scene.3 Sweet bitter sweet time【中編】
何でこんなことになってるんだろう。
エレンは、目の前に並んだケーキと紅茶を見下ろして、溜息を吐いた。
テーブルを挟んで向かいの席には、何故かラッセルが腰を下ろしている。
男女がこうして差し向かいで食事するのを、世間ではデートと言うのかも知れない。が、そこは今現在エレンが居候させて貰っている、アレクシス=グレンヴィル宅のダイニングだから、正確に言えば違うだろう。
それに、肝心の恋人であるティオゲネスともまだまともにデートをしたことは一度もない。一度もない内に、彼には一方的に別れを告げられた。
それもエレンの、割と他愛ない一言が切っ掛けだった。
少し、ゴシップ好きの看護師達に揶揄われて、適当に躱すということができず、ついあんな言い方になってしまった。しかも、それを当の本人に聞かれていたのだ。
それでも、本心じゃないことくらい、ティオゲネスなら分かってくれると思っていたのに。
『今ならまだ、離れられるだろ。お互いに』
硬くて、冷たい声音。
少なくとも、自分には向けられたことのない種類の声だった。
あれから三日。
孤児院が閉鎖されるまでは、基本、学校に通って学ぶことは全て通信教育で学んでいたエレンには、いきなり医大受験はハードルが高過ぎた。なので、今エレンは、孤児院の閉鎖したこともあって、アレクシスの自宅に居候させて貰う形でメストルに移り住み、この春から医大志望者対象の予備校に通っている。
しかし、ティオゲネスに突然の別れを告げられてからは、出歩く気持ちにはなれなかった。出歩くどころか、授業を受ける気持ちにすらならない。そもそも、医大は他ならぬティオゲネスのサポートがしたくて志望したのだ。彼と離れるのなら、その勉強に意味など見いだせない。
諸々の意思喪失から、予備校は欠席し、自室として与えられた部屋で閉じ籠もって、泣き暮らしていた。そんな生活も三日程経った正に今日、アレクシスの留守中にラッセルが訪ねて来た、という次第である。
最初は、ドアの呼び鈴をしつこく鳴らされるのを無視していたら、携帯端末に通話着信があった。ラッセルからと分かり、取り敢えず応答すると、
『今、アレクの家のドアの前にいるんだ。十五分だけ待つから、急いで身支度して。十五分以上掛かるようなら、何かあったと判断して、着替え中でも踏み込むから』
という恐ろしい予告が耳に飛び込んで来た。
これまでティオゲネスと共に、散々事件に巻き込まれて来た筈だが、まだまだ修羅場慣れしていないエレンは、あっさり屈さざるを得なかった。
渋々起き上がって長袖のハイネックTシャツとスラックスの上下に着替えると、髪に櫛を通して洗面だけは丁寧にやった。最終的に十五分以上掛かってラッセルが踏み込んで来たとしても、恥ずかしくない順番で段取りした訳だが、その辺りは紳士な彼は、エレンが玄関を開けるまで本当に踏み込んで来ることはなかった。
どこかへ出掛けるのかと思っていたら、『できればここで話させて』とラッセルは上がり込んで来た。
『レディーと密室で二人っきりなんてマナー違反だけど、今は非常時だからな』
と付け加えた彼は、手に携えていた箱を掲げた。
メストルに出て来てから見つけた、エレンのお気に入りのケーキ店のロゴが入っていた。恐らく、アレクシスから聞いたのだろう。
そうして今、グレンヴィル家のダイニングで、エレンが淹れた紅茶と共に、二人の前にケーキが鎮座している。
「……さて、と。何から話すかな」
ティーカップに口を付けながら、ラッセルが独白のように言う。
「エレンちゃんとティオの間に何かあったらしいってのは、アレクから簡単に聞いてる。だから、今日ここに来たんだ」
でしょうね、と脳内でだけ応じて、エレンは目を伏せる。
何故アレクシスは、何でもかんでもラッセルに報告するのだろう。いや、いい加減自分も、“アレクシスに話したらラッセルまで”というのは学習しなければならないのかも知れないが。
「断っとくケド、アレクが何でもかんでもおれに話す、とか思ってるなら大間違いだぞ」
すると、まるで思考を読んだかのようなタイミングで言われて、エレンは肩を竦めた。
