかのように身体の上へと流れ落ち、無数の腕のように足を絡め取ろうとしていた。
いつの間にか身体全身が、土に埋もれてしまい、息をするたびに砂利が鼻に飛び込んでくる。
私は大量に落ちてくる土を払うように首を振るい、ようやくその土塊の山から頭だけ出す事ができた。




