Phantom.11 逆襲の引き金
『後で、動画を送る。精々後悔しろ』
その捨て台詞は、まるきりそこらのチンピラが吐く、読んで字の如くの正しく『捨て台詞』だ。しかし、この時のティオゲネスには、充分過ぎるくらい威力のある言葉だった。
何をするつもりだ、と問い返す隙を与えず、男は通信を切った。
「ッ……!」
くそ、と思い切り吐き捨てそうになって、寸前で思い留まる。
ここは、一人きりの空間ではない。ネットカフェのブースの中だ。
時刻も夜中に近いし、騒いだら迷惑になることは間違いなかった。
(……あのヤロウ、こっちから連絡付けられるように作っときゃいいのに)
と言ったところで、セシリアから奪ってきた端末には、ディンガーの番号も入っていたから、ティオゲネスからアクセスしようと思えば可能だ。が、そうしたところで、今この事態を打開する一手になる確率は低いし、こちらから掛けるのも癪だ。
壁に拳を叩き付けそうになって、やはり思い留まる。ここにいても、訳の分からないフラストレーションが溜まる一方だ。
そう断じると、ティオゲネスは諦めて席を立った。
***
夜中に支払いを求めて店を出るティオゲネスを、店員は怪しむように見ていたが、特段咎め立てもしなかった。
金さえ払えば、今時は必要以上に他人に構わない世の中なのかも知れない。ティオゲネスにも、他人との距離はそれくらいの方が気が楽だった。
孤独には、幾ばくかの寂しさが付いて回るのは否定できないけれど。
(……くそ)
街の外れと港との境界で、適当な廃ビルを見つけたティオゲネスは、その屋上で夜を明かすことにした。
夏場が近いとは言え、海の傍はまだどこか肌寒い。
ティオゲネスは、海風を避けられる壁の際に腰を下ろして、まだ暗い空を見上げた。東の空が白み始めている気もするが、今はまだ星も見えた。
性懲りもなく、尾行が二人程、ビルの出入り口までくっついて来るのは分かっていたが、追い払っても新手が来るだけなので放置している。よしんば、尾行がいなかったとしても、今日はもう眠れそうになかった。
アイツの所為だ。何もかも。
見当違いな八つ当たりと分かっていても、そう思わずにはおれなかった。
孤独は、気楽だ。だけど寂しい、なんて。
そんな感情は、組織にいた頃は知らなかった。
(……いや)
知っていた。けれど、封印したのだ。そうせざるを得なかった。
初めて人を殺したあの時、きっと、感情も一緒に殺してしまったんだと、そう思っていたのに。
(アイツの、所為で)
彼女の元を離れると決めた時から、なるべく思い浮かべるのを避けていたその姿が、否応なく脳裏に再生される。
柔らかなウェーブを描いた栗色の髪、若草色の瞳、無邪気な笑顔――温かな彼女の全てが、凍て付いたティオゲネスの心を溶かしていったのは、いつが始まりだったのか、ティオゲネス自身にも分からない。
素直になるには時間が掛かったけれど、彼女の傍は居心地が好かった。
何も気にせず、己の手が血に染まっていることさえ忘れていられた。――その罪が、一生付いて回ることさえも。
ギリ、と無意識に地面に突いた指先で、コンクリートを引っ掻く。皮膚が擦られる痛みさえ、どこか現実感がない。
バイブ設定にしていた端末が着信を告げたのは、その時だった。
コール一つで画面をタップすると、忌々しい男の顔が画面に現れる。
『よう。面突き合わせんのは、何日振りだ?』
「さあね。できれば、てめぇの面なんか二度と拝みたくなかったんだけどな」
吐き捨てるように言って、ティオゲネスは思考を切り替えた。感情に蓋をして、頭の中を冷やすように努める。
『全く……だが、もうお前を野放しにしておく訳にはいかない。今すぐ、こないだの倉庫に戻れ』
「倉庫って、俺が最初に目覚ましたあの建物のことか?」