「ただ、今回のケースの場合、アイツの気持ちはアレクよりもおれの方が理解できるだろうって判断の下におれに伝わっただけだ。こういうことはそうしょっちゅうある訳じゃねぇから、今回だけ大目に見てやってくれ」
申し訳なさそうに眉尻を下げられると、エレンとしても文句が言えなくなる。
納得したと見たのか、ラッセルはフォークを取り上げて、自分用に買ったであろうチーズケーキを一口大にカットした。
「で、単刀直入に言うけど」
それを口に突っ込みながら、ラッセルが続ける。
「別れようってな、アイツの本心じゃねぇよ」
「……嘘」
今日、ラッセルと顔を合わせてから、殆ど初めて口から出た声は、みっともない程に掠れていた。だが、彼はちゃんと聞き取ってくれたらしい。
「どうしてそう思う?」
と、やはり困ったような微笑で問われる。
「だって……」
落とした視線の先には、ケーキではなく、膝の上で握った拳があった。
「言われて……ないんだもん。ティオには」
珍しく、駄々っ子のような口調になってしまうが、仕方ない。今日は、年上への礼儀や、聞く者への気遣いをする余裕がなかった。
「何を」
しかし、ラッセルは気にした様子もなく、先を促す。
それに背を押される形で、エレンはこれまでのティオゲネスへの不満を吐露した。
「好きって言われてない。そりゃ……は、した、ケド」
“キス”とははっきり言えずにぼかしたが、それもラッセルは察してくれたらしい。
「言えねぇだろうなぁ、態度では示せても」
「どうして!」
苦笑混じりに言うラッセルに、エレンは遂に憤慨を爆発させた。
「あたしには言わせたクセに、自分は言わずに済まそうだなんて、ズルくないですか!?」
すると、再度苦笑を挟んだラッセルは、肩を竦める。
「まあ、男は大抵そんなモンかも知れないな。勿論、言ってくれる奴もいるかも知れないケド……アイツ……ティオに限って言うなら、口には出せないんだろうよ」
「だから、どうして!?」
「負い目があるから」
「……負い目?」
意外な単語が出て来て、エレンは眉根を寄せた。
ティオゲネスが、エレンに負い目を感じるような出来事があったかと頭を巡らせるが、思い当たらない。
「エレンちゃん限定ならあの学園の一件かも知れねぇな。おれも、その辺アイツに直に聞いてないから分からないけど、おれの言ってる“負い目”ってのはそういうんじゃなくて」
一度言葉を切って、また紅茶を一口含む。それを飲み下してから、ラッセルは再び口を開いた。
「……エレンちゃんは、人を殺すっていうのがどういうコトか分かるか?」
「え?」
またも意外な方向の問いが彼の口から飛び出し、エレンは目を瞬く。
「どういうって……いけないコトって言うか、許されないコトって言うか……」
質問の意図が分からなかったが、とにかく自分の持論を曖昧に述べると、ラッセルも何とも表現し難い表情で頷いた。
「うん、そうだな。一般的には絶対駄目なコトだ。じゃあ例えば、身を守る為に結果的に人の命を奪ってしまった。こういう場合はどうだ?」
「それは……」
言われて、エレンは考え込んでしまった。
もし、自分が殺されそうになって抵抗する内に、逆に相手を死なせてしまったとしたら。
「ケースバイケース……?」
一口に言って、“許せる”かどうかは分からないが、第三者的には不可抗力ということになるのだろうか。
エレンが考えたケースの場合、結果的に命を失う羽目になった方が、襲い掛かって来たという事実に責任がないとは言えない。
「まあ、人によって判断基準とか答えはそれぞれ、だとは思うけどな。……エレンちゃん、ティオの過去の話って、どの範囲で知ってる?」
「え、ええと……アレクさんに話して貰った限りで……」
幼い頃、組織のスカウトマンに拾われて、人殺しを教育・強要されながら育ったこと、くらいしか正直言ってエレンが知ることはない。
そう口に乗せると、ラッセルは琥珀の瞳に真摯な色を浮かべた。
「今から話すコトについてだけど、おれから聞いたってコト、ティオに言わないって約束できるか?」
「え?」
エレンは、何度目かで目を瞬く。
「あ、あの……」
そんなことは、聞いてみなければ何とも言えない。仮に約束したとしても、万が一話題に上ったとき、トボケ切れるかどうか、エレンには自信がなかった。
それが伝わったのだろう。ラッセルは苦笑混じりにまた肩を竦めた。
