番外編 ~耐える狼と自重しない犬~ 魔境編
わたしが元気になった次の日、今度はヒューイ君が熱を出した。
わたしはお母さんに付き添われてヒューイ君のおうちにお見舞いに行った。
ちなみにつがいになってからもヒューイ君が毎日うちに来てくれたが、別にオスがメスの家に行かないといけないということはないのだそうだ。
当たり前のようにヒューイ君が家に来てるから疑問に思うこともなかった。
だけど今回お見舞いにいく道すがらお母さんが教えてくれたことには。
発情期にオスがメスの家に足しげく通うのには、『自分のつがいの姿を自分以外の誰にも見せたくない』って意味があるのだそうだ。これはメスがオスの家に通うのにもいえる。
まぁわたしの場合は獣人の習慣に慣れていないから、外を歩くのは危なっかしいってのもあると思うけど。
そんなことを聞いてしまってはわたしの顔は自然とにやけてしまう。
歩くたびにヒューイ君に近づいていると思うと、お見舞いなのに足が弾んでしまう。
しっぽは小刻みにだけどピコピコ揺れて忙しい。
あぁ、発情期ばんざい!
あんなに嫌だった世間の浮ついたような空気でさえ、何だかわたしを祝福してくれているように感じる。
そんな感じでヒューイ君のうちについた。
おうちにに入りながら思う。
なんだかんだあったけど、このおうちの玄関をくぐるのは実は初めてだ。
以前プッツンしたときは、あろうことかヒューイ君の部屋の窓から侵入したような気がする。
不法侵入、さらに家主に対するごにょごにょ……と不穏な言葉が浮かぶが、あれは発情期の未成獣を閉じ込めておいたゆえの爆発として親からもヒューイ君本人からもセーフ判定を受けている。
……もちろんヒューイ君に馬乗りしたり、その後のことはもろアウトだろうけど。
「ミモザちゃんも元気になったばかりなのに、お見舞いに来てくれてありがとうね。ヒューイも喜ぶわ」
物思いにふけっているとおばさんが笑顔で出迎えてくれた。
そのままお茶とお菓子をすすめられたが、ヒューイ君の様子が気になっていたわたしは気の急くままにおばさんに聞いてみた。
「あぁ、そうだね、気になるよね。ヒューイの部屋はそこだから見てやって」
「いいんですか?」
人と会ってもきつくないくらいなのかな?
体調はどうなのかと聞こうとすると、なんだか微笑ましいものを見るようなおばさんの笑顔がまっていた。
「発情期なんだから、遠慮せずにいっといで!」
「あ、あはははははは……」
なんだろうね、この周りの大人たちの、積極的に二人きりにしてくれようとするこの気遣い。
それが発情期といわれればそうなんだろうけど、どうしても恥ずかしい。
わたしは顔が赤くなるのを隠すようにヒューイ君の部屋に飛び込んだ。
後ろでお母さんたちの「若いっていいわねぇ!」と笑いあう声は聞こえないふりをしといた。
うはぁ……。
後ろ手にドアをぱたんと閉める。
病人の部屋なためか、窓はカーテンが閉められていて部屋の中は薄暗い。
鼻が自然と部屋に漂うヒューイ君の匂いをかぎ分けて、つい深く吸い込んでしまう。
とたんに思い出すあのときのこと――――。
いかんいかん! 今日はお見舞いに来たんだ!
いや、今日じゃなくても二度とあんなことはしませんから!
誰に対する言い訳なのか、必死に心の中で唱えていると犬耳がヒューイ君の寝息をひろってピクピクと動いた。
バクバクいう心臓を落ち着かせるために深呼吸をしながらベッドに近づく。
お、落ち着け! 別にヒューイ君の匂いを胸いっぱい吸い込みたいから深呼吸してるわけじゃないんだ! 心臓静まれ! 尻尾も落ち着け!
そっとベッドを覗きこむと、額に濡れた布を乗せすーすーと寝息をかいて眠っているヒューイ君の顔があった。
無防備な寝顔に更に心臓が暴れ出す。
起きている時の顔も頼もしくって好きだけど、この無防備でちょっとあどけなくて、でも閉じた瞼がふるふると震えて寝息のたびにちょっと開かれる唇がとても色っぽくてたまんねぇ……。
思わずごくりと唾を飲み込み、その音で我に返った。
いけないいけない、わたしはお見舞いにきてるんだ! 決して寝こみをおそいに来たわけじゃないんだ!
