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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.4―Phantom―
49/72

Phantom.9 戦闘前夜

 段々と浮上する意識が、全身に浸透していく。

 意図せずに瞼を上げると、視界には白いシーツの波が広がった。

(あれ、あたし……)

 いつの間にベッドに入ったのか、その記憶が全くない。もう、朝なのだろうか。

(今、何時?)

 いつも枕元に置いてある時計を探るが、ヘッドボードの上には何もない。

(あ、あれ?)

 いつもここにあるのにおかしいな、と手だけで探し回る。それでも、掌には目覚まし時計はおろか、他の道具や眠る前に読む本なども触れることはない。

(――ッ、もう!)

 遂にエレンは、無精するのを諦めた。

 まだ眠りに就きたがる思考から逃れようとするように、むっくりと起き上がる。そうして見回したそこは、見慣れた自室ではなかった。

「……あ……え……?」

(何ここ……あたし、今どこにいるんだっけ?)

 視界に入ったのは、どう見ても天蓋付きベッドから下がるカーテンだ。

 戸惑いながらも、レース地で仕立てられたそれをそっと掻き分けるようにして開き、床へ足を着ける。その時になって、初めて着衣が寝間着でないことにも気付く。

(ええっ? やだ、あたしったら、服のまま寝ちゃってたの!?)

 やだもう、下ろし立てのスカートが皺だらけ! と一人ごちる。スカートの皺を叩いて伸ばしながら立ち上がり、改めて周囲を見回した。

 室内は、嫌に豪華だった。

 以前、催眠状態でいた時に生活していたエーデルシュタイン邸の自室よりも、もっと豪勢だ。

 三十メートル四方程の広さの部屋の、奥まった場所にベッドがあり、その背後にある壁には、小洒落た意匠の窓が大きく取られている。

 今は確かに朝――少なくとも昼間なのだろう。陽射しがその窓から差し込んで、室内を明るく照らしている。

 季節柄、今は火が入れられていないものの、壁際には暖炉がある。その上に、鏡があるデザインだ。

 タンスなどの調度品も、凝った造りなのが一目で分かる。

(ええっと……待って。あたし、どうしたんだっけ……?)

 もう一度室内を見回して、懸命に記憶を辿る。

(えーと……そう、IOCAに来たのよ。ブラザー・トリスタンと一緒に……それで……それで?)

 受付嬢と一悶着あって、どうにか本部長との面談を取り付けて――そこまで考えた時、ノックの音が静寂を裂いた。

 ビクリと肩を震わせる。そちらへ顔を振り向けるのと、視線の先にあった扉が開くのとは、ほぼ同時だった。

「あら。目が覚めたのね」

 おはよう、と言って上品に微笑したのは、ビクトリア=モンテスその人だ。彼女は、湯気を立てる食事一式が載ったトレイを手にしていた。

「あ、」

 それを見た途端、それまでうまく遡れなかった記憶が、急速に巻き戻っていく。

(そうだ。あの後、本部長の部屋に招き入れられて、それで、紅茶を飲んだら急に――)

 紅茶に何か、入っていたのだろうか。そう思うと、急に恐ろしくなって、ビクトリアから離れようとするように一歩下がる。

「大丈夫? 気持ち悪いとかはない? どこか痛むところは?」

「あ……ない、です……あの、」

「急に倒れたのよ。疲れが出たのね」

 トレイを、備え付けの丸テーブルに置いたビクトリアは、無駄のない身のこなしで、エレンに歩み寄る。

「熱もなさそうね」

 そっと額に触れる指先から遠ざかろうと、エレンは思わずまた一歩下がった。

「ここは……IOCA本部……ですよね」

 ビクトリアを上目遣いに見据え、エレンは自分を守ろうとするように自身の身体を抱き締める。

 瞬時、キョトンと目を瞠ったビクトリアは、クスリと笑った。

「いいえ。ここは私の家よ」

「あなたの?」

 今度は、エレンの方が目を見開く。

「ええ、そう。何しろ、あなたが急に倒れてしまって、それきり起きなかったものだから。IOCAの本部は、身寄りのない孤児達の生活の場だし、他に場所もないから、家へご招待したの」

