Phantom.3 誘拐
「はっ!」
裂帛の気合いと共に拳が飛んでくる。
それを、腰を落として身構えていた美貌の少年は、僅かに身体を反らしただけで躱した。
五十メートル四方程の部屋の中央に、三メートル四方のリングが設えられている。金網で囲まれたそのリングを、更に大勢の観客が囲んで、リングの中で行われる対決を、歓声と共に見守っていた。
現在行われている試合は、バランスの取れた筋肉質の男と、一見少女にも見紛う美少年のものだ。
男の方は百八十センチを超えており、一方の少年は十代前半にしか見えない程小柄だ。一瞬でケリは着くものと思われたが、大方の予想を裏切り、試合開始から三十秒しても少年はケロリとして立っている。
「このっ……!」
先刻と同様の大振りの拳。
だが、少年はそれを手で軽く払って往なすと、男の鳩尾に遠慮のない蹴りを入れた。男は数瞬ガクガクと身体を震わせたかと思うと、地に沈む。
試合時間としては一分にも満たなかった。しかし、もうこの二ヶ月ですっかり見慣れた番狂わせに、観客は大いに沸き立っている。
「勝者、ラルジャン!」
審判が少年の勝利を宣言した。観客のあらゆる意味の歓声を浴びながら、ラルジャンというリングネームの少年は、涼しい顔でリングを下りた。
***
「はいっ、ジークちゃん。今日のお給金」
深夜一時。既に閉店したバー・ガリーニの店内で、賭試合場のオーナー(注:男)が、ラルジャンにその日の稼ぎを手渡す。
カウンター席に座っていた、ジークと呼ばれたラルジャン、ことティオゲネスは、封筒に入ったそれを受け取り確認して、溜息を吐いた。
引っ張り出した中身は、一枚の紙切れだ。念の為に言うと、小切手ではない。完済した借金の額だ。
「……まーだ現生貰えねぇのかよー」
「当然でしょ。ウチの“地下”の稼ぎ手、ぜーんぶ使い物にならなくしたの、ジークちゃんなのよ? 穴埋めはして貰うって言ったわよね?」
「その分給料出るって言ったじゃねーかよ!」
煙管タバコを手に平然と首を傾げる賭試合場のオーナーことロドヴィーコに、ティオゲネスはカウンターを、バン! と叩いた。
「もう二ヶ月経ってんだぞ! そろそろ職場復帰できる奴もいるんじゃねぇの!?」
「ええ。明日からはフィリップとイネッサとルジェクが復帰する予定よ。でも、後は結構重傷なのよねぇ。後三ヶ月は見ないと……」
「全・員・その場で身動きできない程度にぶん殴っただけだよな?」
ロドヴィーコの胸倉を掴んで凄めば、彼(いや、やはり彼女?)は、「あらやだ、怒らないでよぉ」と可愛らしく(と多分本人は思っている)小首を傾げて肩を竦めた。
しかし、ティオゲネスとしては正に死活問題なのだ。
二ヶ月前、ここの“地下”の仕事、つまり、賭試合場のオーナー側の選手としての採用試験で、それまでここで働いていた従業員十名全員を、ティオゲネスはあっさりと叩きのめしていた。それが、合格条件だったからだ。
体格差があったので、銃の使用許可も取ったが、最初の男以外には殆ど使っていない。未だに歩けないという人間はいない筈で、手術入院の必要があったのもフィリップのみの筈だ。
不当に合計五ヶ月もタダ働きさせられるなんて、冗談ではない。食費と宿泊代はチャラにして貰っているが、それを差し引いても延々ここに居続けるつもりはないのだ。
「あはは、冗談よぉ。でも、みーんなストライキ中なのよね」
「何で!」
ここは裏の職場だ。ストライキだなんて、そんなまともな労働者のような権利が行使できるところが間違っている気がする。
「あんな試験、無効だって」
「はあ? 何言ってやがんだよ。俺をナメて掛かって負けたのは、連中の責任だろ?」
「そうよねぇ。ホンット大人げないんだから」
ロドヴィーコは、他人事のように言うと、煙管の灰を、コン、と小気味よい音を立てて携帯灰皿へ落とした。
ティオゲネスに胸倉を掴まれたままでいながら、実に器用で、相変わらず優雅だ。
その所作と態度に毒気を抜かれたティオゲネスは、突き飛ばすようにして彼の胸倉を放した。彼は、やはり二、三歩後ろへ下がっただけで、無様に倒れるようなことはない。
「とにかく」と溜息混じりに言って、ティオゲネスはその翡翠の瞳を細めた。
「俺は穴埋め分の給料は出るのかって訊いて、あんたは出るって言った。それで、連中全部片付けたからって、タダ働きさせんのは契約違反だろ。表の話じゃねぇし、契約書も交わしてねぇから、口約束が無効だってんなら仕方ねぇよ。俺もクソ高い授業料払ったと思ってここまでの仕事料は請求しねぇ。けど、明日の分からは払って貰うぜ」
でなければ、いつまで経ってもここを離れられない。
