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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.3―School―
26/72

School.8 脱出工作

 静寂が落ちた部屋に、カチリと錠を解除する音が小さく響く。

 細く扉を開けて室内へ足を踏み入れたのは、一人のシスターだった。スルリと室内へ滑り込んだ彼女を追って閉じる扉の脇に示されたルームナンバーは、『605』――ヴォドラーシュカ寮の六〇五号室の主は不在のようで、シスターが無断で踏み入っても非難する声はない。

 大きな丸いメガネの奥で、メガネよりやや小さい円を描く栗色の瞳が、油断ない光を宿している。普段の彼女を見慣れている者が見ていたとしたら、まるで別人のようだというだろう。

 足音を全く立てずに室内を点検したシスターは、クローゼットの扉に手を掛けた。やはり音もなく開いたクローゼットには、その部屋の主の服がいくつかと、あまり大きくない本棚があるきりで、誰かが隠れている様子はない。

 クローゼットの扉を閉じると、シスターは向かいにあるバスルームのドアに目を向けた。


***


 絶っっ対に騒ぐなよ。

 そう念押しすると、ティオゲネスはこじ開けた通風孔の中へエレンを押し上げるべく、ひょいと彼女を肩へ乗せた。

「ちょっ、ちょっとティオ!」

 大声を出すな、騒ぐなと言われた手前か、囁き声でエレンが危なっかしく肩の上でバランスを取りつつ抗議の声を上げるが、ティオゲネスは気にしない。

「そこに手ぇ掛けろ」

「そ、そこって」

「通風孔の中に入るんだよ、早く」

 何が何だか呑み込めないらしいエレンは、しかし言われた通りに通風孔の出入り口に手を掛ける。

 エレンが通風孔に頭を入れるのを確認して、ティオゲネスは屈めていた膝を伸ばした。彼女がどうにか上半身を屋根裏へ引き上げるのに合わせて、足を押し上げてやる。天井低いから頭ぶつけるなよ、と事前に注意したにも関わらず、彼女が「痛っ」と小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。

 彼女の足が天井裏へ消えるのと同時に、室外で微かな音がして、ティオゲネスはそちらへ意識を向ける。

「ティオ?」

「シッ!」

 中々上がって来ない自分を不審に思ったのか、通風孔から顔を覗かせたエレンがやはり囁き声で名を呼ぶのを、ティオゲネスは鋭く遮った。

 六〇五号室の中へ、誰か入って来た気がしたのだ。けれど、寮の室内は、ふかふかしたカーペットで覆われていることもあり、ヴェア=ガングで教育を受けた者でなくとも容易に足音を殺すことができる。加えて、組織で育った人間は、引き取られた直後から気配を絶つ術を叩き込まれる為、余程注意しないとその気配を探ることは難しい。

 まさか、こちらの動きを察知したセシリアが様子を見に来たのか。

 しかし、彼女の部屋はこの六〇五号室から大分離れている。エレンに聞いたところによると、確か一二九号室だ。

 五階分離れている上に、同じ平面上で計算しても五十メートルはある。こちらが行動を起こしたのに気付いたとしても、エレンがバスルームへ引っ込んでから、まだ五、六分しか経っていない。まともに来れば、もう少し時間が掛かる筈だ。

(気の所為か……?)

 やや過敏になっているのかも知れない。と思った矢先だった。

 バスルームの鍵が勝手に解除され、ドアノブが回る。自分の勘もまだまだ鈍っていないのを確認できて、喜ぶべきか悲しむべきかを真剣に悩んだのは、ドアが細く開けられるまでのほんの数秒の間だった。

 その扉が開き切るより早く、外側に開いた扉めがけてティオゲネスは思い切り蹴りを入れた。バスルーム内部を覗き込もうとしていた人物は、予期せぬ動きを見せた扉に顔面を打ち付けて、外側へ吹っ飛ばされる。

 ティオゲネスの遠慮のない蹴りを食らった扉は、必然大きく開け放たれた。部屋そのものの出入り口からリビングルームへの短い通路に伸びたその人物は、見覚えのあるシスターだった。

 初対面時に『エレン並に警戒指数が低い』と評した、あのシスター・ジーナだ。

(あちゃ……)

 一瞬、誤ったかと思ったが、すぐに内心で首を振った。見回りにしろ、用事があったにしろ、疚しいことがなければこっそり入ってくる必要はない。にも関わらず、彼女が『こっそり入って来た事実』を『偶然』で片付ける程、ティオゲネスの頭はおめでたい造りをしてはいなかった。