 無断だったけど、と言ってまた上品に微笑むと、ビクトリアは運んできたトレイの上の、ティーポットから、カップへ紅茶を注いだ。

「どうぞ。冷めない内に、お上がりなさい」

 優雅な動きで椅子を引き、トレイを示す。

 けれども、エレンはやはり動けなかった。湯気の上がる紅茶を見ていると、意識のなくなる寸前の記憶がやけに生々しく蘇る。

「エレンさん?」

 訝しげに問い掛けられて、エレンの中の疑惑は一層膨らんだ。

「……どうして、あたしの名前を知ってるんですか」

「え?」

 滅多に出さない低い声で問うと、ビクトリアは困ったように眉尻を下げる。

「あたし達は、マルタン教会から来たとは言いましたが、それぞれの名前は名乗っていませんでした。何故、あなたはあたしの名前を知ってるんです?」

 すると、ビクトリアは瞬時、表情をなくした。失ったのではなく、自らの意思でスイッチを切ったかのように無表情になったように見えた。が、気の所為かと思える程瞬きの間に、微笑が戻る。

「……ブラザーが仰っていたのを聞いたのよ」

「では、そのブラザーの名前は?」

 エレンにしては珍しく、鋭く切り込むと、再度ビクトリアは沈黙した。

「お答えになれませんか」

 その沈黙に、畳み掛けるように、エレンはビクトリアを睨み上げる。

「ブラザーはどこです?」

「……お帰りになったわ」

 エレンの変化に何かを感じたのか、ビクトリアの声から笑みが遠のくように薄れた。

「嘘です」

「どうして、そう思うの?」

「ブラザーは今回、神父様から私の保護監督役を言い付かっていました。その役目を、無断で放棄するコトは絶対にしない人です。彼だけでなく、教会にいるブラザーやシスターは、全員そうです」

 ビクトリアの顔から、完全に笑みが削げ落ちた。室内に、痛い程の沈黙が落ちる。

「……ごめんなさいね」

 クス、と小さく笑うと、ビクトリアは一転、不遜な笑みを浮かべた。

「どうもあなたを見くびっていたみたいね。孤児とは言え、てっきり世間知らずのお嬢様とばかり思っていたわ。……つまり、簡単に言いくるめられるってね」

 耳障りな笑いを合いの手に、言葉を継ぐビクトリアを、エレンは必死で睨み返す。

 だが、修羅場慣れしていないエレンの睨みなど、相手はまるで堪えていないようだ。

「今回は毒なんて入っていないから、安心してお上がりなさいな」

 ゆったりとした歩調で距離を詰めてくるビクトリアから、少しでも遠ざかろうとエレンはジリジリと後退する。けれども、すぐに終わりが来た。暖炉に遮られて、それ以上は退がれない。

 逃げ場のない草食動物を追い詰めて楽しむ肉食獣のように、ビクトリアは微笑する。

「大丈夫よ。私はこれ以上あなたに危害を加えるつもりはないの」

 いっそ優しいと思える手付きで頬を撫でられる感触が、心底気持ち悪い。首を竦めて、見上げた彼女の唇が、やけに赤いような気がした。

「あなたは、大切な首輪ですもの」

「首輪……?」

「そう、首輪よ。アッシュを……ティオを飼い慣らしておく為の、ね」

「ティオ……?」

 途端、記憶がフラッシュバックした。

(そうだ)

 意識が途切れる直前、彼女は確かこう言ったのだ。

『ティオにはすぐに逢える』

 ――と。

「どういう……意味ですか」

 身体を小刻みに震わせながらも、どうにか声を絞り出す。それを面白がるように、殊更顔を近付けながら、ビクトリアは口を開く。

「そうね。後三日……いえ、もう二日程といったところかしら。きっと、画面越しの再会が叶う筈よ」

「画面越し?」

 一体、何のことだろう。ビクトリアの言うことは謎めき過ぎていて、さっぱり理解できない。

「朝ご飯、ちゃんとお上がりなさいね。また後で来るわ」

 ピタピタと軽くエレンの頬を叩いたビクトリアは、意味深な微笑を残して踵を返す。

「あっ、まっ、待って!」

 慌てて呼び止めたエレンに、既に扉の取っ手に手を掛けていたビクトリアが、顔だけを振り向ける。

「あのっ……ブラザーは、どこです? あたしを、どうするつもりなんですか!?」

 その問いは、既に半ば悲鳴じみていた。またしても、一瞬キョトンと目を瞠った彼女は、楽しげに微笑する。

「言った筈よ。あなたは、ティオの首輪だと。でも、あのブラザーはあなたの首輪ね」

「え?」

 眉根を寄せたエレンに、ビクトリアはさも何でもないことを告げる口調でサラリと返した。

「あなたがここで大人しくして、食事もきちんと摂ると約束すれば、彼の身の安全は保障しましょう。どこにいるのかは教えられないけど、ね。もし、あなたがここから逃げ出そうとしたり、外部と連絡を取るような素振りを見せたらその時は……分かるわよね?」