頭をふるふると振って邪念を追い払う。
そしてクリーンな頭でもう一度ヒューイ君の顔を覗きこんだ。
う~~ん、可愛えぇ……。
こうやってよく見ると、あの小さい時の天使なヒューイ君の面影があるねぇ。
ヒューイ君が寝ているのをいいことに、まじまじとその顔を観察する。
やはり熱の影響か、顔が赤くてうっすら汗ばんでいる。
……なんていうの? こう、いつも頼りになる人がみせるたまに弱っている顔って、なんかそそられるものがあるっていうか……。
はぁ! いかんいかん!
はっと我に返り身体を起こす。
ヒューイ君の顔を夢中で覗きこんでいたためか、かなり覆いかぶさるような姿勢になっていた。
冷静になるためにヒューイ君の寝顔から目をそらし、ベッドの横の棚に水をはった洗面器のようなものが置かれているのを見つけた。
ヒューイ君の額の布に手をかけるとだいぶぬるくなっている。
ヒューイ君を起こさないように慎重に布を取ると、水につけてしぼってもう一度額の上に置き直した。
起こさなかったか注意深く寝顔を観察していると、なんだか顔がさっきより安らいだような気がする。
布を冷たくしたから気持ちよかったのかな。
ヒューイ君のために何かできたことが嬉しくって、心の中で喜んでいる時だった。
「……ん……、ミモザ……」
「ひえっ!?」
ヒューイ君が確かにわたしの名前を呼んだ。
再び暴れ出す心臓をなだめながらヒューイ君の顔をのぞきこむ。
だけど彼の瞼は閉じたままで、わたしが覗きこんでも反応を返さない。
そのまま息を殺して様子を見守っていると、またすーすーと規則正しい寝息が聞こえてきてほっと息を吐いた。
はぁ、寝言かぁ。起きたかと思ってびっくりしちゃった……。
そこでわたしの顔がぼっと熱くなる。
ね、寝言でわたしの名前を呼ぶってどういうこと!? わたしの夢を見てるってこと!?
慌ててヒューイ君の寝顔を観察するけど、彼がどんな夢を見ているかはさっぱりわからなかった。
うぅ、心臓がバクバクいって落ち着かない!
なんとか気を紛らわせようと額の布を触るが、さっき濡らしたばかりだからまだ冷たい。
他にできることはないだろうかときょろきょろと視線をさまよわせ、ボタンをいっこ開けたヒューイ君の胸元に目がとまった。
ふ、服を脱がせて身体の汗を拭きとるとか……。
いかん、いかん、いかん!
なまじっか前世のそういう知識があるためか、考えちゃいけないと思えば思うほどどんどん頭の中で妄想が広がっていく!
新人ナースが優しくなんちゃららとか、激しいうんちゃららで汗をかいて熱をさげちゃえ!とか、わたしのぶっといお注射でなんちゃららとか……。
いや、今のわたしにお注射はないっか。
ちょっと冷静になりその場で深呼吸した。
う~ん、服を脱がせて汗をふくのはないにしても、こんなに汗をかいたら喉が渇くだろうな……。
でも水を飲むために身体を起こすのも大変だろうし。
それなら、口移しで―――?。
ひぃえええええええ!!
頭を抱えてぶんぶんと激しく身をよじる。もちろんヒューイ君を起こさないように物音はたてない。
しばらくそうしていたら少しは落ち着いたような気がして、ヒューイ君のほうをそっと見る。
自然と目はヒューイ君の唇に吸い寄せられた。
息を吐くたびにうっすらと開く唇。
熱のためか唇は乾いていてかさかさしていた。
「…………」
息をころして枕もとに立つ。
震える手を伸ばし、ヒューイ君の乾いた唇をそっと指でなぞった。
吐息が指にかかる。
「…………」
胸に湧き上がるむずがゆい感触に流されるまま、何度も指先でゆっくりと唇をなぞる。
「……あ」
なぞる指に、乾いてめくれかけた唇の皮がかすかにひっかかった。
こんなに唇が渇いたままじゃ痛いだろう。
そう思った瞬間、顔を近づけてヒューイ君の唇をちろりと舐めていた。
めくれかけた唇の皮をふやかすように重点的にちろちろと舐める。
だいぶ皮が濡れて違和感がなくなったところで、全体に潤いを与えようと唇にゆっくりと舌を這わせる。
……ぴちゃ、……くちゅっ。
たまに湿った音が耳をくすぐり、どうしようもなく身体がかっと熱くなる。
あくまでキスじゃないから唇と唇は触れあわせない。
だけど舌で感じるヒューイ君の唇はやわらかくて、更に熱のせいか熱いくらい。
どのくらいそうしていたか。
ヒューイ君の口元がぴくっと震えたことで、いつの間にか舌先を、かすかに開いた口の中に入れようとしている自分に気が付いた。
ばっと身体を起こしてヒューイ君の顔を見る。
そこには、わたしが舐めまくったせいでぬらぬらと妖しく濡れているヒューイ君の唇があった。
さっとヒューイ君の目元に目をやると、彼の瞼はまだ閉じていてほっとする。
自分が何をしていたか思い出してぐわっと顔が熱くなった。
また、またしょうこりもなくヒューイ君を襲ってしまったのか!!
