scene.2 Sweet bitter sweet time【前編】
「あら、エレンちゃん。今日もティオ君のお見舞い?」
「はい」
十ヶ月も相手が入院していれば、見舞いに訪れる方もすっかり看護師や医師とは顔馴染みだ。
だが、見舞いと言っても、特に何か携えている訳ではない。
最初の頃こそ、花だの菓子だのを持って来ていたが、何しろ入院期間とそれに伴う見舞いの頻度が普通の患者とは段違いだ。毎日持って来ていては、いい加減花屋兼カフェが開けそうな勢いになったので、いつの頃からか止めたのだ。
「マメよねぇ」
そう言ったのは、先刻、ティオゲネスの見舞いかと訊ねた看護師とは別の看護師だ。確か、ヴァンナ=リージと言っただろうか。
「ねぇ、エレンちゃんて、もしかしてティオゲネス君の恋人なの?」
「こっ!」
体中の熱が頬に集まったかのように、エレンは一気に赤面した。
「こっ、恋人だなんてそんなっっ」
「あらぁ、だって、殆ど毎日お見舞いに来てるし、それに仲良さそうだし」
「そうそう。ナースステーションでも噂になってるのよねー」
ヴァンナの尻馬に乗ったのは、ドミニカ=プロシュコヴァー看護師だ。
ちなみに、今日最初にエレンと挨拶したのは、マヌエリタ=セサルと言って、エレンから見れば母親と言っていい年頃の、看護師長を勤める女性である。
「たっ、単なる幼なじみですって!」
そりゃ、好きとは言ったし、キス……だってしたし。
そうは思っても、エレンの思考はいつもそこで停止してしまう。
(……だって、まだティオからちゃんと言われてないもの)
とは言え、ティオゲネス自身が言ったように、彼は好きでもない相手に簡単にキスできる程、器用な性格ではない。それは、それこそ今まで一緒に過ごして来たエレンが一番よく分かっている――つもり、なのだが。
(幼なじみって言っても、よく考えたら知り合ったの、三年前だもんなぁ)
ああ、違う。もう四年になるのだ。
病院にいる間に、ティオゲネスは十六の誕生日を迎えた。ちなみに、エレンは今年頭の二月に、十八になったばかりだが、マルタン教会の付属孤児院が急に閉鎖されたことで、予定より早く孤児院を卒業する羽目になった。
今は、臨時措置としてアレクシスの自宅にそのまま転がり込んでいる。
いつの間にか思索に耽っていたエレンは、周囲の看護師達の存在を忘れていた。が、ゴシップ好きの看護師達の追及はまだ終わっていなかったことに気付いたのは、そっと溜息を吐いた直後だ。
「単なる幼なじみにしては、ヤるコトはヤってるじゃない」
「やっ、ヤるコトって!?」
思わず声が引っ繰り返る。
エレンの方で思い当たる“ヤってるコト”なんて一つしかない。
次はちゃんと好きだと言うまでしないと宣言したにも関わらず、あれからティオゲネスはタガが外れたように、隙さえあれば唇を奪いに来る。拒んでもかなりな確率で無駄な抵抗に終わるので、最近ではエレンも諦め気味だった。もっとも、こちらが本気で拒めば、無理強いする少年ではないから、エレン自身も満更ではないのかも知れないが。
そこらの少女など、裸足で逃げ出す程の美貌のクセに(とうっかり言葉にすればまた何をされるか分からないので、言わないけれど)、どこでああいうことを覚えたのか。抱き締められて、唇を溶かされると、見た目とは違ってしっかり少年なのだと認識せざるを得ない。
ともかく、彼がそういうことを仕掛けて来るのは、勿論、病室でだけだ。廊下やら屋上やらでは人目があることは、ティオゲネスも承知している筈だし、流石に人前ではエレンも拒むだろう。
「まーたまた、トボケちゃってぇ」
「トボケるも何も、声裏返ってるわよ。自白したも同然ね」
更に熱が上昇したように顔を赤らめているエレンを囲んで、看護師達は益々盛り上がっていく。
「自白を待つまでもないわよ。あたし、見たコトあるもん。エレンちゃんとあのティオゲネス君が――」
「へぇ? 随分、面白そうな話してんな」
冷えた声が投げ込まれたのは、次の瞬間だった。
***
(まーだ、筋肉が戻ってねぇよなぁ)
脳裏でぼやきながら、ティオゲネスは最早自室と化した五〇八号室へと歩いていた。
その着衣はもう普段着で(と言っても、無地のTシャツと、綿織りのボトムの上下といったラフな格好だが)、左腕も吊っていない。
ラティマー神父が見舞いに訪れた日から程なく、ようやく動かす許可が下りたのだ。彼に言ったことも、あながち外れてはいなかったことになる。
主治医の診断によれば、移植した肉と人工骨がやっと定着したらしい。
『但し、もう一度同じトコ同じように怪我したら、もう腕がなくなると思いなさいね』
語尾にハートマークでも付いていそうな楽しげな口調と、満面の笑顔で告げた主治医の目だけは笑っていなかった。
言われるまでもなく、ティオゲネスとて同じドジを踏むつもりは更々ない。が、言葉の内容と相俟って、背筋が冷えたのは記憶に新しいところだ。
ともあれ、晴れて全身のリハビリに専念できるようになって早数日経つのに、今一つ調子が上がらないような気がしている。
それまでぼんやりしていた訳ではなく、左腕以外のリハビリはしていたし、筋力もそこそこ戻ったと思っていた。しかし、銃を撃つ時の感覚が、どうもしっくり来ない。
この総合病院は、CUIO管轄下で、犯罪者だけでなく、任務の過程で傷を負った刑事達の収容施設もある。
ティオゲネスは、CUIO職員用のリハビリ施設でリハビリを行っており、ラッセルのツテで、併設されている射撃施設も使わせて貰っている。
ついさっきまで、腕が痺れる寸前まで撃ちまくっていたのだが、納得いかない内にドクターストップを掛けられてしまい、渋々引き上げて来た。
(問題は足か?)