「悪い。じゃあ、言い方を変えるか。話題に上らない限り、君からはアイツに絶対言わないでくれ。これなら守れるだろ?」
「あ、はい」
話題に上ったらシラを切り通す自信はないが、話題にせずに黙っていることくらいはどうにかなりそうだ。
その意を込めて、小さく頷く。
それを受けたラッセルの口から語られたのは、五年程前――ティオゲネスがマルタン教会付属孤児院へ引き取られる前にあった、ある事件の話だった。
ティオゲネスが、ある一般家庭へ強く養子として望まれたこと。
彼本人は固辞していたにも関わらず、結局トライアルを受ける運びになったこと。その道中、あのディンガーと船で乗り合わせ、人身売買事件に巻き込まれたこと。
抵抗する内に、その一般家庭の息子がティオゲネスの撃った流れ弾に当たり、今も意識不明でいること――
そこまで話すと、ラッセルは一度口を噤んだ。
エレンも、何も言えなかった。
重い――重い、過去。
アレクシスに聞いた時もそう思ったが、今聞いた話は、エレンの想像をまた遙かに越えていた。ティオゲネスが、そのことをどう受け止め、どう乗り越えたかなど、分かる訳もない。
意識不明になった少年の家族が、ティオゲネスに対して抱いた感情は想像に難くないが、エレンとしてはどうしてもティオゲネスを庇護したくなる。
彼は悪くない。悪いのは人身売買組織だ、と叫びたくなる。でも、簡単に叫んでいいのかも、今のエレンには判断できなかった。
先刻とは別の意味で拳を握った時、カチャン、という音を立ててラッセルがソーサーからカップを取り上げた。
「……あの一件について、アイツの方から触れたコトはなかったんだ」
ノロノロと上げた視線の先に、ラッセルが紅茶を口に含むのが見える。
「君が重傷を負ったあの、聖マグダ・ルーナ女学院の事件まではね」
「……あたし?」
「うん。それまでにもアイツはちょっと、今みたいな態度でいたコトがあった。何て言うか、……そうだな。最初に組織から助けられたコトを素直に喜んでないっていうか、それ自体を遠慮してる、みたいな」
「ラスさんは……聞いていないんですか、その理由を」
「ああ。ティオ個人の組織時代のコトはおれも詳しくは知らないんだ。アイツに限らず、あそこにいたガキ一人一人の話を聞く機会はなかったし、簡単には話せないだろうしな」
「そう……ですか」
ラッセルには、何でも話すのだと思っていたから、少し意外だった。
エレンがそう思ったのに気付いているのかいないのか、ラッセルはティーカップに視線を落として言葉を継ぐ。
「でも、基本的に組織時代のコトは意識して考えないようにしてたんだろうな。君が重傷を負うまで、アイツは目の前にある事態から、どうやって生き延びるかを中心に考えてた。殆ど自己中だな、言い方が悪いけど」
「はあ」
「でも、君が生死の境を彷徨うのを目の当たりにしたコトで、アイツの中で何かが変わった。……いや、変わったのかそれとも、アイツ自身見ないようにしてたコトに目を向けざるを得なかっただけなのかは、おれにも分からないケド」
ラッセルは、言葉の合間に何度目かで紅茶を口に含むと、いつの間にか伏せていた目を上げる。
「エレンちゃん」
「はい」
「できれば、アイツから手を離さないでやってくれるか」
「え?」
それは一体、どういう意味だろう。説明を求めるように見つめ返すと、ラッセルの琥珀色の瞳と視線が噛み合う。
「あれ以来アイツ、自分は幸せになっちゃいけないって、変なブレーキ掛けちまってるんじゃねぇかと思うんだ。ま、おれ個人の勝手な勘だけど」
「幸せになっちゃいけない……?」
「そう。おれ的には、分からんじゃねぇけどな。例えば笑ったり、好きな人と手を繋いだり抱き合ったり、そういう一般人なら普通にするコト、しちゃいけないと思ってるみてぇなんだ。心のどっかでな」
「そんなコト」
していけない筈がない。何故、ティオゲネスがそんなに自身を追い詰める必要があるのだろう。
「そこが、エレンちゃんには分からないところさ。厳しい言い方だけどな」
「どういう意味ですか」
「君は人を殺したコトがないから、分からないだろう。この手が血で汚れてるってたまに錯覚したり、フラッシュ・バックがあったり……その度に現実を突き付けられる。自分は血塗れの犯罪者だ、ってな」
