Epilogue
「ティオ」
横合いから声を掛けられて、ティオゲネスはそちらへ視線を向ける。
カーブを描いた廊下の向こうから歩いて来たのは、ラッセルだった。入院後、初めて顔を見せた彼が、挨拶代わりに上げた片手には、缶入りのカフェオレが握られている。
「やっぱりここだったか」
ティオゲネスのすぐ傍まで歩を進めたラッセルは、そのカフェオレをティオゲネスに渡した。
やっぱり、ということは、一度ティオゲネスの入院する病室にも寄ったということだろう。
「悪い。無駄足踏ませたみてぇだな」
カフェオレを無事な左手で受け取りながら、いつもの調子で肩を竦め掛けて走った痛みに、ティオゲネスは顔を顰めた。あれから一週間経っただけで、撃たれた右肩はまだ全快していない。
右肩関節に当たった弾は骨にめり込んでしまっており、除去手術を受けたのが、あの後数時間経ってからのことだった。感染症の危険を避ける為、つい昨日までは、抗生物質入り点滴の世話になっていたのだ。
本来なら、完治までベッドに横になっていろと言われそうなものだが、今時は、回復を早めるという理由から、患者の容態によっては手術の翌日からでもどんどん身体を動かすようにと勧めている医師が多い。そんな訳で、ティオゲネスは、起き上がれるようになってからは、毎日この集中治療室の前へ足を運んでいた。
ガラス張りの壁を隔てた向こう側には、エレンが眠っている。その顔は、人工呼吸器のカバーに覆われ、全てを見ることはできない。
背中に刺し傷、左足に二ヶ所の銃創を負ったエレンは、ずっとここで治療を受けていた。特に背中の刺し傷は、肺に到達する一歩手前だったという話で、未だ予断を許さない状況だ。
「座らないか?」
ラッセルに促されて、ティオゲネスは一度エレンから視線を外すと、廊下にあるベンチへ足を運んだ。
「で、どんな様子なんだ。エレンちゃんは」
プシ、と音を立ててプルタブを起こしたラッセルは、缶を傾けながら口を開いた。
「どうって……俺は医者じゃねぇから何とも言えねぇよ。まだ意識戻らない状態が続いてるとしか」
「そっか」
ティオゲネスは、渡された缶を手持ち無沙汰に振りながら、エレンのいる集中治療室の方へ視線だけを向ける。
ベンチに座ってしまうと、室内の様子は全くと言っていい程窺えない。
「それはそれとして、その後の捜査状況が聞きてぇな」
そのつもりで来たんだろ? と水を向けると、ラッセルは返事をするように肩を竦めた。
「セシリア=レアードが全部吐いたぜ」
ラッセルによると、セシリアは最初何も語ろうとしなかった。が、彼女の所持していた鋼線内蔵型ナイフの鋼線から、ルシンダ=ランフランクの血液が検出されたのを受けて、ようやく重い口を開いたらしい。
「まあ、大方はお前がハウエルズに聞いた通りの状況だったな。学院も丸ごと強制捜査に入れたし、これでエレンちゃんの嫌疑も晴れた訳だ」
「学院丸ごと強制捜査ってコトは……もしかして、学院はもう閉鎖か?」
「だな。薬物検査したら、生徒の八割から反応が出た。しかも、殆どの生徒がそれと知らずに中毒になってたんだから、堪んねぇよな」
「教員陣の調べはどうなってる?」
「学院に勤めていたシスターは全部で十八人。全員が、今CUIOで指名手配中の、ヴェア=ガングに所属してた暗殺者だったよ。これで残党が全部捕まった訳じゃねぇから、ヴェア=ガング崩壊に付いては解決とはいかなかったけど……孤児の方については、セシリアの供述通り、彼女一人だった」
「でも、いつからそんなコトになってたんだ? あそこって随分古いガッコなんだろ?」
「答えはアレクが監禁されてた教会の地下にあったよ」
聞けば、そこには古い地下墓地があり、アレクシスが捕らえられていた場所とは別の部屋に、本物のシスター達も監禁されていたという。発見された時、ほぼ全員が亡くなっていた。
