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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.5―Hospital―
60/72

Hospital.6 それぞれの闘い【後編】

 ガクン、という振動と共に、突如エレベーターが停止した。

「えっ?」

 エレンは、周囲を見回しながら、そろそろと立ち上がる。

 目標の階へ辿り着いたのなら、自然に扉は開く筈だ。しかし、その気配はない。

 すぐ傍にあった、車椅子用の操作盤で、『OPEN』のボタンを押してみるが、それも効果はなかった。

「ティオ」

 ティオゲネスの顔を覗き込むと、滅多なことでは表情を崩さない彼も、珍しく顔を顰めている。

「ったく……誰だよ。ここの様子は見えてんだろ」

 上を仰ぎ見ながら、ティオゲネスは誰にともなく声を掛けた。

 今時、街中のどこにでも監視カメラがあるのは知っている。けれども、何故そういう発想になるのか、エレンには皆目見当も付かなかった。

『バレたか。久し振りだな、アッシュ』

「アッシュ?」

 ティオゲネスの呼び掛けに応えるように、すぐに聞こえたその声に、エレンは首を傾げる。

 確か、セシリアも以前、彼をそう呼んでいた。

 “アッシュ”。それは、一体、何を意味する名なのか。

「バレたか、じゃねぇよ。これだけ騒ぎ起こしといて、いきなりエレベーターが止まるわドアは開かないわじゃ、騒動と関係ないと思う方がどうかしてるぜ」

 正にそう思っていた所だったエレンは、恥ずかしくなって俯いた。

「あんた……まさかと思うけど、ディンガーか?」

『ほう? 相変わらず耳はいいみたいだな』

「そっちこそ。どんだけ保釈金積んでシャバに出て来たんだよ」

『さてな。お前には関係ない』

「あるさ。こうやってあんたの罠にまんまと引っかかって、箱ん中とは言え宙吊りになってんだ。世間話に付き合って貰ったって罰は当たらないだろ」

 ティオゲネスが、どこか優雅な動きで、顎先に左手を添える。その手を吊る布がない為、まだまともに動かせない筈の腕だとは信じ難い、滑らかな動きだ。

『口の減らんのも相変わらずだな。いいだろう。もう一度だけ機会をやる。アッシュ、おれの元へ来い』

「嫌だね」

 この状況で、〇・一秒で拒絶を切り返すティオゲネスこそ、どうかしている。そうは思うが、口に出す度胸は、エレンにはない。

『よく考えた方がいいんじゃないか? お前、もうちょっと、頭は良かった筈だがな』

「買い被りもいいトコなんじゃねーの? 俺はいつでもやりたいように生きてたぜ」

 ふん、と鼻先で笑って退ける彼に、内心ハラハラする。見せ掛けだけでも相手に従っておいた方がいいのではないだろうか。とは思うが、こういった駆け引きにはとんと縁がない場所で育ったエレンは、ティオゲネスに全てを預けるより他にない。

『分かった。じゃあ、これはどうだ?』

 男が言うなり、グン、と身体が下に引っ張られる感覚が襲って、エレンは思わず悲鳴を上げた。


***


 繋いだままの通信機から、エレンの悲鳴が聞こえて、ラッセルは瞠目した。

 けれど、相手の安否を確認する為に、声を上げることはできない。

 ラッセルは今現在、二階の通路へ通じる踊り場付近にいた。

 姿を隠した状態から、可能な限り首を伸ばして辺りを伺う。診療時間中の総合病院とは思えない程に、周辺はシンと静まり返っていた。

 左右に伸びた廊下の壁側がどうなっているのかは分からない。

 空間が広がる場所は、ラッセルから見て死角になっている。

(やっぱり、この階のエレベーターホールから調べるっきゃねぇか)

 すう、と一つ深呼吸して、周囲の気配を探る。

 CUIOに就職はしたものの、西の大陸(ギゼレ・エレ・マグリブ)勤務になって、久しくこんな緊迫した場面に遭遇したことはなかった。北の大陸(ユスティディア)の北部育ちと言っても、修羅場らしい修羅場には、ティオゲネスと比べるとかなりブランクがある。

(アイツにはああ言ったけど、ちょっとヤバいかもな)

