Intermezzo.5 策謀
「済まないね、時間を割かせてしまって」
こう言いながら、テーブルを挟んでティオゲネスの向かいに座ったのは、リンジー=フェルトンだった。場所は、つい四日程前、ラッセルと向かい合ってティータイムを楽しんだ、あのオープンカフェだ。
彼ら一家が、最初に保護本部を訪ねて来てから一週間が経っていた。
「別に。先週の話を蒸し返すんでなければ大歓迎さ」
言葉の内容とは裏腹に、ティオゲネスの美貌には、冷ややかな笑みが浮かんでいる。
それを認めたのか、リンジーは苦笑と共に肩を竦めた。
「まあ、遠慮せずに飲んでくれ。私の奢りだ」
「恩着せがましい言い方は止めた方がいいぜ、おっさん。どーせ、俺の方が奢ろうったって、所持金ゼロのガキにはタカりようがないだろ」
と言いつつ、ティオゲネスはクリームソーダに突っ込まれたストローに本当に遠慮なく口を付ける。
「それで? 話ってな何だよ」
「……残念ながら、君が蒸し返して欲しくないと言った、その話さ。……どうかな。あれから、考えは変わってないかな?」
ティオゲネスは、その翡翠色の瞳に最大級の侮蔑を浮かべて、半眼でリンジーを睨め上げた。
「おっさん、理解力ゼロだな。言ったろ? その話はム・シ・カ・エ・ス・な・って」
「それを言われちゃ、話が進まない。少しは私の言い分を聞いてはくれないかな」
わざと音を立ててソーダを吸い上げ、中身が三分の一程になった頃、ティオゲネスはようやくストローから唇を離した。
「この中身がなくなるまでなら、聞いてやってもいいぜ」
じゃあスタート、と言うなり再びストローをくわえるのを見て、リンジーは慌てたように両手をパタパタと振って口を開いた。
「わあ、待って! えっと、その……何から話せばいいか」
「おっさん、バッカじゃねぇの? 人に話しに来て、何話すか考えてなかったってのか」
言いながら、ティオゲネスはスプーンで一匙、ソーダに浮いていたアイスクリームを掬って口に入れる。
「いや、その……そういう訳じゃ、ないんだよ。ただ……何と言えばいいかな。私は医者なんだが」
「まず自己紹介から来たか。随分遅れたけど。それで?」
揶揄うように言って、もう一匙アイスクリームを口に放り込む。
「専門は心療内科医だ。だから……トライアルというコトではなく、転地療養という形で、ウチに来て貰うのはどうかと思って」
「じゃあ、他の連中を連れてけよ。俺は間に合ってる」
「他の子は、目の前で話をしてない。一人一人と話をしていたら、多分こちらにいられる期間を超えてしまうだろう。だから取り敢えず、今回は君を連れて行きたい。君と同じ場所から救出された子供は君一人じゃないとは聞いたが……」
そこで、ティオゲネスのアイスをつつく手が、一瞬止まったのを、リンジーは気付いただろうか。
けれども、リンジーは、ティオゲネスのリアクションには構わず先を続ける。
「心療内科医の立場としては、勿論君の言うように、全員のケアをしたい。だが、今回は期間的に難しい。それは、解って貰えるかな?」
「さあねぇ。他の、元々この保護施設にいた奴なら、それで丸め込めるかも知れないけど。でも、俺をただの十一歳と同じに思って貰っちゃ困る。俺と同じトコにいた連中も大なり小なり似たようなモンだ。それに、俺は断ると言ってる。そこは、理解してくれねぇ訳、センセーよ」
唇の端を持ち上げて不敵な笑いでリンジーを見上げると、彼は先日とは違い、眉尻を下げて肩を竦めた。
「無論、君の意思も出来る限り尊重する。でも、まずは私達にも機会をくれないか。今回の養子縁組みにおいてのトライアルは、君のモノであると同時に、私達のモノでもあるんだ。つまり、君が我々を審査する。そういうコトでどうかな?」
穏やかに言われれば言われるほど、ティオゲネスの心は冷める一方だった。何故、放っておいてくれないのだろう、と内心うんざりしてくる。
「……センセーさぁ。こないだと言ってるコト、変わり映えしないぜ。それに、あんたんトコの坊ちゃんの話は聞いたか?」
「え?」
急に話題が方向転換した為か、リンジーがキョトンとしたように目を瞬く。
「あんたの息子のコトだよ。先週、ここへ来た時にお宅のご令息がやらかしてくれたご親切な価値観の押し付け事件に付いてはどんな風に聞いてる?」
