~ファイル1 紅色の髪留めをした少女~
タタタタタタッ・・・・・・ ダダダダダダダッ・・・・・・
「はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」
「おぉい! 待てよコラァ! 止まれっつってんだろーがぁ!」
「ちょっと俺らに、小遣い貸してくれりゃいいんだよ! 返さねーけどな!」
タタタタタタッ・・・・・・ タタタタタタッ・・・・・・
夕暮れ時から黄昏時にさしかかる、住宅街。板塀の合間からのぞく庭木が、揺れ動く。
一人の少年が、泥だらけになった学生服姿で、路地を走る。一心不乱に、走る。
それを追う、二人の不良。お世辞にも、高い教養を身に付けた感じとは言えない姿と雰囲気だ。
一方は金髪で、制服のズボンを腰まで下げ降ろしたかのよう。一方は眉毛が無く、手首に鎖のようなアクセサリーをいくつも身に付けている。
「な・・・・・・なんなんだあいつら・・・・・・。なんでいつも、ぼくが、こんな目に・・・・・・」
タタタタタタッ・・・・・・ ザザッ!
「あ・・・・・・」
走っていった先は、袋小路。少年は、追い込まれてしまった。
「・・・・・・手間取らすんじゃねぇよ、おぉい! さぁ、金出せよ。お前、金あるな?」
「その財布、俺たちのために存在している金だろぉ? さぁ、よこせよ!」
「お・・・・・・お前達にやるお金なんか、ないよ・・・・・・。これは、英語の参考書を・・・・・・」
シュッ バキイッ!
「うわぁっ! い、痛い・・・・・・」
金髪の不良は、少年がまだ言葉を言い切らぬうちに、思い切り横っ面を拳で殴りつけた。
眉毛の無い不良は、涙目になって倒れ込んだ少年の腰元を、潰れた革靴の踵で踏みつけた。
「ひゃはは! 初めから、よこしときゃ痛ぇ目に遭わずに済んだんだ! バカが!」
「おい! こいつ、三万円も持ってんぜ! 山分けして、ゲーム買おうぜ!」
「買うべ、買うべ! おい、この金は、お前が俺らによこした、お布施な? ひゃはは!」
「ううぅ・・・・・・。か、返して・・・・・・」
頬を腫らし、涙目で懇願する少年。その目元に、ひらりと、青い木の葉が一枚落ちる。
「おい! 通報なんかしやがったら、わかってんだろうな? もっとひでぇぞ!」
「ひゃはは! おい、もういいよ。こいつ、泣いてやがんの。行こうぜ!」
・・・・・・すた すた すたっ ・・・・・・ざっ
「あ? なんだ、おめぇ?」
帰ろうとする不良たちの前に、一人、少女が静かに立ちはだかった。
ブラウンの革靴、黒い制服、栗色の髪。眉は細め、一重瞼でくりっとした目の少女。
「おーい、なんだおめぇ? 俺ら、帰んだよ。どけよ、そこ!」
「それとも、おめー、俺らとイイコトでもしてくれんのかぁ? ひゃはは!」
倒れた少年の目元の木の葉が、風で舞った。その視線の先には、上下黒い制服を着た、ひとりの少女が不良と向かい合っている。
「そのお金・・・・・・。あんたらのじゃないでしょ? 返してあげなよ」
「あぁ? てめーに関係ねぇだろうが! ・・・・・・おい。この女、どうするよ?」
「ひゃはは! わざわざ自分から来たんだ。何されても文句ねーべ。やっちまうべよ!」
「おい、女! おめーは、金あるか? ねーなら俺らに、カラダで奉仕しろや!」
金髪の不良が、少女の左手をがしっと掴む。そして、自分の方へ引っ張り込もうと、思い切り力を込めた。
「汚い手と心で・・・・・・あたしに触るな! このろくでなし!」
ヒュルゥンッ・・・・・・ ギュンッ ブワァッ!
少女は、掴まれた腕を、風車のようにぐるりと回した。すると、不思議なことに、不良の手は一瞬で外れ、振り解かれた。
突然のことに、呆気にとられる二人の不良。
「・・・・・・なっ、生意気な女だ! てめー、どうなっても知らねーぞぉ!」
眉毛の無い不良は、両腕を広げ、少女へ飛びかかった。
「だからぁ・・・・・・あたしに・・・・・・触んなっつぅのーっ!」
ヒュンッ ズバアンッ! ズバアンッ!
