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ティオとエレンの事件簿  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
Case-book.3―School―
22/72

School.4 過去との対面【前編】

『あそこに男がいるでしょう? ホラ』


 女の声だ。聞いたことのある、声音。

 女の、ほっそりとして美しい、だが、どこか恐ろしくも見える指先に導かれるように、ティオゲネスは視線を向ける。

 確かに、男がいた。こちらに背を向けて立っているのは、見知らぬ男だ。

 そして、その男は、小さな少年を連れていた。年の頃は、四つか五つ。この時、七歳だったティオゲネスと、さして変わらない年の少年。

『練習しましょうね。ホラ、銃を持って』

 嫌だ。

 そう言いたかったのに、言葉は喉の奥で(わだかま)って、うまく形にならない。碌々抵抗も出来ない内に、女はいっそ優しいと思える仕草で、幼いティオゲネスに銃を握らせた。

『大丈夫。練習用の的と同じよ。中央には当たるようになったでしょう?』

 確かに、この頃のティオゲネスは、九十九パーセントの確率で、的の中央部に着弾させることが出来るようになっていた。だが、人間を撃ったことはまだなかった。

 この時点でなら、充分に引き返せたのに。

『さ、後は引き金を引くだけよ?』

 視線の先では、少年が、彼の父親と思しき男に何か言い、男が返事をするように顔を少年の方へ向けた。ティオゲネスに視界に入って来たその横顔は、覚えてもいない自分の父親を彷彿とさせる。

『ッ、嫌だっ……!』

 途端、声が出た。

 まるで、自分の父親を撃ち殺せと言われたような錯覚に陥る。

 反射的に拒否した為か、声量の調節は出来なかった。拒絶の言葉は、父子(おやこ)の耳にも入ったらしい。

 男と少年が、同時にこちらへ視線を向ける。

 瞬間、女が人形のような無表情で、前触れなく男を撃った。

 乾いた音が響き、男が倒れる様がスローモーションのように見える。男が連れていた少年は、呆気に取られた様子で父親が倒れるのを見ていた。

 女の構えた銃口は、流れるような動きでティオゲネスの側頭部に押し付けられる。

『さ、あっちの坊やはあなたが()りなさいな、アッシュ』

『違う! 俺の名前はっ……』

『名前はどうでもいいの。これから仕事をする時、あなたはアッシュなのよ。さあ、引き金を引いて?』

『……ッ』

 歯を食い縛るようにして、ティオゲネスは首を振る。すると、女の持つ銃口は、側頭部に食い込む強さで更に押し付けられた。

『三秒あげるわ。その間に決めなさいな。あなたが引き金を引くか、それとも』

 組織の人間は、今思えばこのテの脅しが大好きだった。

 脅しではなく、ティオゲネスが命令に背けば、本当にこの側頭部に押し付けた銃口から弾を吐き出したのだろうけれど。

 幼かったティオゲネスに、選択肢などなかった。

 倒れた父親の横に座り込む、見知らぬ少年に向かって、引き金を引くこと以外には。


 甲高く、乾いた音が再度轟く。

 初めて命を奪ったのは、自分より年下の子供だった。


『いい子ね。やれば出来るんだから。今度はすぐに言うコトを聞いてね?』

 頭に、掌の感触。

 視界一杯に流れる、くすんだブロンドの巻き毛。優しく微笑む、形の良い目元の中にある、奥の見えないブラウンの瞳――


「――――ッッ!!」


 瞬時、掛け布団がバサリと音を立てながら翻って、視界が反転した。

 ハアハアと、残響する荒い呼吸が室内を跳ね回っているような錯覚を覚える。視線の先は、まだ薄暗かった。

 程なく、今のは夢だったのだと自覚する。吐き気がこみ上げて来たのは、次の瞬間だった。

「ッ……!」

 反射で口元を手で押さえ、素早くベッドを飛び出す。

 室内に設えられた洗面所に駆け込んで、ユニットバスに備え付けの便器を乱暴に開け放った。

 間一髪、その中へ、胃から逆流したものが飛び込む。

 吐き出すものがなくなって、胃液しか出なくなっても、ティオゲネスは暫く咳き込んでいた。

 吐いたものの臭いが鼻を突く。喉に絡んだ不快感に、漸く身体を動かすことを思い出した。

 ノロノロと腕を持ち上げて、便器のレバーを操作する。水の流れる音を、どこか遠くに聞きながら、洗面台に凭れるようにして蛇口を捻り、口を(ゆす)いだ。

(……最悪)