「そのシスターの中で、一人だけ生き残りがいた。かなり衰弱してて、今やっぱりこの病院内で治療中だけどな」
彼女の名は、シスター・ジーナ。
ルシンダ=ランフランク殺害事件の発覚した朝、第一発見者となった女性だった。
あの日から三日程経って意識を取り戻したシスター・ジーナには、今、少しずつ話を聞いている途中だという。今のところの彼女の話によると、ルシンダの遺体を発見した直後、彼女はすぐにも警察と救急病院へ連絡を取ろうとしたが、同僚のシスターに止められたと言う。
「その後のコトは、まだ衰弱激しくて詳しく聞けてねぇけど……まあ、想像は付くよな」
「ああ」
恐らく、本物のシスター・ジーナは、聖職者の本分に基づいた、正義感の強い女性だったのだろう。院長の『シスター・ウォルジー』や、他の『同僚達』が、何故コトを隠蔽するのか解らず、自分の正義感に従って何とか外部に連絡を取ろうとしたに違いない。
それを防ごうとした『シスター・ウォルジー』ことハウエルズは、当初計画通り、シスターのすり替えを行った、というところではなかろうか。
「ま、ハウエルズ亡き今、真相は永遠に闇の中、ってトコか」
「……それ、俺への嫌味か」
低く言うと、ラッセルは「いや、そういう訳じゃ」と全面否定の言葉を口に乗せる。そんなラッセルの前に、ティオゲネスはカフェオレの缶を突き出した。
「悪いけど、これ、開けてくれるか」
右肩の傷がまだ癒えていない今、どこをどうしても押さえ付ける力が入らず、ティオゲネスはラッセルがくれたカフェオレを開けてもいなかった。
「あ、ああ。すまん、気付かなくて」
ラッセルは反射でその缶を受け取ると、プルタブを起こしてティオゲネスに返してやる。
「サンキュ」
短く礼を言って、開封された缶を受け取り、唇を付けた。コクリと喉を鳴らして一口飲み下すと、ティオゲネスはやや重くなったような気がする口を開く。
「ところでさ。一つ、訊いてもいいか」
「ん?」
「……俺も、改めて逮捕されるのかな」
ラッセルがキョトンと目を瞠るのが気配で分かったが、ティオゲネスはラッセルの顔をまともに見られなかった。
組織が崩壊してから――特に、約四年前の『あのこと』があってから、ティオゲネスは何があっても、極力、相手の息の根を止めることだけはしないようにしていた。自分が関わった場所で死人が出たら、たとえ自分が手を下した訳でなくとも、自分に疑いの目が向くか、もしくは罪を被せられる、ということを、イヤという程痛感したからだ。勿論、カウンセリングを受けたことで、改めて罪の意識に苛まれたから、ということもある。
しかし今回、止むを得なかったとは言え、ティオゲネスはハウエルズを手に掛けてしまった。
そのことに付いて言っているのだと、ラッセルにも解ったのだろう。彼はおもむろに掌をティオゲネスの頭に乗せて、銀灰色の髪をクシャクシャとかき混ぜるように撫でた。
「正当防衛って言葉、知ってるか?」
「……知ってるけど」
「状況を鑑みると、多分今回はそれが適応される筈だ。お前はエレンちゃんとアレク、そして自分を守ろうとしただけだ。大丈夫さ」
「でも、そうは取らない奴の方が多いんじゃねぇの? 特に頭のかったい上層部のジーサンとかさ」
殺してしまうなんて、過剰防衛だ! と叫ぶ人間も大勢いるのを、ティオゲネスはよく知っている。特に、ヴェア=ガング崩壊に関わった刑事で年嵩の人間に多い。
「……後悔、してるのか?」
「何を」
不意に訊かれて、ティオゲネスは視線をラッセルに戻した。琥珀色の瞳と、翡翠のそれが、瞬時見つめ合う。
「ハウエルズを殺しちまったコト」
「してねぇよ、悪いけど」
暫し合わせた視線を、フイと外して、ティオゲネスは吐き捨てるように即答した。
