エンジュのいない夜
神様のお務めは不規則だ。雨乞いのような儀式もあれば、どこかに出かけてしまう日もある。
最近は少しだけ遠出も増えた。モミジくんのことを任せてもらえるのは、嬉しい反面、まだまだ不安ばかり。滅多なことはないだろうけど、動き回る命からはなかなか目を離せない。
今夜、エンジュは帰らないらしい。
日をまたいでの外出とあって、見送る時にはモミジくんも落ち着かなさそうだった。
が、蓋を開けてみれば普段と大して変わらない。お利口さんに食べ、遊び、あっという間にふたりきりの夜を迎えたのである。
わたしじゃ、風呂釜を温められるだけの火をおこせない。だから台所で沸かしたお湯でぬるま湯をつくり、絞った手拭いで全身をきれいにしてあげる。
「はい、ばんざいしてねー」
「ばんじゃーい」
「うん、いいこいいこ」
着替えを手伝うようになって知ったことだが、尻尾は直接お尻から生えているわけではないらしい。浮いているというか、隙間がある。これも霊力ってやつか?
浴衣は里の人たちからのお下がりだ。「神様に『お古』なんて、畏れ多いと思うでしょう?」って、井戸端会議をするママさんたちは笑っていた。
「エンジュ様がぜひって言うから。ねえ?」
「モミジ様に似合うように、薄くなった部分は紅色の糸で繕ったのよ」
しばらく着られるようにと少し大きめなので、しっかりと帯で留める。小さな神様はごしごしと両目を擦った。あらま、もうこんな時間!
「あしゃぎぃ?」
ふわふわとした声も眠たそうだ。
「もー寝ゆ?」
「うーん」
ざっと部屋を見渡す。たたんでいない洗濯物が山盛り。お皿も洗っていないし、自分の休む支度は一つも整っていない。
「まだお仕事があるから、先に寝てて?」
「おてつだい、しゅゆ」
「いいよいいよ、気にしないで」
「んぅ」
そういえば、いつもエンジュと一緒に寝ているんだっけ。
なおももじもじと手をいじっているから
「一人で寝るの怖い?」
「こ、こぁくないっ」
訊くと、反射の速さで返事があった。少しいじわるだったかな? ふうっと鼻を膨らませ、小さな尻尾も立ち上がる。
「おやしゅみね……?」
「うん、おやすみなさい」
モミジくんは一度だけ振り向いたけど、口を引き結んだまま、とてとてと出ていった。
ま、いくら広いお屋敷とはいえ、部屋までの距離で迷子になるなんてあり得ないだろう。
ぐっと伸びをして、わたしは家事の続きに取りかかるのだった。
***
あれこれと片付けていたら、すっかり真夜中になってしまった。はあ、エンジュの手際って素晴らしくいいんだな。もっと頑張らなくては。
疲れた体でのそのそと廊下を歩く途中、エンジュの部屋の前を通る。さすがにもう寝たよね……?
「ふぐっ、うっ……うう……!」
耳をすますと――くぐもった声が聞こえた。
「モミジくん?!」
慌てて飛び込み、灯りをつける。部屋の真ん中、布団の上に座り込んで、モミジくんはべそをかいていた。
「どこか痛いの? 具合わるい?!」
「ごめ、なしゃい、おれ、ううー」
何を訊いても首を振るばかり。へにゃりと折れ曲がった三角耳。顔を真っ赤にして「ごめんなさい」をくり返す。
「どうしたの? なにも怒らないよ?」
「……い、って、……」
「え?」
「泣かにゃいって、かかしゃんと約束した、のにぃ……っ」
唇がわななく、ひくひくと頬が震える。
ゴロゴロと遠くで雷鳴が聞こえた。
「ととしゃにっ、あいたい……かかしゃんに、あいたい……!」
堪えに堪えた表情がみるみる歪み……そしてとうとう、ダムが決壊した。
「うあ、あ、ああーん」
大泣き、だった。全力の泣き声だった。我慢して我慢して、積み重なったものが全部、爆発したような。
「かかしゃああ、ととしゃああ。あいたいよおおおうああああん」
……愕然とした。そして、自分の振る舞いを心底恥じる。
わたしは馬鹿だ、大馬鹿だ!
どうしてひとりぼっちにさせたんだろう。さみしさを理解したようなことを言っておきながら、なんにもわかっていなかったじゃないか……!