思わず口を押えれば、舌先と指先に生々しいヒューイ君の唇の感触がよみがえる。
「~~~~~っ!!」
ヒューイ君が眠っていたのならこれはノーカンだよね!!
本当にヒューイ君を起こさなかっただろうかとよくよく顔を観察すれば、目は閉じているものの、なんだか顔がさっきよりも赤くて息が微妙に乱れているような気がして―――。
完全に覚醒はしてないみたいだけど、なんらかの影響を与えてしまったのは明らかだった。
これ以上ここにいたら無垢な青少年を毒牙にかけかねんっ!!
わたしは慌ててヒューイ君の部屋を飛び出した。
激しくドアを閉めたせいか、部屋の中からガタガタっと大きな音がしたような気がするが今はそんなこと気にしてられない!
「あれ、ミモザちゃん? そんなに慌ててどうしたの……」
「ちょっと外の空気を吸いにいってきます!」
「え? あぁ、そう」
不思議そうにわたしを見る二人から熱い顔を隠しながら、わたしは玄関から外に飛び出した。
「っぷはぁ~~!!」
健全な日の光を浴びながら思い切り何度も深呼吸をする。
脳裏にちらっと、深呼吸をすることで胸に吸い込んでいたヒューイ君の部屋の空気が出て行ってしまうようで寂しいな、とか考えてしまった。
あぁ、いかんいかん。
一体自分は恋する乙女なのか、それとも健全な青少年を毒牙にかけようとする変態なのか……。
何度も考えた悩みがまた頭を支配する。またここに行きつくのか。
だけど一筋の光のように、お母さんの声がよみがえる。
『男の子の身体が気になったり触れてみたいと思ったりすることは発情期がはじまったばかりの女の子としては当たり前のことだから、なぁ~んにも恥ずかしがることも後ろめたく思うこともないからね!』
『俺は、目が覚めてからのミモザが好きなの』
『やっぱり男じゃないよ、めちゃくちゃ女の子らしいよ』
ヒューイ君の声がよみがえる。
そうだよね! こんなわたしをヒューイ君は好きって言ってくれたんだもんね!
ぐだぐだ悩んでたらヒューイ君に失礼だもんね!
そこでわたしはぐっと背伸びをして気持ちを入れ替えた。
ヒューイ君のおうちに戻ると、お母さんと話をしていたおばさんがわたしに気が付いた。
「せっかく来たんだからヒューイを起こせばよかったのに。ヒューイは眠ったままだったの?」
「あ、いえいえ。ヒューイ君のお見舞いに来ただけなんで」
慌てて出ていったわたしを不審に思ったのか、おばさんはヒューイ君の様子を見に行ったようだった。
眠っているのをいいことに好き勝手してしまいました、という言葉は笑顔の裏にしまいこむ。
だって発情期の女の子なら仕方ガナインダモンネ、ソウダヨネ。
「寝顔見てるだけで満足って? 若い子の発情期っていいわねぇ、私もそんな頃に戻りたいわ」
寝顔を見ているだけではアリマセンデシタガ……、という言葉は、二人で微笑みあうお母さんズに笑顔を返しながら飲み込む。
そうしてお母さんとおうちに帰り、ヒューイ君のお見舞いは終わった。
ヒューイ君のお部屋はどうやら魔境のようです。
またしばらくはヒューイ君にうちに通ってもらうとしましょう、そうしましょう。
最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました!