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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.3―School―
27/72

School.9 激闘

『あたし、ここから逃げるわ』


 決然とした表情でそう言ったアマーリアの顔は、まるで昨日のことのように思い出せる。

『逃げるって……どうやって』

『どうにかしてよ。ティオも一緒に行かない?』

 ティオゲネスは、言葉を失った。

 できることならそうしたい。けれど、同時に教官達の戦闘能力の高さ、罰則の恐ろしさは身にしみている。

 これまでに、組織から脱走を試みた子供の話は聞かないが、聞かないだけでもしかして今までにもいたのかも知れない。いたのかも知れないが、聞かないということは、秘密裏に処理された可能性もなくはない。

『……無理だろ、そんなコト』

 ティオゲネスは苦い表情で首を振る。

 軍事訓練施設の敷地は、高圧電流の流れる有刺鉄線付きの高い塀で囲まれている。軽く十メートルはありそうなその塀は、いくら組織で教育された子供にも、飛び越せたものではない。それに、その周辺にはいつも、昼夜を問わず見張りが立っている。

 更には、最新の熱追尾センサー付きのオートライフルが仕掛けられているという噂も、まことしやかに子供達の間に囁かれていた。

『それ全部、どうやって突破するつもりだ?』

 仮に外まで出られたとしても、見つかって捕まれば、殺されてしまうかも知れない。

『じゃあ、逆に訊くけど、ティオはいつまでここにいるつもり?』

『それは……』

 ティオゲネスは言葉に詰まった。

 いつまでも、ここにいるのか? と訊かれれば、答えは「NO」だ。いつまでもいたくはないに決まっている。ならば、来てくれるかも分からない救援を宛にして、もし誰も助けに来てくれなかったら、ここで大人になって、殺人者の道を歩くのか?

(イヤだ)

 それだけは、絶対にイヤだ。どんな拷問を加えられたって、答えはやはり「NO」しかない。しかし、この訓練施設から脱出できるのか。

『二人ならやれるわ』

 ティオゲネスの顔色を読んだように、アマーリアがそっとその掌をティオゲネスの肩に置いた。

『あたし、結構パソコン系得意なの。人間の大人は騙せなくても、機械相手ならどうにかなるわ。後は、向かってくる見張りさえ倒せれば』

 当時九歳だったティオゲネスは、結局納得させられてしまった。発案者のアマーリアも十二歳と幼かった為、夢物語が現実になると思い込んでいた節は否定できない。

 外に出て、それからどうするかなど、ティオゲネス自身は特に考えていなかった。ただ、姉のように慕っていたアマーリアに付いて行きさえすれば、何もかもが変わる。そう思っていた。


 そんな風に、迂闊にも甘い夢を見た、その代償は――


***


「エレン!!」

 思わず叫んでいた。今の今まで、他でもない自分が、彼女に対して「大声を出すな」「騒ぐな」と言い含めていたにも関わらず。

「あ……ごめんね、ティオ……何か、躓いちゃったみたい」

 一方のエレンは、自分に何が起きたかよく理解していないらしい。慌ててティオゲネスの腕から離れようとした。

 頭の中が真っ白になる。これが、自分が受けた攻撃ならまだ対処の仕様もあるし、そもそも、間抜けにも背中からナイフを生やす羽目にはならなかっただろう。

 それよりも、エレンを連れていた時点で、いつもより周囲に注意して然るべきだったのに、攻撃される刹那まで気付けないなど、怠慢にも程がある。

 最悪だ。最悪の事態だ。

 そのワンフレーズだけが脳内を駆け回り、何をしたらいいのか分からないというより、何かを考えるということができない。

 自分の力で立とうとするエレンを抱えて呆然としている内に、今度は彼女の背に突き立っていたナイフが、独りでに抜けた。

 同時にエレンが再び息を詰めるが、やはり何が起きたのか、理解できていないらしい。それが幸運なのか不運なのか、それすら今のティオゲネスには判断できなかった。

 恐らく、明るい場所で見ていたら、赤い毒々しい帯が抜けたナイフに吊られて宙を舞っているのが分かっただろう。

 ナイフを呆然と目で追うと、その先に立っている少女がナイフの柄をキャッチした。セシリアの持っていた鋼線内蔵型ナイフだと気付いたのは、少し後になってからだ。次の瞬間、彼女は猛然と地を蹴る。それでもティオゲネスは動くことができなかった。

「ティオ……?」

 エレンが自分に呼び掛ける声が、どこか遠くて、そして弱々しい。

 どうしたらいい。何を言えばいい。もう、手も足も、頭の中さえ動かなくなった、その時。

「――全く、情けないわねぇ、アッシュ」

 ヒタリとエレンの首筋にナイフを押し当てて、すぐ傍にセシリアが立っていた。

「この子、本当にあんたのアキレス腱なのね。これくらいの怪我させてあげただけで状況判断も不能になっちゃうなんて」

 クスクスと面白そうに笑う声に、エレンが首を巡らせるのが分かる。

「セシリア……?」

「ごめんね、エレン。あたしも貴女にはこんなコトしたくなかったんだけど」

「――ッ!」

 今まで鈍感にも痛みを訴えなかったエレンが、背を仰け反らせた。最初にできた傷に、セシリアが手にしたナイフをもう一度突き立てたのだ。

「止めろ!」

「言った筈よ、アッシュ。見逃すのは『アレ』が最後だって」

「い、あッ……!」

 傷を抉るようにセシリアがナイフを持った手を捻るのを視認した瞬間、ティオゲネスの身体はようやく金縛りから抜け出した。

 エレンの身体をしっかりと抱き締めて、セシリアの鳩尾を狙って蹴りを入れる。だが、読まれていた。身を捩るようにして蹴りを避けたセシリアに、逆に足首を掴まれ後ろへ倒される。抱えていたエレン諸共、背中から地面へ叩き付けられ、一瞬息が吐けなくなった。瞬間、エレンが再度声にならない悲鳴を上げる。

