二十九 僕?
「——以上がことの顛末となります。どうです? 少しは自分のことを思い出せましたか?」
落ち着いた雰囲気の喫茶店。その窓際の席で、約二時間にも渡る熱弁を終えた彼女は、一冊の文庫本を閉じた。
本のタイトルは『サイケデリック』。
目の前の彼女が書いた本らしい。
「思い出せた……というか、なんか……あまり実感がないというか」
「まあ、色々と壮絶なお話でしたからね。多少は脚色してますが、九割くらいはあなたの過去ですよ。驚きました?」
「この主人公……本当に僕なんですか?」
「もちろん」
そう言って、彼女は大きく膨らんだお腹をさすった。
来週が予定日らしい。女の子で、名前はまだ決めていないそうだ。父親に会った時に名前を決めてもらうと言っていた。
僕にはこれまで生きていた頃の記憶がほとんどない。
半年くらい前に事故に遭ったらしくて、その後遺症で記憶と右手の握力を失った。お医者さんからは、あれだけの事故でその程度で済んだのだから奇跡だと言っていた。
リハビリを繰り返して、きょう僕はやっと退院することができた。その時に迎えに来たのが、彼女だった。彼女は僕と知り合いらしい。
『酷いなあ。知り合いじゃないよ。友達以上で恋人以上だよ』
冗談なのか本気なのか、自称作家の彼女は無邪気に笑いながら僕をここまで連れてきて、デビュー作を朗読した。
正直、この人は頭がおかしいと思う。だって、僕の過去を調べ尽くして、僕を主人公にした小説を出版してお金を稼いでいるのだから。意味がわからない。著作権とかないのだろうか。
「まあでも、大丈夫だよ蓮くん。これからはずっと一緒だから。わたしが養ってあげるからね。さっきも言ったけど、キミは身寄りがないから。わたし以外、頼れる人がいないとても可哀想な人だから、わたしが責任持って大切に可愛がってあげるからね」
「………」
「あ、お金のこと心配してる? 大丈夫大丈夫、知り合いがね、死ぬ間際に大金と土地をくれたから。でっかい武家屋敷だよ。きっと気にいると思うな」
皮膚が粟立った。
笑顔で、平然と浮気宣言をしている人妻。
いやでも、指輪はしてないから……シンママ? でも父親に会ったら名前を決めてもらうとか言ってたから……。
事故のせいで頭が悪くなった僕は、ひどく混乱した。オレンジジュースで乾いた喉を潤して、僕は彼女と目を合わせる。
「あの、あなたは……その小説の中に登場してるんですか?」
「………ふふ。誰だと思う?」
もし、仮に。さっき話してくれた物語が本当のことだったとしたら。
あの三人のうちの誰かが、目の前の彼女だとしたら。
手首を擦る。
まるでブレスレットのように手首を一周する、赤黒い色素沈着。
お医者さんは事故の傷だと言っていたけれど、どうやったらこんな綺麗に円を描くような傷ができるんだろう。
まるで、何かにずっと縛り付けられていたような——。
「いいよ、別に。今は誰でも。そのうち思い出してくれるって信じてるから。——ね、あなたもそう思うよね? ふふ、パパの声聞こえるかな~? あ、今蹴った! ねえ、触って。きっと喜んでくれるから」
「……っ」
頭痛。頭が割れそうだ。呼吸が浅くなって、心臓が痛い。苦しい。
何も覚えていないのに、体に染みついた何かが僕に逃げろと訴えかけてきた。でも、でも、でも、
「大丈夫? 顔色、悪いよ。もう帰ろうか。お店の前まで車まわしてくるから、ちょっと待っててね。パパ」
語尾にハートがつきそうなほど甘ったるいパパ呼び。
僕は、彼女の気配が店内から消えるのを感じると、席を立った。
「お帰りですか?」
「あ、は、はい。えと、僕、お金ないのでさっき出て行った人、また戻ってくると思うので、その人に請求してください。あの人、作家なんです」
うまく呂律のまわらない僕は、焦ってクズみたいなことを言っていた。
そんな様子の僕に、黒髪を後ろで結んだ綺麗な店員さんが、クスッと笑った。
……この店員さん。さっきまでいただろうか……?
冷や汗が背筋を伝う。
「そうなんですね。大丈夫ですよ、代金はいただきませんから」
「え、どうして……」
「今日はもう閉店なんです」
ニコニコと笑いながら、店員さんはオープンからクローズへと掛札をひっくり返すと、鍵を閉めてシャッターを降ろした。
暗くなる店内。僕は体の震えが止まらなくて、何か叫ぼうとしても何故か声が出なくて。そんな僕を、彼女が優しく抱きしめた。
そして耳元で、囁いた。
「ただいま。約束、覚えてるよね?」
その体温。声色。——匂い。
「ぁ」
自然と流れてきた涙を拭って、僕は彼女を抱き返した。
「……うん。覚えてるよ」
「会いたかったよ」
「ごめんね。僕の方が、待たせちゃったみたい」
「大丈夫。こうして会えたから」
「うん。じゃあ聞かせてくれる? これからの計画を」
完結です。
ありがとうございました。




