オオカミの遠吠え
その日の晩は雨だった。エンジュが雨乞いをしたわけではない。よほどのことがない限り、彼は自然の摂理に介入しようとはしなかった。
河川が溢れることはないだろう、風もほとんどなくてよかった、などと話していた夜更け。敏感な耳で声を拾ったのはエンジュとモミジくんだ。後から思うとわたし、寝入っていなくてラッキーだったな。眠っている間にふたりが忙しくしていたと知ったなら、凡人ではあれど、神子として悔しかったに違いない。
わたしはこの里の神子だ。少なくとも住民がそう思っているのなら、応えなければならないだろう。
「エンジュ様! どうかご慈悲を!」
だけど、まさかこんな緊急事態に直面するとは。
駆け込んできたのは赤子を抱えた母親。付き添う薬師には見覚えがある。里の人たちだ。
「お助けくださいエンジュ様……! どうか、どうか!」
いずれもびしょ濡れの彼らは、出迎えたエンジュに向かって膝をつく。差し出された赤子は、未だ泣く元気はあれど、見るからに斑な、赤い発疹が全身にあらわれていた。
「無礼を承知でお願い申し上げます。この病は宵待草でしか治りませぬ! しかしながらあの薬草は、月の光に三晩あてねば効果がなく、我らの薬はこの数日の荒天にて尽きております」
額を擦り付け、薬屋が言う。
おろおろとするしかないわたしと違い、神様の動きは素早かった。赤子を受け取り、すうと鼻先を寄せる。
「これは厄介な」
蜂蜜色の眼差しを細める。母親へと泣く子を返し、次に呆然と立ち尽くすわたしを振り返った。
「アサギ、布団の用意を頼めるか。客間に敷いてやってほしい」
「はっ、はい!」
「モミジは部屋にある薬箱を。薬師なら解熱剤は見ればわかるだろう」
「うんっ」
ただ事でない緊張感に、モミジくんもしっかりと頷いた。
「あいにく、宵待草は俺のところでも切らしている」
「そんな……!」
床を踏みしめ、仁王立ちするが如く。――この神様は、たった一つの小さな命をも見捨てない。
「一晩だ」
ぐるる、と喉を鳴らす音。
「朝まで堪えよ。薬を隣の里からもらってくる」
隣の、里?
わたしは思わず動きを止めた。他の里へ行くには山を越える必要がある。夜通し進んでようやっと、夜のうちに薬を探して戻ってくるなんて到底無茶じゃ?!
「救けよう。必ず」
普段の穏やかな気配は微塵もなかった。ただ、固い決意がある。きっぱりと言い、そして。
エンジュは前屈みになり、両手を床についた。何を、と見つめる目の前で、ぐぐっと背中が丸まり、銀色の光が辺りに輝く。伸びる鼻先、鋭い爪、いつの間にか滑り落ちた着物……
『俺は』
長い尾が、刀のように煌めきを振り払う。
『俺の手の届くところ、如何なる灯火が零れることも許さぬ』
月光をまとう狼は天高く吼えた。
神々しいなんて、そんな言葉が陳腐に思える。図鑑や動物園で見るオオカミとは違う。大人ひとりなら余裕で乗れそうな大きさはもちろん、まるで神話から抜け出てきたかのように、いかにも尊大で逞しくて、恐ろしく美しかった。
『戻るまで火を絶やすなよ』
「は、はい! 必ず!」
薬屋を睨み、獰猛な歯列を見せる。
アサギ、と頭に響いた声音は確かにエンジュのものだったけれど。わたしは情けなくも震えが止められなかった。
『俺の神子。留守を託す』
「わっわかり、ました……っ!」
『……取って食いなど、しないよ』
少しだけ声が和らいだ。蜂蜜色の瞳は今や、手のひらほどの大きさがある。
そうして彼は、すり、と湿った鼻先を押し付けてくる。ふよふよと長い髭がくすぐったくて、なぜか泣きそうになった。
『すぐに戻る』
言うや、疾風のように消えてしまう。遠吠えとそれに応じる声が、山のそこかしこから聞こえた気がした。
親子と薬屋さんを客間へ案内し、水や薬箱、大量の布巾を渡して、一息。こういう時、何もできないのが辛い。少しでも苦しいのがおさまるといいけど。