丁寧なのか投げやりなのか、微妙に判断し兼ねる口調で訊ねると、リンジーは「ああ」と得心が行ったように頷いた。
「本当に済まないコトをした。あんな風に価値観を押し付けるようなコトを他人に向かって平然と言うような教育はしていなかった筈なんだが……本当に申し訳ない」
リンジーは、額がテーブルに付かんばかりに、深々と頭を下げた。
「息子には、あれからよくよく言い聞かせた。あの子も反省して、君と共に暮らし、成長したいと改めて言っている。妻も、今日はホテルに残って貰ったんだが、君に来て欲しいと言っていた。妻も、心療内科医でね。私達夫婦は、医師としても一人の大人としても、君を放っておけないと思っているんだ」
「不合格」
「え?」
唐突に短く言った所為か、またもやリンジーは目を丸くした。
そのリンジーのブラウンの瞳を冷ややかに見据えて、ティオゲネスは続ける。
「ふ・ご・う・か・く・だ・っつってんだよ。悪いが他当たってくれ。俺はあんたん家の人間になる気はねぇ」
「そうか。理由を聞いてもいいかな?」
「自分で考えれば?」
アイスクリームを掬った匙を、口に運びながら投げるように言っても、リンジーは立ち去らなかった。
「解らないから訊いているんだ。納得出来ないと、私も他の子を選ぶ気持ちになれないからね」
あくまで静かに問うリンジーに、ティオゲネスは苛立ちを隠さず舌打ちを漏らした。
「親切の押し付けは、あんたの息子と良い勝負だよ。ちゃんと教育通りに育って、結構なコトじゃねぇか。とにかく、俺はもうあんたら家族に付き合いたくないし、付き纏われんのも御免だ」
「じゃあ、質問を変えようか。何故、そんなに私達が信じられないんだい?」
「いい加減にしろよ。いくら温厚な俺でもそろそろキレるぜ」
およそ事実とは言い難い言葉を投げると、リンジーはやはり落ち着いて頷いた。
「いいよ。私の仕事はそこから始まるんだ。感情をぶち撒けて、心を解放してごらん。私か妻に癒せるかどうかはそこからだ」
こいつ、本当に黙らせてやろうか。それも、永久に。
物騒な考えが過ぎったのは、幸いにも一瞬のことだった。
先日、ラッセルにも、他ならぬティオゲネス自身が言ったように、組織から解放されて一年が経っている。人間不信はともかく、事態を解決するのに、すぐに武器や戦闘能力に頼ろうとする衝動は、どうにか抑えられるようになっていた。
一般の世界に出て来てから過ごした時間よりは、組織にいたそれの方が言うまでもなく長いが、ティオゲネスはそれでもまだ幼い。新しい環境に順応するのも、組織で十代後半まで過ごした仲間よりは早かった。
だが、理屈で理解しているだけに過ぎないのか、時折、染み着いた習慣が理性を食い破ろうとすることは、ままある。
深呼吸して波立った思考を捩じ伏せると、改めてリンジーを見据える。
こうなると、単純な殴り合いで相手を制することの方がずっと楽に思えた。
「理屈じゃねぇんだよ」
「え?」
切り出したのがまた出し抜けだった所為か、それとも、その声があまりに低くて掠れていた為か、リンジーは何度目かで目を瞬かせる。しかし、ティオゲネスは構わずに早口で続けた。
「俺がこないだまでいたところに引き取られたのはな、騙されたからなんだよ。ちょうど、あんたみたいに優しい顔した男にな」
『お腹が、空いていないかい?』
そう言って手を差し伸べた男は、極上に優しい顔をしていた。
当時、ティオゲネスの頭にそんな比喩は浮かばなかったが、今なら、世界中の善意を掻き集めて凝縮したような顔、とでも評するだろう。それくらい、その男の顔は、疑いようのない慈愛に満ちていたように思えた。
犬や猫ならいざ知らず、それこそ、とあるスラムのゴミ集積場へ置き去りにされてから何日もまともに食べていなかった当時四歳の少年が、その見事な仮面にコロリと騙されたとしても、誰も彼を責められまい。
うっかり男の手を取った結果が、例えではなく、文字通り血反吐を吐くような戦闘訓練と、犯罪行為と人殺しに明け暮れる日々の始まりだったのだ。
「俺は、優しい面した悪人にイヤって程付き合ってる。だから、あんたみたいな男は特に信用できない。あんたがどんなに言葉を尽くして説得に掛かっても、万が一その言葉通りの生活が約束されていたとしてもだ。また裏切られるかも知れない場所へノコノコくっついてって、同じ愚を犯す気は更々ねーんだよ」