 怪我をして動きがままならないとは言え、これではあの少年の方がまだ宛になりそうだ。

 正しく、エレメンタリー・スクールに通う生徒が道路を横断する時のように、右を見て、左を見る。

(――で、もう一度右見たら、車が来てたりして渡れないってパターンあるよなー)

 脳裏で冗談めかして呟きながら、右に視線を向けた瞬間、視界に飛び込んで来たのは黒光りする銃口だった。


***


「きゃあぁああ!!」

 エレンの悲鳴と共に、エレベーターが勢いよく上昇していく。普通の運行状況では、まず有り得ないスピードだ。

 舌打ちしながら、しゃがみ込んだエレンの背に手を添える。碌々力の入らない左手では、本当にただ“添えている”だけだったが、気持ちの問題だ。

 見上げるともなしに見上げた、現在位置を示すランプが、これまた有り得ない速度で次々と変わっていく。

(あのヤロウ、何やらかす気だ!?)

 無意識に歯を食い縛った直後、上昇が止まった。正に急ブレーキで、一瞬身体が浮いたような錯覚に陥る。階を確認すると、最上階の八階だ。

 エレンの方へ視線を落とすと、彼女はまだ小刻みに震えていた。

『もう一度言うぞ』

 ディンガーの声がスピーカーから響いて、ティオゲネスは声のした方へ視線を戻す。

『おれと一緒に来い、アッシュ。お前がどうしても必要だ』

「……断る、と言ったら?」

 慎重に答えを口に乗せると、『仕方ないな』と返ってくる。だが、諦めた訳はないのは明白だ。

『残念だが、その箱を下までノンストップで落とす。どういう意味かは、分かるだろう』

「へえ? “どーしても必要な俺”を、ぺしゃんこにしようって訳だ。ってコトは、その必要具合も疑わしいな」

 クス、と嘲るように笑うと、『調子に乗るなよ』と腹の底を殴り付けるような、ドスの利いた声が言う。

『おれが、そのお嬢さんだけ降ろしてやるような、親切な男だと思うか?』

 ティオゲネスは、表面上は無表情を貫きながらも、内心で舌打ちする。

 やはり、ラッセルの言う通り、エレンは病室へ置いて来るのだったか――だが、一瞬脳裏を過ぎった考えは、即座に打ち消した。

 そうしたが為に、先の騒動ではひどく苦労したのだ。たまたまエレンは生き残ったが、教会の仲間達はもういない。

(……コイツまで死なせて堪るか)

 ギリ、と奥歯を噛み締める。けれども、この状況では妙案はない。やれることがあるとしたら、カメラを撃ち抜くくらいだろうか。向こうの目隠しをして、この扉を開ける時間稼ぎが果たしてどのくらいできるか――

「降ろしてくれなくて結構よ!」

 その時、不意に下から声が挙がって、ティオゲネスは目を剥いた。

「は?」

 思わず出た、間抜けな声と共に視線を下げる。その先にいたエレンは、やはりへたり込んだまま、天井を睨み据えていた。

『……ほう? どういう意味かな、お嬢さん』

 ディンガーの方も、明らかに瞬時呆気に取られたと思える間の後、エレンに向かって問い掛ける。

「ノンストップで落とすっていうのが何を言ってるのかは、正直あたしにはさっぱり分からないわ。でも、ティオの言い方からすると、多分殺すってコトよね。そうでしょ? ミスター」

『まあ、手っ取り早く言えばその通りだが?』

「つまり、あなたが言いたいのは、ティオがあなたの言うコトを聞かなきゃ、あたしを殺すってそういうコトだと思うんだけど、間違ってる?」

『……何だ。意外に頭の回転は悪くないんだな』

 てっきり世間知らずのお嬢さんだと思っていたよ、と呑み込まれた台詞は、聞かなくても分かった。

 ティオゲネスもそう思うことが、度々あるのだ。特に、命の掛かった局面程、彼女は何故かよく気が回る。普段はわざと鈍いことを言ったりやったりしているのではないかと思う程に。