 その胸倉を引っ掴み、バスルームへ引きずり込む。バスルームの扉を閉じて鍵を掛けると、相手の胸倉を引き裂いた。

「ちょっ!」

 通気孔の出入り口から下を覗き込んでいたエレンが、何かの抗議の声を上げるが、それを睨みだけで制してシスターの胸元を調べる。

(やっぱりな)

 予想通りに発見した盗聴用のピンマイクを摘むと、洗面台の水道の蛇口を捻った。流れる水の下に遠慮なくそのピンマイクを突っ込み、洗面台に栓をする。

 次いで、彼女の履いている黒いロングスカートを捲り上げると、その内側にマジックテープで貼り付けてある盗聴器を探し、それも水が溜まり始めた洗面台の中へ投入した。スカートの内側に盗聴器を仕掛ける、というのは組織で習った定番だ。男の自分は、普段パンツルックなので関係ないと思っていたが、注意しろという意味で教わったのだと今なら理解できる。

(何でも習っておくもんだよな。それにしても……あーあー、全く物騒なシスターだねぇ)

 脳裏で呟きながら、彼女が足に着けていた拳銃を、これ幸いとガーターホルスターごと拝借する。この時、ティオゲネスの考えたことをラッセル辺りが聞いていたら、「ヒトのコト言える程安全な人間か、お前は!」という突っ込みが入っただろうことは想像に難くない。

 手早く自分の足に銃を固定すると、備え付けのタオルを濡らして引き裂き、彼女の両手首を背後に纏めて縛り上げた。

 ものの五分も掛からずにそれだけのことをやり終えると、湯船の縁に足を掛けて、自分も通気孔へ身体を引き上げる。通気孔の内側から、下へぶら下がっていた蓋を引き上げて、変形させたヘアピンで固定した。取り敢えず外から一見して、不審に思われなければそれでいい。

「行くぞ」

「い、行くってどこに」

「取り敢えず外だ」

 学院(ここ)へ潜り込む前に頭に叩き込んだ学校の図面通り、天井裏は縦に狭かったが、部屋ごとに区切られてはいない。

 前後左右へさっと視線を走らせると、外からの月明かりと外灯で白く光って見える通風孔が、等間隔に並んでいるのが分かる。一番手近な出口は、向かって左手、六〇五号室の真上にあると思われる場所にあるものだ。

 バカ正直にそこから出るのもどうかと思ったが、自分はともかくエレンに、音を立てずに屋根裏を移動するという芸当は期待できない。

 行くぞ、ともう一度小さく声を掛けて、彼女のスカートを引っ張る。

 通常時なら、「スカートなんて引っ張らないでよ、エッチ!」という文句が飛びそうなところだ。しかし、今が非常時だということは彼女も理解しているのだろう。顔は見えなかったが、黙ってついて来ているようだった。

 辿り着いた通風孔は、部屋のバスルーム同様、目の細かい金網――一つの網目は、人の指先が入るか入らないかの大きさだ――で塞がれている。外からしっかりと螺子で止められているのか、内側からではビクともしない。

 失敬した銃で撃ち抜くのが一番早いが、そんなことをしたら、寮中に銃声が響き渡って大騒ぎになるのは考えるまでもない。

 ティオゲネスは、仕込みブレスレットから鋼線を引っ張り出して、その先にヘアピンを括り付けた。

 それを、一番上の網目から突っ込んで下ろしていく。ヘアピンの先が、一番下の網目付近に来たのを見計らって、もう一本ヘアピンを髪から引き抜き、網目に差し入れた。U字になった部分で、外へ出したヘアピンを引き寄せると、器用に内側へ引き入れる。

 内側から引っ張り、外側へ上手く鋼線が渡ったのを確かめ、鋼線の両端を握って、横一文字に滑らせた。

 微かな悲鳴を上げるようにして金網が切断される。鋼線が金網の上下を寸断したのを確認すると、それをそのまま手前に引いた。

 一瞬抵抗した金網は、抗し切れず、バキッという音と共に、鋼線を内側へ通す。ティオゲネスは、今や向かって左の縁だけで通風孔を塞いでいる金網を、外へ向かって蹴り飛ばした。ややあって、金網が地上に到達する、微かな金属音がする。