 唖然とした。状況に、頭が全く付いていけない。

 エレンが言葉を返せないでいる内に、ビクトリアは室外へ消える。

 扉が閉じられた後、確かに外から錠を落とす音が、無情に響いた。


***


 ラティマー神父は、ふと視線を感じて顔を上げた。

 今日は、ミサのある日だ。いつものように、孤児院と併設の教会の鍵を開けに来ていた。

 午前九時。特別朝早い訳でも遅い訳でもない時間帯だ(もっとも、今から起床しようという人間がいたら、起きるのが遅いと言われるのだろうが)。

 都市部の会社なら、始業時刻という所もあるだろう。だが、ミサが始まるのは十時だ。一瞬、早過ぎた到着の信徒がいるのかと思ったが、振り向いた先には、見慣れた風景以上のものは何もないように思える。

 今日も、良い天気だ。

 緑の絨毯とも見紛う広々とした草原に、ポツポツと家が点在している。それぞれの家では、日常の営みが始まっている筈だ。

 しかし、まだヒリ付くような視線が張り付いている気がして、どうにも不快だった。

 ティオゲネスが行方不明になったと聞かされたのは、もう随分前のことだ。

 ラッセル=ギブソン刑事が、それでも程なくティオゲネスを捕捉できるようなことを言っていたので安心していた。ところが、エレンが戻ってすぐの頃、意外な途中経過を知らされた。崩壊した例の組織絡みで、ティオゲネスが完全に消息を絶ったらしいという報せだ。

 とにかく、組織が絡んでいるとなれば、一教会の出る幕ではない。ラッセルの、自分達に一任して欲しいという申し出には、頷くより他になかった。

 けれども、つい先日、エレンが動き出してしまった。彼女も、普段おっとりして見えて、言い出したら聞かない頑固なところがある。止むなく、ブラザー・トリスタンをガードに付ける形でメストル・シティへの小旅行を許したが、今この瞬間、それが判断ミスだったような気がしてきた。

 監視されるような視線の感覚は、まだ離れない。

(これは、本当に監視されているんでしょうかねぇ)

 ラティマー神父は、状況に似合わずのんびりと脳内で呟いて、普段通り教会の扉を開けた。


***


(……うっざぁ)

 早速尾行(つけ)られてるよ。と思うと、ティオゲネスは内心うんざりした。

 いくら発信器が付いているからと言っても、放置しておいてくれることはないだろうとは思っていた。が、こうもあっさりと予想通りの行動に出られると、うんざりを通り越して感心してしまう。

 発信器は通信機をも兼ねているので、道を聞くにも、人と話すなどのコミュニケーションを取る訳にはいかず、駅前へ辿り着くのに思ったより時間を喰ってしまった。その間に、発信器の信号を辿ったディンガーの手の者に追い付かれたようだ。

 駅前と言っても、路面電車の中心駅らしい。

 路面の線路を辿って、表示された路線図を確認したり、道路標識を頼りにどうにか一番大きそうな駅前へ足を運んだ。観光地なら、大抵その駅前には、立地の分かるリーフレットかパンフレットが置いてある。

 それを手に取ることなく、ただ目を凝らす。どうやら、ここはグウェイ諸島で間違いない。

 地理を確認すると、ティオゲネスは踵を返し、駅から離れ始めた。慌てたように、追っ手が分かり易くくっついてくる。

 駅の前にある地図をチラリと見上げるが、流石にそれで何もかもを記憶できるほどの自信はない。

 ふう、と息を吐く。

 三分でいい。彼らを引き離して、集中できれば――

(三……四人くらいか。ガキ一人にまあ、ご大層なことで)

 パリパリと側頭部を掻くと、ティオゲネスはいきなり走り出した。

「なっ……!」

「追え追え! 見失うな!!」

(いやいや、本気で分かり易いな)

 初速からトップスピードで、人混みの中を、器用に縫って駆け抜ける。こういう時は、小柄な体格の方が有利だ。大人の男の標準体型を持つ追っ手四人は、おたおたと人にぶつかりながら、どうにかティオゲネスを見失うまいとしていたようだったが、その気配はあっという間に振り切れた。