 そんなティオゲネスの思考を余所に、エレンがディンガーの言葉を半ば無視する形で続ける。

「もし、あたしの考えが間違ってなければ、ここはあたしがティオの足枷になってるってコトよね。でも、そーいうの、もう真っ平なの!」

『と言うと?』

 すると、エレンはティオゲネスに視線を移して、きっぱりと言った。

「ティオの好きにしていいわよ」

「はい?」

「嫌だったら嫌って言っていいって言ってるの。あたしのコトなら心配要らないわ」

「……心配も何も、ここで落とされたらお前も死ぬんだぞ?」

 やっぱりその辺は分かってないのか、と若干落胆し掛けたが、エレンは真顔で頷いた。

「分かってるわよ。あんたと一緒なら本望だわ」

「はあ?」

「あたしだけ助かっても、ティオが自分の人生を生きられないくらいなら、それがあたしの所為なら、あたしだけ呑気に人生謳歌できる訳ないでしょ。そんなコトになるくらいなら、責任取って喜んで心中してあげるから!」

「――……」

 頭が、真っ白になった。恐らく、人生始まって以来、初めての体験だ。

 唖然とするとはこういうことだろう。口は開いているが、顎が落ちたような気がして、何を言えばいいのか皆目見当も付かない。

 ディンガーの方も同様だったようで、暫しエレベーター内は静寂が支配した。

『……ぷっ』

 その静寂は、そんな、何か空気を吹き出すような声で破られた。

 ぷっ、て、と思う暇もない。次の瞬間、大爆笑としか表現しようのない笑い声が、箱の中を満たす。

 その笑いの主は、ティオゲネスでもエレンでもない。勿論、ディンガーでもないのは、声の質で分かった。

 笑い声は延々、たっぷり三十秒は続いた。

『はっ……あっははは……あー、おかしいー……ホント、どこまで天然なのよ、あんた』

 小さな笑いの残滓を引き摺るように、スピーカーから漏れ出したのは、女の声だ。少女と、大人の女性の狭間のような――

「お前っ……もしかして、セシリアか?」

『はぁい。久し振りねぇ、弟のアッシュ君?』

「うるせぇよ。それより、何でお前そんなトコに」

『どうだっていいでしょ。あーあ、もう、そこの天然お嬢の所為で何か、全部バカバカしくなっちゃったわよ』

 はっ、と吐き出された息はまだ笑いを残しているように聞こえる。

「バカバカしいって……」

 てゆーか、天然お嬢ってあたしのコト? と、座り込んだままのエレンが、眉根を寄せて首を傾げている。

『もういいわ。ぜーんぶ、もういい。どうでもいい。心中でも何でも、勝手にしたら?』

 事態を把握し切れない内に、ガコン、という音と共に、扉が動いた。


***


 視界を銃口が埋めている錯覚を覚えた直後には、ラッセルは動いていた。

 下からすくい上げるようにして銃身を右斜め上へ跳ね上げるのと、銃口が火を噴くのとは、ほぼ同時だった。

 あらぬ動きをさせられ、体勢を崩した相手の鳩尾へ、思い切り蹴りを入れる。

 攻撃をまともに食らって吹っ飛ばされる相手から、半ば強引にその小銃を奪い取った。床へ叩き付けられた男が、体勢を立て直すより早く、引き金を絞る。

 派手な銃声が上がって、男の両足から血が噴き出た。

 素早く小銃をたすき掛けにすると、悲鳴を上げる男に飛びかかって両腕を背後に捻り上げる。後ろ手に手錠を掛けて、階段まで引き摺ると、頭を下に向け、上半身を階段にはみ出すようにして転がした。これで、起き上がろうとしても、そう簡単には仲間の加勢には来られない。

 ホッと一息吐いたところで、側頭部に硬質なものが押し当てられた。


***


 外の景色が見えると同時に、ティオゲネスは反射的に動いた。

 腰を浮かせて、車椅子の背に刺していた杖を、空いた左手で引き抜く。扉の隙間へ、杖を滑り込ませるように転がした。万が一、再度扉が閉じたとしても、杖をどうにかすれば突破口になる。

「エレン、立て!」

 腰を抜かしているのではないかと危惧したが、彼女は気丈にも無言で動き、這うようにして扉へ向かった。

「きゃっ……!」

 途端、四つん這いになっていた彼女の動きは停止する。

 その背後から、まだ開き切らない扉に手を突くようにして確認すると、エレベーターの床は宙に浮いていた。

 よく見れば、上半分は、壁に阻まれている。下半分が八階へ覗いている格好だ。

「いいから飛び降りろ」

「だ、だって」

「だっても何もねぇ! 早く飛び降りろ! 床はすぐそこにあるんだぞ! こないだの女学院の時のコト考えてみろよ、ずっと低いだろ!」

 とは言え、一歩間違えれば縦坑に落ちる状況だ。これまでごく普通の生活をしていた少女にしてみれば、勢いを付けて前方に跳べば怪我だけで済むが、もし、着地点を誤ったら――と考えてしまうのは、致し方ない。