 ティオゲネスは仕込みブレスレットを手首から外し、人一人ようやく通り抜けられるような穴の縁に、鋼線の先についている鉤型の飾りを引っかける。ブレスレットをしっかり握ると、足から慎重に外へ出た。

「俺が出たら、同じように外に出て来い。落ちないようにな」

 ティオゲネスが身体を完全に外へ出した後、エレンは、無言で恐る恐る穴から下を確認し、「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。こんな所から降りるの? と口には出さなかったが、顔にデカデカと書いてある。

 地上まで十メートル以上あるので、まあ、彼女としては当然の反応だろう。

 ティオゲネスとしても、エレンを連れている関係上、できれば寮内を普通に歩いて出たかったが、そんなことをすれば、どこにいるかも分からない院長派に見咎められてしまうだろう。

「早くしろ。でないと、いつアイツが気が付いて追ってくるか分からないんだからな」

「……シスター・ジーナのコト?」

「そうだよ。足から出ろ。ゆっくりだぞ」

 さっきは早くしろって言ったクセに、などと、彼女には珍しく揚げ足を取りながら、不承不承といった様子で方向転換した。

 そろそろと足を出して、怖ず怖ずと足を下ろす彼女の腰に手を添え、支えてやる。

「壁がでこぼこしてんの、分かるか?」

「う、うん」

「じゃあ、そこに足引っかけて、ゆっくり下がれ」

「や……ちょっと待って、やっぱり怖いっ……」

 この非常時にも、思い切りの悪い彼女に苛立ちそうになるが、理性を総動員してそれを声に出すまいとする。

「大丈夫だって。外に出たら俺の首にしっかりしがみつけ。それでお前のやるコトは終わりだ」

「うう~……」

 漏れた呻きは半分涙声だった。

 しかし、残念ながらこの作戦を中止する訳にはいかない。何しろ、一番宛にしていた外部の援護――つまり、ラッセルに連絡を取る手段がなくなってしまったのだから。

 アレクシスも未だどこにいるかは掴めていない。これから捜しには行くところだが、首尾良くいかなかった時は、もう彼女には本当に彼女自身でどうにかして貰うより他なかった。

 『スティール』の異名を持つセシリアの盗聴を掻い潜る策を思い付けない以上、もう向こうのなすがままに出方を待って、それからどう反撃するかを決めるしかない。今までになく追い詰められた気持ちで、そう思っていたのは十五分くらい前までのことだ。

『アレクさんが捕まってる場所よ。どこか……生徒が立ち入れない場所ならどうかしら。学院の中に捕まってるんでしょ?』

 エレンのその一言を、最初は有り得ないと一蹴した。

 人質をバカ正直に、この学院の中に隠す訳がないと。けれど、すぐに思い直した。

 ティオゲネスが院長――もとい、ハウエルズの立場だったら、急場凌ぎで取った人質を、わざわざ外部まで運ぶだろうかと。

 しかも、脅迫する相手が、戦闘能力においても修羅場経験においても自分より下だと見下している人間だったら?

 加えて、自分が属していた組織が崩壊し、逃亡中だとしたら、外部にいくつも拠点を作る余裕はない筈だ。もっとも、組織が崩壊したのは昨日今日の話ではない。あれから五年が経とうとしているが、CUIOが未だに追っているとすれば、今は『余裕がない』方に賭けても分の悪い賭ではないだろう。

 ならば、一見単純と思えるエレンの発想は、意外に的を射ている可能性が高い。

 どの道、ここからは自分一人で切り抜けなければならないことには変わりない。低いながらも可能性と勝機があるのに、様子を見るという選択は、今のティオゲネスには敗北とイコールだ。それも、限りなく生存率の低い敗北である。

 すぐに行動しない理由はなかった。

(……ただなぁ……)

 これでコイツがもうちょっと運動神経が良かったら、というボヤキが脳裏を通過するのは今日が初めてではない。何せ、何もない場所を走っていて転ぶほどの、ティオゲネスに言わせればある意味で器用なことをするのが、エレンという少女なのだ。こんな不安定な場所で、何かやらかさない訳がない。

 尋常でない高さに震えながら、ジリジリと外へ出てくるエレンは、ティオゲネスが腰に添えている手を離したら、すぐにも地上へ向かって自由落下を始めそうだった。

 やがて、彼女の身体が穴から全て出た時、心配していた事態は起きた。

「きゃっ……!」

 案の定、手か足を滑らせた彼女は、ノーロープバンジーを実行しそうになる。が、予測できる事態に対応するのは容易かった。透かさずエレンの腰に腕を回してしっかりと抱き寄せる。