 必然、セシリアに背を向ける形で倒れ込んだエレンの傷を、セシリアが思う様踏み付けたのだ。

「セシリア!」

「これ以上大事なお姫様を傷つけたくなかったら、大人しく一緒に来るのね。最後の情けよ。ここで言うコトを聞くなら、女刑事さんの方は無傷で置いておいてあげる」

 クスリ、と面白がるように微笑してこちらを見下ろしたセシリアが、悠然とプラチナブロンドを掻き上げる。

 ギリ、と唇を噛み締めて、セシリアを見上げるも、エレンの生殺与奪は完全にセシリアに握られているのは火を見るよりも明らかだ。

「……分かった。言う通りにする。だから、エレンの手当を先にさせろ」

 胃の腑から絞り出すような声で言うと、セシリアは嘲るような笑みを浮かべた。

「言える立場だと思ってるの? 今までにも散々機会はあった筈よ。彼女を無傷で済ませる為の機会がね」

 グッと自分に掛かる体重が増したと思うと、エレンが甲高い悲鳴を上げて泣き叫ぶ。

「痛ッ……痛い! 痛い、止めて!」

「止めろって言ってるだろ!!」

「すぐに一緒に来るのよ。エレンの手当をさせて貰えるかは、あたしが決めるコトじゃないわ」

「――調子に、乗るなよ」

 低く言うや、ティオゲネスは自由の残っていた右足を闇雲に蹴り上げた。もう完全にティオゲネスを支配下に置いたと思い込んでいたセシリアは、すっかり油断していたらしい。エレンを踏み付けている足の大腿部に、蹴りがヒットする。

 体勢を整えられないまま、当てずっぽうに足を振り上げただけだったからあまり威力はなかったが、あっ、という声と共に体勢を崩したセシリアは、よろけてその場に尻餅を突いた。

 透かさず、足に巻き付けたガーターホルスターから銃を抜いて引き金を絞る。消音器の付いていない銃は、乾いた音をその場に轟かせた。銃口から放たれた弾は、セシリアの右肩を直撃する。

「ッ――――!」

 声なき悲鳴を上げたセシリアは、被弾の衝撃でその場に薙ぎ倒された。

 これで人が集まって来るだろうことは最早避けられないが、もうなりふり構っていられない。

「エレン! 立てるか!?」

「ん……」

 これまでの人生でここまで深い怪我を負ったことがなかっただろうエレンは、闇目にも白い顔をして今にも気絶しそうに見えた。

「少しだけ我慢してくれ」

 頭の片隅でアレクシスにも詫びつつ、ティオゲネスはエレンの身体を肩に担ぐ。こうなったら、エレンの命が最優先だ。

 アレクシスから渡された端末を、常に持ち歩いていなかったことを盛大に後悔しながら、全力で駆け出した。

 先刻までの進行方向へ向かえば、寮の建物をグルリと回ることになる。正門までは遠回りだが、最短ルートにはセシリアがいる。負傷させたとは言え、止めを刺した訳ではないから、攻撃される可能性は充分にあった。

 ティオゲネスは走りながら、脳裏に学院の図面を思い浮かべる。

 寮から正門までは、直線距離にしても約一キロ。ただ突破するだけなら遠くはないし、そもそも一人で脱出すればいいのなら、塀を越えればいい。だが、今はエレンがいる。しかも、今までと違って重傷を負った彼女は、ティオゲネスの肩に腰から身体を折る形で担がれ、意識は朦朧としている状態だ。

(応急手当だけでも先にできれば……)

 無意識に内心で呟いた瞬間、ティオゲネスは寮の近くに医療棟があったのを思い出した。

 ここは全寮制のマンモス校で、謂わばこの学院全部で一つの街のような様相を呈している。

 だから、寮から程近い場所に、殆ど一般の総合病院と言ってもいいような医療施設棟があるのだ。勿論、学院生なら無料で診てくれる。

 総合病院と同じ機能を備える以上、医療棟にも外部から各科専門の医師を招いているらしいが、今は夜勤の時間帯で、最低限の医師しかいないだろう。

 だが、却って好都合だ。誰を信用して良いか分からない今は、本当は人がいないくらいの方がやり易いが、そこまで贅沢は言えない。

 寮の裏手にある森の中に身を隠しながら、ティオゲネスは寮の向かいにある医療棟を目指した。棟の裏手に回ると、勝手口の鍵を抉じ開ける。

 既に通常業務が終わり、薄暗くなっている短い通路へ侵入した。通路の終わりに、もう一つある扉も同じように抉じ開けて入る。左右をさっと見回すと、右手に『耳鼻咽喉科』と『外科・整形外科』の表札が向かい合っているのが見える。

 ティオゲネスは、人がいないのを確認し、外科の入り口へ歩を進めた。通常診察を行う部屋へ入り、エレンを簡易ベッドへ俯せに寝かせると、辺りを物色する。

 必要な道具を持ち出し、エレンの元へ取って返した。

「エレン、聞こえるか」

「ん……」

 エレンは、気丈にも返事をした。しかし、聞こえた何かに反応しただけのようにも見えた。

「悪い」

 短く謝罪を入れると、彼女が身に着けていた制服のボレロとブラウス、下着をハサミで裂いて、傷口の部分だけを露出させる。スタンドライトを点けて確認すると、ナイフが縦に刺し込まれた傷口は当然だが血塗れだった。出血が止まっているのかそうでないのかは判断できない。