思うよりもまだ踏ん張りが利かないのか、照準が十発中五、六発はブレる。つまりほぼ二分の一の確率だと気付いて、ティオゲネスは苦笑した。
組織時代なら、銃を撃つのをまだ強要された上、食事抜きになるところだ。
(歩くだけなら問題ねぇのになぁ……)
五十メートルのタイムも、まだ七秒が切れない。
今回の怪我をする前のタイムは正確に計ったことはないが、もう少し早く走れた筈だ。でなければ、生き残って来られなかった。
苛立ったように地面を蹴り付けた時、耳に飛び込んで来たのは、何やらかしましい話し声だった。
「こっ、恋人だなんてそんなっっ」
耳慣れた声に顔を上げると、五〇八号室の数メートル手前で、真っ赤になったエレンが看護師に囲まれているのが見えた。
「あらぁ、だって、殆ど毎日お見舞いに来てるし、それに仲良さそうだし」
「そうそう。ナースステーションでも噂になってるのよねー」
エレンの周囲にいるのは、ティオゲネスも顔なじみの看護師だ。幸か不幸か、彼女達はティオゲネスの担当看護師ではないが、あまり好ましい類の人種ではない。なので、院内で顔を合わせても会釈する程度だった。
エレンがどう思っているかは分からないが、たとえ好ましくないと思っていたとしても、上手にあしらえないのがエレンという少女だ。どんな人間相手でも、律儀に話を聞いて、正面から受け止めてしまうところがあるのは、ティオゲネスもよく知っている。
そんな彼女だからこそ惹かれた、と思うと複雑ではあるが。
(……にしても、何の話してんだか)
好ましからざる人種がいようと、特別避けようとも思わなかった為、ティオゲネスはそのまま歩を進めた。
集団を追い越し様、エレンだけ救出するつもりで。だが、次のエレンの台詞が、ティオゲネスの足を止めた。
「たっ、単なる幼なじみですってば!」
それが誰を指すのかは、そこまでの看護師達の言葉で、何となく察しが付いたからだ。
照れ隠しなのか、それとも本気なのか。
彼女自身の口からその気持ちを確かめたからこそ、今はティオゲネスも彼女に遠慮するということはして来なかった。けれども、もし本当に“単なる幼なじみ”としか思われていないのだとしたら。
(……ヘコむケド、いい機会かもな)
ふと、そんなことが頭を過ぎる。
本当は、いつもどこかにその思いはあった。
何が真に彼女の幸せか、くらい、過ぎるくらいに自覚している。もし、彼女が自分に愛想を尽かしたら、いつでも手を離す覚悟だってしていた。
けれど。
「自白を待つまでもないわよ。あたし、見たコトあるもん。エレンちゃんとあのティオゲネス君が――」
という一言が、看護師の一人から漏れるに至って、殊勝な考えは早々に吹き飛んだ。
「……へぇ? 随分、面白そうな話してんな」
自分でも思わずゾッとするような、冷たい声が出た。
そんな調子だったから、実際声を掛けられた看護師達は言うに及ばずだ。
エレンまで一緒になって、弾かれたようにこちらを向いた時の滑稽さと言ったらなかった。
「最後まで聞かせろよ。エレンと俺が――何だって?」
嫣然と笑みを浮かべて見せながら、無造作に看護師達の輪の中に足を踏み入れると、さり気なくエレンを庇うように看護師達との間に立つ。
「い、いえ、あの……」
「あのさぁ。まさかと思うけど、ここの看護師ってそんなに患者のプライバシーに配慮がないワケ?」
「え、ええと」
明らかに年下のティオゲネス相手なのに、看護師達はすっかりしどろもどろだ。
しかし、それも当然だろう。ティオゲネスは十歳になるやならずの内に、あの『犯罪大陸』の激戦地に放り込まれたこともあるくらいで、彼女らとは踏んだ修羅場の桁が違う。本気で威圧すれば、看護師のみならず、一般の人間はその美貌も相俟って高確率で竦み上がってしまう。すっかり、蛇に睨まれた蛙だ。
それを自覚していてさえ、ティオゲネスは容赦ない。
「なあ、エレン。携帯、持ってるだろ?」
「え、あ、うん」
肩越しに振り返りながら言うと、エレンは素直に頷いて自身の端末を差し出した。無言でそれを操作して、耳に当てる。
「――あ、ラス? 今ちょっといいか?」
その名を出すだけで、看護師達がギョッと目を剥いた。