吐き捨てるように言い終えるなり、クリームソーダからストローを引き抜いて放り投げ、グラスの中身を誰もいない方へ向けて一振りした。バシャンガシャン、とどこか無惨な音を立てて、透明な緑色の液体と細かい氷と、残ったアイスクリームが地面へ墜落する。
周囲にいた人々が、突如起こった歪な物音に一斉に顔を振り向けるのは分かったが、気にならなかった。
「話は終わりだ。お疲れさん」
タンッ、と空になったグラスを割り兼ねない勢いでテーブルの上に戻すと、ティオゲネスは椅子を蹴る勢いで席を立ち、踵を返す。
リンジーが、それ以上言い募ったり、追い掛けて来たりしないことに、心からホッとしながらも、どこかむしゃくしゃする気分を抱えて、ティオゲネスは屋内へ足早に歩を進めた。
***
夕方、ホテルへ戻った父を捕まえて、開口一番、首尾はどうだったと訊ねたルイスは、予想外の結果に落胆した。
「じゃあ! ……その、結局彼の意思は変わらなかったってコト?」
非難がましく叫びそうになって、寸前で思い留まるが、不服そうな響きは隠しそびれた。
「済まない。どうにも彼の意思は硬くてね。時間無制限で説得に掛かれるなら、自信もあったんだけど……」
そう言う父も、ひどく悔しそうな、寂しそうな表情で眉尻を下げた。
「具体的には、彼は何て?」
父が背広を脱ぐのを手伝いながら、母が訊ねる。
「先日、ビクトリアが言っていたろう。彼は、ある場所から救出された子供の一人だって」
「ええ」
「彼女は詳しくは語らなかったし、ティオゲネス君も右に同じと言ったところだったんだが……どうもそこは、常識で考えられる以上に過酷な所だったようだ。騙されてそこへ引き取られた彼は、同じ轍を踏むのを、我々の想像を遙かに超えて恐れている。ビクトリアの言う通り、彼に限らず、彼と同じ場所から救出されたという子供達は、どこかへ里子へ出されるのはまだ早いのかも知れない」
「そう……」
「彼らの心の防御が取れるには、今少し時が要るようだ。けれど、それは少なくとも、一ヶ月二ヶ月の単位では利かないだろうな」
「そう……そうね」
母は神妙に相槌を打ったが、ルイスは到底納得出来なかった。
心の傷とやらが、何だというのだろう。彼が――ティオゲネスが以前どんな所にいたのか、そこで何を経験したのかは、最早ルイスには関係のないことだった。
初対面時に彼に対して抱いた同情や、両親の見抜けた彼の心の傷に気付けなかった反省は、既に忘却の彼方だ。
ルイスは、もう自身が負わされた傷にしか興味がなかった。
これまで、両親に慈しまれて育って来て、稀に怒られたりもしたけれど、それは当たり前のことだ。恨んだりしないし、屈辱でも何でもない。親が、しつけの為に時に我が子を叱るのも、当然の務めだからだ。
しかし、ティオゲネスがルイスや両親に対して働いたのは、ただの無礼であり、侮辱でしかない。心の傷を理由に、いつまでも我が儘を言うなんて間違っている。だから、どうにか謝罪させて、彼の心得違いは正さなければならない。ここで、彼を放置するなど、論外なのだ。
だが、口を開く前に、父がルイスに視線を移した。
「ルイス」
「はい」
「分かったね。ティオゲネス君は、どうやら今回諦めざるを得ないようだ。滞在期間は後一週間あるが、五日後には父さん達はIOCAにどういう結果であれ、最終的な返事をしなければならない。それまでに彼の気持ちが変わるようなら別だが、恐らく難しいだろう」
ルイスは、自分の意見を叩き付けたかったが、ぐっと堪えた。
今は、まだ発言を許された訳ではない。父が話している途中だからだ。けれども、言いたいことを我慢したあまり、眉尻と口の端がキュッと下がるのだけは、どうしようもなかった。
それを認めたのだろう。真剣な表情で話していた父の顔が、ふっと和らぐ。
「済まない。今朝は大見得切ってホテルを出たから、さぞ期待させただろうに……本当にルイスには申し訳ないコトをした。だが、期限は守らないといけないんだ。結論を出す前に、もう一度お前の意見を聞きたいんだが……どうかな。どうしても、ティオゲネス君でなくては嫌かい?」
言われて、ルイスは一瞬声が出なくなった錯覚に陥った。
彼でなくては嫌か、と訊かれれば、ある意味では「イエス」であり、ある意味では「ノー」だ。
