吉原門外の変
初夏の爽やかな陽光が、隅田川の川面を金色の鱗のようにきらめかせている。千住大橋の中ほどで、その眩しさに長尾刹那は目を細めた。
陽炎と見紛う美しい青年である。長い睫毛が白い頬に影を落とす。手には大きな薬箱。扉に朱墨でミミズクが描かれている。
川面に秋波をおくる彼を、天秤を担いだ行商の女たちは足を緩め、頬を染めて見つめている。
(ああ、もうそんな季節か……)
刹那の目の先では、川を上ってきた小舟が走りの西瓜を山と積んでいる。千住の青物市場に卸すものだろう。
水気たっぷりの西瓜は、瓜とともに江戸の夏の水菓子(果物)の代表だ。そして毎年、西瓜の食べすぎで腹をこわした患者がしこたま刹那の診療所の戸を叩く。
(大量に食うのをやめろと、いったい何度言えばわかるんだ。命なくすぞ、まったく)
刹那の秋波は、江戸っ子の食い意地意味わからんという秋波であった。
餅の大食い合戦だの西瓜の大食い合戦だのが刹那を悩ませている。それで薬をくれと言うのだから、馬鹿のひとつ覚えだ。近ごろはいい金ヅルだと思うことにして、腹の虫を収めている。
千住大橋からこのまま隅田川を下れば左手に本所、深川、貯木場のある木場がある。木の香りに郷愁を呼び起こされて、少しだけ刹那は秀眉を曇らせる。
(……まだ忘れられないのか、俺は)
咎められたわけでもないのに、郷愁に罪悪感を覚えた青年は薬箱を持つ手をぎりりと握りしめ、足早に橋を渡り江戸市中へ入る。
居宅兼診療所は、深川にある。刹那は田んぼの中を突っ切る一本道を通る。日本堤と呼ばれる土手だ。吉原遊郭へ向かう道でもあるため、日が暮れるにつれて人が増える。
土手道の両脇にひしめくように立つ茶屋のひとつに、刹那は顔を出す。茶と水菓子、昼飯時は濃いめの味付けをしたつまみを出す店だ。まだほかの客はいなかった。
「茂吉さん、水を一杯くれないか」
よしずが作る日陰の中で、五十がらみの親父が顔を上げた。刹那と見ると、やつれた目にわずかに生気が戻る。
「これは先生、千住の帰りですか」
「だんだん暑くなってきたな。これからは甘酒も売れると思う」
「夏に甘酒ですか」
「暑いからと、冷たいものばかり食べるのは俺はすすめない。食欲が落ちる夏には熱い甘酒は良いものだ」
「西瓜を仕入れたのですが」
「塩を振って食うと旨いな」
「はい」
ほかに客がいたなら、店主と馴染みの客との他愛ない話にきこえただろう。しかし二人の話はそこでぷつりと途切れ、沈黙に落ちた。どちらも、にこりともしていない。
色の白い首筋につたう汗を拭い、差し出された水を一息に干せば、刹那は千住から歩き通した体の熱がふっと冷めたように感じた。
長尾刹那は、深川の蛤町で診療所『三養堂 』を始めて四年になる。
ちなみに正確な住所の呼び名は、深川寺町裏続蛤町、という。長すぎて逆に覚えやすい。
寺の参拝客や、漁師、大工の家族が大勢暮らす深川なら医者をやっていくに困らないだろうと、師匠のツテで借りた小さな表店だ。
幼かった自分を引き取り、手に職をつけさせてくれ、住む場所まで世話してくれた恩人である師匠と兄弟子たちに、月に一度は顔を見せに行くのが決まりのようになっていた。
一年前、その帰り道で茂吉と出会うことになった。
「先生、俺は、迷っちゃいねえんですよ。迷っちゃあ、いねえんです」
隣に腰かけた茂吉は、両の拳を握り、苦痛を訴えるような声を絞り出した。
「ただね、ここで客商売をして、旨かった、って言われると、嬉しくて。ほんの少しの間、お夏の、娘のことを忘れちまうのが、俺は怖くて」
「忘れられるなら、それが一番いいんだ」
静かな、つっけんどんにも聞こえる刹那の言葉に、茂吉は泣きそうな顔を向ける。
「日々の食う寝る働くを積み重ねて、だんだんそれが愛おしくなる。生きるよすがと信じてたものが、二番目、三番目になっていく。不思議なことではないさ」
刹那は調理場の端に置いてある盆に手を伸ばした。竹でできた小さな筒に塩を入れてある。水菓子を頼んだ客が好きに使えるようにと出すものだ。
刹那が手に取った筒だけは、火で炙って焼き色をつけた竹でできている。塩ではないものが入っている目印である。
「進んで罪人になることはない。やらないならその方がいいに決まってる。あんたの中の娘さんも、そう言ってるんじゃないか」
「先生も、そうなんですかい」
咎めるような響きがあった。俺は違うと、先ほどまでのやつれた親父とは思えないぎらぎらした黒い炎が、その目に宿っていた。
「やりますよ。俺は、あの女衒の野郎を殺すためだけに江戸に来たんだ」
なんちゃって時代劇?です。まっったり書いて参ります。面白いと思って頂けましたら、ブクマや★評価等お願いいたします。