冷ややかな翡翠の視線と、ロドヴィーコの黒い瞳が、瞬時静かに火花を散らす勢いで交錯する。
「払わなかったらどうするの? あたしを殺すつもり?」
「バカ言うな。オーナーを殺しちまったら、貰うモンも貰えなくなるだろーが」
それに、不必要にヒトを殺すのも、もうこりごりだった。
ここを職場に選んだ理由の一つに、殺し・(暴力を使った)強盗・詐欺と麻薬が絡んでいないことがある。
いつの間にか片膝をカウンターに乗り上げていたティオゲネスは、ロドヴィーコを見下ろした。すると彼は、クス、と小さく笑ってまた肩を竦める。
「あなたはお利口さんね。賢い子は嫌いじゃないし、できればいつまででも置いてあげたいけど」
煙管の口に煙草を詰めながら、ロドヴィーコは言葉を継いだ。
「でも、まだまだツメが甘いわ、坊や」
「……何が言いたいんだよ」
カシュッ、という微かな音と共にマッチを擦ったロドヴィーコは、詰めた煙草に火を付けながら言う。
「西の大陸が何て呼ばれてるかは知ってるわよね?」
「……『世界一治安がいい大陸』か?」
彼が何を言い出すのか分からなくて、ティオゲネスは気持ち身構える。
「そう。それ故に、この大陸の裏の世界は狭いの。このバーはあくまで表向きの商売だって言ったけど、リヴァーモア州の北部でやってるんだから本当に表向きな訳ないのは分かるわよね?」
ティオゲネスの反応を見るように、ロドヴィーコは言葉を切った。
「……まあな。リヴァーモア州は他の州と山脈一つ隔ててる上に、北の大陸に近い立地だからな。北部に行く程治安が好くないのはあそこと大差ねぇだろ」
寝ている時でさえ油断できないか、そうでないかの差が、違いと言えば違いだろうか。
ここの犯罪者は、それでもユスティディアの彼らよりは行儀がいい。寝ている相手に暴力を振るったり、襲い掛かって殺したりといった真似は、絶対にしない(盗みに入られないということはないが、命を取ることは、今のところはないらしい)。
そう付け加えると、ロドヴィーコは真顔のまま小さく頷く。
「よくできました。だから、このバーも実際は、表と裏の境界線にある。裏も表も含めた世界の、情報の坩堝って言ってもいいくらいだわ」
そこで一度言葉を切ると、ロドヴィーコはタバコを吹かした。
「情報提供する相手は、裏社会の人間だけじゃない。必要とあらば、警察にだって情報を渡す。裏も表も関係なくね。それが誰に不利になるか、なんてことは特に考えないわ。貰うもの貰えれば、誰が泣いたって知ったこっちゃないの」
黒い瞳が、無表情にティオゲネスの翡翠の目を射た。
「その泣く相手が、あなたでもね」
「まどろっこしいな。何が言いたいんだよ」
「あなた、アレでしょう? つい五年くらい前に、警察の手入れで崩壊した、レンタル暗殺者組織の生き残り」
意外な言葉に、ティオゲネスは思わずその翡翠の瞳を見開いた。
「ま、何かあるとは思ってたわよ。その年であれだけの格闘技術を持ってるなんて、フツーじゃないコトくらい分かる。その辺のストリート・チルドレンだって、あんな神業披露できないわ。ねぇ、ティオゲネス=ジークムント=ウェザリー君?」
何で、それを。
言わずに済んだのは、偏に喉がカラカラに干上がって、身体が硬直していたお陰だ。
この女男の前で、ティオゲネスはフルネームを名乗ったことは、一度足りとてない。他の、地下メンバーの前でもだ。それが、何故、本名を知られているのか。
「この間、地下の客席にいた男がね、言ったのよ。あんな上物、どこで掘り出したんだって」
「……何だって?」
「あなたねぇ。姿を隠しておきたいなら、変装くらいすべきだったわね」
いたずらっぽく笑ったロドヴィーコは、ティオゲネスの額を、ちょん、と人差し指で小突いた。
「あの組織もねぇ。何であなたなんかをスカウトしたのかしら。どうしたって、暗殺者には不向きな容姿なのに。目立ち過ぎるわよ。一目見たら絶対忘れないわ」
ザワ、と産毛が逆立った気がしたのは、その時だ。
考えるよりも早く、身体に染み着いた習慣が、ティオゲネスをその場から横っ飛びに飛び退かせた。
だが、飛び退く動作に移るより一瞬早く体内に激痛が走り、そのまま床へ無様に転がる羽目になる。
「なっ……!?」
身体が動かない。筋肉が硬直して、どこへ力を入れれば立ち上がれるのか分からない。
それでもどうにかして視線だけを上げると、カウンターの前に初めて見る男が立っていた。床へ寝転がって見上げている所為か、やたら大きく見えるその男はスキンヘッドで、そのくせ黒々とした髭が唇の周囲で綺麗に円を描いている。
その男の右手に、青白い火花の散る黒い小箱のようなものが握られていた――スタンガンだ。
(くそっ……!)