もう、彼をどうしても弟にしたいとは思えない。仲の良い兄弟にはなれないだろうという意味では、だ。
だけれど、このまま何もせずに彼を許すことは出来ない。どうしても、仕返しをしなければ気が済まない。彼が、ルイスに与えたのと同じ屈辱を――いや、それ以上の打撃を与えて頭を下げさせたい欲求は、未だに胸の奥で燻り続けていた。
「ルイス?」
沈黙がやや長過ぎた所為か、父が首を傾げるようにして名を呼ぶ。
いつの間にか落ちていた視線を少し上げるが、やはりウロウロと泳がせたまま、ルイスは口を開いた。
「……父さん」
「うん?」
「やっぱり、ダメだよ。あの子を、このまま放っておくなんて」
どうとでも取れる言葉だった。とにかく、ティオゲネスをここへ連れて来て、思う様打ち据えてやりたいと思って言葉を紡いだが、父はそうは取らないだろう。
予想通り、父は少し困った顔をして、ルイスと視線を合わせるようにしゃがんだ。
「ルイス」
「はい」
「気持ちは解るよ。父さんも、本当に心の底から同意見だ。どうにかして、あの子の傷を癒してやりたい。心療内科の医師としても、一人の人間としてもね。ただ、今あの子を無理矢理ここから連れ出すのは、その癒したい傷を却って広げるコトにしかならないんだ。あの子の意思で、我々に付いて来たいと思ってくれるなら、話は別だけど……それは、解ってくれるね?」
ルイスは、沈黙を返した。
解る、と言いたい。自分は、両親にはいつまでも自慢の息子でありたい。その為に、解ると言いたかった。だが、そう言ってしまえば、もう二度と、あの少年に仕返しするチャンスは巡って来ないだろう。
「ルイス」
返事を促すように名を呼ばれても、ルイスはギュッと口を噤んでいた。首肯したい自分と、それに思う様逆らいたい自分が、頭の中でせめぎ合う。
「……まあ、いい。すぐに答えを出せとは言わないよ。だが、期限までは後五日だ。それまでにどうしたら良いか、よく考えておきなさい」
父の大きな手が、頭を一撫でして、ルイスから離れる。
その時、ハッとルイスの脳裏に閃いたものがあった。
「ッ、父さん!」
「ん?」
立ち上がって踵を返していた父が、顔だけルイスの方へ向ける。その視線をしっかりと捕まえて、逸る気持ちに突き飛ばされるように口を開いた。
「あの人に……あの人に頼んだらどうかな」
「あの人?」
誰のコトだい? と首を傾げられて、ルイスは一瞬慌てた。
先日、ルイスが一人でこっそり保護施設に行ったことは、父も母も知らないのだ。だが、結局ルイスはそれを白状する方を選んだ。
あの少年に仕返し出来るなら、両親にもう一度叱責されるくらいは我慢出来る。
「あの……ごめん、なさい。四日くらい前……僕、あの施設に行ったんだ」
「施設に? 一人でかい?」
咎めるでもない穏やかな口調で問われて、ルイスはコクリと頷いた。
「何の為に?」
「僕……僕、あの子に謝ろうと思って」
その場凌ぎの嘘は、案外簡単に口を突いた。
「ちゃんと謝って、本当にウチに来て欲しいって信じて欲しくて……でも、結局話は出来なかったけど」
「どうして?」
ルイスは、ティオゲネス少年があの日、ルイスには見知らぬ青年とはびっくりするくらいくつろいで、時に笑い合っていたことを手短に話すと、言葉を継いだ。
「だから、少し妬ましくって、話をする気がなくなったから、そのまま帰ったんだ。でも……あの人に説得されれば、もしかしたらあの子も言うコトを聞いてくれるんじゃないかな」
「なるほど……」
ふむ、と父は顎に手を当てて、暫し考え込む素振りを見せる。
「解った。明日また施設に行って、それらしい男性に連絡が取れるか、ビクトリアに訊いてみるよ」
これが最後の望みだな、と言って、父はルイスの頭をくしゃくしゃと撫でた。
肩を竦めるようにして、父に頭を撫でられながら、ルイスは表面的には無邪気な笑みを浮かべた。
(逃げられないよ)
が、脳裏にティオゲネスの美貌を思い浮かべながら、ルイスは内心ではほくそ笑む。
(君は絶対に逃げられない。大人しくウチへ来て、僕にしたコトの報いを受けるまではね)
これで、もうティオゲネスは手の中にいるも同然だ。そう思うと、声を立てて笑いたかったが、両親の手前、ルイスは懸命にその衝動を堪えた。




