Phantom.4 現れた亡霊
「なぁ、エレンちゃん。君、いくつになったんだっけ?」
目の前でにっこりと微笑むラッセルの顔が、怖いのは多分――いや、絶対に気の所為ではない。実際、顔が笑っていても目が笑っていないように思えるのも現実だろう。
「十七、です……」
三十分程という短い逃亡の末、あっさりラッセル達に捕まったのは、ほんの数分前だった。
地元の所轄警察署の取調室の一つで、室内中央にある四角いテーブルを挟んでラッセルの向かいに座ったエレンは、身を縮めて答えた。
聖マグダ・ルーナ女学院ではハイスクール三年生に在籍していたエレンだが、誕生日はまだ来ていない。その為、二つ違いの筈のティオゲネスとは、学年にすると三つ違ってしまうのだ。
「そうかぁ。それじゃあ、黙っていなくなったら心配掛ける、くらいは分かる年頃だよなぁ」
「ハイ……」
穏やかに聞こえる声音が尚のこと怖い。エレンは益々縮み上がった。
「直ぐに見つかったから良かったようなものの……何でこんな無茶したかなぁ」
「別に……無茶って訳じゃ」
ただ、気付いたら歩き出していたのだ。このままでは、二度とティオゲネスに逢えないかも知れない。そう思ったらいても立ってもいられなくなって、気付いたら行動していた。
けれども、当然ながらそれはラッセルには分からないらしく、説教は続いている。
「ティオならともかく、エレンちゃんじゃ、無一文の時に長距離移動する方法なんて知らないだろ?」
「はあ……」
これには曖昧な答えしか出ない。
ティオゲネスならともかく、というのもどうだろう。彼が非常時に取る方法と言ったら、非常時という事態を差し引いて考えても犯罪だ。
しかし、それで最後には解決してしまうのが凄い。決して『丸く』とは言えないところが、問題ではあるが。
「ねえ、エレンちゃん」
それまで取調室の壁際に立って、黙ってラッセルとのやり取りを見ていたアレクシスが、ようやく口を開いた。
「何か、あたし達があなたの不信を買うようなコト、したかしら」
「それは、」
言い掛けて、エレンは口を噤んだ。
アレクシスは、『一週間後に必ず訪ねる』と言っておいて、結局来なかった。それどころか、今この時に至るまで、エレンの入院中は訪ねて来ようともしなかった。
けれども、言い辛いことを言う時の気まずさは理解できる。
逡巡して俯いたエレンに、アレクシスは言葉を重ねた。
「この際だから、率直に聞かせて欲しいの。とにかく、マルタン教会へ無事に送り届ける前に、二度と同じコトがあったら困るのよ」
その言い方に、エレンの気持ちは僅かにささくれ立った。
「……何で……」
「え?」
「何で、ティオと逢わせてくれないんですか」
顔を上げてはっきりと問うと、アレクシスとラッセルは同時に目を見開く。
彼らの反応をしっかりと捕まえて、エレンは畳み掛けた。
「どうして逢わせまいとするんですか? ティオがあたしに隠しておきたいコトに関係してるんですか?」
「エレンちゃん」
「それに、あたしがあの子をどう思ってるかが、どうして関係あるんです? アレクさんが言ったコトは、あたしには難し過ぎます。どうして、弟じゃいけないんですか。弟だったら心配しちゃいけないって規則でもあるんですか?」
ラッセルとアレクシスは、困惑したように互いの目を見交わした。
「エレンちゃん、それは」
「待った、アレク」
とにかく弁明しようとして、口を開いたアレクシスを、ラッセルが片手を挙げて止める。
そのラッセルの瞳を、エレンは負けじと見つめ返した。
琥珀の瞳と、若草色のそれが睨み合うこと、約数秒。
「――エレンちゃん」
「はい」
再度、口を開いたラッセルに、今度は真面目に答えた。スカートを握り締めて、まっすぐに彼の瞳を捕らえる。些細な感情も見落とすまいとするように。
「何を聞いても動揺しないって、約束できるか」
エレンは、一瞬怯んだ。そんなものは、聞いてみないと分からない。
というより、その一言で充分に動揺している。
「ラス。やっぱり駄目よ。こんなこと聞いて、動揺するなって言う方が無理だわ」