 水を止めて、重い吐息を吐きながら、脳裏で呟く。

 マルタン教会へ引き取られてからも、夢の中でフラッシュバックに見舞われることは何度もあったが、吐いたのは随分久し振りだった。

(……あの時以来、か)

 マルタン教会へ引き取られてから暫くして、やっぱりこんな風に追体験に魘された挙げ句、戻してしまったことがあった。

 その時は、洗面所へ駆け込む暇がなく、ベッド脇へ吐いてしまった。

 同室だった子供達は、全員同い年か年下だったこともあってか、遠巻きに見ているばかりで近寄る者はなかった。

(――アイツ、以外は)

 あらかた胃の中身を吐き尽くして咳き込んでいた頃、いつの間にそこにいたのか、エレンが黙って背を摩ってくれていた。

 多分、同室の子の誰かが、最年長だったエレンを呼んできてくれたのだろう。

 ティオゲネスが落ち着くのを見計らうと、エレンは静かに一言、『シャワーを浴びていらっしゃい』と言った。寒いから、火傷しない程度に熱めにしてね、と言い添えたその声は、叱責の色のない、優しい声音だったことに気付いたのは、ずっと後になってからだ。

 まともに思考する余裕もなかったティオゲネスは、ただ言われる通りにバスルームへ行き、熱めのシャワーを浴びた。

 蒸気の中でシャワーを浴びる内に冷静さを取り戻した時、ひどい醜態を晒した恥ずかしさと情けなさ、過去の傷に対するやる瀬なさから声もなく泣いた。

 涙が収まるまで、結局バスルームに籠もりきりだったので、漸く外へ出た頃には随分時間が経ってしまっていた。

 それでも、まだ薄暗いダイニングで待っていたエレンは、何も言わなかった。

 エレンが準備してくれていた着替えに当然のように袖を通し、ダイニングへ足を踏み入れると、彼女は丁度、ティオゲネスの汚した服や、吐瀉物の後始末をしたであろうタオルを物干しに干しているところだった。

『落ち着いた?』

 話し掛けられてもばつが悪く、無言で目を反らしたティオゲネスに、彼女はやはりそれ以上何も言わずに、マグカップに注いだお湯を手渡してくれた。

『まだ四時だから、もう少し眠れるわ。飲んだら、マグカップは台所へ出しておいて』

 普段のお節介焼きが嘘のように、彼女はその時だけは、何かをうるさく訊くことはしなかった。

 バスルームでかなり長いこと泣いていたから、恐らく目は赤かっただろう。少し考えれば、泣いていたと気付いた筈なのに、どうして吐いたのかとか、何故泣いていたのかなどの言葉は、一切なかった。

『おやすみ。いい夢を』

 宥めるように、ティオゲネスの額にそっと唇を押し当てて、彼女はダイニングから自分の部屋へ引き取っていった。

 構うことばかりが親切ではないと、彼女が知っていたことに驚くと同時に、必要なフォローだけして後は放置しておいてくれたことが、ひどく有り難かった。

 ティオゲネスが、自分の居場所を彼女の隣に見出したのは、その時が最初だったのかも知れない。

(……は、何考えてんだよ、こんな時に)

 下らねぇ、と自嘲気味に吐き捨てて、いつもより重く感じられる身体を引き摺るようにして洗面所を出た。

 勢いよく背中からベッドへ倒れ込み、首だけを捻って枕元に備え付けのデジタル時計を確認する。午前五時半。

 起床は六時半だから、寝直すには遅過ぎる。やってもいいが、確実に寝過ごすだろう。編入二日目で遅刻するのは流石にまずい。

(それにしても……)

 はあ、と溜息を吐いて、天井を見上げながら脳裏で呟く。

 何故、今頃になって、初めて人を殺した時のことなど思い出したのだろう。

 フラッシュバックは珍しくないが、あの時のことを夢に見たのは、本当に久し振りだった。

 訳も分からぬまま、一見無差別に殺されたかに見えた男は、後で聞いた話によると、組織に依頼された殺人のターゲットだったらしい。どこの誰が、何の為に殺しを依頼したかまでは、ティオゲネスも知らないが。