『そうだ。三十分の猶予はやろう。流石に瞬間移動の技術は教えていないからな』
彼が今したいのは、警告だけだろうか。
ティオゲネスは、感情を綺麗に無表情の中に包み込みながら、画面越しにディンガーの紅い瞳をヒタと見据えた。
けれど、ポーカーフェイスは向こうもお手の物だ。その紅の瞳から読み取れるものは、悔しいことに何もない。
「……断る。――っつったら?」
試すように、相手の出方を見るようにそう口に乗せると、男は『残念だな』と言って、嘲るような笑みを浮かべた。直後、端末の狭い画面が二つに割れる。
『これが見えるか』
割れた画面の、向かって右側には、これまで通りディンガーの顔がある。そして、反対側の画面には、どこか見覚えのある室内が映っていた。
しかし、問題はそこではない。確かに記憶の中にある室内を背景に、銃口を突き付けられているのは幼い子供達だった。
(まさか)
瞬間、ティオゲネスはもう一つの自分の弱みに思い当たる。
銃口を向けられた子供達にも、イヤと言うほど覚えがあった。
「まさか、てめぇっ……!」
『言った筈だがな。教会の方へも手を回してある、と』
「ッ……!」
確かに言われた気がする。だが、その時は、具体的な映像が示されたエレンの方に意識が行っていて、そこまで考える余裕もなかった。
救援要請の為のメールにも、教会のことは書いていない。つまり、今きょうだい達を助けられる人間は、誰もいないということになる。
「駄目だッ……よせ、止めろ!!」
完全に冷静さを失ったティオゲネスは、立ち上がりながら画面に向かって感情を叩き付けた。そうしたところで、ディンガーが止める訳がないのは、少し考えれば分かっただろうが、今はそこまで頭が回らない。
ディンガーは、クスリと意地悪く笑った。
『お前は、クラルヴァイン嬢に傷を付けるなと言った。彼女に傷一つでも付いていたら、我々には従わない、と。だが、ここの連中に付いては聞いていないのでな。――フランソン』
『は』
フランソン、と呼ばれた本人らしき男が、教会の映った画面の端へチラリと姿を見せる。
『誰でもいい。一人、間引きしてやれ』
『は』
フランソンは、無情にも従順に返事をして、子供達に向き直る。
『では、まず静かにする為に、コイツだな』
主人に倣って、残忍で楽しげな笑いをこぼしたフランソンが、泣き喚いているニコライの頭に銃を向けた。
「ニーカ!! 止めろ、てめぇッ……!!」
叫ぶ以外にできることのない自分の無力さが悔しい。彼らの傍にいさえすれば、決して誰も死なせたりしないのに。
『悔やめ、アッシュ。己の愚かさをな』
「――――ッッ……!!」
声にならない悲鳴が上がる。それが、果たして自身が発したものか、それとも画面の中の子供達が上げたものかは判断できなかった。
とても見ていられなくて、銃声が上がる刹那、ティオゲネスは反射的に端末を地面へ叩き付けていた。
(もう嫌だ)
こんなことが繰り返されるのか。
彼らが存命である以上、一生、大事な人間を質に取られ、奪われ続けて――
(こんなコト)
整った美貌が、くしゃりと歪む。
脳裏を走馬燈のように、あの教会での日々が巡った。恐らく、教会の者は、全員が始末されるだろう。
エレンのことは、救援要請のメールに書いたから、彼女は『彼ら』が恐らく保護してくれる。自分を縛る鎖はもうないと思っていい。
(……悪い)
ラティマー神父、ブラザー・シスター達、クリスティアン、クラウディア、リーン、ランベルト、ケヴィン、イサドラ、そして、ニコライの顔が順に浮かんでは消える。
ギリ、と掌に爪が食い込む程握り締める。
「……待ってろ、ディンガー」
口から出た声は、普段の何倍も低い。
「行ってやるよ。お望み通りな」
仲間を二度も奪った報いは受けて貰う。必ずだ。