すると、こちらの顔色を敏感に察したらしい。アレクシスが助け船なのかその逆なのか、分からない助言を挟む。
だが、ラッセルはアレクシスの主張を一蹴した。
「だからって、このまま教会へ連れて帰っても元の黙阿弥だぞ。隠しておく方が、却って面倒が増える。――だろ? エレンちゃん」
言葉尻がエレンに向くと同時に、琥珀色の目がスイと流れるように動く。
エレンは、完全に言葉に詰まった。それも図星だ。
ここで事情を聞かずに帰れば、エレンは結局まずIOCAに赴くつもりでいた。その先のことは、まだ分からないが。
「……分かりません」
「何が?」
怒るでなく、咎めるでもない穏やかな口調で問うラッセルに、エレンは必死で続けた。
「聞いても動揺しないなんて約束はできません。でも、必要なら聞きたいです」
「どんな真実でも?」
「ティオと、逢えなくなるよりはマシです」
「そのティオに、憎まれるようなコトになってもか」
今度は僅かに苛立ったような声音に、エレンはやはり、少し怯む。
ティオゲネスに憎まれる。それは、悲しいし辛いだろう。
少し前のエレンなら、「やっぱりいいです」と首を振って、大人しくマルタン教会へ戻っていた。そして、待ちぼうけている内に、何年も無駄にしたかも知れない。
その間、彼に憎まれているのか恨まれているのか、それとも何とも思われていないのか、彼の感情どころか消息さえ知らないままに。
俯いて、目を伏せる。スカートを握り締めていた手を、祈るように胸元に寄せてそっと握り込んだ。
(ティオ)
胸の内で呼び掛けても、勿論返事はない。
いつからだったろう。もう、半年近く声を聞いていないし、顔も見ていない。
例の、ファーストキスの一件の後、彼と距離を置いたのは自分の方だった。
グルグルと自分の中で悩み続け、自分がひどく汚れてしまった気がして、こんな自分では彼にもう逢えないと思った。知られて、軽蔑されるくらいなら、逢えない方がマシだと思っていた。
けれども、それは違ったのだと、今なら分かる。
あの頃は、少なくとも彼の所在は分かっていた。その気になればいつでも逢えるのだと、どこかでタカを括っていたのかも知れない。
(そうだ)
逢いたくない、と自分の側だけのわだかまりで思いながらも、本当はずっと逢いたいと思っていた。矛盾しているようだが、そうとしか言い様がない。
聖マグダ・ルーナ女学院で思いがけず再会した時、ホッとしたのを覚えている。
殺人事件の犯人扱いされていた時、セシリアが庇ってくれていたのは嬉しかったが、彼女との間にはどこか壁があったのは否めない。
ティオゲネスの顔を見た時は、心底安堵した。もう、大丈夫だと思えた。その後、彼との間で、帰る帰らないで一悶着あったが、心のどこかで「もう教会へ戻るのだ」と思っていた気がする。
ヴェア=ガングという単語のことでもう一揉めした後、彼がそのことで自分を疎むようになったらと思うと、取り返しのつかない焦燥に激しく動揺した。
彼が傍にいなくなると――消息を絶ってしまうのではないかと考えた時、あれ程心細いと思ったことはなかった。
今日までリハビリに集中していられたのは、IOCAに行けば逢えると思い込んでいたからだ。だのに。
「……ティオは……どこにいるんですか」
ラッセルは、瞠目した。先刻の会話とまるで繋がらないことを出し抜けに言ったエレンに、戸惑うような目を向ける。
けれどもエレンは、構わず俯けていた視線を上げて続けた。
「病院のエレベーターホールでの話を聞いてしまいました。ティオが……どこにいるか、分からないんですか?」
やや呆気に取られた後、ラッセルが「そうだったのか」と小さく呟く。
「それで、予定通り教会に帰ったら、あいつの消息が二度と聞けないって早合点した訳だな」
テーブルに肘を突いて溜息を吐いたラッセルに、エレンは半ば睨むような目を向ける。
「早合点だなんて! どこにいるか、分かってないんでしょう!?」
「いや。あらかたの目星は付いてる」
感情が沸騰したように、キンと声を荒げたエレンに、ラッセルはあっさりと否を示した。