 それよりも、胸奥深い場所に刻まれているのは、自分よりも幼い子を殺してしまったという事実だった。

 怯えたような表情も、責めるような目も、思い出そうとすればはっきりと思い出せるのに、その記憶に色は着いていない。イメージとしてはモノクロだ。

 風景さえ、白黒写真のような記憶の中で、あの女だけがやけに鮮やかな色彩を伴って、脳裏に灼き付けられている。

 ダークブロンドの巻き毛に、いけ好かない、奥の見えない濁ったブラウンの瞳――

「ッ……!」

 瞬間、翡翠の瞳を見開いたティオゲネスは、勢いよく起き上がった。

 濁った、あのブラウンの瞳。

 それをどこで見たか、思い出したのだ。

(まさか……そんなバカな)

 けれど、有り得ない。有り得ないが、つい最近見掛けたのは事実だった。

「嘘だろ……」

 呆然とした呟きは、暁闇の室内に、力なく落ちた。


***


「エレーン! いるーっ!?」

 その日、授業後のホームルームが終わるなり、セシリアが廊下から飛び込んで来た。

 大音量の声に、教室全員の視線がセシリアに向くが、彼女は何ら気にした様子はない。

「あ、良かった。無事ね」

 つかつかと机の間を突っ切ったセシリアは、真っ直ぐにエレンの席へ来た。エレンが荷造りを終えるのを待つと、さっさとエレンの腕を引いて教室を後にする。

 初めて口を利いたあの日から、セシリアは授業が終わると毎日教室まで迎えに来てくれるようになった。

 教員代わりのシスターの目があっても、授業で拘束されない時間はいつもいじめられている状態なエレンを見兼ねたのか、生徒会長権限もフルに使ってその隙を与えないようにしてくれている。

 勿論、クラスが違っては完全に嫌がらせをシャットアウトすることは出来ないが、おかげでその時間は大幅に減った。ルシンダが亡くなってからは、自室にいる時だけが唯一安らげる時間だったし、食事も食堂では摂れなかったので、購買で買ったものを食べていたが、今は食堂で食事も出来る。まだ視線が痛いことに変わりはないものの、図書館へも元通り通えるようになった。

 今日も、図書館へ本を返しに行き、新しい本を選ぶ間も文句の一つも言わずに付き合ってくれる彼女には、心から感謝している。――あの時、泣いた理由には一切触れずにいてくれることにも。

「……ありがとう。いつも、ごめんなさいね」

「いいのよ。真犯人をいつまでも追及しようとしないシスター達が一番悪いんだから」

 カラカラと笑って手を振るセシリアに、エレンは複雑な苦笑を返した。

 柔らかで、どちらかと言えば整った顔立ちのセシリアだったが、その外見からこの言葉遣いは予測不能だ。そんなところも、ティオゲネスを思い出させて、それが意外にもエレンの心に平穏をもたらしていた。

 どうせ、ここにずっといても、この状態が続くのは長くても一年前後だ。

 マルタン教会へ戻るにしろ、ここにいるにしろ、一年後には卒業しなくてはならないのは同じである。

 いつまで経っても、心の整理がつかない状態に変わりはない。ならば、もうマルタン教会へ戻るのは止めようかと、エレンは思い始めていた。

「じゃあ、また夕飯の時にね」

 寮の自室の前まで来て、エレンはセシリアを振り返る。

 あの殺人事件があった後、流石にその部屋に居続けるのを問題視してくれたのか、学院側の配慮で、エレンはヴォドラーシュカ寮の六〇五号室に移っていた。

 鍵を出そうとすると、この日に限って、セシリアが不意にエレンにそっと何かを差し出した。

「……セシリア?」

「これ、あげる」

 彼女が差し出したのは、袋に入った白い粉末だった。

「……? 何、これ」

「眠剤。エレン、最近もあんまり眠れないって言ってたでしょ。あたしも体質なのか寝付きが悪いから、養父が経営してた薬局の人からこっそり貰ってるの。これは、お裾分け」

「え、でも」

 セシリアも必要なんだろうに、と思うと、エレンは受け取るのを躊躇った。しかし、セシリアは強引に袋をエレンの手に握らせる。

「養父とは比較的うまくやってたのよ。薬局の人とも顔馴染みだし、あたしはまた送って貰うわ。どうしても気になるなら、効果があるって分かってからお金を払ってくれればいいし」