「少し染みるけど、動くなよ」

 耳元に囁いて、汲んできた水で血を洗い流す。エレンは鋭く呻いて、無意識に痛みから遠ざかろうとした。少しどころではない痛みが、彼女を襲っているのは容易に想像が付く。だが、ティオゲネスは敢えて脳内を空にして、逃げようとする彼女の身体を押さえ付け、傷口に水を流しては傷口を確認することに集中した。靴で踏み付けられたから、異物が傷口に入っているかも知れないのだ。どんなに苦痛でも、助かりたければ避けて通れない、何ともイヤな儀式である。

 目視の限りで異物がないのを確かめると、ガーゼで傷口を押さえて圧迫止血し、その上から脱脂綿を当てて、包帯をきつめに巻き付ける。

 できる限りの処置を終えると、エレンを負ぶって外科の診療室を出た。

 左手に出て廊下を進み、受付を探す。そこになら、必ず外線に繋がる電話がある筈だ。

 突き当たりで視線を左右へ投げると、程なく目的のものは右手に見つかった。厄介な、当直のシスター達も一緒に。

(どうするかな)

 内心で舌打ちしたその時、非常訓練の時に鳴るサイレンのような音が医療棟内に鳴り響いた。

『学院内にいる全ての人間に通達します』

 聞き覚えのある声に、ティオゲネスは再度、今度は現実に舌打ちした。突如始まった院内放送の声の主は、シスター・ジーナだ。

(あの女、もう気が付きやがったのかよ!)

 悪態を吐く間もあらばこそ。彼女が次に放ったのは、ティオゲネスを追い詰める為の爆弾宣言以外の何者でもなかった。

『只今、銃を持った侵入者が院内を逃亡中です。生徒は各部屋に鍵を掛け、絶対に外へ出ないように。職員は、現在の持ち場を徹底的に探して下さい。繰り返しますが、相手は銃を持っています。呉々も用心して下さい』

 その言葉が終わるまで、ティオゲネスはその場に留まっていなかった。素早く身を翻して、最初に入った裏口へ走っている。しかし、改めて鍵を掛けた覚えもないのに、飛び付いた扉はビクともしなかった。

(嘘だろ!?)

 咄嗟に辺りを見回すが、他に出入りできそうな場所はない。狼狽える内にも受付の付近が騒がしくなり、最小限の明かりしか点いていなかった筈の医療棟内がパッと明るくなった。

 三度目の舌打ちと共に、結局外科の診療室へ逆戻りした。室内には、先刻は暗かったからか、エレンの方へ集中していたからか、とにかく見えなかった普通の窓があるのに気付く。

 内側からなら鍵も簡単に開いたその窓から、外へと飛び降りた。

 医療棟へ侵入した時とは逆の側に出たが、ティオゲネスは構わず森の中へ駆け込んだ。未だ鳴り続けるサイレンに追い立てられるようにして、道なき道を突っ切って走る。

(……にしても、妙だな)

 いくら何でも、銃を持った不審者を相手に、職員全員に捜索を任せるだろうか。しかも、職員は全員シスターだ。聖職者である以上、彼女らは今まで武器を持ったこともない、非暴力主義者の集まりの筈だ。

 普通なら不審者に気付かれないよう、警察を呼ぶだろう。

(まさか)

 行き着いた可能性に、愕然とする。考えたくないが、有り得なくはない。

 有り難くない推測を、まるで裏付けるようなタイミングで、何かに足を取られて、ティオゲネスは転倒した。庇いようもなく、背中からエレンが投げ出される。

「エレっ……」

「動かないで」

 硬質な感触が頭部に押し付けられるのが分かって、ティオゲネスはギクリと身体を強張らせた。その声は、先程撒いて来た筈のセシリアのものだ。同時に、投げ出されたエレンにも銃口が向けられる。エレンに銃口を向けているのは、顔はよく見えないものの、服装からするとシスターの一人だ。

「はっ、……成る程ね。この学院全部がグルだったって訳かよ」

 ティオゲネスは、自分に銃口を向けている相手――セシリアに向かって吐き捨てるように言った。

「全部って言うには語弊があるわ。正しくは、シスター全員とあたしよ。今のところはね」

「今のところは、だって?」

「詳しいトコは、院長先生に訊いたら? ホラ、すぐそこにおいでだし」

 すると、エレンに銃口を向けていたシスターが、彼女の左手に顔を向けて軽く頭を下げる。ティオゲネスからは見えないが、セシリアも同じようにしているのだろう。

 それに導かれるように視線を向けると、闇に闇が重なるような人影が浮かび上がっているのが分かる。やがて、微かに射し込む月明かりに、ピタリと身体に張り付くようなロングドレスを身に纏った女性の姿が露わになった。

「久し振りね、アッシュ。お招きした時間に院長室に来てくれれば、お茶くらいご馳走したのに」

 ねっとりとした甘い声音は、どこか神経を逆撫でするように聴覚に入り込んでくる。

 ダーク・ブロンドの髪を掻き上げるその仕草は、五年前に最後に見た時と少しも変わらない。この学院の院長室で最初に再会した時の姿とは、まるで違う。

 鋭角の輪郭はそのままだが、シスター・ウォルジーと呼ばれていた初老の女性とは、似ても似つかない――あのシスターよりはずっと若く、イヤと言うほど見覚えのある女がそこにいた。

「ご苦労だったわね、スティール」

「いえ。思った以上に手こずりました。申し訳ございません」

「貴女の責任じゃないわ。それに、おかげで発信器の良いテストになったんじゃなくて?」

「発信器だ?」

 眉根を寄せて思わず疑問を口に乗せると、セシリアが歌うように答えた。

「そう、発信器。エレンの下着にこっそりくっつけておいたの。あんたが彼女を連れて歩くかは五分(ごぶ)だったけど、大事なお姫様ならそうするかなって。賭が当たってよかったわ」

