別れ話 :約2500文字 :コメディー
とある冬の夜、駅前の歩道橋。
街は少しずつクリスマスの装いへと変わり始めており、広場には色とりどりのイルミネーションが設えられていた。トナカイやツリー、ソリを模した青や金の光が絶え間なく瞬き、通り過ぎる人々の頬やコートを淡く照らしている。その光景は、足早に駅へ向かう者たちの表情までわずかに和らげ、足取りをどこかゆるやかにしているようだった。
時折、学生やカップル、子供の笑い声が響き、ビルに反響して澄んだ空へと溶けていく。人々の賑わいが冬の夜気を際立たせていた。
その歩道橋の手すりにもたれ、じっと下の広場を見つめている女がいた。両手をコートのポケットに入れたまま、動かない。白い息だけが規則的に夜に混ざっていた。その顔に笑みはなく、瞳はただ景色をぼんやりと反射しているだけのようだった。
と、そこへ笑顔で駆け寄る男が一人――。
「よっ、お待たせ」
男は少し息を切らしながら、いつもの調子で軽く手を挙げた。声は弾み、浮き足立っているのが見て取れた。
「うん……」
女はゆっくりと男のほうへ顔を向けた。
「なに? 急に呼び出して。ま、うれしいけどね」
男はそう言って隣に並び、手すりに腕を乗せた。
「ごめん……」
「いいって、いいって。おっ、イルミネーションやってるじゃん。いつからだろ。こういうのって、一人だと意外と気づかないんだよなあ」
男は鼻を掻きながら笑った。そのときだった。
「別れてほしいの」
女がぽつりと言った。
「……え?」
「ごめん、別れてほしいの」
「いや、は?」
「ごめん、そういうことだから。さよなら」
「いや、ちょっと待てって! なんでだよ!」
踵を返しかけた女を男は慌てて呼び止めた。女は俯き加減で口を開く。
「もう、あなたのことが好きじゃないの……」
「そんな、嘘だろ……?」
「ほんとだよ。だから……さよなら」
「いや、嘘なんだろ?」
「だから、ほんとなの……」
「いや、嘘じゃん」
「ほんとだってば」
「いやいや、嘘だし」
「え、しつこい。なんなの……」
「いや、おれ知ってんだよ……病気なんだろ?」
「え、なんで……」
女は息を呑み、目を見開いた。男は後頭部をぽりぽり掻きながら、小さく息を吐いた。
「この前、病院から出てくるところを見たんだよ……。すげー沈んだ顔しててさ。まさかと思っていたけど、今ので確信した。病気なんだよな?」
二人とも、しばしの間そのまま動かなかった。行き交う人々の靴音だけがやけに耳に響いた。
やがて女は無言で小さく頷いた。
「そうか……その、治らないのか?」
「うん……もう助からないの」
「そんな……」
男は一度言葉を切り、下を向いた。それから震えを押し込めるように唾を飲み込むと、続けた。
「……でも、おれが支えるから。良くなるかもしれないし、とにかくおれがずっとそばにいるから!」
「だから、別れてほしいの」
「……ん?」
男は首を傾げた。
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ。じゃあ、さよなら。バイバイ」
「いや、待てって! おれを傷つけないために振るんじゃないの?」
「ううん、本当にあなたのことが嫌いだから別れてほしいの」
「えっ、嫌いなのは本当!?」
「うん。あなたが私の葬式に来ると想像しただけで、もう、もうもう蕁麻疹がもう!」
「いや、えええ……」
女が腕や首をぼりぼりと掻き始め、男は思わず慄いた。
「その……おれに負担をかけたくないとか、悲しませたくないとか、そういうのじゃなくて?」
「いいえ。単純にあなたのことが大嫌いなの。自分の余命がわかって、ようやくはっきり気づいたの。ええ、目が覚めたって感じ……あ、覚めた! 覚めた!」
「怖っ……。いや、でもこれまで普通にやってきたじゃん……。おれのどこが嫌なんだよ。全然嫌われる覚えがないぞ……」
「十の二乗言えるけど、その時間をあなたに割くのがもう嫌」
「普通に百個でいいだろ」
「強いて言うなら……興奮すると膝が震えたり、呂律が回らなくなるところとか、勝手に話のオチを予想して先に言ったりするところとか。あと妙に先走ることも多いし、そのくせテンパって失敗して、あー嫌」
「内面のことばかり……。本気さが伝わってくるな」
「だからもう、絶対に別れてほしい! あなたには死んでも葬式に来てほしくないの!」
女の鋭い声に空気がびりりと震え、男は一歩後ずさった。
「……あっ、でもそんなこと言って、実は他に好きなやつができたとかだったり……」
「ない。今はあなたと別れることで頭がいっぱい。悲劇の主人公気取りで棺桶に花を添えて、私の頬をそっと撫でたりなんかされたらもおおおおおおおおう!」
「お、落ち着けよ。みんな見てるぞ……」
「うちの親に彼氏面でお辞儀してさあああ!」
「するだろ。彼氏なんだから」
「親も親で、『娘はあなたと一緒にいられて幸せでした。ありがとう』なんて言ったりしてもおおおう! 詐欺に遭っているのを見ている気分だわ!」
「どんどん言うじゃん……」
「葬式後も、たまに写真眺めてため息をついたり、その様子を見て『まだ引きずってんだな……』とか声かけてくる友達も、もう殺したい……!」
「殺したいとか今、絶対言っちゃ駄目な立場だろ」
「病気が発覚する前に別れておけばよかった」
「はあ!?」
「一応キープしてたの。他に行けそうなのがいたら、すぐ切るつもりで」
「全然包み隠さないんだな」
「ええ、もうすぐ死ぬからね! だからその前にきっちり、あなたとのすべてを亡きものにしたいの! したいの!」
女は叫ぶと同時に、ダン! と強く地面を踏み鳴らした。
男はしばらく口を半開きにしたまま固まっていたが、やがてその口がぱくぱくと動き始めた。
「わ、わくっ、わかったよ! 別りりゃいいんだろ! じゃ、じゃあな!」
男は舌をもつれさせながら、半ばやけくそ気味に吐き捨てた。そして彼女に背を向け、その勢いのまま駆け出していった――が。
数秒後、下のほうから鈍い音が響いた。
――うわっ、あっ、おい!
――落ちた、落ちたぞ!
――ねえ、あなた大丈夫……?
――これ、死んでる……?
階下からざわめきが立ち上り、冷たい風に乗って歩道橋の上まで届いた。
女はゆっくりと手すりから身を乗り出し、下を覗き込んだ。
階段の一番下に人だかりができている。女はしばらく無言でそれを見つめ、やがてぽつりと呟いた。
「えええ……そっち……?」




