夜四つと明け六つの間・2
重い町木戸が風を受けてギイギイ軋んでいる。
鉛色の雲は雨を持っているようで、泥川のように千代田の方へと流れてゆく。
風に紛れて潮のにおいがするのは海が荒れているからだろう。砂塵がバチバチと顔や足を叩く。
野分(台風)の来襲の前触れだ。
刹那が今から踏み込もうとしている質屋の看板も、入れるもんなら入ってみやがれと軒下で音を立てて威嚇する。
今日中に金を作らなければならない。野分に備えて戸締まりの用意もしなければ。躊躇しているひまはない。
弥九郎の金策には期待しないことにした。また賭場に迷い込んでいたら今度は殴る。それだけだ。
いざ。刹那は暴れる暖簾をくぐる。
「御免下さい」
「はいよ、いらっしゃ、い…」
愛想のよい、年配の親父の返事があった。だがその愛想もすぐに曇る。
何度目かの来店を経て、ふたりは対決相手であった。質屋の目は、今日は何を持ってきやがったと警戒をあらわにしている。
「切手は」
「どうぞ」
横柄に伸ばされた手に、刹那は懐から折りたたまれた書きつけを取り出し、手渡す。
深川寺町裏続蛤町、で始まる文面に質屋は目を通す。三養堂の住所地である。あいかわらず長い。
蛤町は四つに分かれて点在しており、どこの蛤町かを示す必要がある。寺町でない蛤町もあるのだ。
『深川寺町裏続蛤町 長尾刹那
右ノ者 身元ノ儀 相違無御座候
佐治施療院 佐治陣内 印』
八州廻の立寄り処にもなっている千住の大医院、佐治施療院は信用が厚い。
刹那の身元を佐治陣内が保証する、という身元証明書である。
関所を越えるために大家などに発行してもらう道中切手と同類のもので、この切手がないと質屋で金は借りられない。
しっかりした店請けの書面ではあるが、質屋は警戒を解かない。
「それで、今日の質草は?」
「これです」
刹那は携えていた風呂敷包みを小上がりで解き、小箱の中の紙を広げる。
「熊の胆です」
「ひぃゃああああああ」
錆びた扉みたいな金切り声をあげて質屋がのけぞった。
奥にいた小僧が声を聞きつけ、何ごとだろうかと小走りで寄ってくる。
「……なにこれ」
小僧は箱の中身に、思いきり眉を寄せる。
乾燥した腐ったわかめ、いや、乾燥したドブ、素手で持つのは断固拒否したい、黒くて茶色で緑がかった拳の大きさの塊であった。芳香といえば言える臭いが意外すぎた。
「……すみません、サンショウウオはちょっと……」
小僧はなんとかドブ色の箱で運べるものを連想したが、すぐさま主に怒鳴られる。
「お前は下がってなさいっ! こ、こんなもの、うちで預かれるわけないでしょっ! お引き取り下さいっ!」
「医者で質草になりそうなものなんて薬くらいです。幸い、価値のあるものですし」
「ありすぎるから困るんですっ! 他をご覧なさい、布団とか煙管とかのしょぼいものでいいんですよっ!」
「うち、煙草吸う者いませんし、布団は押入れがありますし」
店主は、キーッと猿みたいな鳴き声で歯噛みした。できて当然、と思っているときの刹那は見かけによらず図太い。
熊の胆は、その名の通り熊の胆嚢で、乾燥させたものが熊胆という生薬になる。
薬の材料の中でも飛び抜けて高価であり、粉末の小さじ一杯にニ、三両という値がつく。拳の大きさのものなど何十両に値するだろうか。
質屋は質草の七割から八割の金を貸さねばならないのだ。もはや怒っている。
「あんたね、前も言いましたが、こんなもの預かって貸せる金が、うちみたいなしがない質屋にあると思うのかいっ!?」
ちなみに前回は高麗人参だった。
いずれも「金に困ったら質屋に持って行くんだよ」と兄弟子たち、おもに捨松から交渉術とともに土産に持たされたものである。見事に先を見越されている。
「薬種問屋にでも持っていったらどうです!? お望みの額で買い取ってもらえるでしょ!」
「いえ、買い取られては困るんです。それにそんなことしたら、熊の胆を融通してほしい薬種問屋がうちに殺到するじゃないですか。大変面倒です」
「そんなもん預けられる身にもなって下さいよ!! うちを潰す気ですかっ!?」
「ではちょっと小さくしましょうか。この文鎮借りますね、これでごりごりと……」
「あーっ! 粉末が一両、粉末が二両っっ……分かりましたよもうっ!!」
目の前で金塊がかつお節のような扱いで雑に削られていくさまに、質屋は甲高い悲鳴をあげて降参した。
交渉成立。
今月の店賃に充てる分だけの金子を手にして、刹那は質屋を出た。
質草の七割よりはだいぶ安く済ませたのだから、無理を通したわけではない。刹那の中では、だが。
これでひとまず、滞納は回避できた。
(……あの親父、熊の胆を熊の胆だと分かってたな)
刹那は質屋の慌てぶりに、おや、と思っていた。
質屋の言う通り、生薬の類いは薬種問屋に買い取ってもらうのが当たり前だ。他の職の者がその値を正確に知ることはできないだろう。
加えて、高値がつくと分かっている熊の胆は、偽物も多い。兎や狸の胆嚢を熊の胆と偽って売る問屋、医者はいくらでもいる。
刹那の預けた熊の胆は、陣内が羽州阿仁の叉鬼の者から仕入れた本物である。
質屋の親父はそれを、見ただけで分かった。本物の姿かたち、値打ちを知らなければ、あれだけ取り乱すこともなかろう。
高価すぎて預かれないが、接した経験はあるということだ。どこか腑に落ちない。
(まあ、見ることが絶対にないとは言いきれないか)
食べすぎや飲みすぎの万能薬として、熊の胆は重宝される。
生きた熊を見せ物としても扱うのが江戸だ。どこかで目にする機会もあろう。見識が広いのは素晴らしいことだ。
刹那は店賃の入った風呂敷をぎゅっと胸に抱え、ぶつかってくる風に抗いながら家路を急いだ。