「ただ、エレンちゃんを連れていくのはすっげぇ気乗りしない」
しかし、続けられたのは、どこかに苛立ちと蔑みを含んだ声だ。
「……どういう、意味ですか」
「どういうも何も、言葉の通りさ。含む意味は色々あるけど、詳細は説明できない」
「ラスさん!」
明らかにバカにされている気がして、エレンは出会ってから初めて彼に食って掛かった。
だが、ラッセルはそれくらいでは動じてくれなかった。
「悪いな。これだけは、君の意思は尊重できない。おれとしては、アイツの意思が優先だ」
何が何だか分からなかった。
彼が何かに苛立っていることだけは分かる。けれども、エレンは彼を怒らせるようなことをした覚えはない。
戸惑ってアレクシスを見るが、口を開き掛けた彼女は、答えるより早くラッセルに素早く視線で制されて、申し訳なさそうに目を伏せてしまった。
「エレンちゃん。頼むからここからは本当にジッとしててくれ。その代わり、望み通りアイツを君の前にきちんと連れてくるから」
な? と、まるで幼子を宥めるように言われて、いい気分のする十七歳の少女はいないだろう。
しかし、琥珀色の瞳に縋るように見つめられたエレンは、最終的に押し切られる形で首肯するしかなかった。
***
意識が浮上する。すぐには見つからない、前後の記憶。
身じろぎした途端、後ろ手に縛り上げられた両手首に感じる金属の感触と、耳に飛び込む金属音。
何もかもが、四年前に逆行したような錯覚を覚える。
(……最悪)
頬に当たる布に顔を擦り付けて、ティオゲネスは固く目を閉じる。
瞼を上げたくない。
目を開けて、状況を確認すれば、現実に立ち向かわない訳にはいかない。けれど、あの時以上のヘマをして、あの時と同じ状況に陥った自分の姿を、認識するのが嫌だった。あの時と違うことと言えば、身体の下が固いかそうでないかくらいだろう。今はベッドの上だと判断できるところを見ると、あの時より待遇はいいのか悪いのか。
どちらにしろ、いっそ殺されていれば、などという、やけに後ろ向きな現実逃避が脳裏を過ぎって、ティオゲネスは内心で頭を振った。
とにかく、目を開けよう。現実を見れば、取り敢えず状況を打開する方に頭を使わざるを得なくなるのだ。後ろ向きなことなど、考える隙はなくなる。
意を決して開けた視界に映ったのは、シーツの白と、その向こうに茶色い床。そして、向かい側にベッドと、その上に腰掛けている誰かの足が見えた。その足は、靴を履いていない。柔らかな曲線を描く素足の片方には、幅広で鋼鉄と思える枷が填められていた。
裸足の足から脛、膝と順に辿って視線を上げていくと、見覚えのある少女が座っているのが分かった。
「あら。お早いお目覚めね」
目が合うと、横倒しになった視界の中で、少女はのほほんとした第一声を発した。
「お前っ……!」
ティオゲネスは反射的に起き上がろうとした。だが、後ろ手に拘束されている所為でバランスが取れず、いくらも上体を上げられないまま、再度肩からベッドへ沈む。もがいて足を引き寄せようとしたら、左足だけが途中で何かに引き留められるように僅かに軋んで痛みを訴えた。
そちらへ視線を向けると、目の前の少女と同じように、足枷が付けられている。
「げっ、何だよコレ! 本気で最悪だな!」
「最悪なのはあんたよ。起きてくるなりうるさいわね」
プラチナブロンドの髪と、アイス・ブルーの瞳を持つ少女は、言葉と共に耳を塞ぐ仕草をした。彼女の方は、両手は自由だ。
「眠ってた方が可愛かったのに、女の子みたいで」
「うるせぇ、いい加減そこから離れろ。何でお前がここにいる訳?」
クスクスと楽しげに笑うその顔は、整ってはいるが、どこか陰がある。髪は、以前見た時より短くなっていた。かつては腰の辺りまで滝のように流れていたプラチナブロンドは、今は顎下辺りのラインで短くカットされている。
「――セシリアさんよ」
白の、スモックのようなワンピースを身に着けた少女は、セシリア=レアードその人だった。ラッセルの話によると、現在は聖マグダ・ルーナ女学院の一件の罪を問われて少年院に送られた筈だ。
