刹那の間に・3
障子の外で、笹の葉が夜の風にしゃわしゃわと、蝉のように鳴いている。
耳慣れない音に、梅之助は重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。
全身に走る痛み。口の中には血の味が残っている。笹の音に混じって、隣の部屋からは人の寝息も聞こえる。
ここはどこだろう、と頭を動かそうとした。
「あ、起きたのか」
知らない男の子が行灯の薄明かりの中、ひょこっと覗きこんだ。
「良かった」と続く声には、安堵が溢れていた。ずっと自分に付き添っていたのだろうか。
ちゃぷん、と水の音がして、額に別の手拭いが乗る。熱を持った体に冷たさが心地良くて、梅之助は「ありがとう」と小さな声で礼を言う。
「ここは、医者のお宅?」
「うん。……あ、そうです」
「お前さんが私を、看病してくれたのかな?」
「あの、手拭いを、取り替えたり……していました」
「うん。ありがとう」
屈託なく梅之助が笑う。
節郎は、武家の者と喋るのはもちろん、同年代の子供と喋ることもほとんど初めてだった。
友達になれと陣内に発破をかけられたけれど、何を言えばいいかの経験がない。
そもそも、対等に口をきいていいものなのか。いいわけはない。
どこか言葉づかいがちぐはぐな節郎に、梅之助がふわりと笑いかける。
「私が怖くない?」
「え、いいえ」
「たくさんの子に、怪我をさせた。お前さんも聞いてるだろう?」
梅之助の声は幼いながらに、自嘲を帯びたものだった。
怖い、助けてと、みんな逃げていった。
悪鬼や人喰い婆みたいに。
剣の腕を上げても、自分はただ人を傷つけただけじゃないか。剣を持つ意味を、梅之助は失いかけていた。
けれど節郎は、梅之助が人を傷つけたくて剣を取ったわけではないことを知っている。
「鼠が狼に勝負をしかけて負けただけだ。狼は何も悪くない」
梅之助は驚いた。
そんなふうに自分を見る者がいるなんて。
狼が鼠に合わせて手加減する道理などない。狼の力量をはかろうともせず、思い上がった鼠が愚かなだけなのだ、と。
梅之助にとって最大の賛辞だった。
もやもやとしていた胸の黒い霧が晴れる思いがした。
「ふふ。お前さんもなかなか、反骨をお持ちだね」
「だって、道場の奴らのこと聞いて腹が立ったから。……あ、ええと、だから梅之助さまは何も悪くないと思います」
「いいよ、梅之助で」
ふたりの子供の楽しげなひそひそ話を、襖を隔てた廊下で大蔵が聞いている。
三ノ宿の主で、鍼とあんまを営む、これまたこわもての男だ。左の目は大きな傷に塞がれている。
子供たちの安全を考えて、黒熊は梅之助の部屋を分けた。そして刺客襲来の知らせを受けて、大蔵は三ノ宿を番頭らに任せ、真っ先にこの部屋に駆けつけた。
黒熊は子供たちの見回りを優先させて動けない。外を鉄山と捨松、内を大蔵が固めた。
女衒に復讐したい子供を預かると陣内から聞いたとき、ひとり反対したのが大蔵だった。
寺にでも入って心を鎮め、平穏に生きたらいいと思ったからだ。
しかし陣内は首を横に振った。
「俺ァ、あの坊主に、家族をくれてやりてえんだ。褒めて、叱って、甘やかして、腹ン中に鬼を飼っちまった餓鬼をうんと笑わせて、怒らせて、泣かせて、喜ばせてやりてえ。そんで坊主が死ぬときに、俺たちが思い出になれてりゃあ、地獄の旅路の支えにもなれるだろ」
そう言って、煙管の煙をぷかりと吐いたのだった。
陣内の思いと、いま背に聞こえているひそひそ話に、大蔵は唇に珍しく笑みを乗せた。
そのとき。
「……?」
階下からどたどたと、乱暴な足音が近づいてくる。
刺客のわけはない。
最大限の警戒をして、大蔵が階段を注視する。
「あ、大蔵さーん!」
弥九郎であった。小ぶりの小田原提灯を手に、息を切らせている。
「鉄兄さんと捨松兄さんが、外の連中ふんじばったって!」
刺客を捕らえた、との大声が終わらぬ間に、大蔵は弥九郎の背後にもうひとつの影を見た。
提灯の灯りが届かない距離。足の歩幅を弥九郎と揃えることで、ひとりの足音と錯覚させたのだ。
二階の床にたどり着いた寸間、刺客は躍り上がった。
「退け」
大蔵は寡黙な男である。弥九郎が何を言われたか聞き取れぬうちに、数歩で刺客に肉薄していた。
ただの医者と侮っていた刺客は驚き、ほんの僅か足を緩めた。
その隙を逃さず、大蔵の鍼が刺客の眉間を貫く。
治療の鍼ではない。暗器としての鍼である。
刺客は、自ら鋭い鍼に突っ込むかたちとなった。
大蔵は崩れ落ちる刺客の体を支え、夜中に物音を立てることを防ぐ。