部屋の外で汗をぬぐっていると、さっきまで緊張していたはずのモミジくんが寄ってくる。不安だろうに、泣かずにくるくると働いてえらかったな。思わず頭を撫でると、頼もしい小さな戦友は、思い出したようにぱたぱたと腕を振った。
「モミジくん、ありがとうね。疲れてない?」
「へーき! あのねっ、ととしゃんかっこいいでしょ?!」
正直なところまだ、夢だったんじゃないかという気がしている。
「うん、ほんとすごかった……」
「おっきくてねえ、きらきらなの!」
「おっきくて、きらきらだったねえ……」
大きな銀色のオオカミ……いつも近くにいるから、不思議な力を使うお兄さん、くらいに思ってしまっていたけど。
全然違った。あれは神様だ。こわいけど美しい。何も知らずに山であの姿と出会っていたなら、とにかくその場にひれ伏すだろう。それだけに留まらず、感情爆発して泣きじゃくっていたかもしれない。
「モミジくんもあんな風になるの?」
「んーん。ととしゃんみたく、きらきらーってしたのを、ぎゅって集めないとなれないよ」
「よかったぁ」
「むう」
不満そうに膨らんだ頬を手で挟んでみた。ぷう。ふふっ。
「でもね、あしゃぎがね、もしもこまったら、おれがたしゅけてあげゆからねっ?」
「うん。ありがとー」
ふんすふんすと鼻息荒くするのを、なだめすかしながらエンジュの部屋へと促す。もう寝る時間はとっくに過ぎている。
「まだ起きてゆっ」
「ほら、みんなが助けてーって言った時、モミジくんが元気じゃないと大変でしょ?」
「ふにゅぅ」
赤らんだ目をごしごし、お布団に座り込めばうにゃうにゃ。頑張ろうとしてくれるその気持ちだけで充分だ。
「あのね? おれ、ひとりでも怖くないけど、でもね」
「うん」
「あしゃぎが、ひとりになったらやだからね? 起きてゆの」
「うん。ありがとうね」
わたしはちゃんと知っている。モミジくんが赤ちゃんをおっかなびっくり覗き込みながら、小さな手で頭を撫でてあげていたことを。幼いながらもお兄ちゃんとして踏ん張って、『母親』を目の前にしても、泣き言ひとつ漏らさなかったことも。
「あしゃぎ、おれね、おれ……」
「ん?」
「……んぅ。なんれもにゃい……」
消え入るような声で呟いて、気が変わったみたいに自ら毛布を被ってしまった。やっぱり眠たかったのかな?
「おやすみ。モミジくん」
丸まった体をそっとポンポン。頑張ったね。
さーてと。わたしも一晩くらい徹夜できるってところ、見せてあげないとな!
***
「ふふ、偶然そこで会ってな?」
『勝手についてきたくせに』
「おや。こんな美人がわざわざ訪ねてやったというに、少しは誠意というものはないのかや?」
明け方、宣言通りにエンジュは戻ってきた……シノノメ様を伴って。
大きなオオカミと金髪美女の取り合わせはなんとも奇妙だったが、夜泣きでへろへろのわたしにとっては気にもならない。いや、モミジくんが分別ある年齢(?)でよかったと思う、切実に。
「お疲れのようじゃの、アサギ?」
「母は偉大ですねほんと……」
「ぬしも、ちいこいのの母であろ?」
「そうですかねえ……」
だめだ頭が回らない。拝啓、一晩なら余裕だと思っていた昨夜の自分へ、ゲームで徹夜するのとはまったく違うから覚悟しろ。敬具。
薬草は、どうやら無事に渡し終えたらしい。
「エンジュはまだヒトの姿? にならないんですね」
『……』
彼はしばし逡巡を見せ、唸った。
『……俺にも恥じらいというものはある』
「はじらい?」
『言わせないでくれ』
それを聞いたシノノメ様は、隣でケラケラ笑っていた。恥じらいとは?
その後ふたりの神様は、部屋に籠って何事かを話し合っていた。仮眠から起きた時には既にシノノメ様の姿はなく、いつもの格好をしたエンジュが布団を日干ししているところだったのだけど。