 仕上げに、狭い路地へ滑り込み、速度を緩めることなく更に駅から遠ざかる。

『逃げようとしても無駄だぞ、アッシュ。聞こえるか』

「聞こえてますよー」

『ならば、こちらの指示も聞こえているな。ガイオ、オルロープ。お前達の方が近い。路地を左手へ入れ。エアハルトというデパートの丁度裏手だ』

 流石に、追っ手側の返事は聞こえない。しかし、普通に教育を受けた、ちょっと喧嘩が強いくらいの少年なら、これで忽ち萎縮するだろう。何しろ、自分を追い詰める為の指示が聞こえるのだから。

 だが、ティオゲネスは無言で唇の端を吊り上げた。

『そうだ、挟み撃ちにしろ』

 挟み撃ち、ね。クスリ、と嘲るような笑いを零しそうになって、慌てて唇を引き結ぶ。

『オルロープ。お前の方へ向かってる。角を曲がって数メートルだ』

 はいはい、数メートル――ね、っと。

 角の手前二メートル程の距離まで来ると、予告通り男が現れた。その手に握られた銃口がこちらを向いているのに構わず、ティオゲネスは更に加速する。

「なっ!?」

 てっきりこちらが足を止めるとでも思い込んでいたのだろう。狼狽(うろた)えた男は、慌てて引き金を絞った。直後、身を沈めるように地面へ飛び込んだティオゲネスは、倒立の要領で男に蹴りを入れる。

 手首を弾かれた男の手から、銃が離れる。一回転して地面に立ったティオゲネスと男の距離は、互いに一撃を入れれば外しようのない間合いだ。

 流れるような動きで、背面ウェストに突っ込んであった拳銃を抜いたティオゲネスは、迷わず引き金を引く。二発轟いた銃声と、両足を撃ち抜かれた男の悲鳴が被った。

「動くな!」

 瞬間、背後から声が掛かる。顔だけを動かして確認すると、もう一方の路地から近付いていた男が、数メートル後ろで銃を構えていた。

「動くなと言っているだろ! 銃を捨てて大人しく一緒に来い!」

 ぎゃんぎゃん喚く前に撃てよ、遠慮なく。

 普通の時ならそう返しているが、今回は脳内に盗聴器がくっついている。喋れば喋るだけ、向こうに有利になる何かを与えるだけだ。

 ティオゲネスは、ただ蔑むように目を細めて相手を見ると、トリガーガードへ人差し指を引っかけるようにして両手を挙げる。指からゆっくりと銃を落とし、相手が油断した刹那、ティオゲネスの足が銃を受け取るように蹴り上げた。