戻るつもりはなかったクセに、こんなことを考えるのは矛盾しているとは思う。だが、あの場所を失いたくないからこそ、離れたのだ。それなのに、守り切れなかった自分にも心底腹が立つ。
強い――これまで感じたことがない程強い憎しみと憤りを宿した翡翠の瞳から、一筋、熱い滴が落ちた。
***
甲高い銃声が、室内に響く。
ニコライが、無惨にも頭を撃ち抜かれ、肉塊と化すのを、恐らくその場にいた侵入者全員が予想していただろうが、そうはならなかった。
相変わらず、ニコライは元気に泣き喚いている。
代わりに、いつの間にか拘束から抜け出していたブラザーの一人が、これまたいつ手にしたのか銃を構えている。その銃口からは硝煙が立ち上り、代わりにニコライを撃とうとしていた男が銃を取り落としてうずくまった。その腕からは、夥しい血が流れ出している。
「……まーったく。最近の若い奴は血の気ばっかり多くって嫌だねぇ」
クッと嘲るような笑いを浮かべたブラザー・セルバンテス自身も、二十代後半と若いのだが。
「てめぇら、何を!」
「それはこちらの台詞ですよ」
色めき立った侵入者達の背後に、いつの間に回り込んだものか。子供達の傍にいた侵入者二人の後頭部に、二人のシスターがそれぞれ銃口を押し付けている。
大人達の周囲にいた侵入者二人は、やはり既に拘束を抜けたブラザー達の手で夢の国へ仲良く旅立っていた。
「なっ……何なんだお前ら……聖職者じゃなかったのかよ!」
「聖職者ですよ。今は、ね」
意味ありげに言葉を切ったラティマー神父が、ニコライを腕に抱いたままの男の前に、ゆったりと歩を進める。
「まずは、その子をこちらへ」
ラティマーが穏やかな口調で言い、手を差し伸べると、同時に男の後頭部の銃口が更に強くめり込む。
男は渋い顔をしたが、命は惜しかったのか、大人しくニコライをグイと神父の方へ押し出した。
「よしよし……もう大丈夫。大丈夫ですよ」
優しくニコライを抱き取ったラティマーは、彼の身体をぽんぽんと優しく叩いて宥める。抱かれ心地で、馴染んだ人間だと気付いたのか、ニコライの泣き声は徐々にトーンダウンし、やがて鼻を啜る音に変わった。
「さて」
幾分静けさを取り戻した室内で、ラティマーは端末を持ったままの男を振り返った。その男の頭部にも、銃口が突き付けられている。
端末の画面は、通信が繋がったままだった。
「もう一度訊きましょう。あなた方は何者です? 何の目的で我々を監視し、当教会へ押し入ったのですか?」
通信画面は半分に割れており、向かって左半分は砂嵐となっていた。相手が既に通信を切っているのだろう。残る右半分には、残忍な紅い瞳が印象的な男が、やはり渋面でこちらを睨んでいる。
『……答えると思うか』
「では仕方がありませんね。交渉決裂、というコトで」
あっさり言って、ラティマーはその端末を素早い動きで男から奪い取る。
ニコライを腕に抱えたまま、リビングのテーブルにその端末を置くと、リビングに設えてある電話の受話器を取り上げた。
「取り敢えず、駐在とCUIO支部に連絡します」
目の笑っていない笑顔に、侵入した男達の背筋に寒気が走る。同時に、端末の画面は全体的に砂嵐に変わった。
***
「クソ! 何なんだ、あのジジイ!!」
ディンガーは、通信を切ると、机に拳を叩き下ろす。
ダン! と結構な音が通信室に響き、その場にいた部下三名が無意識に肩を震わせた。
もう一つの首輪になりうると、スティールが漏らしていた教会は、アッシュが引き取られていた場所らしかった。
教会と言えば、管理人は聖職者。聖職者と言えば、非戦闘員。
人質にするには無抵抗だし、都合もいい。
――というディンガーの常識を、思い切り覆された格好だ。
すぐさまスティールに問い質したいところだが、彼女は重傷を負って意識が混濁状態だし、アッシュに質すのはもっと適切ではない。彼に訊けば、相手に余裕を与えるだけだ。