「ホント、腐れ縁って感じよね。まさか、あたしもこんなトコであんたに会うなんて思わなかったわ」
「何でここにいるかって訊いてんだよ」
話をはぐらかすかのように、今はない髪の毛を掻き上げる仕草をしながら視線を反らす彼女に、早くも苛立ったティオゲネスは、低い声で問うた。
上げた右手を下ろしながら暫く目線を反らしていた彼女は、わざとらしい溜息を吐いて口を開く。
「あんたこそ、何やってこんなトコ放り込まれたのよ。ここ、あたしがいる少年院よ?」
ティオゲネスは、ベッドの端までにじり寄り、右足だけを床へ着ける。次に、腹筋を使って今度は慎重に身体を起こしながら、セシリアを睨み据えた。
「今まで寝てたからって、それ信用すると思うワケ? 本当に少年院だったら、男と女で房が一緒になる訳ねぇだろ」
「あら、職員が間違えたのかもよ? あんた、ホント綺麗だもの」
「そりゃどうも。言われても嬉しくねぇけどな」
彼女がどうやら真面目に答える気がないらしいと悟ると、ティオゲネスは彼女から情報を得ることを早々に諦めた。起き上がったことで、ようやく視界に入った室内を見回す。
そこは、五メートル四方程の小さな部屋だった。フローリングの床の上に、自分が腰掛けているベッドと、セシリアが陣取っているそれの間にチェストが一つ。その上辺りに設えられた出窓の外には、格子がはめ込まれていて、そこからの脱出は骨が折れそうだった。
(絶対無理とは言わねぇけど……)
何らかの道具がないと難しそうだな。そう脳裏で呟いて、窓の外を確認しようとしても、枷がはまっている左足が付いて来なくて、ティオゲネスは思わず舌打ちした。
横になっている分にはあまり気にならないが、起き上がって動き回れないくらいには鎖が短い。
一方のセシリアの鎖はかなり長くて、室内を歩き回るくらいはできそうだ。
「……不公平じゃねぇ?」
思わずボソッと呟くと、セシリアは面倒くさそうに目を細めて、「何が?」と言った。
「同じ場所の虜囚なのに、何でお前はそんなに自由なんだよ」
「さあね。逃走計画練りそうかそうでないかの違いでしょ」
言われてグッと言葉に詰まる。今まさに、逃亡計画を練っている真っ最中だからだ。
「お前は、逃げる意思はねぇの?」
室内に視線を走らせながら問うと、セシリアは肩を竦めて、また「さあね」と言った。
「逃げたって、どう生きたらいいか分からないもの。あの人は、もう死んでしまったから」
アイス・ブルーの瞳が、ヒタとティオゲネスを見つめる。
「あんたが殺したのよね、そう言えば」
「だったらどうするんだよ。俺を殺りたきゃ、寝てる間に腐る程チャンスがあっただろ」
「楽に死なせたら詰まらないじゃない。こないだ、カノジョが来たときはあの子を殺りそびれちゃったけど」
「誰の話だよ」
「あんたのカノジョよ。エレン=クラルヴァイン」
その名は、一瞬ティオゲネスの身体を硬直させた。
名を聞くと同時に、栗色の髪を翻して笑う彼女の顔が浮かんで、そんな自分が嫌になる。
「……誰のカノジョだよ」
「それだけ間が空いた後で否定されても、全っ然説得力ないから」
「うるせぇ。別にカノジョじゃねぇし」
強いて言えば、片想いだ。それも、つい最近、異性として意識したというだけで、想いを伝えた訳ではない。
(言うつもりもねぇし)
はあ、と溜息を吐いて、感傷をシャットアウトする。
「とにかく、お前が逃げ出す気がねぇなら別に俺は止めない。お前の人生だし、好きにやれよ。その代わり、俺がやるコトにも干渉すんなよ」
「確かに、逃げてもどうすればいいかは分かんないけど」
意味ありげに言葉を切ったセシリアは、冷たい微笑を浮かべて立ち上がった。彼女の足首に填められた枷が、重苦しく擦れる音がする。
「あんたの人生をとことん邪魔するコトはできるわね」
クス、と笑った瞬間、彼女は前触れなく襲い掛かって来た。
舌打ちと共に必死で左横へ避けると、目標を失った彼女の両手が、空いたベッドへ突き刺さる。
(くそっ!)
