夜四つと明け六つの間・4
男は、通り名を『長っ尻の与兵衛』といった。
いったん化けた商売人の顔で長々と暮らし、いっぱしの信用を得る。信用を得てしまえば差額や売り上げをちょろまかすのは容易なことで、気の長い泥棒であった。
旅籠や女郎屋、乾物屋と隠れ蓑を変え、今は瓢箪屋という質屋をしている。蔵に相応の金目のものが溜まれば、それらを持ってとんずらする算段である。
「どうぞ、お手にとってご鑑賞下さい」
袱紗の囲いが外された。
『川蝉』の座敷に並ぶ品は、改易された大名家や没落した商家などが売った、いわくつきの名品である。
長崎出入りの廻船問屋、大和屋は小金持ちの好事家たちを招待して、こうして品評及び即売会を催すのだ。
「何と、これは春宵の一幅かい?」
「こちらは綺麗な琉球珊瑚だね」
高坏に乗せられた名品を、好事家たちは目を細めて愛でる。手に入れる入れないは別として、二人と持ち得ぬ奇抜なものを眺めるだけでも満足なのだ。
与兵衛は、そうではない。
(珊瑚は良いな。あれほどでかいものは、そう出るもんじゃあねえ)
好みのものを腹の底で見繕う。
「大和屋さん、これを頂きたいねえ」
「若竹のご隠居さま、毎度ありがとうございます」
それを手に入れた者を、しかと探る。
(向島若竹のじじいか。あそこは大屋敷ばかりで人目が少ねえ。しめたぞ)
「若竹さん、いいものを手に入れられましたな」
ぴしりと背筋を伸ばして口調をすましたものに変え、信用ある店の旦那を演じる。
「おや、瓢箪屋さんもひょっとして、狙っていたかい?」
「いや、恥ずかしながら、まけてはくれまいかと相談するところでした。若竹さんの豪気には敵いませんな。見事な珊瑚だ。どこに飾るおつもりで?」
「うん、お客の下足場に置きたいね。ぱっと目を引くし」
「なるほど。向島の料亭若竹の風格が、また上がることでしょうな」
労せず珊瑚のありかを聞き出し、あとは盗みに入るだけである。
(ちょろいな)
与兵衛は品川になじみの女がいて、宿をひとつ任せていた。ゴロツキの溜まり場でもあり、盗みを働いた金であとはぱーっと遊ぶだけだ。
珊瑚は頂くとして、もうひとつくらい、と場を眺める。そこに「ん~~」と声ならぬ声がして、目を奪われた。鳴いたのは千住の医者の連れである。
「おいし〜~~」
うっとりと、落ちそうなほっぺたを押さえながら蛤を味わっている。隣で手酌でちびちびやっている医者が、自分の膳を近づけた。
「旨そうに食うなぁおい。俺のもやろうか?」
「え、いいんですかあ? 頂いちゃおうかな〜~代わりにこれどうぞ」
医者の蛤と自分のなますを交換している。
朱塗りの椀に盛られた大ぶりの蛤は、色を損なうことなく柔らかく煮込まれていて、磯の香りを閉じ込めたような透明のとろみ餡がかけられている。
優男が幸せそうに齧りつく。じゅわ、と溢れ出る貝の旨味。噛み切れなくて、まるごと口の中に放り込んだ。
「ん〜~、幸せ……」
優男は蛤ふたつをぺろりとたいらげ、恍惚としている。場の主役は珊瑚よりも蛤になっていた。旦那衆もほのぼの見守る。
「お弟子さんは本当に旨そうに食べるねえ、佐治さん」
「まァ、連れてきた甲斐があったってもんで。こいつ以外は、スケコマシと熊と朴念仁だもんでね」
「ははは。熊に百川は勿体ないですなあ」
「せっかくの百川の御膳です。私らも頂くとしましょうか」
居並ぶ旦那衆が高額な珍品奇品より、優男の食べっぷりを褒めそやす。与兵衛には理解できないことであった。
(この医者のじじい、毎度、場を乱しやがる)
いつぞや、この医者が品評会に持ってきたのが最高品質の熊の胆であったのだ。売りたいわけでもなく、ただ見せたかっただけだという。
喉から手が出るほど欲しかった。嘘でも羽州産と宣伝すれば、欲しがるお大尽はいくらもいる。
だが持ち合わせた金ではとても足りず、さらに売る気はないとあっさり言われて「なら持ってくるなよ」と舌先まで出かかった。
(あの深川の医者の小僧、じじいの孫か何かか?)
今朝の話だ。店請けの切手には、向かいに座る千住の医者、佐治陣内の名前があった。今、まさに店の蔵にある熊の胆と、以前に品評会に佐治陣内が持ってきた熊の胆は、同じものではないだろうか?
もちろん、蔵の熊の胆は頂くつもりでいる。あのときの腹立たしさを、晴らせるやもしれぬ。
(見てろよ、じじい)
与兵衛は、質屋を捨てる心づもりをした。
熊の胆と珊瑚を持って、とんずらするのである。
品評会が行なわれている料亭川蝉の屋根に、風に吹かれて機を伺う男が三人。
「……向島、若竹、金ガ動く、気配」
「金は天下の廻りもの。こちらの手にも廻ってくるのよ」
「横から手ェ突っ込んでるだけじゃねェか」