 ティオゲネスは唇を噛み締めて沈黙を返す。

 目の届く場所にいれば、絶対に守れる自信があったから、無茶とは思いつつ連れて出たのが、見事に裏目に出た格好だ。

「失敗したと思っているのね。安心なさいな。あなたが彼女を置いて出たら出たで、こちらへご招待する用意があったのだから、そんなに結果に違いはなかったでしょうよ」

 クスクス、と耳障りな甘ったるい笑い声が、草を踏み分ける音と共に近付く。

 いつしか下に向いていた視界の中に、ハイヒールを履いた爪先が入って来たかと思うと、おもむろに細くて長い指先が顎に掛かって上向かされた。

「会いたかったわ、私の可愛いアッシュ」

「……そりゃあどうも。こっちはあんたのモノになった気はないし、もう二度と会いたくなかったけどな」

 投げ出すように返して、濁ったダーク・ブラウンの瞳を睨み据える。

 嫌悪と吐き気しか覚えないその瞳は、揺らぐことなく笑みを浮かべている。しかし、前触れなく空気が動いた瞬間、乾いた音と共に、頬に衝撃が走った。一拍遅れて熱くなるそこに、平手で叩かれたのだと理解する。

「……いけない子。一体どこでそんな言葉遣いを覚えてしまったのかしらね。お母さんには逆らわないコト。そう教えた筈よ?」

「外に出て、その『おかーさん』は間違ってたコトに気付いたんだよ。そっちこそ、いー加減豚箱にでも入ったらどうだ?」

 口の中をどこか切ってしまったのか、血の味が広がるのを感じながら、ティオゲネスは唾と共に吐き捨てる。

 ハウエルズはやはり婉然と微笑むと、無言でスックと立ち上がった。

「不良になってしまった坊やには、お仕置きが必要ね」

 瞬間、彼女は腕を水平に伸ばした。その手には、いつ抜いたのか、拳銃が握られている。引き金に掛けた指を、彼女は躊躇いなく絞った。

「きゃあ!」

 甲高い悲鳴を上げたのは、自分ではなくエレンだった。

「エレン!」

 それまで、地に伏してぐったりと横たわったままだったエレンは、左足の腿を押さえて小刻みに震えている。

「てめぇ、エレンに何をッ……!」

「黙りなさい」

 その言葉と共に、再度銃声とエレンの悲鳴が被る。

「解ったわね? 今後、勝手な真似をすると、大事な彼女がどんどん死に近付くのよ」

 相変わらずクスクスと笑い声を立てながら、ハウエルズがティオゲネスを見下ろす。月明かりの中でも、過ぎるくらいに赤く見える唇が、不気味に弧を描いた。

 ティオゲネスは、すぐにでも女に飛び掛かりたい衝動を、唇を噛み締めて抑え込む。

 この場にいるのは、少なくとも三人。だが、三人だけではないかも知れない。その辺のチンピラならともかく、ヴェア=ガング出身の三人が相手では、瞬時に倒しておしまい、という訳にはいかないだろう。

「そう、いい子ね。やればちゃんとできるんだから。今度はすぐに言うコトを聞いてね?」

 沈黙したティオゲネスの前に、再び腰を下ろしたハウエルズは、小首を傾げてティオゲネスと目線を合わせた。

『いい子ね。やればできるんだから。今度はすぐに言うコトを聞いてね?』

 ハウエルズの言葉が、あの日のそれと重なる。

 頭部に触れる、柔らかな掌。視界一杯に流れ落ちる、ダーク・ブロンドの巻き毛に、奥の見えない濁った瞳――まるで、あの日の再現だ。人を初めて殺した――あの日の。

「……何が、目的なんだよ」

 喉の奥から、低い声が滑り出る。ギリ、と爪が食い込む程に手を握り締めて、ハウエルズを睨み上げると、彼女は一瞬キョトンと目を瞠るようにして、またクスリと笑った。

「決まってるでしょう? 迎えに来たのよ」

「迎え?」

「ええ、そう。ヴェア=ガングの再結成の為にね。優秀な人材が必要なの」

 心底楽しげに一度言葉を切った彼女は、ティオゲネスの頭部に置いていた掌を、頬に滑らせてくる。

「喜びなさい。あなたは選ばれたの。新しいヴェア=ガングを構成するのに相応しい人材としてね」

(ヴェア=ガングの再興だって?)

 冗談じゃない。ティオゲネスは唾棄したい思いで、ハウエルズを睨み続ける。

 一度、組織から逃げ出そうとした。けれど失敗し、大切な友を自分の手で撃ち殺してまで生き延びることを選んだ。もう二度と、同じ思いはしたくないし、今更組織に縛られて生きるなんて真っ平だ。