何故いきなり彼女と争う羽目になっているのか、皆目分からない。分かっているのは、今この状況が圧倒的に不利だということだけだ。
自分は両手を後ろ手に拘束され、左足を彼女よりも短い鎖で繋がれている。対する彼女は、部屋から出てはいけそうにないものの、両手は戒められておらず、ほぼ自由と言っていい。
視線だけを巡らせてこちらを見たセシリアは、床に突いた足を軸に半回転し、ティオゲネスの顔を狙って拳を繰り出す。
ティオゲネスは身体を沈めて避けると、肩から彼女に体当たりした。
「きゃっ……!」
腹部に突っ込まれて悲鳴を上げるセシリア諸共、ベッドへ倒れ込む。
起き上がろうと足掻く彼女を、全体重を使って押さえ込むが、未だに十五歳の平均より身長の低いティオゲネスは、体重もそれなりだ。彼女より低い身長から察するに、下手をすると体重さえ彼女より軽いかも知れない。
となれば、ひっくり返されるのは時間の問題だ。その前にどうにかしなければならないが、起き上がって彼女を足で押さえ込もうにも、短い鎖がそれを阻害する。
結局、倒れ込んだ姿勢のまま、必死で彼女にのし掛かり続けるしかない。
「ちょっと! いい加減に退いてよ、スケベ!」
「うるせぇ! 誰が好き好んでお前なんか押し倒すか!」
場所はベッドの上ではあるが、実際問題、艶っぽい事情とは程遠い。
ティオゲネス自身、色恋めいたことを考える余裕などない。正しく手も足もほぼ出ない状態で、どうやって彼女をノックアウトするかを考えながら彼女を押さえ込むだけで手一杯だ。でなければ、脱出の算段すらできないのだから。
「くっ……!」
セシリアは渾身の力で暴れるが、体格が上でもそこは男と女の差がある。年齢差がもう少しあれば話は別かも知れないが、ティオゲネスは十代半ばで、体力的には成人男性に差し掛かろうかという年頃だ。
ティオゲネスも全力で押さえに掛かっている以上、単純な力勝負では彼に分がある。
力で叶わないなら、とセシリアは腕をティオゲネスの首筋に回して力一杯締め上げた。
「ちょっ……!」
ティオゲネスはそれこそ必死になって暴れ回り、どうにかしてそこから抜け出す。必然、セシリアはティオゲネスの下から解放される形になった。
素早く跳ね起きたセシリアは、背後から俯せに逃れたティオゲネスに襲い掛かる。
瞬間、ティオゲネスは仰向けに転がり様、セシリアの胸部を目掛けて、唯一自由な右足で思い切り蹴り上げた。
空気を肺から叩き出されるような呻き声と共に、彼女がベッドの下へ転げ落ちる。
急いで起き上がり、ベッドの端まで移動する。下を覗き込めば、セシリアが胸部を押さえて咳き込んでいた。だが、追撃の手を緩める訳にはいかない。彼女が回復するまで待てば、両手と左足をほぼ封じられたティオゲネスに勝ち目はなくなるからだ。
右足で彼女の身体を手加減して蹴飛ばし、仰向けにすると、体重を調節しながら右足で彼女の喉元を押さえ込んだ。
「チェックメイト、だな」
ハアハアと荒い息を吐きながら、彼女を見下ろす。相手も息を切らしていて、互いの弾んだ呼吸音が室内に充満していた。
「……殺せばいいでしょ。何躊躇ってんのよ」
「うるせぇよ。てめぇの指図まで受ける義務はねぇ」
「よし、そこまでだ!」
パン! と甲高い音が響いて、ティオゲネスは反射でそちらへ顔を振り向けた。意識が全部そちらへ向いたことで、一瞬足下がおろそかになりそうになるが、慌ててセシリアを押さえ付ける右足に力を入れ直す。
けれども、その顔を見た途端、他のことは全部吹き飛んだ。その隙に、セシリアが足下から逃れたことにさえも気付かなかった。
「嘘だろ……」
戸口の前に立っている長身の男も、ティオゲネスの知った人間だった。
今は変装の必要がない所為か、素顔のままの男がそこに立っている。
面長の輪郭の中に、凛々しい眉と、切れ長の目元。そして――
「……何で……あんたが、ここに」
――燃えるようでいて、酷薄な、赤い――紅い、瞳。
「何で、生きてるんだよ」
あの時――“四年前”のあの時、闇雲に撃った弾は、彼にも当たっていた筈だ。
血の海に倒れ伏していた男の映像は、今も脳裏に灼き付いている。遠くて、近いような、フィルターの向こう側にあるような、鮮烈で毒々しい記憶。
ティオゲネスの、赤く血塗られた記憶の中だけに存在する筈の男が、信じられないことに今、目の前に立っている。
あの日、あの時、まるで何事もなかったかのように。
「……ディンガー……」
呆然と零れ落ちたその名は、間違いなく――四年前に死んだ筈の男の名だった。