 じゃあね、とエレンが反駁する間もなく、セシリアは踵を返した。

 暫く途方に暮れていたエレンだったが、やがて諦めたように溜息を吐いて、取り出した鍵を鍵穴に差し込む。

 いくらセシリアの好意でも、これは受け取れない、と思った。

 彼女が必要で知人から融通して貰っているものを、横取りするのはやはり気が引ける。

 夕食時に会った時に、これは返そう。そう、考えるともなく脳裏で呟きながら、エレンは室内へ足を踏み入れ、忘れないようにする為に、それを机の上に置いた。

 普通、二人の人間が生活する為に設えられた部屋に、今は一人でいるものだから、二つある机の内、一つは見事に物置状態になっている。

 それ故、もう一つの、勉強に使っている机の上は、必要以上にすっきりとしており、ポツンと置かれた薬の袋は嫌でも目を引いた。出掛けに、机の上に目を遣ることを忘れさえしなければ、持って出るのを忘れる心配はないだろう。

 クローゼットの前に行き、着替えようとしてボレロに手を掛けた、その時だった。

「何だ、これ」

「きゃあ!」

 誰もいないと思っていた室内で、不意に話し掛けられて、エレンは飛び上がった。反射的に悲鳴を上げて、同時に声のした方へ視線を向ける。

 エレンのいる位置から見て、ベッドの向こう側にある机の前に、いつからそこにいたのか、銀灰色の髪と翡翠の瞳を持つ、特上の美少女が、腰に手を当てて机にあった袋を摘み上げていた。

「え、えええっと、どちら様……」

 部屋を移る時、誰もエレンと相部屋になることを承諾してくれず、原則二人部屋の規則を破る形で、必然的に一人で過ごしていたが、ルームメイトが入って来たのだろうか。

 ――といったことをざっと考えつつ、辿々しく訊ねると、銀灰色の髪の美少女は、やや呆れたようにその翡翠の双眸を細めた。

「何つまんないボケかましてやがんだよ。俺だよ、オ・レ」

「え?」

 今流行りの、『オレオレ詐欺』という奴だろうか。

(ってゆーか、女の子がフツー『俺』とか言う?)

 大真面目に考えながら、よくよく相手の顔を観察すると、それは見覚えのある顔だった。

「あっ!」

 最後に会った時から半年も経っていたので、その時より輪郭はややシャープになり、目元が切れ長になり、更に背も少し伸びていた為、咄嗟には分からなかった。だが、これは――

(嘘……)

 何故、彼がここにいるのだろう。エレンは唖然としたが、夢でも幻でもなさそうだ。

「……ティオ、なの?」

「そーだよ。久し振りだな」

 銀灰色の髪も、少し――いや、かなり(つや)を増した美貌も、透明度の高いエメラルドと見紛う翡翠の瞳も、確かに彼のものに違いないのだが、格好は見慣れた彼のそれとは程遠い。

 髪の毛は、両サイドを捻って後ろへ纏めている。いつもは、無造作にうなじの上で纏め上げるか、さもなければ下ろしているかのどちらかだったので、それだけで印象が違って見えた。

 服装は既に着替えたのか、私服だ。上半身は、ハイネックで薄桃色のTシャツの上に、黒地に花柄のあしらってある、太股に裾が来るタイプのワンピースを履いている。下半身は黒いレギンスで、スレンダーな体つきの彼には異様に似合っていた。

「……笑いたきゃ笑え」

 但し爆笑するなよ、と小難しいことを付け加えながら、ティオゲネスは薄赤くなった顔をエレンから反らすように身体ごと後ろを向いた。

「笑うなんてそんな……」

 可愛い、というより、やはり綺麗と言った方が相応しいだろうか。

 似合い過ぎて、彼と旧知でなかったら少年と思えなかっただろう。笑うより先に、女として自信を喪失しそうだった。

「……普通に綺麗なんだけど」

「それはそれで腹立つな」

 拗ねたような表情で、その翡翠の瞳がエレンを一睨みする。「まあいいけど」と言って肩を竦めたティオゲネスは、座れとも言われないのに勉強机の前の椅子に腰を下ろして足を組んだ。