こうなったら、『彼女』だけが頼りである。
ディンガーは、携帯端末を手に取って、画面をタップした。
***
「……そうですか。それは、面倒なコトになりましたわね」
『まるで他人事だな』
吐き捨てるように言うディンガーに、ビクトリアは苦笑する。もっとも、顔だけのそれは、相手には分かるまい。
「そんなコトはありませんよ」
言いながら、天蓋から下がったカーテンを開け、絨毯の上に置いてあったスリッパに足を入れる。
まだ早暁という時間帯故、彼女は未だネグリジェ姿だった。
もう壮年を過ぎたと言ってもいい年齢に差し掛かった彼女だが、背筋はすっきりと伸び、後ろ姿だけならまだ若いキャリアウーマンでも通るだろう。
ほっそりとした指先が、窓辺のカーテンを掻き分けると、白み始めた空が窓の外に見える。
『とにかく、取引は明日だが、それまで何としてもアッシュを黙らせておかなければならない。そちらはいつでも呼び出しに応じられるようにしておいてくれ』
「今から、ですか?」
『そうだ、今からだ』
「分かりました。では」
短い会話を終えて通話を切ると、ビクトリアは手早く身支度を始めた。
***
同時刻。
アレクシスは、モンテス邸の裏門前にいた。
ラッセルからの連絡が来たのは、昨日の未明だった。
情報の出所は伏せられていたが、何でも、エレンがIOCAの本部を訪ねたらしい。
ただ訪ねただけなら、知らせてくる必要などない筈だ。つまり、調べて欲しいということなのだろう。
アレクシスは、まずエレンの自宅である、教会の方へ連絡を取った。電話口に出たラティマー神父によると、その前日にメストル・シティへ出発したエレンと修道士の一人からは、未だ連絡がないと言う。
『ここも、どうやら監視されています。何かが起こっているのは確かなようですが……』
何があったのでしょうか、と言うラティマー神父に、とにかく調べるから警戒を怠らないよう告げた。その日の内に――つまり、昨日の内に、アレクシスはIOCAの方へ向かった。
マルタン教会から、エレンと修道士の二人が訪ねて来ていないかと問うたが、受付嬢は素っ気なかった。
『確かに訪ねて来られましたが、その日の内にお帰りになりましたよ』
と言うばかりだったのだ。
では、本部長に会わせろと言うと、その前日から休暇を取っているという。とにかく内部を調べたかったが、そうしたければ礼状を取ってこいと先手を打たれてしまった。
痛い腹があると思い切り白状しているようなものだ。
しかし、状況は真っ黒だが、手元の物証は、限りなく黒に近いとしか言い様がない。取り敢えず、CUIOの科捜研に照合を頼んだが、比較対照がなければ調べようがないのも事実だ。
確たる証拠がなければ、礼状も取れない。
正面からが無理なら、裏側からこっそり探るしかなく、アレクシスは仕方なくIOCAのデータに侵入した。本部長のビクトリア=モンテスの住所を調べ上げ、今ここに立っている。正面から行けば、やはり本部の二の舞だ。
見上げた鉄柵の先は鋭く尖り、柵の部分にはご丁寧にバラの蔓がしがみ付いている。
飛び越えようとして着地点を誤れば、良くて大怪我、下手をするとあの世往きだ。
(ラスか、ティオなら軽く越えられるんだろうけど……)
いくら警官としてそれなりに修羅場を潜っていると言っても、アレクシスの青春時代はごく一般的なそれだった。異常な高さの塀を飛び越えたりする必要がない所で、比較的ごく普通に幼少期を過ごしたので、アレクシスからすればティオゲネスやラッセルは少々超人的な部類に入る。彼らと同じ芸当をして退ける自信は、自慢ではないが全くない。
ふう、とため息を吐いて、ウェストポーチの中から小振りのナイフを取り出すと、裏の門扉に絡まった蔦を、地道に取り除くところから始めた。