 しかし、その顔色からまるで考えたことを読んだかのように、ハウエルズが続ける。

「拒否権はない筈よ。あなたは彼女が大切なのでしょう?」

 言葉が詰まる。何か言わなければと思うのに、喉でつかえたように出てこない。

「彼女が大切なら、あなたは私達と一緒に来なければ。大丈夫。生きていればまた逢えるわ」

 嘘だ。今だって、エレンは出血多量で死にそうになっている。すぐそこにいるのに、駆け寄ってもやれないなんて。

 それでもどうにかしなければと、ティオゲネスは必死で頭を巡らせる。

「……人質の意味は、あんたが教えてくれたんだぞ」

「うん?」

「人質は生きてなきゃ意味がない。違うか?」

「勿論よ。あなたがここで『うん』と言ってくれさえしたら、彼女を治療するわ」

 下弦の月のような弧を描いた瞳が、勝利を確信したようにティオゲネスを見下ろす。

「ただ、急いだ方がいいわよ。持って後三十分てとこじゃないかしら」

 ティオゲネスは、間を持たせるように一瞬口を噤んだが、やがて、平板な口調で「分かった」と告げた。

「但し、エレンをこの場で応急手当して病院へ緊急搬送しろ。彼女が死んだら、俺はあんたに従わない」

「分かったわ」

 いい子ね、と言いながら、ハウエルズは満足げにティオゲネスの額に唇を落とす。

「でも、ここじゃ道具が整わないわ。医療棟へ行きましょう。勿論、付き添わせてあげる」

 ハウエルズは、ティオゲネスに立つように促すと、シスターにエレンを運ぶように言い付けた。その場で軽く傷口を押さえる程度の応急措置をして、ティオゲネスが、自分でエレンを運ぶと言っても、特に反対はしなかった(その代わり、セシリアが胡乱な目でこちらを見ていたが)。

 全員無言で医療棟まで引き返すと、ハウエルズは、当直のシスターに応急処置と、救急班を呼ぶよう指示を出して、ティオゲネスを振り返る。

「これでご満足かしら、可愛い坊や」

「まあな」

 目の前でバタバタとシスター達が走り回る光景を、どこか遠い出来事のように眺めながら、ティオゲネスはぼんやりと返事をした。外科診療室の簡易ベッドに横たえられたエレンは、既に気を失っているのか、目を閉じたままピクリとも動く様子はなくなっている。

 満足などできる筈がない。本当なら、せめてエレンだけは無傷で助ける予定だったのだから。

(くそ……)

 脳裏で悪態を吐いたが、ここからはこれからできるベストを尽くすよりない。そう思って、ティオゲネスは軽く深呼吸して頭を切り替える。

「……ところで、救急車を待つ間に訊きたい。ルシンダ=ランフランクを殺すように指示したのは、あんたか?」

 一瞬、話題が明後日に飛んだように思ったのだろう。ハウエルズは、そのダーク・ブラウンの瞳を軽く見開いた。

「安心しろよ。この期に及んでどっかにチクる程、俺も神経図太くない」

 呆れたように肩を竦めて見せると、ハウエルズはクスリと笑った。

「そうね。あなたは既に戻ったのだもの。いいわ。教えてあげる」

 ハウエルズは、親しげにティオゲネスの肩に腕を回すと続けた。

「そうよ。ルシンダを殺すように、私が指示したわ」

「何の為に」

「あの子は、麻薬の横行にいち早く気付いてしまったの。スティールを通じて大人しくしているように言い聞かせたけど、ダメだったわ。本当に……残念なことだった」

 ハウエルズが、心底からの哀悼の意を表するように目を伏せて首を振る。

「なら、ルシンダの身体から薬物反応が出たのは何でだ?」

「あの子にも、他の子と同じように薬を摂取させていたからよ。でも、あの子は、自分も罪に問われるのは仕方ないと言って……」

 だから、途中からは強制的に薬を打たれていた、ということだろう。その後、過剰摂取で死に至らしめる予定が、どこかで計画が狂って慌てて止めを刺したに違いない。

「じゃあ、ルシンダの父親に、ただの事故死だって報告したのも」

「そう。今、この学院内で起きていることを伏せる為だった。だって、もしルシンダの死因が明らかになったら、名のある他のお嬢様方まで逮捕されてしまうのよ。将来的にはともかく、今はそんなことはできないわ」

 ティオゲネスの肩を抱いたハウエルズは、空いた手を広げるようにして肩を竦めた。

「何で麻薬なんか広めたんだ」

「それが資金を調達するのに一番手っ取り早いからよ。いずれここには、あなたやスティールのような元メンバーや、新しく見つけた孤児だけを集めて、新たなるヴェア=ガングの本拠とするつもりなの。今まで正当な学校だった場所なら、格好の隠れ蓑になるわ。あなたも勿論、このままここに残ってくれるわよね、アッシュ?」

「男の俺が? ここ、女子校だろ」

「あなたなら女子としても充分通用しそうだけど、近い内に共学にするつもりだから、その点は安心して」

「教官」

 その時、話が一段落としたと見たのか、セシリアが割り込んで来た。

「何かしら、スティール」

「一つ、気になってることがあるんですけど」

「言ってご覧なさい」

「アッシュは夕方、刑事と話をしていました。そうよね、アッシュ」

 話を振られて、ティオゲネスは鼻を鳴らして目を反らした。しかし、セシリアは追及の手を緩めない。

「いずれ、CUIOのアクセルソン州支部が学校を包囲する可能性もあります」

「大丈夫よ。州警察なんて、少し頑固にガードすれば、ルシンダの時だって強制捜査もできなかったじゃない」

「ですが、その刑事は教官のコトも知っています。もし、それを担保に州警察を動かしたとしたら……」

「それをどうやって上層部に納得させると思うの? アッシュを送り込んで得た情報だなんて、その刑事さんはきっと言わないわ。だって、CUIO内部から、この子に要らぬ疑いの目を向けさせるだけですもの」