「ホラ、早く掴まれよ」

「う、うん……」

 ありがと、と小さく礼を述べた彼女は、藁にも縋るような風情で、ティオゲネスの首に腕を回した。

「しっかり掴まってろよ。後、絶対悲鳴上げんなよ」

 前半はまだしも、後半の意味をエレンがどれだけ理解したかは分からない。が、とにかく彼女が首肯したのを確認すると、ティオゲネスは壁を蹴って勢いよく下へ体重を掛けた。

 降下する間、意外にも彼女は悲鳴を上げなかった。一瞬とも永遠ともつかない時間の後、静かに着地し、一旦彼女の身体を放す。

 通風孔に引っかけた鋼線の先端を回収する為、勢いを付けて壁を駆け上がった。今までピンと張っていた鋼線が緩んだところで腕を跳ね上げる。鋼線の先端が通風孔から離れたのを視認すると、壁を蹴って着地した。

 飛び降りる最中、エレンが悲鳴を上げなかったのではなく声も出なかったのだと気付いたのは、その後だった。

 仕込みブレスレットを元通り腕に装着しながら振り返ると、彼女は地面に四つん這いにうずくまり、顔を突っ伏している。

「大丈夫……じゃねぇな」

「こっ、怖かった……」

 身体は小刻みに震え、顔は見えないが声は今にも泣き出しそうだ。しかし、ここで彼女にギブアップされても困る。

「悪いな。ここで休憩する余裕はねぇんだ。立てそうか?」

 エレンは答えなかった。だが、微かに首を上下させると、震えながら立ち上がろうとする。

 そんな彼女の腕を取って、半ば強引に立ち上がらせると、「行くぞ」と小さく呟いて、取ったままの腕を引っ張る。小走りに駆ける動きに、彼女は辛うじて付いて来た。

 降り立った場所は、ちょうど寮の裏手だった。

 右手に寮の建物、左手に運動場を見ながら、小走りに足を運ぶ。

 本当は反対方向に走った方が、距離的には最初の目的地である院内の礼拝堂には近い。しかし、最短ルートは遮蔽物がなさ過ぎる。生徒達の帰寮門限が過ぎたと言っても、職員であるシスター達がどこを歩いているか分からないし、生徒を含めて他にも元・ヴェア=ガングのメンバーがいる可能性を考えると、多少遠回りでも身を隠せるものがあるルートを行った方がいい。

 エレンのような、予測不可能なお荷物を抱えていれば、尚のことだ。

 そのエレンの言うところの、『生徒立ち入り禁止の場所』は、詳しく質すと結構な数があった。厳密に言えば、裏方――つまり、教員だけが事務作業をする場所は全部そうだ。

 端から当たっては夜が明けてしまう。というより、ハウエルズからの呼び出しの時間が来るのが先だろう。かと言って、絞り込もうにもどう絞り込めば良いのか、皆目見当も付かない。

 だが、生徒に気付かれないように人間一人を隠せて、しかも犯人にとって目の届く場所となれば、自ずと限られてくる。

(となると、庶務棟か、礼拝堂……だな)

 どちらかと言えば、礼拝堂の方が確率は高いだろうか、と思うが、すぐに打ち消す。

 庶務棟でも礼拝堂でも、配下以外の人間が出入りする確率は同じだ。

(両方当たるっかねぇか)

 いや、寧ろ当たる場所が二箇所で済めば儲けものだ。下手をすると、職員スペースを回った挙げ句、全部空振りという可能性もなくはない。

 今歩いている場所から近いのは庶務棟だが、ティオゲネスは礼拝堂から探すことにした。庶務棟の中には、院長室がある。最悪、約束の時間までにアレクシスが見つからなければ、イヤでも行かざるを得ない。

 はあ、と無意識に溜息を吐いた時、ヒュ、という耳慣れた風切り音がして、ティオゲネスは目を見開いた。

「エレッ……!」

 掴んだままでいたエレンの腕を引き寄せようとするのと、彼女が息を詰めるようにして瞠目するのとは、ほぼ同時だった。

 そこからは、まるで悪夢のようだった。

 エレンが前方に投げ出されるようにして倒れるのが、まるでスローモーションのように映る。

 反射的に抱き留めた彼女の背には、ナイフが突き立っていた。


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