***
街の片隅にある、表向き廃ビルになっている場所から、派手な銃声が上がったのは、午前六時頃のことだ。
ピッキングの道具を手に入れる時間的猶予は多少あったものの、ティオゲネスは音を立てずに侵入するといった上品なことをするつもりは一切なかった。
発信器が付いている以上、こちらの動きは筒抜けなのだ。奇襲はできないし、するつもりもない。
相手の人数は分からなかったが、ディンガー以外の雑魚を相手に、負ける気もしなかった。
「なっ、何だてめぇ!」
色めき立って、慌てて銃を構える最初の男に引き金を絞る隙も与えず肉薄して、ゼロ距離から拳銃を発砲する。
物音を聞いて廊下へ飛び出して来た男達を端から撃ち倒しながら、ティオゲネスはひたすらトップスピードで通路を駆け抜けた。
入り口からすぐ右手へ進路を取って始めに辿り着いた十字路で、一度足を止める。
「ディンガー! 来てやったぞ、何処にいる! 答えろ!!」
吼えるように呼ばわると、その声に導かれるように新手が群がる。一斉射撃から逃れようと、ティオゲネスは素早く右手の通路に飛び込んだ。
「聞こえてんだろ、早く答えろ! でないと、大事な商品が穴あきになるぜ!?」
通路の奥に向かって駆けながら、銃声に負けじと声を張り上げる。
『勝手だな。自分から逃げ出したクセに』
ジジッ、という電子音の中から、力ない声が応じた。
「こっちの事情が変わったんだよ! 誘導してくんねぇと、力尽きるのも時間の問題だぞ!」
それじゃ困るんだろ、という含みを持たせると、ディンガーは地下に降りる道を告げた。
やがて、銃声がフェードアウトしていく。攻撃を止めるよう、ディンガーが命じたのだろう。
ディンガーに言われた通りの道を辿り、エレベーターホールに出る頃には、周囲は完全に元通りの静寂に包まれていた。外部の音さえシャットアウトされたような静けさに、胃が痛くなる。
ティオゲネスは、深呼吸して頭を空にすると、エレベーターの呼び出しボタンを押した。
程なく来た箱に足を踏み入れ、地下の三階まで降りる。
『右手の通路へ来い。U317号室だ』
歩を進めて部屋番号を確認しながら歩くと、言われた番号に行き当たった。
『入れ。鍵は開いている』
言われなくても入ってやんよ。
目の前に相手がいるかのように、ティオゲネスはその翡翠の瞳を蔑むように細め、ノブに手を掛ける。
ドアを引くと、室内は薄暗かった。幾つかのパソコン画面だけが不気味に光を放ち、浮き上がって見える。その前に、三人の男と、そしてやや外れた位置にディンガーが背を向けて座っていた。
「随分遅いお帰りだったな。観光は楽しめたか?」
脳内の通信機の電源は落とされたのか、現実世界からのみ声が聞こえる。
「お陰様で。あんたが余計なコトしなきゃ、もっと最後の自由を謳歌できたのによ」
冷ややかに相手の紅を見つめ返しながら、ティオゲネスは肩を竦めた。
「そいつは悪かった。それで? 戻ってきたというコトは、悔い改めたと思っていいのかな」
「悔い改める?」
クッ、と嘲るように吐き捨てる。
「俺は教会で世話になってたからな。その言葉の意味はよーく知ってる。けど、あんたが言うそれは、要するにてめぇに大人しく従う気になったかってコトと同義なんだろ?」
「よく解っているじゃないか。ならば正しい答えを、その口から聞きたいな」
ゆったりとした動きで立ち上がり、ディンガーがティオゲネスに歩み寄る。
手前一メートルの地点で立ち止まった彼を、ティオゲネスはやはり温度の感じられない翡翠で見据えた。
「言った筈だぜ。アイツを傷付けたら報いは受けて貰うって」
「ああ、聞いた。だから、今無傷な彼女を確認するといい。リアルタイムでな」
言われて、ティオゲネスは目を瞬く。