「で、コレは何なんですかね、エレンさん」

 セシリアから貰って机の上に置いた眠薬を、人差し指と親指で摘んでヒラヒラと振るティオゲネスに、エレンは漸く我に返る。

「と、友達に貰った眠薬よ。後で彼女に返すんだから、そこに置いておいて! それより、あんたこそ何でそんなカッコでこんなトコにいるのよ。後、この部屋、鍵掛かってた筈よね?」

 ティオゲネスは、無言でヘアピンを彼自身の目の前に翳して見せた。

「……まさか、それで開けた、とか言わないでしょうね」

「やり方は企業秘密だ」

 言いながら、ティオゲネスはそのヘアピンを後頭部に戻した。

 聞きたいとも思わない。立派に不法侵入だ。

 という文句は、エレンの口から出ることはない。

 この少年は、必要だと断じたら、他人が何を言ってもやりたいようにやるのだ。今更、不法行為を責め立てても始まらないし、第一、エレンの知っているだけで彼のやらかした不法行為を挙げて行けばキリがない。

「お前の今置かれてる状況は大体把握してる。何で一人部屋なのかもな」

 軽く目眩を感じていたエレンは、前置きもなくいきなり本題に入ったティオゲネスに、ハッとしたような視線を向けた。

「結論から言うけど、お前今すぐマルタン教会に帰れ」

「なっ……」

 乱暴な言い分に、エレンは今日部屋へ戻ってから三度唖然とする羽目になった。

「ちょっ……ちょっと、待ってよ。何でそんなコトあんたに決められなくちゃいけないの? あたしは……っ」

「皆待ってる」

 反射的な反発から、『もう戻るつもりはない』と言い掛けたエレンは、まるでそのセリフに、自分の言葉を喉の奥へ押し戻されたような気がした。

 真摯な翡翠に射抜かれたように、動けなくなる。

 しかし、次の瞬間、感動は若干台無しになった。

「早く帰って来い、だとさ」

「……『だとさ』?」

「神父様からの伝言だから」

「…………」

 一瞬でも期待した自分がバカだった。

 待っている『皆』の中に、ティオゲネスも含まれていると思うなど、自惚れにも程があった。

 はあ、と溜息を吐いて、ティオゲネスから目線を反らしながら、エレンは制服のままベッドに腰を下ろす。

「……わざわざ女装までして潜り込んで貰っといて薄情かも知れないけど、あたし、まだ……」

「戻る気がねぇ、ってか?」

 言い淀んだ先を拾われて、エレンは口を噤む。

 さり気なく含んだ嫌味は、彼の耳を綺麗に素通りしたらしい。

 どう答えるべきか分からなくて、エレンは逡巡した。

(……戻りたい)

 本当は、心底あの場所へ帰りたいと願っている自分もいる。

 ここへは、ただ逃げて来ただけだ。

 育ての親であるラティマー神父やブラザー、シスター達、それに、今は実の『きょうだい』とも呼べる、弟や妹達から――そして何より、目の前のこの、翡翠の瞳の持ち主から、とにかく逃げていたかった。

 顔を合わせなければ、『あのこと』は問い質されずに済む。問い質されないということは、思い出さずに済むということに他ならなかった。

 けれど、悪夢は強引に『あの出来事』を繰り返し、エレンに見せつけた。まるで、誰かに『忘れるな』と念押しされているようだった。

 『お前は、汚れているのだ』と。

(戻れない)

 『まだ』戻れないのではない。『もう』戻れないのだ。

 こんなに汚れてしまった自分は、皆に会わせる顔などない。

(ティオにだって)

 本当は、見られたくなかった。今だって、見られているのが辛い。――彼に、見られているのが一番辛い。

 そう思うと、手の甲が自然と持ち上がり、唇に当たる。

「……出てって」

「エレン」

「お願いだから、一人にして」

「何がそんなに気になるんだ?」

 図星を指されたような気がして、ビクリと身体が震える。

「い……言えない」

「言えない、ね。まあ、お前にしちゃ妥当な誤魔化し文句か」

 皮肉めいた笑みを浮かべて、肩を竦めているのが、極上の美少女にしか見えないのは、何やら奇異な眺めだ。

「けど、お前がどう思おうと、お前にはすぐに教会へ戻って貰う」

「お、横暴じゃない。そんなコト、あんたが決める権利なんてないわ」

「じゃあ訊くケド、何でお前はそんなにここに残っていたいんだ?」

 エレンは、グッと返答に詰まった。そうして出来た隙を、ならず者との駆け引きにさえ長けたこの少年が、見逃してくれる筈もない。

「密室殺人の殺人犯に仕立て上げられて、教師代わりのシスター達からさえ疑われてる。味方はたった一人だけ。生徒会長のセシリア、だっけか? そんな環境に頑として残っていたい理由は何なんだ?」