 ねえ? とどちらにともなく言いながら、ハウエルズはティオゲネスの髪の毛を愛おしげに梳いた。

「確実な証拠がなければ動けない……警察の上層部なんて所詮そんなモノよ。だからこそ、組織は五年前まで、しかもこの西の大陸で栄えるコトができた……」

 クスクスと面白そうに笑うと、ハウエルズはティオゲネスの肩から腕に手を滑らせ、正面から目線を合わせた。

「だから解ってね、アッシュ。あのお嬢さんは助けてあげる。あなたを私の元へ置いておく為の、大切な首輪ですもの」

 そこでハウエルズは間を持たせるように一度言葉を切ると、滑らかな掌でティオゲネスの頬を撫でる。

「ただ、あの女刑事さんは生かしておけないわ。私達を、延いてはあなたを守る為なの。解ってくれるわね?」

 解って堪るか、と反射で思うが、それは無表情の中に綺麗に押し込む。

 この状況に大分対応して、ティオゲネスは今はすっかり落ち着いた思考を取り戻していた。

(そうだ、同じだ)

 今までと、同じ。相手が、戦闘に於ける昔の師であろうが、その辺のチンピラだろうが変わらない。ただ、エレンの命が懸かっている今、この先は少しのミスも許されない。

「解ってるよ。その代わりと言っちゃなんだけど、一つ頼みを聞いて欲しい」

「あら、何かしら」

「最期に一目、アレクに逢わせてくれないか」

 すると、ハウエルズは目を瞬かせて僅かに首を傾げた。

「あらあら。あなたは残酷な子ね。目の前であの刑事さんが死ぬところを見たいと言うの?」

「見ようが見まいが、どうせ殺す気だろ。アイツには世話になったし、最期に話したいと思っちゃダメなのか」

 ダーク・ブラウンの濁った瞳が、更に瞬いてティオゲネスの翡翠を射るように見つめる。猛烈に目を反らしたい衝動に駆られたが、ティオゲネスはそれを全力で押さえ込んだ。

 見つめ合ったのがどれほどの時間だったのか分からない。しかし、最終的にハウエルズは、「いいわ」と言って、端末を取り出して操作した。

「ああ、スラヴェナ? 今どこ? ……そう。悪いんだけど、あの女刑事さんをここまで連れて来て貰えない? そう。医療棟よ。じゃあ、宜しくね」

 通話を切ったハウエルズは、少し待ってて、と言ってティオゲネスの額に軽くキスを落とすと、エレンの応急措置の場へ歩を進める。

 アレクシスが医療棟へ到着するより前に、救急車が裏門から到着したと連絡が入ったらしい。程なく救急隊員が医療棟内へ入って来て、エレンを診療室から運び出して行った。

「どこの病院だ」

「ここから一番近い救急病院は、パレデス総合病院だけど、運ぶ必要はないわ。この医療棟にもちゃんとした設備はあるから、当学院常勤のお医者様に出勤して頂いたの」

 すると、到着したと思ったものは救急車ではなく、再出勤して来た医師団だったということか。確か、この医療棟内の手術室は、廊下を左へ出てすぐ突き当たりに扉があったと記憶している。

「あなたの条件としては、とにかく彼女を救えば良いのよね?」

 その言葉の含むところは、何となく察した。

 ここに勤める医師には、(あらかじ)め守秘義務でも課してあるに違いない。普通の病院でも守秘義務はあるが、そうではなく、学院の内部でのことを口外しないというそれだ。

 でなければ、エレンが確実に回復するのを待って、今日エレンの治療を担当した医師は口を封じるつもりだろう。

 けれども、ティオゲネスは動揺を見せることなく、ただ首肯した。

 その時、「失礼します」という聞き覚えのある声と共に、一人のシスターが顔を見せた。その鼻は、今は痛々しく負傷している。シスター・ジーナの顔に見えたが、あの顔もどうせ変装だろう。ハウエルズがそうであったように。

(確か、スラヴェナ……って呼ばれてたよな)

 しかし、ティオゲネスはその名に心当たりはなかった。

 ヴェア=ガングも結構なマンモス組織だったから、実を言うと子供達の中にも顔を知らない者の方が多い。それは何も、ティオゲネスに限ったことではないだろう。

 セシリアは、自分以外に元メンバーの孤児はいないと言ったが、もしかしたら彼女が気付かなかっただけで、既にこの学院の孤児の中にセシリア以外にも元メンバーが入学しているのかも知れない。

 ハウエルズにスラヴェナと呼ばれたシスター・ジーナは、連行して来たアレクシスをグイと自分の身体の前へ押し出した。後ろ手に縛られたアレクシスが、たたらを踏んでその場に崩れる。

「アレク!」

「余計なコトはしない方がいいですよ、アッシュ」

 慌ててアレクシスに駆け寄ると、カチリという音と共に、頭部に銃口が押し当てられる。

「いいのよ、ヴェーナ」

 すると、歌うような口調でハウエルズがそれを遮った。

「ですが、総帥」

「どうせ殺すんですもの。最期の語らいは二人きりにさせてあげましょう?」

 そこで一度口を噤んだハウエルズも、どうやらスラヴェナの顔面の負傷に気付いたようだ。

「それより、こちらへいらっしゃい。貴女も手当をした方がいいわ」

 エレンはまだ手の内にある。ティオゲネスがこの場では決して裏切らないということを、ハウエルズは確信しているようだった。

 スラヴェナは不満そうに、ティオゲネスに潰された鼻を鳴らして銃口を退くと、ハウエルズの方へ足を運んだ。

 彼女らの行動を意識の端に置きながら、ティオゲネスはアレクシスに向き直る。

「大丈夫かよ。怪我は?」

 手を貸して、アレクシスと共に、診療室内の壁際にある待合いベンチに腰を下ろしながら、声量を落として訊ねる。彼女も「無事よ、身体の方は」と小さく答えた。

「ごめんね。情けないわ、不意打ち食らってこのザマよ」

 逃げ出そうともしたんだけど、と続けるのを、ティオゲネスは首を振って遮る。組織の人間が見張りに立っていたのでは、脱獄は難しいかも知れない。その前に、多分そう簡単に逃げられる所へ監禁はしないだろう。