少女は、バッグを持った片手を動かさず、もう片方の拳で、飛びかかってきた不良の喉元とみぞおちを撃ち抜いた。
一呼吸の間に、二発。目にもとまらぬ早業とは、このことだろう。
電光石火の拳を撃ち込まれた不良は、その場に崩れ落ちる。
「な、何をしやがったんだ、今! ・・・・・・こ、このクソ女がぁーっ!」
金髪の不良は、拳を思い切り握り、迷うことなく少女の顔面へ振るう。
だが少女は難なく、首を横に倒して躱す。少女の頭に光る紅色の髪留めと、頭頂部にちょこんと出た結い髪が、ふわりと揺れる。
不良の拳は、少女の顔の横を抜けてゆく。ただ、むなしく空を切るだけ。
パシンッ ・・・・・・ヒュンッ ドガアッ!
少女の掌が、不良の顎を軽く叩いた。そして、ブラウンの革靴が、不良の股間を蹴り上げる。
その強烈な衝撃で悶絶し、金髪の不良も、呆気なくその場に崩れ落ちた。
少女は、黒いブレザー、黒いリボン、短めの黒いスカートのどれも全く乱さずに、静かに不良たちを見下ろして立っていた。
倒れた不良のポケットからお金を拾い上げ、奥で倒れている少年へ、少女はゆっくり歩み寄る。
「はいっ! 取り返したよ、優太! また、ろくでなしに狙われちゃったんだね?」
「あ、ありがとう! ・・・・・・面目ない。ぼく、小紅ちゃんみたいに、強くないから・・・・・・」
少女は、少年の腕を引き、立ち上がらせて制服の泥を手で払ってあげた。
「あたしは、優太みたいな人を狙うバカな奴は、許せない! 悪いことが起きて、この町が汚れるのは、我慢ならないから! ・・・・・・じゃ、こいつら、交番に突き出しとくねー」
そう言って、少女は明るく笑いながら、携帯電話で交番に報せを入れ、去って行った。
少女が持つバッグからは、黒い帯が垂れている。
その帯には赤糸で「早乙女小紅」と刺繍されていた。
黄昏時を過ぎ、路地の合間には風が一気に吹き、そして、ゆるやかに抜けていった。
* * * * *
からり かららら・・・・・・ ぴしゃ
「ただいま。・・・・・・じーちゃん? いないのー? ・・・・・・また、あの居酒屋か・・・・・・」
小紅は革靴を脱ぎ、玄関の端に揃えて置いた。
バッグを茶の間の座椅子に放り投げ、制服から部屋着にチェンジ。ちゃぶ台の上にあった大福を、小紅は口いっぱいに頬張った。そして、あっという間に飲み込む。
リリリリィーン リリリリィーン リリリリィーン
茶箪笥の横にある黒電話が、けたたましく鳴った。
「なによ、いま帰ってきたばかりだってのにー・・・・・・。はいはい、出るってばー」
ガチャ・・・・・・
「もしもし。早乙女ですが・・・・・・」
「〔もしもし、小紅ちゃん? 北交番の、久保です。さっきの子たち、事情聴取終わって、やったことを認めたよ。状況も正当防衛だし、今回も小紅ちゃんは、自分からは先に手を出してないようだから、お咎め無しってことで!〕」
「久保さんかぁ。・・・・・・だから、いつも言ってるでしょ? あたしは、悪いことをしたやつにしか、力は使わないって。しかも、決して自分からは仕掛けないからねっ?」
やれやれといった表情で、小紅は片手で前髪をかき上げ、受話器の線を指でクルリクルリといじりながら話す。
相手はどうやら、馴染み深い町交番のお巡りさんらしい。
「〔ははは。まぁ、我々もわかっているけど、一応ね。小紅ちゃんのおかげで、うちの管内もだいぶ小さな犯罪が減ってると思うし感謝するよ。いつでもまた、うちの北交番に気軽に寄ってってよ?〕」
「あたしだって、一応、受験生なんですよ? まっ、ありがとうございます! 近くに行ったら、また、寄りますからー」
「〔とりあえず、今回も、一件落着ってことで。彼らの家と学校へは、連絡入れておいたから。・・・・・・でも、あんまり危険なところまでは、入り込まないようにな?〕」
「だいじですってー・・・・・・。あたし、悪いことしてのさばってる奴が、嫌なんです。どう
しても黙ってらんないし、見過ごせないの! ま、危険すぎることは、気をつけますね」
「〔冗談抜きで危ないやつも、いるからね。いつも、ご協力には感謝してます。では、失礼します〕」
「はいはい。気をつけますー。久保さんも、お仕事頑張って下さいねー」
・・・・・・ガチャ
小紅は受話器を置き、長座布団にばたりと倒れ込むようにして、寝転がった。
「(小さな悪事も許せないけど、あたしが一番許せないのは、やっぱり・・・・・・)」
むー むー むー むー むー