「それは……」

「言っとくけど、俺は別に揶揄(からか)ってる訳でも、ましてやいじめたい訳でもない。その為だけにこんな情けない女装姿、選りに選ってお前にわざわざ晒しに来る程暇でもねぇしな」

 責め立てられている訳でもないのに、完全に袋小路に追い詰められた錯覚に陥る。

 エレンは、真剣な翡翠の瞳から逃れるように下を向いて、スカートを握り締めた。

「お前が言いたくないと思うコトを、無理矢理訊くつもりはねぇ。けど、それが引っ掛かってここから動けないってんなら、話は別だ」

「……だっ、て……」

(絶対言えない)

 益々彼の視線から逃れるようにして俯き、唇を噛み締める。

 言えばきっと、彼は自分を軽蔑するに違いない。

 軽蔑されて、もう二度と口も利いて貰えないくらいなら――卑しい女だと思われるくらいなら、二度と会えない方がずっとマシだった。

 どのくらい、重苦しい沈黙が続いただろうか。ティオゲネスが座っていた椅子からおもむろに立ち上がり、静かに歩を進めて、エレンの側で足を止める。

 断罪を待つ罪人のような心持ちで、思わず目を閉じた時、頭部にふわりと何か温かいものが乗せられる。それが、ティオゲネスの掌だと気付くのに、さして時間は掛からなかった。

 そのまま、彼の胸元へ抱き寄せられて、思考が真っ白になる。

「……大丈夫だ。何があったんだとしても、誰もお前を責める奴はいねぇよ。だから、戻ってこい」

「ッ……」

 息が、詰まる。

 心臓がドキドキと脈打って、放して欲しいのに同時に離れたくなくて、エレンは軽い混乱を覚えた。

「……ティオ……」

「うん?」

「あの……」

 一瞬、言ってしまおうか、という誘惑が頭を過ぎる。

 それが何故かは、エレンにも分からなかった。

 言ってしまえば、ティオゲネスは自分から離れていくだろう。けれど、もし吐き出してしまえば、金輪際こんな風に、真綿で首を絞められるような尋問は受けなくても済む。

 楽になりたいけれど、ティオゲネスに軽蔑されるのだけは耐えられない。

 相反する思考の狭間で、エレンはこれまでにない程激しく思い悩んだ。

(どうしよう)

 もういっそ、何も考えたくない。ここから消えたい。

 それより、せめて、あの記憶さえ消えてくれればと思う。自分が覚えていなければ、なかったことに出来るのだから。

(神様)

 無意識に脳裏で呟いて、その神に縋る資格さえ失ってしまっているのだと思い出す。

「……無理に言わなくていい。ただ、教会へ戻ってくれれば」

「出来ない……!」

 エレンは、目の前にあったティオゲネスの身体を押しやった。

「エレン?」

「ダメなの……あたし、あたしは、もう汚れてるからっ……!」

 無意識に口走って、思わず唇を噛む。

 キュッと鼻の奥が痛んで、視界が歪む。涙の出る前触れだと、自覚する間もない。

 パタリと乾いた音を立てて、スカートに落ちた滴に、ティオゲネスも気付いただろう。

「汚れてるって、どういう意味だ?」

 けれども、ただ静かに問い返す声音が、逆にエレンを追い詰める。いっそ、詰ってくれればどんなに楽なことだろう。

 エレンは、ティオゲネスの腕に縋ったまま、ただ弱々しく首を振った。

 言えない。言いたくない。口が裂けても、彼にだけは知られたくない。けれども、曖昧に誤魔化したのでは、彼は納得しないだろう。納得しない以上、簡単には引き下がらない。彼は、そういう人間だ。

「お願いだから……もう、帰って」

 止まらない涙に困惑しながら、漸くそれだけを口にする。

 だが、予想通り、ティオゲネスは自分の主張を曲げなかった。

「こっちのセリフだ。頼むから教会に帰れ。その代わり、お前の濡れ衣は必ず晴らしてやるから」

「え……?」

 思わず顔を上げると、涙でけぶったヴェールの向こう側にある、真摯な翡翠の瞳と視線が絡む。

「教会へどうしても帰りたくないなら、この件を解決するまでCUIOの手配したホテルに移ってくれるだけでいい。とにかく、ここを出てくれ。多分もう、お前の手に負える話じゃねぇ」