相手がラッセルなら、バカ正直に話しても、大した問題に発展しないのが分かっているからだ。
(後悔なんか、してない)
もう一度、確認するように胸の内で呟く。
どんな人間にも情けを掛けろ、なんて甘い戯言が通用する相手ばかりではないことも、ティオゲネスはイヤという程知っている。そして、ハウエルズは明らかに『通用しない』側の人間だった。
あのまま放っておいたら、今本当にエレンが息をしていたかどうかも分からないし、アレクシスはまず確実に殺されていただろう。諾々と従ったところで、ティオゲネス自身どうなったか分かったものではない。
ただ、ほんの少し、誰にともなく後ろめたかった。
「なら、何で逮捕されるかどうかなんて訊いた?」
途端、何もかもを見透かされているかのような言葉が降ってきて、ティオゲネスは言葉を詰まらせた。
「別に……」
「逮捕されるのが怖いのか?」
「そういう訳じゃねぇけど」
だが一方で、ティオゲネスは自分の行為を正当化するつもりもなかった。
どんな言い訳や弁明を並べたところで、人殺しは人殺しだ。ヒト一人の命を奪う、正しい理由などある筈もない。過去に遡って咎め立てされても仕方がない、とティオゲネスはいつもどこかで腹を括っている。
だから、逮捕されるのが怖いと思ったこともない。
「でもそうだな、いっそ……牢獄の方が安全かもって、今回は思ったよ」
クス、と覚えず自嘲気味な笑いが漏れる。
「どういう意味だ?」
「今回……俺自身の手術終わってから、ずっと考えてたんだ。俺は……もう、教会の方へは戻るべきじゃねぇ。退院の許可が下りたら、俺は本部の保護施設に戻る」
ラッセルが息を呑んだのが分かったが、ティオゲネスは構わなかった。
「今までは特に気にしたコトなかったけど……俺があの組織にいたっていう事実って、動かせねぇんだよな。当たり前かも知れないけどさ。今までの事件て、全部アイツがバカやって引き寄せたようなモンで、端から力ずくで片付けるのも半分くらい当たり前になってたけど……」
エレンが眠る集中治療室の方へ無意識に視線を投げながら、ティオゲネスは続ける。
「今回は違う。確かに、きっかけはアイツだったけど、途中からはむしろ俺の過去のコトでアイツを危険に晒した。……今回は……運が良かったんだ。人が死んだのに不謹慎だけど、ハウエルズを殺せたのも、アレクが何とか生きてたのも、たまたまなんだよ。次はないかも知れない。俺が傍にいたら、次はアイツが死ぬかも知れないんだ」
ティオゲネスは、立てた片膝に左腕を水平に置くと、そこに額を埋めた。
(今だって……アイツは生死の境にいる。絶対に意識が戻るって決まった訳じゃねぇのに)
目を伏せて、内心で一人ごちる。
自分が、組織にいたという事実は消せないし、動かせない。組織が事実上崩壊した今でも、組織と自分とは、多分切っても切り離せないのだ。
“四年前”の事件の時は、自分のことで手一杯だったが、今回、それをとことん思い知らされた。
今回は切り抜けることができたが、未だヴェア=ガングの残党がどこかにいるかも知れない以上、また同じことが起きないとは言い切れない。既に今回で二度目なのだ。そうすれば、今度こそ周りの人間が、取り返しの付かない害を被るかも知れない。
「……ティオ」
「悪い。全部、しょーもないグチだよな。何言ってんだか……」
クスリ、とまた一つ、自嘲の笑いが漏れる。
「俺の気持ちはもう決まってる。整理も付いてるから気にしねぇでくれ。……聞いてくれて、ありがとな」
「お前、本当にそれでいいのか」
立ち上がった自分を追い掛けるように問う声に、心が揺れそうになる。けれど。
「……アイツを死なせるくらいなら、離れてる方がいい」
ゆっくりと歩を進めて再びガラスの前に立った。背中を負傷した為に、横向きに寝かされたエレンは、横顔をこちらに覗かせている。長い睫毛が、未だ白く見える頬に影を落としているのが、不思議とはっきりと見て取れた。