 しかし、普段のコンディションならいざ知らず、今ティオゲネスが彼女を抱えて跳ぶのは難しい。何がどうでも、エレン本人に跳んで貰うしかない。

 けれども、その躊躇う隙を、ディンガーが逃してくれる筈もなかった。

 瞬間、ふっと浮く錯覚を覚える。と思った時には、身体が勝手に動いていた。その直後に自分がして退けたことといったら、ティオゲネス自身にとっても奇跡としか言い様がない。

 動けない、なんて考えている暇も余裕もなかった。

 咄嗟に彼女の腰を左腕で抱いて、前方にダイブするのと、箱が先刻と同じスピードで縦坑を落ちて行くのとは、一秒も違わなかった。

 自分の身体を彼女のクッションにするように、受け身を取って床へ転がる。

 次の瞬間、身体の芯に響くような音を立てて、何かがここよりずっと下の方で激突したのが分かった。

 その後の静寂に、二人の荒い息遣いだけが、エレベーターホールに残響する。

 暫くはぼんやりしていて、状況がよく呑み込めなかったが、時間が経つに連れて、背筋が冷えていく。後一瞬でも跳ぶのが遅れていたら、今頃エレベーターの箱と心中しているところだ。

「……なさい……」

 ややあって、腕の中の彼女が、何か呟いた。

「ごめんなさいっ……あたし……」

 やっぱり足手纏いになって、と続けた彼女は、小刻みに震えている。彼女もどうやら、ティオゲネスと同じことを考えているらしい。

「……いーよ。結果オーライって奴だ」

 ポンポンと彼女の背を叩いた左手には、やはり元通り力が入らなかった。

(ってゆーか、火事場のナントカって言った方が正しいかもな)