ティオゲネスが、ラッセルと懇意にしているのは周知だ。そのラッセルが、どういう社会的身分の人間かも。
目に見えてオタ付き始めた看護師達に向かって、意地の悪い笑みを浮かべながら、ティオゲネスは続ける。
「実はさぁ、病棟そっちに変えて欲しいんだよね。……え? だってさぁ、何かこっち、ゴシップ好きの看護師さんばっかなんだもんよー。そりゃ、俺だってドア開けっぱでイチャ付いたのは反省するけどさぁ、惚れた女と二人っきりになる時ってドア開けっぱにしとくの、基本じゃん? ……んー、気を付けちゃいたんだけどさぁ。プロだったら見ぬ振りすんのも仕事の内だって信じてたんだけどよ。あーあ、俺、益々人間不信ぶり返しそー……」
チラチラと看護師達の方を流し目で見ながら、わざと大声で言えば、看護師達はそそくさと退散していった。
その後ろ姿に、思い切り舌を出しながら、端末をエレンに返す。
「ちょっ、ちょっとティオ」
反射で端末を受け取りながら、慌てたように見上げてくる彼女に、「あ?」とチンピラのような口調で返す。
「いいの?」
「何が」
「だ、だって……病室変えるところまでラスさんに頼っちゃって」
どうやら彼女も、本当にラッセルと通話していると思い込んでいたようだ。
今度は小さく苦笑すると、無言で彼女の手を引いて、病室へ歩を進める。
病室へ辿り着くと、ティオゲネスは半分程扉を閉じたが、半分はやはり開けておいた。何が信用できないと言って、今は自分の理性が一番宛にならない。
若干普通とは程遠い環境で幼少期を過ごしたものの、色恋に関してはティオゲネスも年頃の少年だ。彼女と、人目を気にしなくていい密室で二人きりになって、それこそ何分――いや、何秒持つことか。
「ティオ?」
訝しげに首を傾げる様まで可愛らしく見えて、覚えた眩暈はどうにか無視した。
「……別に、本当に電話したワケじゃねぇよ」
「え」
「通話履歴、調べてみ?」
言われて、彼女は端末を操作する。
エレンは、ついこないだまで片田舎に引っ込んでいたが、今はメストル・シティの近郊で、アレクシスの家に居候している。最近、ようやくハイテク機器にも慣れて来たらしい。
ティオゲネスの常識に照らすと確かに鈍いが、決して頭の悪い少女ではないのだ。
やがて、一番新しい通話履歴がラッセルのものでないのを確認したのか、エレンは呆気に取られたような表情でティオゲネスに視線を戻した。
「じゃ、じゃあ、今のって」
「そ、あいつら追っ払う為の芝居だよ」
ティオゲネスは、再度『べっ』と舌を出す。
むう、と唇の端を下げると、エレンは提げていたポシェットに、端末をしまい込んだ。
苦笑と共にそれを見ながら、「ところでさ」と話題を転じた。
「何?」
「さっき言ってたコトだけど、あれって本心か?」
「あれ?」
キョトンと目を瞠ったエレンが首を傾げる。
「俺が、“ただの幼なじみ”だって」
***
どこから聞かれていたのだろう。
そんなこと、勿論本心ではない。エレンからしてみれば、気持ちが分からないのは、寧ろティオゲネスの方だ。だのに。
「もし、本当にそう思ってるなら、いい機会だ。俺はいつでも別れて構わないんだぜ」
肩を竦めた彼は、踵を返してベッドへ歩む。
「ちょっと……待ってよ」
エレンは焦った。
「そんなこと……本気で?」
違うと言って欲しい。ほんの少し、拗ねてみただけだと。
しかし、ティオゲネスは無情にもそれを肯定した。
「ああ。今ならまだ離れられるだろ。お互いに」
「ひどい……」
無意識に呟いていた。
「ティオは……そんなに、いい加減な気持ちだったの?」
振り返らない彼の背中に、言葉を咀嚼する余裕もなく、考えたままを吐き出していく。
「そんな、軽い気持ちで……いつでも別れられるくらい気持ちが薄くても機嫌取りみたいに付き合えるの?」
誰にでも――キス、できるの?
そこまで踏み込んでみたかったが、流石に口にはできなかった。だが、縋るように見つめた彼の背中は、微動だにしない。
「……分かった」
自己完結的に落ちた声は、意識するよりずっと低い。
「もう、知らない。勝手にすれば」
自分でも駄々っ子のように聞こえる捨て台詞と共に、エレンは病室を後にした。