そんなことない、ともう一度言おうとして、ふと気付く。
(――フラッシュ・バックって)
もしかして、たまにティオゲネスがうなされたり、挙げ句に戻したりしてひどく不安定になっていたのは、それが原因だったのだろうか。
それに。
「ラスさんも……もしかして」
「何だ。意外に鋭いな」
目の前の彼が浮かべた自嘲めいた微笑は、時折ティオゲネスの浮かべるそれとよく似ていた。
「お察しの通りだ。おれもガキの頃は北の大陸の北部でストリート・チルドレンやってた時期がある。生きる為には何でもやるしかなかった。それこそ盗みやら詐欺やら麻薬の売買、人身売買から人殺しまでね」
サラリと凄い経歴が列挙されたが、そう“サラリ”と言えるようになるまでに、ラッセルも葛藤があったに違いない。それこそ、エレンには想像も付かないけれど。
「だから、好きな相手にも素直にそう言うのを躊躇う気持ちは、アレクよりも君よりも、多分おれが一番理解できる。アイツとおれは同類だからな。相手に求められてそういう関係になったとしても、いつも頭の隅にあるんだ。血に染まった手の自分よりも、相手を幸せにできる人間がいるんじゃないかってね」
「そんなの……おかしいです」
「何がだい?」
「だって……あたしの幸せはあたしが決めることよ。なのに、何でアイツに決められなくちゃならないの」
「……それはアイツに直接言ってやってくれないか」
クス、と漏れたラッセルの苦笑は、やはり自嘲めいていた。
「外からいくら言われても、そういうコトは結局本人の気持ちの問題なんだよ。だから、君が手を離さないでやってくれって言ったんだ。勿論、君が他の男に心変わりするコトがあったら、強要する気はないけど」
カチン、と彼がケーキにフォークを入れる音が、合いの手のように響く。
「君の手を強く握っていたくても、意思を通せない。抱き締めていたくても、どこかで躊躇う。そういうコトはこれからもあるだろう。だから、君が離さずにいてやって欲しい」
自身で言ったことを噛み締めるように、ラッセルは口に入れたケーキの欠片を咀嚼した。
そんな彼を見つめながら、エレンはポツリと呟く。
「一つ……訊いてもいいですか」
「うん?」
「本当に、あたしがティオの傍にいていいんですか?」
「勿論。どうしてだい?」
「だって……何か時々ラスさんてあたしにキツいから。嫌われてるんだと思ってたのに」
すると、瞬時目を瞠った後、ラッセルは軽く吹き出した。
「ッ……た、確かに。それはあるよ。別に嫌ってる訳じゃないけど、時々苛付くんだ。大人げないけどね」
君ホントたまに鋭いよな、と挟んでラッセルは言葉を継ぐ。
「苛付く……って言うより、羨ましいんだろうな。多分、ティオも同じだと思うけど」
「羨ましい?」
「そう。君は、世界の汚れなんか何にも知らない場所で育って、清廉潔白で、何の迷いもなく正論を口にできる。そのコトがね。苛立つコトもあるけど、羨ましいんだ。だからこそ、アイツは君に惹かれたんだろうよ」
そう言われても、エレンにはよく分からなかった。
何がどうあろうと、今のティオゲネスは何度もエレンを助けてくれたし、犯罪者などでは決してない。
他の犯罪や、それに付随する事柄など、勿論エレンは知らない。けれど、ティオゲネスのことに限って言えば、過去のことはやり直せないのだから、彼が未来に向けて気持ちを切り替えていけないことなどないと思う。そう考えるのが、当たり前ではないのか。
「分からないって顔してるな」
すると、またしても図星を指されて、エレンは「はあ」と吐息とも返事とも付かない声を出す。
「まあ、君はそのままで良いと思うぜ。おれがどう思おうと、アイツがどう言おうとな」
そうなんだろうか。
本当に、ティオゲネスは今もエレンを思ってくれているんだろうか。もし、あの時彼が言ったことが本心でないのなら、今度こそその手を離したりしないのに。
だけど。
『俺はいつでも別れていいんだぜ』
冷たく響いた声が、脳裏に蘇る。
「でも……ティオは終わりにしようって」
膝の上で、キュッと手を握り締める。ややあって、往生際悪く俯いたエレンの視界の外で、静かにフォークと皿のぶつかる音が落ちた。
「なら、確かめに行くか」
本人に訊いた方が手っ取り早い。
そう言うなり、ラッセルは立ち上がった。