「生きてさえいてくれたら、それでいいんだ」
コツ、とガラスに額を押し当てて目を伏せる。脳裏に、自分の手で撃ち殺した、かつての友が浮かんで消えた。
(アイツは……アマーリアは、二度と帰って来ない)
自分がもう少し強く止めていたら、と今でも思わない日はない。あの頃は想像すべくもなかったが、時が来ればCUIOによって解放されることを今の自分は知っている。
だのに、幼かった自分は早く自由になりたかった余り、甘い判断をして、選りに選ってこの手で彼女を殺す羽目になったのだ。
そして、“もう一人”の親友も。
(……もう、失いたくない)
たとえ、自分で手を下さなくとも、自分の事情に巻き込んで死なせたら、自分で殺したのと変わらない。
(繰り返して、堪るか)
死んだら、二度と逢えないのだ。いや、逢えなくてもいい。生きていてさえくれたら、もう何も望まない。
「真面目に一つ、訊いてもいいか」
後を追って後ろに立ったラッセルが、本当に真面目な声音で訊ねるのへ、ティオゲネスは伏せていた目を上げて無言でラッセルを振り返る。
「お前、エレンちゃんをどう思ってる訳?」
「は?」
真面目に、と言うからこちらも真面目に聞く体勢を整えていたのに、揶揄われた気がして、思わず間抜けな声が出てしまう。しかし、ラッセルの顔は、真剣だった。
「どうって……」
揶揄っているのでないとすれば、彼の質問の意図が分からない。口ごもって視線を彷徨わせると、ラッセルが「じゃ、もっと具体的に訊こうか」と言った。
「最初っからそうしてくれよ。勿体付けんな」
「悪かったな。お前、彼女のコト好きだろ」
けれども、今度は直球過ぎた。
直球過ぎた故に、一瞬彼の言葉が右から入って左へ抜ける。意味を咀嚼して理解するのに、たっぷり十秒は掛かった。
そして、理解した途端、顔に熱が上った。
「な、あ、何っ……」
「最初に言っとくが、ちゃんと考えろよ。適当に誤魔化そうとするな」
ティオゲネスが、真っ赤になって陸に打ち上げられた魚宜しく口をパクつかせることなど、滅多にない。だが、真摯な口調で釘を刺されたティオゲネスは、冷えたカフェオレ入りの缶を熱くなった頬に当てながら、ラッセルと対話する羽目になった。
「好き……って言われても、多分、好きは好きだけど……」
「所謂、男女の色恋とは違うってか?」
「多分……」
「でも、お前、エレンちゃんを死なせたくないって言ったよな」
「だから、それはその……ダチに近いからって言うか……」
「じゃあ、今さっき話してた時、エレンちゃん以外の人間が頭に浮かんだか?」
「う……」
浮かばなかった。率直に言って、その答えしかない。大変申し訳ないことに、すぐ隣にいたラッセルさえ、『巻き込んで死なせたくない』範疇に入っていなかった気がする。
勿論、彼も大事な友人だ。アレクシスもそうだ。いや、彼らは友人と言っては語弊があるかも知れないが、大事な人間には変わりないと思っている。
教会のラティマー神父やブラザー、シスター達、兄弟姉妹とも呼べる孤児達も大切だ。
今回のように、目の前で人質に取られたら必死で守ろうとはするだろう。しかし。
「その程度が、エレンちゃん程強烈じゃなかったってトコだろ」
顔色から全部読まれたように図星を指され、言葉を詰まらせるより他に、ティオゲネスにできることはなかった。
「いーよ。おれはおれで、イザとなったらてめぇの面倒はてめぇで見れる。ダテに十歳まで北の大陸でストリート・チルドレンやってねぇからな。アレクも同じさ。ちょっと傷が多かったみたいだけど、彼女だって自分で切り抜けたろ? 第一、今回のコトは、ヴェア=ガング事件にきちんとケリ着けられてないCUIOの責任だ。気にするな」