まさか、攻撃される刹那まで気付けないなんて、どういうヘマをやらかしたらこんなことになるんだ、と自分に悪態を吐いてもどうにもならない。
スタンガンによる身体麻痺時間は、数分間とさして長くはない。
それでも、相手が何らかの目的を遂げるには充分な時間だ。
「まー、手荒ねぇ」
「って言ったって、まともにやり合ったら勝てねぇって教えてくれたの、マスターだろ」
男は、手に持っていた鞄をカウンターに置くと、中から銀色で長方形をしたケースを取り出した。その中から現れたのは、注射器だ。
「くっ……!」
早く、逃げなければ。
そう思うのに、まだ指先をピクリと動かすことさえままならない。
「安心しろよ。毒とか麻薬とかじゃねぇから」
男は、こちらの顔色から何を読んだのか、猫撫で声で言いながら、ティオゲネスの腕にヒヤリとしたものを塗り付けた。明らかにアルコールと思える匂いが鼻を突く。
何の薬を注射するつもりにしろ、アルコール消毒してくれるなんて意外に親切だ。
(って、ポイントはそこじゃねぇだろ!)
長年裏社会にいると、一般人と反応がズレ気味なのは自覚しているが、何の薬を注入されるのか分からないのに平然としている場合ではない。
しかし、脳内の焦りとは裏腹に、身体は中々自由を取り戻してくれない。そうこうする内に、無情にも腕にチクリと小さく痛みが走る。
「ダイジョーブよ。タダの睡眠薬だから」
クスクスと楽しげに笑いながら、ロドヴィーコが足音を立てて近寄ってくる気配がする。
大丈夫な訳があるか。
と思う間に、クラリと目眩が襲って、視界が霞む。
(……嘘、だろ……)
この後意識を手放したら、自分はどうなってしまうのだろう。折角表の世界へ出たのに、自分の意思で裏へ戻ったりしたから、罰でも当たったんだろうか。
(……ッ、くそ……!)
しっかりしろ、気絶するな。
そう思うのに、どんどん瞼が重くなる。
「ごめんなさいね、可愛い坊や」
あなたとの生活も、楽しかったわよ。
そう付け加えるロドヴィーコの声を最後に、ティオゲネスの意識は途切れた。
***
「うん、よし。忘れ物はないっと」
病室内を指さし点検して、エレンはにっこり笑って一人頷いた。
入院生活の必要に迫られて持ち込んだ洗面用具や着替えなどは、先日ラッセルが持って来てくれたキャリーカートへ詰め込み、身分証とタオルハンカチ、ティッシュは、肩から下げたベージュのポシェットへ入れた。
二ヶ月のリハビリを経て、今のエレンは、以前と同じように自分の足で立っている。
まだ全力で駆け回ったりは厳しいが、一人で歩き回れるまでには回復した。
「エレンちゃん。支度はできた?」
「あ、シールド先生。プシュカリョフ先生も」
振り向いた視線の先にいたのは、リハビリのトレーナーだったポーラ=シールド医師だ。彼女の後ろには、担当医師だったアキム=プシュカリョフの姿もある。
「シールド先生、プシュカリョフ先生。長い間、お世話になりました」
エレンは、彼らに向かって深々と頭を下げる。
実家であるマルタン教会のあるギールグット州と、緊急入院した南西半島<アデライーデ>アクセルソン州にある病院がかなり離れていた為に、ラッセル達とラティマー神父が話し合った末、完全回復までエレンは入院することになったのだった。
入院費は責任上、CUIOが持ってくれることになっている。
お陰で、二ヶ月間のリハビリにも集中できたのだから、感謝しなければならない。
「元気になって、本当によかったわ。ここまで回復するなんて、あなたが入院してきた時は、正直思わなかったもの」
「済まない、僕もだよ」
相当な重傷だったからね、というプシュカリョフ医師に、エレンは照れ笑いを浮かべる。
「色んな方に言われます。運が良かったって」
肩を竦めて言いながら、エレンは両親が亡くなった時のことを思い出していた。