「どういう、意味?」

 どこか切羽詰まった、懇願の響きを帯びた彼の声色に、疑問に思ったまま訊ねると、ティオゲネスは初めて動揺したような表情を見せた。

「……はっきりしたコトは言えない。今はまだ、俺の推測の域を出ねぇからな」

 けど、とティオゲネスは言葉を続ける。

「俺の予想が正しければ……」

 そこで、彼はまたも言い淀んだ。伏せた瞼の下で、珍しく視線をウロウロと彷徨(さまよ)わせている。

「……とにかく、時間がない。アレクに、お前を迎えに来るように頼んである。図書館までは送るから」

「待って……」

 エレンは、ティオゲネスの視線をしっかりと捉えた。

 さっきまで、彼の目をもう見られないと思っていたのに。

 けれども、彼は『何か』するつもりだというのは、何故かはっきりと分かった。

 今までの騒動の比でない、『何か』。

「その前に教えて。あんたは、何でここに来たの? あたしを連れ戻す為だけじゃないのよね」

「……相変わらず、肝心な時に鋭いな、お前」

 クス、と漏れた笑いは、苦笑と自嘲の響きが含まれている。

「ここへ来たのは、ラスの頼みでだ。お前が殺人犯に仕立てられてて、警察も入れないからってな」

 あっさりと返された事実に、エレンは驚かなかった。言葉の端々に、それを予想させるものがここまでの話に含まれていたからかも知れない。

「で、さっきも訊いたけど。コレ、何だ?」

 透明な袋に入った薬を、目の前に翳されて、エレンは目を瞬いた。

「さっきも言ったじゃない。友達に貰った眠薬だって。夕食の時には返すつもりだけど……」

 ふぅん、と気のないような返事をしながら、ティオゲネスは自分の指先にある薬の袋を、どこか冷たい目線で見据える。

「その友達ってのは、生徒会長か?」

「そう。高等部三年A組の、セシリア=レアードさんよ」

「分かった。コレは俺が預かる。お前はもう行け」

 言うや、ティオゲネスはその袋を、ワンピースのポケットへ押し込んだ。

「行くって」

「図書館だよ。アレクが待ってる。教会に帰りたくなきゃ、あいつにそう言え。何か考えてくれるだろ」

「ちょっと……待ってよ。行くって言ったって、いきなり消える訳にいかないでしょ」

「その為にアレクに来て貰ってる。この学院は普通じゃないコトくらい、お前にも分かってるだろ」

「それは……」

 無表情な翡翠色に見据えられて、エレンは怯んだ。

 確かに、普通ではない。例えば、明らかな殺人をそのまま放置したり、その犯人と疑っている生徒を学院内に留め置いたり。

「何が……起きてるの」

「それをちゃんと調べる為に、俺がいる。答えを見つけるコトが、お前の濡れ衣を晴らすコトにもなるからな」

 そう言うと、ティオゲネスがエレンの腕を取って、立ち上がらせる。

「荷物は置いてっていい。事件が解決したら、どうとでもなる」

「ティオ」

「ん?」

 背が伸びた彼は、今やエレンと目を合わせるのに、首を傾げなくてもよくなっていた。

 真っ直ぐ見つめた視線の先に、綺麗な翡翠の瞳がある。

「また……会えるよね」

 不意に襲った不安に、エレンは無意識に問い掛けていた。

 もう会いたくないと、『あのこと』を知られるくらいなら、会えなくてもいいと思っていた。けれども、それは、マルタン教会に戻りさえすればいつでも会えるという『(アテ)』があったからに他ならないのだと、エレンは出し抜けに悟った。

「会える……よね」

 丸くなった翡翠の瞳に、震える声で重ねて問う。

 虚を衝かれたように瞠目していたティオゲネスは、やがて頬を緩ませて苦笑すると、手を伸ばした。

「ティオ?」

 少年のものとは思えない、細くて長い、形の良い指先が、エレンの頬に触れる。

「……当たり前だろ」

 お前が教会に戻りさえすればな、と付け加えられた一言に、エレンは泣き笑いのような微笑を返すことしか出来なかった。


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