「あれ、大蔵さん……?」
そっと襖を開けて、節郎が顔を出した。
大蔵はほとんど音を立てていない。弥九郎の大声と足音を、なにごとかと思ったのだろう。
三ノ宿の主である大蔵が二ノ宿にいるのが不思議だったのか、節郎が不安げに見上げる。
刺客に襲撃されたことなどおくびにも出さず、大蔵は静かに節郎の小さな頭を撫でた。
右目に微笑を乗せて。
「友達との語らいもいいが、もう寝ろ」
中天に昇った月が、障子を透かして子供らの布団を青く染めている。
笹のざわめきと、それに負けじと大きくなる蛙の歌が、襲撃の音をかき消してくれていた。
どの宿の患者も、安眠を妨げられた者はいなかった。
黒熊の計らいで、節郎と弥九郎は、梅之助の部屋に寝ることになった。
節郎は梅之助の世話をしたかったし、弥九郎は用心棒だと譲らなかったのである。
もちろん節郎は首をかしげた。
「用心棒って……誰を誰から守るんだ?」
「そりゃお前、あー……こいつに負けた奴らだよ」
「さっき、鉄兄さんたちがふんじばったって言ったのは」
「第二弾だよ! 第二弾に備えてんの!」
「……」
宿の主たちは何も言わなかったが、梅之助は察したようで「じゃあ、夜蚊から守ってもらおうかな」とその場を収めた。
三人、頭を寄せあうと、お喋りは止まらない。
「ひでぇな。じゃあお前、お父っつぁんの名誉を守りたくてそんな勝負受けたのか?」
「うーん……そんな立派なものじゃないよ。貧乏御家人は本当のことだし」
「でも腹は立つだろう」
「立ったのかなぁ……立ったのかもしれないなぁ……。あと、本に書いてた『ここ打つと痛い』ってとこが本当に痛いのか試したかったかなぁ……」
「お前も意外とひでぇな」
「俺もそれ読んでみたい」
「あ、貸すよ。面白いよ」
「それで、こいつに試す」
「なんで俺!?」
「こいつ、俺がここに来たその日に、俺に求婚してきた」
「は?」
「それはもう、悪かったって! だって仕方ねえだろ、女の子だと思ったし。色は白いし、おしとやかだし、そこいらの茶屋の看板娘なんかよりずっと可愛いんだからよ。あいつらは声やら身振りが可愛いんであって、顔見りゃそうでもねえんだよ」
「………………」
「そこらでやめた方がいいみたいだよ」
「絶対試してやる」
「おすすめはね、肘から三寸下に腕がビリっとするツボがあるんだけどそこを金槌で」
「いらねえこと教えんな!」
「こォら、お前ら」
廊下の襖が開いて、黒熊がぬっと顔を突きだした。
こわもてばかりの施療院でも一番のこわもて男である。それに加え、でかい図体だが、子供にだけは優しい男だ。
山脈のような体は、よく小さい子供らが登っている。
「梅之助は怪我人なんだぞ。お前ら医者見習いなら、ちゃんと寝かせてやれや」
「はーい」
「すみません」
「どうも、お世話になります」
くすくすと笑いあう三人に疑いの目を向けて、黒熊は見回りに戻る。
ふと見れば、節郎が手を合わせて何かを祈っている。
「何してるの?」
梅之助の問いに、節郎は真剣なまなざしで答えた。
「梅之助の怪我が、刹那の間に治りますように。……俺には何もできないから、神頼みしないと」
「せつな? って何だ?」
仏教の言葉で『ほんの僅か』の極みである間を、節郎は祈った。
梅之助が痛みに苦しむ間なんかなくていい。
明日には治れ。今すぐ治れ。
そう願いをこめた。
「……せっちゃんはさ、そういう医者になりなよ」
梅之助は嬉しくて涙が出そうなのを、薄暗がりに隠してごまかす。
「私だけじゃなくて、たくさんの怪我の人や病気の人を、刹那の間に治すような医者になってよ。そしたら私が人を怪我させても大丈夫だから」
「患者増やしてるじゃねえか。……いや待てよ。俺が悪い奴を、足引っかけて転ばすから、梅が斬って、刹那に治せば」
「かまいたちじゃないか」
薄暗がりの部屋に、珠のような笑い声が弾けた。
「やめろ、やめてくれ!」
大の男の悲痛な叫びが、一ノ宿の診療部屋を震わせる。
男の腕は、鉄山に関節と逆方向に捻られて、今にも折れんばかりにミシミシと音を立てていた。
一ノ宿がまとめて引き受けた怪我人たちは、千住の町はずれの廃寺を根城に賭場を設け、近隣の町衆を借金まみれにしていた博徒たちだった。
亭主が、隠居が、息子が、人が変わっちまった、夜逃げするしかない……そんな嘆きの声が施療院にも届いていた。
その賭場で昨日、乱闘騒ぎがあった。
丁半にイカサマだと因縁をつけた余所者たちが、廃寺の博徒たちをこてんぱんに伸したのだ。
「ちくしょう、ここは医者だろうがよぉ!」
