Prologue
「本当に、これで良いのですか? ティオ」
病院から退院許可が下りたその日、エレンの見舞いに来ていたラティマー神父は、わざわざティオゲネスの病室まで来て訊ねた。
「良いも悪いもねぇよ。あんただって、本当は知ってたんだろ? 俺の素性」
退院すると言っても、ティオゲネスの私物は殆どない。
身支度を整え、靴紐を結んでしまえば、退院準備は完了だ。
トン、と爪先で床を軽く蹴って、ラティマー神父を見やれば、彼は心底すまなそうな顔をして目を伏せた。
「……申し訳ありません。最終的に里親となる際には、里子の経歴を承知していなければならないのです。IOCAの規則ですから」
ちなみに、IOCAとは、国際孤児保護協会の通称である。
「ですが、その上で尚、あなたを私達の子として迎えることを決めたのは、それが神のお導きだからです。あなたを、里子としてくれないかという打診がCUIOからあったのは、神が私の子として、あなたを授けて下さったということに他ならないのですから」
だから、と言いながら、ラティマー神父はそっとティオゲネスの手を取った。
「あなたがあそこを出る決断をしたとしても、あそこはいつまでもあなたの家です。十九歳になる前に気が変わったら、いつでも帰っていらっしゃい。ブラザー、シスター達やきょうだいも皆、いつでもあなたを喜んで迎えます」
「俺が、人殺しでも?」
ティオゲネスは、自嘲気味に笑って、肩を竦める。だが、ラティマー神父は柔和な笑みを浮かべたまま言った。
「CUIOからも説明を受けましたが、それはあなたの意思ではない。あなたは、あなた自身を守って懸命に生きようとしただけです。それは、神もよく解っておられる筈」
「じゃあ、ついでに懺悔でもしておこうかな。今回の一件でも、俺は一人殺してる。……それも、赦されるのか」
普通の人間が相手なら、言い淀んだだろう。そして、次の瞬間、取り繕った笑顔を浮かべて、その場凌ぎの慰めを口に乗せるのだ。
『仕方がなかったのだ』と。
ラッセルが言ったのとは違う意味で、『正当防衛だった』と言う者もいるかも知れない。
そうして、その場ではティオゲネスを許す振りをしながら、次に会った時には余所余所しくなっているのだ。身体全体で、「二度と近付くな」と言って、ティオゲネスを遠ざける。
だが、ラティマー神父は違った。
「本当に、あなたに心から懺悔する気持ちがあるのなら」
淀みも躊躇いもなく、ラティマー神父は続ける。
「きっと、神はお赦しになります。さあ、目を閉じて」
ティオゲネスの手を取っていた右手を離して、その右手をティオゲネスの額に添える。
ティオゲネスに、悔いる気持ちなどなかった。あの時、ああしなければ、将来的にエレンは殺されただろうし、アレクシスはあの場で死んでいた。自分は、あの場で出来た最善を尽くしたのだ。そう言い聞かせなければ平静を保っていられない、後ろめたさはあったけれど。
それでも、まるでラティマー神父の手に導かれるように、ティオゲネスは目を閉じていた。
残った左手で取ったままのティオゲネスの手の甲に、ラティマー神父は自分の額を当てる。
「神の御名において――あなたの罪を赦しましょう」
数秒して、そっと額に当てられた神父の手が離れる。目を開けると、神父のグレイの瞳と視線が合った。
「行ってらっしゃい。そして本当に、いつでも帰っていらっしゃい。ティオも、いつまでも私の子です」
ギュッと抱き締められると、年老い始めた神父の肩口が、ちょうど顎の辺りに来る。
思わず涙が出そうになって、ティオゲネスはただ呻きとも嗚咽とも付かない声と共に、顎を引くことしか出来なかった。
***
ラティマー神父とは、病室で別れた。
前日に、ラッセルから持たされた旅費の入った財布と、護身用の銃だけが荷物と言えば荷物で、財布の方はウェスト・ポーチの中に、銃はショルダー・ホルスターによって脇下に吊られて、上着の下に隠れている。入院費その他諸々は、CUIOで持ってくれる筈だ。
『ティオも、いつまでも私の子です』
小揺るぎもせずに言い切ったラティマー神父の言葉を脳裏で反芻して、ティオゲネスは病院の玄関を出た。
(『あの時』は……誰も言ってくれなかったっけ)
クスリと苦笑を零して、歩を踏み出す。
普通は大抵そうだ。
過去に人を殺した人間は、事情なんて考慮されず『人殺し』という一言で括られる。一人殺しただけで、その人間は際限なく人を殺す、大量殺人鬼になってしまうのだ。
その人物は、世間一般から見れば、決して悔い改めることはなく、更生することもない。永遠に忌避すべき危険な犯罪者であり、厄介事を引き寄せる台風の目なのだ。――もっとも、それは厳然たる事実だと、今回の件で思い知った。
だから、ティオゲネスの過去を知った上でラティマー神父のように言ってくれる人間は新鮮で、その言葉は素直に嬉しいと思う。
(けど)
同時に、それだからこそ、自分の『過去』に巻き込むことはできない。強くそう思って、ティオゲネスはポケットへ無造作に突っ込んだ手を、無意識に握り締めた。
守り切れるなら、このままでも良い。
心地いい人間の傍にいて、ほんの少し、血塗れの過去を忘れて笑うくらいは赦されても構わないのじゃないかと思う。
だが。
(……甘えたら、ダメだ)
甘い見通しをして、その結果今度こそ大事な人間を失うようなことになったら、目も当てられない。
実際、自分の過去のことなど何も考えていなかったが為に、今回エレンを失う寸前にまでなったのだから。
微かに眉根を寄せて、一瞬きつく目を閉じる。
再び上げられた瞼の下から現れた翡翠の双眸は、決然とした光を宿して前を見据えた。
いつしか、優しい『家族』との別れを惜しむように止まっていた歩みを再開したティオゲネスの脳裏には、思い出すのも忌まわしい、――忘れていた四年前のある事件が再生されつつあった。