あの時も、周囲の皆が口を揃えて言った。君は、運が良かったのだと。
あの時に次いで二度目となると、自分はどれだけ運が良いのだろうか。
両親が亡くなった時は考える余裕もなかったが、今は拾った命をしっかり生きなければと思っている。
「ところで、エレンちゃん。これから一人で帰るのかい?」
プシュカリョフ医師が問うと、エレンはまた微笑って首を振った。
「いえ、迎えが来てくれることになってます。半島とギゼレ・エレ・マグリブの間の、ルースト・パセヂの入国審査とかもあるから」
ルースト・パセヂは、アデライーデ・北西半島<アルステーデ>両半島と、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>を繋ぐ宿場街だ。
半島と大陸の間を行き来しようと思ったら、避けて通れない入国審査の街。もっとも、何か良からぬことを企む輩以外には、形だけの通過儀礼に過ぎない。
今日のエレンの退院時に、ついでだからアレクシスとラッセルも、本来の所轄であるギールグット州へ戻ることになっている。
「……だから、そろそろどっちかが病室まで来てくれると思うんだけど……」
エレンは、そう独り言のように呟きながら、室内の時計に目を向けた。
時間は、午後一時五十五分。
二時には退院することになっているので、もう病室まで着いてもおかしくない時間帯なのだが、二人のどちらも顔を見せなかった。
(何かあったのかなぁ)
何かあったのなら、担当医師なり病院なりに何らかの連絡があって、エレンにも伝わる筈だ。けれど、その連絡もない。
「見て来ようか」
「あ、いえ。大丈夫です。もう退院の時間だから、そろそろあたしも出なきゃならないし。玄関まで行ってみます」
「そうか」
「気を付けてね」
「はい。ありがとうございました!」
エレンは、もう一度二人に向かってピョコンと頭を下げると、荷物の入ったキャリーカートを引いて病室を出た。
ナースステーションで顔馴染みの看護師に一通り挨拶を済ませ、病棟を出る。
そこからエレベーターホールまで、人気のない通路を歩き、角を曲がろうとした所で、エレンは話し声がするのに気付いた。ホールが見渡せる所まで来ると、ラッセルとアレクシスが話し込んでいるのが見える。
だが、声を掛けようと早めたエレンの足を、二人の会話が止めた。
「――あれから、エレンちゃんと話してないんだろ」
「ええ」
エレンは、慌てて角の陰に隠れた。何故そうしてしまったのか、自分でも分からない。
確かに、エレンはあの約束の日以降も、アレクシスと顔を合わせることはなかった。代わりに、ラッセルがその翌日に訪ねてきて、彼女の都合がつかなくなった旨を伝えてそそくさと帰って行ったのを覚えている。
変だなと思ったものの、エレンもリハビリの方へ意識が向いていた所為か、その場で追及はしないままだった。
「今日、言うのか? IOCAには寄らないって」
エレンは、目を見開いた。
(IOCAには寄らない?)
何故、そんなことになっているのだろう。
あれから、時折ラッセルだけは慌ただしく来て必要なことだけ話すととんぼ返りという日々が続いていた。
その時、どうにか隙間を縫う形で、エレンは退院する時には帰り際にIOCA本部に立ち寄りたいと頼んでいた筈だ。
(そんな)
思わず前へ出ようとしたエレンの足を、アレクシスの声がまたしても止めた。
「ええ。そう言うしかないわ」
今まで言い辛くて先送りにしちゃったけど、と続ける彼女の声音は、どこか沈痛な響きを帯びている。
「ティオがいないのに、行っても無駄足でしょう?」
「ああ。おまけに、あっちの職員はマルタン教会へ戻ったとしか言わない筈だしな」
(ティオが、いない?)
何それ、どういう意味?
ティオは、IOCAにいる筈じゃないの?