パチン、とディンガーの指先が鳴ったのを合図に、彼の背後にある画面に、映像が映し出された。
***
エレンはその日、普段より早い時刻に起こされた。
教会にいた頃も、ここへ来てからも、起床は大抵午前六時半か、七時頃だった。しかし、室内に設えられた内線に叩き起こされた時、時計はまだ午前五時を指していた。
『朝早くに、ごめんなさいね。ちょっと、急用ができたものだから』
エレンが必要な用事なのだろうか。しかし、エレンはそれを特に問い質すことなく、「はい」と返事をして身支度を済ませた。
素直に従う気になった訳ではない。
ただ、ブラザー・トリスタンの行方は未だ分からず仕舞いだ。いくら訊ねてもビクトリアは彼の居場所を教えてはくれなかった。
『無事なのは保証するから』
そう繰り返すばかりだったので、エレンは既にそれを聞き出すのを諦めていた。とにかく、彼女は数日後にはティオゲネスに会えると言ったのだ。
期日は分からなかったし、『画面越しの再会』という意味が気になったものの、少なくともここで大人しくしていればティオゲネスとは会えるだろうし、ブラザーにも危害を加えられることはないのだろう。
もとより、こういった軟禁された状態から脱出する術を、エレンは知らずに育った。大人しくする以外にどうしようもなかったとも言える。
着替えと洗面を済ませた頃、そのタイミングを見計らったようにビクトリアが部屋を訪ねて来た。
「おはよう。朝食は後になるけど、大丈夫ね?」
「はい」
大丈夫じゃない、と言っても、ここにいる間のエレンに拒否権などない。
見るともなしに時計を見ると、時刻は六時になっていた。
ビクトリアは、手に携えて来た小型のパソコンのような道具を起動させている。準備が整ったのか、エレンに画面が見えるようにセッティングすると、暫く無言でパソコンを置いたテーブルの横に佇んでいた。
十五分程経った頃、着信音が響いた。ビクッと身体を震わせると、ビクトリアが自分のロングスカートのポケットから、携帯端末を取り出す。
画面をタップして二、三言やり取りすると通話を切った。
今度は、パソコンを操作して、電源を繋げる。
既に起動していた画面は、どこか暗い場所を映し出した。
部屋の中だろうか。電気は点いていないようだが、開いた扉の外から差し込む光が、画面の向こうの景色を視認可能にさせている。
こちらに背を向けていた人物が、すっと脇に退いた。その向こうにいたのは、ひどく整った容貌を持った、やはり人だ。年の頃は十代半ばで、性別ははっきりしない。少年なのか、少女なのか。
そう思った直後、ハッとする。
室内が暗い為、色味はよく分からないが、確かに見覚えがある――
「……ティオ?」
思わず、名前が口からこぼれる。
相手も、その瞳を微かに見開いた。
「ティオ? ティオなのっ!?」
無意識に立ち上がって、テーブルに駆け寄る。
確かにティオゲネスと思われる少年は、その美貌を歪ませて、僅かに視線を反らせた。
「何してるの!? 今何処!? 行方不明だって聞いて……どんだけ心配したと思ってんの!?」
でも、無事で良かった……。
反射でこみ上げる憤りと、彼の無事を知って安堵する気持ちが複雑に入り交じり、吐息となって漏れる。
「とにかく、戻ってらっしゃいよ。何で出てったのか知らないけど――」
『戻れねぇよ』
画面越しに――ビクトリアの言った通り、『画面越しに』再会してから、ティオゲネスは初めて口を開いた。
「……えっ?」
瞬時に、意味は呑み込めなかった。
彼は今何と言ったのか――帰れない。カエレナイ?
「……どうして?」
すると、ティオゲネスは見たこともない微笑を浮かべて、あっさりと言った。
『俺は、人殺しだからな』
その言葉と共に漏れたのは、一度も聞いたことがない、冷たい笑い――だった。