 脳裏の呟きが、どこか遠いところから聞こえるような気がする。

 疲れた。何だか本当に、疲れた。

 このまま眠ってしまえそうだったが、ここで意識を手放すのは、それこそバカのやることだ。

「怪我、ねぇな?」

 無言で、コクコクと頷く彼女はまだ震えている。震えながら、必死でティオゲネスにしがみ付いていた。まるで、その手を離したら、床がなくなるとでも言っているかのようだ。

 苦笑と共に、もう一度彼女の背を叩いて、ティオゲネスは口を開いた。


***


 銃口と思えるそれを押し当てられて、ギクリと身体が硬直した。

 やっぱりブランク、ナメちゃダメだな。

 という、どこか他人事のような反省が脳裏を過ぎった直後、短い喘鳴と共に、男が階段を転げ落ちていく。先程ラッセルが片付けた者とは違う男だ。

 踊り場まで落ちた彼の両足を、次いで誰かが銃で撃ち抜いた。男は悲鳴を上げてその場で身体を丸める。

 左脇に視線を上げると、そこには硝煙を立ち上らせる小銃を携えたアレクシスがいた。

「おかげで助かったわ」

 唇の片端を上げるようにしてニヤリと笑った彼女は、肩を竦める。

「こっちの台詞だよ。無事だったか」

 今度こそ安堵の息を吐いて立ち上がり、階段の手摺りに無意識に寄り掛かった。

「あの後、何があったんだ?」

「ちょっと捕まってたのよ。どうなるかと思ったけど、急にこっちで銃声がしたでしょ? みーんなこっちに気ィ取られてくれたから、撃ち倒すのに十秒も要らなかったわ」

 自慢だけど、早撃ちには自信あんのよ。

 そう言って、彼女は悪戯っぽく片目を瞑った。

「自慢、ね」

「そう、自慢。一対多数の格闘はあんた達には負けるけど」

「“達”って誰だよ、“達”って」

「あら、あんたとティオ以外に誰がいるのよ」

 アレクシスがもう一度肩を竦めた時、ラッセルの通信機に『悪い、今取り込み中か?』と通信が入った。

「いや、大丈夫だ」

 アレクシスに手を挙げて謝意を伝えながら、「そっちは無事か?」と続ける。

『まあ、何とかな。詳しいコトは後で言うけど、今八階にいる』

「八階ぃ?」

『だから、説明は後でするっつったろ。それより、セシリアの方、どうなってる?』

 言われて、ラッセルは眉根を寄せた。

「あー……悪ィ。これから向かうトコだ。こっちもちょっと足止め喰っててな」

『分かった。でも、できるだけ急いでくれ』

「どういうコトだ?」

『急がないと、アイツ死ぬぞ』

「!?」

 どういうコトだ、ともう一度訊ねる隙を与えずに、ティオゲネスは彼自身の持つ情報を告げる。

『足動かしながら聞け。あんた、アイツの居場所は知ってんだよな?』

「あ、ああ」

 言われた通り、地下病棟へ向けて歩を踏み出す。

 その前に、アレクシスに視線を向けて、唇だけでティオゲネスの居場所を伝えるのを忘れない。

『アイツは多分、今“そこ”にはいない。俺は知らねぇけど、どっかに動力系統とか全部監視できる場所がある筈だ。あんた、知ってるか?』

 ラッセルはもう一度是の意を口にした。

 動力系統――ティオゲネスが言うのは、恐らく監視ルームのことだろう。地下病棟は、体調不良や、逮捕の過程で負傷した囚人を収容しておく施設だから、当然監視ルームも存在する。

『アイツは恐らくそっちの、病院全部を監視できる場所にいる』

 次の台詞に、ラッセルの足は自然駆け足になった。

『――ディンガーのヤロウと一緒にな』


***


「――貴様、どういうつもりだ!?」

 ガシャン、というけたたましい音と共に、セシリアは床へ放り出された。

 起き上がる気力さえ沸かずに横たわったままでいると、胸倉を掴まれ、強引に引き起こされる。

「答えろ! 何故アッシュを逃がすような真似をした!!」

「……分からないわ」

 ディンガーと目も合わせずに力なく言うと、「何だと?」と苛立った声音が降ってくる。

「だって、本当に分からないんだもの」

 クス、と自嘲的な微笑が漏れた。

 正確に言えば、無駄のように思えたのだ。

 全てが。

 こちらがティオゲネスを拘束しようとすればする程、彼は逃げ出そうと必死になるだろう。自由を求めて彼が足掻く様も、周囲の人間を首輪代わりにされて苦しむ様も、いい気味だとは思っていた。一時は、当然の報いだと、溜飲を下げさえした。

 けれども、それも最初の内だけだったのだと、今になって気付いた。

 たとえ、彼がどれだけ苦しんでいても、それはセシリア自身の飢餓を満たすものにはなり得なかったのだと。

(……あんたの所為よ)

 もう一度、自嘲の笑いが漏れる。その呟きの先には、栗色の髪の少女がいた。

『あたしの所為で、ティオが自分の人生生きられなくなるなら、責任取って喜んで心中してあげるわよ!』

 画面越しに聞いた、エレンの啖呵が脳裏に蘇る。

 あんなに震えていたクセに。腰抜かして、へたり込んでいたクセに。ふわふわした、天然お嬢だとばかり思っていたのに――

 ドン、と突き飛ばされて、また床へ倒れ込む自分の身体を他人のもののように感じながら、セシリアはおもむろに寝返りを打った。

 見慣れない天井が見える。

(……あんな風に)

 自分の為に、己の命を懸けてくれる人が、欲しかった。きっと、ただそれだけだ。

 必要とされるということは、つまりそういうことなのだろう。

 遠い場所で、乾いた音がして、痙攣するように身体が反り返る。

(……悔しいケド)

 死ぬ程羨ましいわ、あんたが。

 そう思った先にいたのは、あの銀灰色の髪を持つ、美貌の少年だった。


 薄れる意識の中で、不意にハウエルズが死んだ夜のティオゲネスの顔が目の前に見えた。



“――アイツらは俺達を道具としか思ってないんだぞ!”


 うん、そうね。

 だから、何よ。

 それでも、あの人の隣だけが、あたしの居場所だったのよ。


“――あなたが、必要なの”


 ああ、教官。

 きっと、あたしはそれでも良かったんです。上辺でも、口先だけでも、あなた自身の欲得の為だけでも。

 結局、あなただけがあたしを必要としてくれた。


 たとえ、あなたが、あたしの為にあなたの命を懸けてくれなくても、あたしは命を懸けられたんです――

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