半分べそをかいている男は、ただでさえ顔の半分が腫れ上がり、背中を痛めて歩くのも容易でない散々な容態だった。
喧嘩の中、余所者のひとりは、頭の上まで博徒たちを持ち上げちゃあ投げ、持ち上げちゃあ投げ、板場に叩きつけていたらしい。
派手な小袖の、とんでもない怪力の若造であったとか。
鉄山は涼しい顔で、なおも腕を締め上げる。
「あんたが賭場の元締めだと聞いたんだが、間違いねえですかね?」
「間違いねえ、ねえよ! 痛てえ!」
「どこから流れてきたゴロツキかは知りやせんが、八州廻の旦那にはもう話ついてますんで、ご到着までゆっくり療養してって下さい。ま、それまでに金の流れとか諸々吐いて貰えると有難てェんですが。どこの香具師に流れてるのか、とかね」
男は肝が冷えてゆく。
寺は、廃寺だろうが寺社奉行の管轄なので、同心には踏み込めない。
だが、寺から放れた博徒は普通に犯罪者だ。
間違いない。あの怪力の若造らと、ここの医者はグルだったのだ。
博徒をこてんぱんにして一網打尽で医者に押し込め、そのまま八州廻同心に引き渡すつもりだ。
男はなけなしの愛想笑いで、鉄山に許しを乞う。
「な、なあ、八州廻は金でお目こぼししてくれんだろ? あんたから旦那に口きいてくれよ。たかがゴロツキの喧嘩じゃねえか。誰に迷惑かけてもいねえ。千住からも出ていくから見逃してくれよ、な?」
「そいつぁ無理だ。俺は、女を泣かす奴が死ぬほど嫌いでね。……ああ、間違えた。殺してェほど嫌いなんですよ」
口調は丁寧だが、鉄山の声は冬のつららのように冷たく鋭い。
「亭主が博打に狂っちまったって泣く女がいる……それで、誰にも迷惑かけてねえ、と?」
「お、俺が泣かせたわけじゃねえだろ!」
「俺は、女の恨みを変わりに晴らしてやりてェのさ」
鉄山がぐっと力を込めると、男はいよいよ痛みに悪態をつき始めた。
なぜ俺がこんな目に、と喚き散らす。
「このド腐れ医者が! てめえら絶対カタギじゃねえだろ! 俺がこのまま大人しくしてると思うなよ! へへ、ここの宿にいた、綺麗な顔した兄ちゃん、あんたの弟弟子か何かか? 尻撫でてやったが、奥もさぞ具合が良いこったろうなァ。今ごろ俺の仲間にひん剥かれて硬てェもん突っ込まれて、あんあん泣いてるかもなあ?」
自暴自棄に近い挑発に、鉄山は深い深い溜め息をついた。男の耳元にぽつりと呟く。
「あーあ。余計な色気出さなきゃァ、死なずに済んだろうに」
腕を絡めていた組手を、するりと首に組み換える。
ごきり、嫌な音がして、首がおかしな方向に折れて男は動かなくなった。
「鉄兄さん、八州廻の旦那がお見えですよ」
翌日、縄で数珠繋ぎにされた博徒たちが庭に据えられた。
労せず転がりこんできた手柄に同心たちは満足顔で、「ご苦労」と何の感謝も籠らない礼を言った。
陣内は陣内で、診療が忙しいからと同心の相手を面倒くさがり「鉄、お前やっとけ」と弟子に応対を放り投げたのだった。
博徒が『白状した』金の流れ先や別の隠れ家などを書き付けた書類を、刹那が同心に説明し、引き渡しの責任者として鉄山が立ち合う。
形式的なものなので、特に両者に信頼関係はない。同心も医者の協力を、かゆいところに届く孫の手程度にしか考えていなかった。
書き付けを見て、刹那は首を傾げる。
施療院に運び込まれたのは賭場を設けた方の博徒だけで、因縁をつけた余所者はひとりも治療していないのだ。
「喧嘩に勝った方は全員逃げたんですね。金も取ってないし、ただ暴れたかったのか……猪みたいな奴らだな」
「……そうだな」
猪はお前の家に帰ったぞ、とは言えない鉄山は拳で口元を隠し、笑いを堪える。
田舎者の刹那は、陰謀だの策略だのには、とんと疎い。裏で誰かが糸を引いているかも、とは思いもしないのだ。
医者のことには賢く利発だが、無垢で世間知らず。
人の善意を無防備に信じる弟弟子が、施療院の者ら――戸隠安陣一味は、可愛いくて危なっかしくて、放っとけないのである。
「刹那、今晩、一杯やらねえか」
「はい。明日には帰るつもりなので、軽い酒なら付き合えますけど」
「柿色暖簾の店でな」
「え?…………ええっ!?」
女郎屋への誘いだと気付き、刹那は書き付けを握りつぶして耳まで朱に染めた。
いぶかる同心の目線も気にせず、今度こそ大笑する兄弟子だった。
(俺も大概、ガキみたいなことしてやがる)
刹那の中の鬼を消してやれたら。
思い切り可愛いがって、困らせて、怒らせて……笑わせてやれたら。
鬼の棲家を、自分が奪ってやれたら。
それが鉄山の、兄弟子たちの願いなのだった。