「それはいい。学院の職員全部がグルだなんて、ラスだって思ってねぇよ」

 そうね、とアレクシスが小さく頷きを返した後、二人は瞬時沈黙した。

「……そのラスだけど、今どうしてるの?」

「分からねぇ。俺もちょっと前から監視されてたから、それから一切連絡取れなくてよ」

「そう……」

「そろそろお別れは済んだかしら?」

 スラヴェナを医療班に託したのか、ハウエルズがカツカツとヒールの音を響かせて戻ってくる。

 ティオゲネスは沈黙を返した。アレクシスがこれから殺されるのが分かっていて、素直に顎を引けるほど、冷酷な気分になれる筈がない。

 すると、ハウエルズは腰を屈めて、宥めるようにティオゲネスの頬に掌を滑らせる。

「ねぇ、解ってくれるのよね、アッシュ? あなたの頼みでも、これだけは譲る訳にいかないの。彼女を生かして返したら、また五年前の繰り返しになるわ。私はもう、あなた達と引き裂かれたくないの。聞き分けてくれるわよね?」

「……そうだな」

 クスリ、と笑うと、ティオゲネスは不敵な笑みを浮かべてハウエルズを見た。

「全員、その場を動かないで!」

 瞬間、唐突に立ち上がり、高らかに宣言したのはアレクシスだ。

 後ろ手に拘束されていた筈の彼女の両手は、いつの間にやら自由になっている上に、拳銃が握られている。拘束の名残のように、両手には手錠の輪と鎖の残骸がぶら下がっていた。

「一歩でも動いた者は、問答無用で射殺する!」

 その時には、ティオゲネスも動いていた。目の前で呆気に取られているハウエルズの腕を取って背後にねじ上げる。反撃の間を与えず、彼女を俯せに押し倒しながら、素早く仕込みブレスレットから鋼線を引き出し、彼女の首筋に滑らせた。深く食い込んだ鋼線は、彼女の頸動脈を容赦なく寸断する。

 噴水のように吹き上がる血で目を塞がれないよう、彼女の頸動脈を絶つのとほぼ同時に、彼女の身体を蹴り付け、バックステップでその場を飛び離れた。

「きゃあ!」

「総帥!」

 その場にいるシスター達が悲鳴を上げる。

 その彼女達から、照準と視線を外さないまま、アレクシスも慌ててベンチに乗り上がった。ティオゲネスに蹴り飛ばされて床を滑るように転がっていくハウエルズの吹き上げる血を避けようとしつつ、悪態を吐く。

「ちょっと、ティオ! もうちょっとスマートにできないのっ!?」

「悪い! そんな余裕なかった!」

 何しろ、旧ヴェア=ガングの副総帥だ。ティオゲネスとでは、戦闘能力に差があり過ぎる。一瞬の不意打ちだけが生死を分ける勝負だったのだ。

「いいわ、早く行って!」

 ティオゲネスは口で返事をする代わりに、無言で駆け出し、診療室を飛び出した。目指すは、受付内にある外線へ通じる電話だ。

 受付のカウンターを飛び越え様、そこにいた職員に蹴りを入れる。

「あなた、何を!」

 狼狽えたように言った、残りの一人に当て身を食らわせて沈めると、外線電話に飛び付いた。

 ラッセルの端末番号をプッシュすると、イライラしながら呼び出し音を待つ。彼が出るまでのツーコールが、永遠にも等しく思えた。

『はい、もっしもーし。こちらギブソン』

「ラス! 緊急事態だ!」

 普段通りのおどけた受け答えを遮り、電話口に噛み付かんばかりの勢いで、ティオゲネスはこれまでの経緯を説明した。

 エレンが重傷を負って今緊急手術中であること、成り行き上、容疑者を一人殺してしまったこと、アレクシスが今この瞬間、ヴェア=ガング仕込みのシスター達を一人で牽制していることを伝え、急いで学院の回りを包囲してくれるよう頼んだ。

「俺はアレクの加勢に戻る! なるべく急いで応援寄越してくれ!」

 言うだけ言ってしまうと、ティオゲネスは通話を切った。

 殺気を感じたのは、通路へ戻るべくカウンターを飛び越え、宙に舞った時だ。避けようのないポジションにいる、正にその瞬間、銃声が響いて地面へ叩き付けられた。

「く……ッ」

 思わず呻きながら起き上がろうとしたところで、撃たれた右肩を思い切り踏み付けられる。

「アァアアア!!」

 紛れもない激痛に、みっともなく喉から悲鳴が迸った。それでも、どうにか目を上げると、こちらを見下ろすアイス・ブルーの瞳と目が合う。

「……よくも、教官を」

「う、あッ……!」

 グリ、と踵を支点に抉るように傷を圧迫されて、思わず身体が仰け反る。

「セシ、リアッ……!」

「何で、殺したのよ! ねぇ、何で教官を!」

「お前、こそっ、何だよッ……あんな女に付いてて良いコトなんてねぇだろ!」

「あたしの居場所だった!! 教官の傍だけが、あたしの大事な居場所だったのよ!!」

 セシリアは、まるで大切な宝物を奪われた幼子のように泣きじゃくりながら叫んだ。

「組織が崩壊してから、あたしがどんな目に遭ったか知ってるの? あたしはある資産家夫婦の元へ引き取られたわ。里親とはそれなりにうまくやってて、里親も可愛がってくれてると思ってた。なのに、ある日里親に実の子が産まれてから、あの人達のあたしへの扱いは一変したの!! 生まれた弟ばかり可愛がって、あたしはひどい扱いを受けるようになった。主には言葉でよ。『お前はただの穀潰しだ』『害虫だ』って……言葉での暴力くらい、何でもないって思う? 冗談じゃないわ、あの人達はあたしの信頼を裏切ったのよ!!」