いつもにこにこしていたから忘れていたのだ。まだ子どもなのに。その強さに甘えるだなんて、保護者失格もいいところ。
「ごめん、ごめんね、モミジくん」
必死に抱きしめると、小さな手でしがみついてくる。
このぐちゃぐちゃの布団だって、自分でがんばって敷いたのだろう。押入れから引っ張り出して、さぞ重かっただろうに。平気だなんて嘘までつかせてしまった後悔に、気づいたらわたしまでぼろぼろ泣いていた。
「ひぐっ……あしゃぎ、泣いちゃ、や……っ」
「うん……っ、そ、だよね、ごめんね」
腕の中の小さな生き物が、くうん、と甘えた声を出した。顔をわたしの胸に擦り付ける。
「なんれ、あしゃぎも、泣くのおお」
「わかんないよおお」
「わあああん」
「ああああん」
ふたりで抱き合って号泣した。馬鹿みたいに、雨音にも負けないくらいの声をあげて泣いた。
……そのうち、ぐずぐずという音が落ち着いてきて、やがて寝息へと変わる。膝の上で丸まった体を、そうっと布団に横たえた。
「んぐ……ぐす……っ」
気恥ずかしさを感じながら、わたしの疲労も限界だった。頭がガンガンする。鼻の奥もズキズキ痛む。
ごめんね、モミジくん。心の中でもう一度謝る。今夜はまだ見ていてあげよう。
ちょっと横になるだけ……と並んで寝そべったエンジュの布団は、鼻が詰まっていても、ほんのりと花のような上品な香りがした。
***
――やばーい! 寝すぎた!
目を開けて、モミジくんがすぴすぴと寝息をたてていたことにまずホッとする。
外はすっかり明るい。雀がチュンチュン。ちょっと横になるだけ……というのは罠だって、わたしは何度経験すれば学ぶのだろう?!
そうっと布団から抜け出て、まだ眠る小さな体に毛布を掛けなおす。濡れてごわごわにへばりついた銀髪を、そっと横顔からはがしてあげる。あ、プクプクと鼻ちょうちん。
うう、しかし目が痛い。あれだけ泣いたら、そりゃそうだ。水でも飲もうと台所へ向かう。
「ああ、おはよう」
「うお?! お、おはようございます!」
そこには既にエンジュの姿があった。髪を束ね、たすき掛けして、鍋の中身をかき混ぜる。
隣に並んで傍の水瓶からお椀に一杯。ぷはー、生き返る。
「いつ戻ってたんですか?」
「つい先ほど」
わお、まさか徹夜? ……いや、というか。わたしが寝床を占領していたせいでは?!
「すみません……!」
「気にしなくていい。昼寝でもするさ」
くあ、と珍しくあくびを一つ。尖った犬歯がちょっとだけ覗いた。
「きみこそ、昨日は大変だっただろう」
「よくご存知で……」
思い返せば天気が荒れていた気がする。そうでなくとも、お父さんにはお見通しかもしれないけど。
「じゃなかった、ごはん支度、手伝います!」
「大丈夫。それよりモミジを起こしてきてほしい。それから、ふたりとも顔を洗っておいで」
言われ、ボサボサの髪の毛を超特急で押さえつける。恥ずかしいったらない!
もう一度エンジュの部屋に戻り、ダイナミックに毛布を蹴飛ばした姿に噴き出し。
立ったままで船を漕ぐ手をどうにか引いて、井戸水で一緒に顔を洗った。
「おぁよー……ましゅ……?」
「おはよう。ただいま」
寝起きのモミジくんはまだフニャフニャくねくねしている。かわいい。
むぎゅ、と脚に抱きつかれれば、エンジュは微かに苦笑しながらも、手を止めて体を抱え上げた。
「ととしゃ、」
「ん?」
すんすんと鼻を鳴らす。
「シノノメしゃまの匂いがしゅゆね……?」
「え」
「エッ」
爆弾発言を投下し、「うにゃぁ」と再びモミジくんは眠ってしまった。待ってー! パパの腕の中で安心するのはわかるけど、待ってー?!
「シノノメ様と会ったんですか?」
「……」
エンジュ、実は嘘が下手くそである。表情は変わらないが、耳がぐっと外側を向く時、大抵何かを隠している。この前も、モミジくんへのサプライズプレゼントが思いっきりバレていたし。
「……務めのついでに、少し調べものを。あの女狐の力を借りるなど、まったくもって気は進まないが」
「調べもの?」
なんだ、せっかく知り合い(?)なわけだし、行く前に話してくれればよかったのに。お土産のお礼もしたかった。
「何でもない。きみは気にしなくていい」
そう言われると、余計に気になるな?!