それまでと打って変わった軽い口調で、ポンポンと頭を叩かれる。
「問題はエレンちゃんだな。お前は離れて解決するのかも知れねぇけど、彼女はどうかな」
「何だよ、ソレ。結局責めてんのか?」
恨みがましく言ってしまってから、後悔した。
「……悪い。今のは忘れてくれ。責められて当然なのに」
「だーから、気にするなって言ったろ?」
頭に置かれていた掌が、再度クシャクシャと銀灰色の髪を掻き回す。
「ただなぁ。異性への情ってな、離れると却って拗れたりするモンだからな」
「……あんた、意外にそっちの経験、豊富だったりする?」
揶揄い半分に訊くと、ラッセルは苦く笑った。
「ま、おれのコトはその内な。お前の場合、自覚しないまま別れると後悔するんじゃねぇかと思ったから、確認させてやっただけ」
「そりゃあ、ご丁寧にどうも」
言うや、ティオゲネスはラッセルの手を軽く払い除ける。
「でも、余計な世話だったよ。却って決心鈍らせてくれちゃって、どうしてくれる訳?」
「よく言うよ。今この場に鏡がねぇのが残念だな。お前の今の顔、お前に見せてやりてぇよ。逆に決心凝り固まったってツラしてるぜ」
ティオゲネスは無言で、無事な左肩だけを竦めると、エレンの方へ視線を戻した。
(……女として見てるつもりなんか、なかったのに)
そう思えば、ふと、以前の事件が解決した後、アレクシスと交わした会話を思い出す。彼女も、確かティオゲネスとエレンが恋人関係かと訊いていた。あの時は、エレンを女として見たことなどないと言い切ったのだが、今同じ質問をされて、同じ答えを返せる自信はもうない。
(だったら尚更)
もうこれ以上一緒にいる訳にはいかない。
(しっかし、初恋の自覚と失恋が同時って、どんだけ器用なんだよ、俺は)
今日、何度目かの自嘲の笑いを零して、ティオゲネスは未練を振り切るように、エレンのいる集中治療室に背を向けた。
***
エレンの意識が戻ったのは、それから三日後――つまり、事件が一応の解決を見た日から、十日経ってからのことだった。
もっとも、意識が戻ったと言っても目を覚ましたというだけで、起き上がれるまでになるには更に一ヶ月が必要だった。
アレクシスが訪ねて来たのは、それから更に一ヶ月経った頃で、エレンが集中治療室を出て個室に移った後のことだ。
「本当に良かったわ。正直言ってどうなるかなって、ちょっと心配してたの」
「ありがとうございます。ご心配お掛けしました」
まだ動き回るまでに回復していないエレンは、ベッドの上で上半身を起こしてアレクシスを迎えた。
「起き上がってて平気?」
「はい。傷も順調に回復してるってお医者様も言ってるし、あたし自身、まだ歩けないだけで身体は元気なつもりです」
とは言え、意識が戻るまではその可能性も五分五分で、意識が戻ったら戻ったで、通常生活に戻れるかどうか危ぶまれた程の重傷だった。
しかし、不幸中の幸いで、背中の傷は脊髄には及んでいなかった。足の弾創共々、完治には時間が掛かるが、リハビリ次第で日常生活には支障ないところまで回復できるだろうという診断が下っている。
「本当に、大事に至らなくて良かった……今回のことは、全面的にCUIOの落ち度よ。ごめんなさい」
「いえ、そんな! アレクさんが謝るコトじゃないです」
神妙に頭を下げるアレクシスに、エレンは恐縮して慌てて両手を振った。
そのアレクシス自身も、かの一件では重傷を負って、つい先日までエレンと同じ病院に入院していたのだ。その名残か、今も衣服に隠れていない部分の彼女の皮膚には、包帯と絆創膏が見え隠れしている。
「頭を上げて下さい。こちらこそ、折角お見舞いに来て頂いたのに、おもてなしもできなくて……今、ちょうど神父様が用足しに出てるので」
泡を食ったように言うと、アレクシスはクスクスと小さく笑いながら頭を上げた。