 男が瞠目した時には、ティオゲネスの手は元通り銃を握っている。銃身が綺麗な弧を描き、彼の細い指先が連続で引き金を絞る。

 カウントすることも難しい銃声が止んだ後には、男は肩先と両足から血を流して倒れていた。

 ティオゲネスは、先の男から弾き飛ばした銃と、今倒れた男の銃を回収すると、駅に向かって逆走する。

『ガイオ! オルロープ! どうした、何があった! 応答しろ!!』

 人の頭ん中で怒鳴るのヤメロって言ってるだろ、鬱陶しいな。

 耳を塞いでも防ぎようのない騒音に目を眇めながらも、走る速度を落とすことはしない。

『おい、アッシュ! 貴様、何をした!』

「いちいちうるさいな。想像力のない大人って嫌だねぇ。ヒトに訊かねーと何があったか分からない訳?」

『屁理屈が聞きたい訳ではない。貴様、本当にクラルヴァイン嬢がどうなってもいいのか』

「どうなっても良かったら、とっくにこの島脱出してるぜ」

『何だと?』

 ディンガーの威圧的な声音の中に、明らかな狼狽が微かに混ざる。それを、ティオゲネスは聞き落とさなかった。

 自分の推測が正しいのを確信するが、今は相手に自分の手札を晒す時ではない。

 ディンガーは、ティオゲネスの発言を追及はしなかった。追及することが、彼自身の不利になると気付いたのかも知れない。

『……三度目はないぞ。もう大人しくこちらへ戻れ』

 彼自身を落ち着かせようとするような間の後、元通りの威圧感しか覚えないディンガーの声が、脳の内側からなぞるように低く響く。

 ティオゲネスは、息を呑みそうになった。だが、向こうへ気取られないように、腹部に力を入れて動揺を抑え込む。止まりそうになる足を叱咤し、目的地へ向けて駆ける。

 まだ、従う訳にはいかない。けれども、従わなければ、エレンがどうなるかも分からない。傍にいないということが、こんなにもどかしいと思わなかった。

 手の届く場所にいれば、自分を盾にしてでも、彼女を死なせたりしないのに。

 記憶の中の彼女の笑顔を、意識してシャットアウトする。彼女を失わない為に――大切な人を守る為に、今こうして走っているのだから。

『聞いているのか、アッシュ』

「聞いてるよ。こっちも何度も言いたかねーんだけどな」

 無意識に滑り出た声は、ディンガーのそれよりも遙かに冷たい。声と同じ温度を宿した翡翠の瞳が、真っ直ぐに前を見据える。

「あんた、ヒトのノーミソに盗聴器とか発信器仕掛けて、その上監視させて、何がまだ不満なんだよ」

『何だと?』

 先刻と同じ台詞だが、今度は単純に苛立っている声だ。

 しかし、ティオゲネスは構わず畳み掛ける。

「こちとら、人生最後の自由時間を謳歌してんだよ。観光も許可されない訳?」

 折角、水の都くんだりまで来てんのにさ、と続けると、暫し沈黙が落ちた。

『それを信じろと?』

「信じても信じなくても構わないけど、これだけは言っとくぜ。三度目がないのは、こっちも同じだ」

 一拍置いて落とした声音は、更に冷え切っていた。

「エレンに傷一つでも付いててみろ。相応の報いは受けて貰う」

 しかし当然、向こうにはガキの陳腐な強がりとしか聞こえなかったらしい。ふん、と鼻を鳴らすような吐息の後、嘲りを含んだ声が返ってくる。

『貴様、自分が有利だと勘違いしていないか』

「まさか。圧倒的不利だって自覚くらいあるさ」

 だからこそ、立ち止まっている隙も、怯えている暇もない。

 駅前へ帰り着くと、案内板を目で探す。但し、その前までは足を運ばない。目を凝らして見える位置まで来て、目的の建物を確認し、頭に地図を叩き込む。

(さっきの建物……デパートのエアハルトとか、言ったっけか)

 エアハルトの筋向かいに、まずは一つ。

『とにかく、戻ってこい』

 思考の邪魔をするように割り込んでくるディンガーの声に、見えないと知りつつも舌を出す。

「嫌だね。言ったろ? 観光するって」

 あっさり返すと、ティオゲネスは案内板に背を向け、元来た道をまた引き返した。

 ディンガーはまだ何やら話し掛けて来るが、それを頭に認識しないよう努める。相手の言う言葉をいちいち脳内に通すことで、却ってエレンが心配になるからだ。衝動的に港へ向かいそうになる足を抑えるのに、ひどく苦労する。脅し文句が逆効果だと、どうして分からないのだろうか。

 やがて、ディンガーに導かれたのか、残った追っ手が数メートル背後に付くに至って、ようやく彼の声は止んだ。


***


『ラス兄ちゃんへ


 久し振り! 元気にしてるか?

 オレは、今家族と水の都に来ています。

 ルースト・パセヂの港からこっちに来て、もう二日経ってる。

 見るもの全部珍しくて、ドキドキしてるよ。


 明後日は、父さんが商談相手と話をするというので、母さんと姉ちゃん、オレは別行動です。

 予定は未定らしい。母さんがサプライズを用意してくれてるらしいので、今から楽しみだよ。

 ホテルは、港の近くだから、兄ちゃんもこっちに来る用事があったら、顔出してな。


 あ、そうそう。ヴィルヘルミーナさんは今、メストルにいるみたい。メールが来てました。


 じゃあ、またな! S.W.』


 ――こんなメールを『彼』が受け取ったのは、ティオゲネスが事実上島に監禁されてから、丸一日経った深夜のことだ。

 メールは、海外のサーバーを経由することを繰り返した挙げ句に、ようやく彼の端末へ届いている。手の込んだことをしている割に、文章の内容は、親しい人間に宛てて書かれた旅の報告にしか見えない。

 宛先のアドレスは、正確に言えば、名義は彼自身のものではない。仕事上必要に迫られて取得した、裏アドレスだ。そこへ届いたメールは、携帯端末に転送するように設定してあるが、そんなことを知っている人間はごく限られている。

(ったく……SOSが遅過ぎだろ)

 端末に映し出された文章に、彼は思わず苦笑した。

 本当にどうにもならないと、あの少年はヒトに助けを求めるということをしない。それだけはまだ、直っていないようだ。

 しかし、救援要請されるまでもない。彼は、既にグウェイ諸島行きの船に乗っていた。

 けれども、最後の一文が気になった。ヴィルヘルミーナ、というのは確か――

 眉根を寄せた後、男は画面を素早くタップした。


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