 一気に吐露される過去に、言葉が出なくなる。傷の痛みも、一瞬遠退いた気がした。

 ヴェア=ガングにいた子供達は、大なり小なり人間不信の嫌いがある。それは、ティオゲネスも同じだ。

 そんな環境にいて、もう一度他人を信じるということが、どれ程勇気と思い切りが要ることか、ティオゲネスには痛い程解る。

「それでも、我慢したわ。最初は可愛がってくれてたんだから、いつかあたしへの愛情も思い出してくれるんじゃないかって……でも、あの人達はあたしに『あんたは、もう必要ない』って言ったのよ! 『行く場所がなくても知らない』『死ぬなり出て行くなり勝手にしろ』って!!」

 いつしか、セシリアの瞳からは、大粒の涙がボロボロと零れていた。

「……だから、あの人達の車に細工したの」

「な、に……?」

「事故に見せ掛けてあの人達を逆に殺してやったの。その日は、例によってあたしは自宅に放って置かれたから、誰もあたしを疑いやしなかった。いい気味よ。あたしが死んでも構わないなんて言う人は、あたしにも必要ない」

「バカか、お前……んなコトして、何に、なる……ってんだよ」

「じゃあ、その後CUIOはちゃんとアフターケアしてくれるって言うの? 警察だって同じだわ。殴る蹴るの暴力を受けたんでなければもう少し頑張ってみろの一点張りだった。だから、あの人達が死ねば、保護施設に連れ戻してくれるか、新しい里親を探して貰えると思ったのに、CUIOは養父に弟がいるって知って、そこへ移しただけだった!」

 言葉を切ったセシリアの表情が、泣き笑いのように歪む。

「でも、義理の叔父夫婦は、金の亡者だったわ。あたしの養父母の莫大な遺産を、何とか自分のモノにしたがってた。だから、財産管理の名目で喜んであたしを養女にした挙げ句、ここへ追い払ったのよ。……だけど、ここにはあの人がいたわ。あたしを必要としてくれる、あの人が……」

 セシリアの視線が、外科診療室の方へチラリと向けられた。その中で息絶えて倒れている筈のハウエルズを思ったのだろうか。

「やっぱ、バカだな、お前」

「何ですって?」

「アイツが、必要としてたのが、お前っ…ていう個人、だとでも思っ……てんのか? バカも、休み、休み言えよ。俺達は……道具だ…ったろ。アイツらが欲しい……のは、優秀、な……人殺しの道具、だけだ」

 息が上がっている所為で、不自然な場所で言葉が途切れるのがもどかしい。けれども、言わなければならない。

 セシリアは間違っている。彼女の気持ちは本当に心底理解できるが、それでもだ。

 それは、彼女も薄々解っていたのかも知れない。涙に濡れた顔が、一瞬悲しげに歪んだが、すぐにその表情は怒りに塗り替えられる。

「道具でもいいの! 居場所があれば……必要とされれば、人殺しの腕でも構わなかった!! あの人は任務をきちんとこなせば褒めてくれたわ。あたしを慈しんで、愛してくれて、必要だって言ってくれた!! バカな養い親や義理の叔父達とは違う!!」

「……ッ、カヤロ……!」

 ティオゲネスは、渾身の力でセシリアの足の下から抜け出した。腕がもげた気がしたが、構わなかった。

 反動で体勢を崩したセシリアの足首を捕らえて、後ろへひっくり返す。

 傷の痛みをどうにか無視して跳ね起きると、叩き付けられ、息を詰めた彼女の手元に転がっている拳銃を蹴り飛ばし、透かさず彼女の上へ馬乗りになって押さえ込んだ。

「目ぇ覚ませよ! アイツは……アイツらは、俺達を人間だなんて思っちゃいなかった! その証拠に、一度だって本名で呼ばれたコトがあるか!?」

 途端、セシリアは目に見えて動揺した。

「アイツは、さっきまでだってずっと、お前をスティールって呼んでた。コードネームなんて記号と同じだ。個人に付けられた名前みたいに聞こえるかも知れねぇけど、道具の名前と変わりゃしねぇだろ!」

「じゃあ、他に誰があたしを必要としてくれるのよ! あたしはっ……あたしは、ただっ……!」

 ただ、愛されたかった。他の、一般の人々のように、ただ愛されて、毎日笑って、平凡に過ごしたかった。それだけだ。

 彼女が呑み込んだ言葉もよく解ったが、彼女がそれを口に出すことはなかった。声を詰まらせて、自由の利く左腕で目を覆ってしゃくり上げ始めたセシリアの上からゆっくりと立ち上がる。

 一歩間違えば――もし、マルタン教会に引き取られたのでなければ、自分もセシリアと同じ道を歩んだのかも知れない。

 そう思うとやるせなかった。

 既に攻撃の意思をなくしたセシリアを置いて、負傷した右肩を庇いつつ、覚束ない足取りで外科診療室への道を引き返す。

 診療室前の廊下には、血塗れのアレクシスが荒い呼吸を繰り返しながら座り込んでいた。

「……もしかして、遅かったか?」

 訊ねると、アレクシスは俯けていた顔を上げて、力なく微笑んだ。

「そうね。手加減する余裕、全然ないくらいには」

 始末書の文面、考えなくちゃ。

 そう付け加えられたアレクシスの一言に苦笑を浮かべた時、廊下の奥にある手術室の使用中ライトが消えた。


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