エレンは、軽く混乱し始めていた。
それに、ラッセルの口振りだと、ティオゲネスはマルタン教会へも戻っていないことになる。
「教会には確認したの?」
「ああ。一応神父様だけにな。教会へも戻っていないのは確かみたいだ」
はっきりとした言葉で聞いて、エレンは血の気が引くのを覚えた。
いつもと違うリズムで脈打つ心臓を宥めるように、胸元を握り締める。
足から力が抜けそうになるのを、壁にもたれることでようやく堪えた。
「っと、いけね! もう二時過ぎてるぞ」
「ホントだ。行きましょう」
二人が動き出す前に、エレンはカートを引いて病棟への通路を逆戻りした。
病棟の出入り口付近にある脇道へ逸れて二人をやり過ごすと、エレベーターホールへ小走りに移動し、呼び出しボタンを押す。
箱が来るまでの時間が、ひどく長く感じられた。
何とか二人が引き返してくる前に箱に乗り込み、階下へ辿り着き、病院を出る。
エントランスを出て、エレンはキョロキョロと左右を見回した。
エレンの入院していたディートヘルム総合病院は、道路を挟んで二棟の大きな建物で構成されている。歩道に沿って植え込みが続き、右手の上には二棟の建物を繋ぐ渡り廊下が見えた。
その向こう側には、何の建物か分からないが、煉瓦造りのビルが建ち並んでいる。
左手は上り坂で、エレンのいる場所からその先がどうなっているのかはよく見通せなかった。
更に迷った挙げ句に、エレンは結局左手へ進路を取り、宛もなく早足に歩き始めた。緩い坂を登り切ると、そこも右手と大体同様のビル街だった。目算で五十メートルも行けば十字路なのか、建物と建物の隙間を車が行き来している。
歩道は適度に人で溢れ、ざわついている。
しかし、考え事に没頭し始めたエレンの意識には、それらは漠然としか認識されなかった。
(えっと……これからどうすればいいだろ)
IOCAもマルタン教会も、ルースト・パセヂの向こう側だ。だからまずは、ルースト・パセヂを抜ける方法を誰かに訊かなくてはならない。
審査に必要な身分証もパスポートも、肩から下げたポシェットに入っている。だから、エレン一人でルースト・パセヂを通過しようと思えばできる筈だ。
問題は、そこでの審査に三日は掛かるということと、その間に二人は多分追い付いて来るだろうということだ。
ルースト・パセヂには、聖マグダ・ルーナ女学院に編入する際に一度訪れていて、内部を見たことはある。あそこは広いとは言っても、ギゼレ・エレ・マグリブ全土を捜すことを考えたら限られた空間だ。まして、現職の刑事二人が、エレン一人を捜し出すくらいは造作もない。
それでも、彼ら二人がIOCAに連れて行ってくれるつもりがないのなら、行き方を訊いても恐らく無駄だ。ラティマー神父にしても同じことだろう。
(だったら、自分で調べるしかない)
聖マグダ・ルーナにいる間に、インターネットの検索の仕方は教わった。
ルースト・パセヂの宿か、街のどこかにネットを使える施設くらいはあるだろうし、審査が終わるまでに調べて、地図をプリントアウトすることはできる。
(後は、分からなければその辺の人か、交番で……)
と思い掛けて、エレンは慌てて首を振った。
通行人はともかく、交番はダメだ。いつどこからCUIOへ繋がるやら、知れたものではない。
(ってゆーか、病院出る前に図書室に寄ってくれば良かったのよっ!)
あたしのバカ、と脳内で自身を罵倒しながら、エレンは珍しくその眉根に皺を寄せた。
担ぎ込まれる際に意識はなく、病院内でも殆ど病室と病院内にある図書室、リハビリ室しか往復しなかったエレンは、この街中の土地勘はゼロだ。
まず、ルースト・パセヂに行く道筋を調べなければ話にならない。とは言え、先刻、ラッセル達の話を聞くまでは、全部彼らに頼る気満々だった為、調べようという考えすら浮かばなかったのだ。
しかし、それよりも更に重大な問題にふと気付いて、エレンはハタと足を止めた。
後から歩いて来たサラリーマン風の男性が、キャリーカートに足をぶつけ、文句を言いながらエレンを追い抜いて行った。が、その文句や男性の姿は、エレンの意識には届かなかった。
「お金……お財布!」
思わず叫んだエレンを、道行く人が不審げに見て通り過ぎて行く。
けれども、それすらエレンの目には入らない。
土地勘どころか、所持金ゼロ。
恐ろしい現実にぶち当たり、エレンは通路の真ん中でしばし呆然と立ち尽くした。