「エレンちゃんはまだ入院中でしょ。別にもてなしてくれなくていいわよ。……あ、ここの椅子、いいかしら?」
「あ、はいっ! どうぞ、座って下さい!」
アレクシスは、示したパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろすと、改めてベッドにいるエレンを見た。
「それで……どう? 気持ちの方は、落ち着いたのかしら」
「あ……」
エレンは一瞬言い淀んだが、アレクシスにまた気を遣わせてはいけないと、急いで言葉を継ぐ。
「あの……大丈夫、です。ちょっとまだ……魘されるコトはあるけど」
「いいのよ、エレンちゃんは気を遣わなくて。構わないから、全部正直に吐き出しちゃいなさい。ここの心療内科医にもカウンセリング受けてるとは思うけど」
「はい……」
エレンは顔を俯けて、手元の布団をキュッと握り締めた。
正直言って、セシリアにナイフで刺された後は、記憶が殆どないのだ。時折、鋭い痛みに呼び起こされるように意識が浮上し、その度にティオゲネスに名を呼ばれたような気はするが、それ以外のことは何も覚えていない。
ただ、通常の意識が『覚えていない』と認識しているだけなのか、眠ると夢を見た。何者かに追われて、必死に走っている夢だ。自分で走った訳ではないようなのに、夢の中では自分の足で逃げている。いつものように、ティオゲネスに手を引かれて。
夢の終わりは、決まって背中を刺され、足を撃たれて目が覚める。そして、その時にはティオゲネスは傍にいないのだ。
「あの……アレクさん。一つ、訊いてもいいですか?」
「何?」
「ティオは……どうしてるんでしょうか。あれから、ずっと顔見せないけど……」
ただ、いつもはティオゲネスだけが重傷を負ってエレンが見舞いに通っていたので、普段とは若干状況が異なるが。
(……あ、それに、あの後も逢わなかったっけ)
エーデルシュタイン家の親子の起こした、連続誘拐殺人事件の時だ。あの時は、ティオゲネスのみならず、エレンの方が『家族』の面会すら拒んでいたので、今回の事件でティオゲネスと再会するまで、知人と顔は合わせなかったのだ。
しかし、今回の一件の衝撃が些か強過ぎたのか、エレンの中で『不本意なファースト・キス』のショックは大分薄れていた。
おかげで、西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>から南西半島<アデライーデ>まで見舞いに来てくれたラティマー神父と顔を合わせても、不思議と後ろめたさはなかった。
まだ、人に話せないことに変わりはないが、ようやく教会に戻れそうな気がする。もっとも、戻ったとしても、エレンが教会にいられる期間はもう一年ない。十九になる年には、進学するにしろ就職するにしろ、基本的には孤児院を卒業し、出て行かなければならないからだ。
それはそれとして、ティオゲネスにも色々謝らなければならない。話もしたいと思う。
面会許可が病院から下りてから、事情聴取の為の刑事は勿論、ラッセルやラティマー神父、昨日は泊まりがけ予定(ホテルではなく、病院付近の教会に泊まったらしいが)で孤児院の『きょうだい』達も顔を見せてくれたのに、ティオゲネスだけとはまだ逢っていなかった。
そんなことをあれこれ考えた後、改めてアレクシスを見ると、彼女はどこか微妙な表情で目を伏せている。
「あの、アレクさん……?」
「……エレンちゃん。落ち着いて聞いてね」
「えっ?」
思わず、心臓がドキリと鳴る。まさか、ティオゲネスの身に何かあったのだろうか。
その心配は、幸いにも杞憂に終わった。
しかし、その次に彼女の口から出た言葉が、どこか遠い場所から聞こえて来たような気がした。
「ティオはね……マルタン教会を出たの」