バッグの中から、マナーモードで震える携帯電話の音が。
「なーんなのよー。誰ー? 休みたいってのに。・・・・・・あ、優太からのメールか・・・・・・」
ごろりと寝転がりながら、小紅は、ぱかりと携帯電話を開き、メールの画面を見つめる。
―――『小紅ちゃん、今日も助けてくれてありがとう。ケガは特に問題ないよ。いい加減、ぼくも強くならなきゃとは思うんだけど・・・・・・。いつも、ごめん』―――
そのメールを見つめ、小紅はくすっと笑う。
「優太、別に謝らなくてもいいのにさ。・・・・・・気持ちは普通に強いんだからさー・・・・・・」
そして、小紅は片手の親指で、優太に高速で返信メールを打った。
茶の間の欄間には、小紅の名前が記された何かの賞状額が、いくつも飾ってある。その横には、警察署からの感謝状も。
そして、部屋の片隅にある小さな仏壇の上には、遺影らしき三人の写真も掲げられていた。写真は、男性が一人、女性が二人。
網戸の外側には、数匹の蚊と、近くの田んぼから飛んできたゲンゴロウが留まっていた。
小紅は蚊取り線香に火を点け、茶の間の入口脇に置く。
六畳ほどの茶の間に、春が終わりを告げて早い夏が訪れたかのような薫りが漂う。小紅は、線香の小さな灯を、じっと見つめている。
煙がしだいに、ゆらり、ゆらりと、ただよっては薄く消え、小紅の周りを包んでいった。
* * * * *
「・・・・・・ほんじゃな、源さんよぉ。また、飲むべやー。連絡すっかんねぇー?」
「うぃー。悪かったなぁー、送ってもらっちってぇー。まーた、飲むべ。飲むべなー」
どたん がたん からららら どたん ぴしゃ
玄関前に軽トラックが停まり、頬を赤らめた小柄な爺さんが千鳥足で降りてきた。そして、ふらふらと玄関を開け、草履を脱いで座り込む。
「おぉーい。小紅やぁー。いんのけ? じーちゃんに、水くんな! 水ー・・・・・・」
ひたり ひたり ひたり ひたり
「まったく。じーちゃん、まーた早くから飲んでたの? 今日も西区の『さやま』?」
「うぃー。そだ! さやまは・・・・・・うまい! 良い酒も料理もあるんだー・・・・・・。みずー」
小紅は溜め息をついてから、ふっと笑ってグラスに水を注ぎ、玄関まで持ってきた。
「飲み過ぎなんだってばー。身体、壊すよ? 知んないかんねー、あたし・・・・・・」
「ぷぁー・・・・・・。あー、すっきりじゃ! やっぱ、酒より水のが、うめぇわなー」
「あーあ。こんな姿、とても門下生には見せらんないね。じーちゃん、今だったらあたし、じーちゃんに勝てちゃうかもしんないぞー? べろべろじゃんかー」
水を飲み干した爺さんは、笑う小紅の台詞を聞き、くわっと目が開く。
「馬鹿言うなや! いっくら酒飲んでべろべろのよくよくだからって、この早乙女源五郎、糸恩流空手道八段範士の名にかけても、小紅ごときにゃぁ、不覚なんぞ取らんわい!」
「やれやれ。どーだか。・・・・・・動けるならまた、あたしに付き合ってよ。道場でさ!」
「まったく。可愛い孫だと思ってたら、いつの間にか生意気になりおってー・・・・・・」
小紅と源五郎は、家の敷地内にある、離れの別棟へと向かった。
「今日は、稽古日じゃないもんね。じーちゃんと遊ぶには、ちょうどいいやー」
「うぃー。・・・・・・わしゃ、今帰ってきたばかりだぞぃ? せっかちな孫だべー」
薄紅色のパーカーに黒いジャージ姿の小紅と、祖父の源五郎は、欅の板の間に上がった。
正面には小さな神棚があり、口ひげをたくわえた男性のモノクロ写真が掲げられている。
二十畳ほどの広さの、凜とした空気が漂う空間。
入口には「糸恩流空手道 早風館」と書かれた檜製の看板が掲げられている。
「あたしね、今日も、優太がバカどもにやられてるの見ちゃって、ぶっとばしちゃった」
「まぁた、そんなことしおってー。・・・・・・いいか? 空手の道ってもんはなぁー・・・・・・」
「もう聞き飽きたって。『先手無し』『礼に始まり礼に終わる』『君子の拳』って言いたいんでしょー? じーちゃん、あたしが町で何かやるたび、それだもんなー」
源五郎は首に巻いたタオルを取り、ごしごしと顔を拭いて、ぽいっと道場の脇へ投げた。
白い肌着に、下は作業服姿の、どこにでもいる田舎の小柄な爺さんといった見た目。
対する小紅は、祖父よりも十センチ以上も背が高く、まさに今時の女子高生といった感じ。
源五郎は大正十一年生まれ。今年、七十八歳の高齢者だ。小紅は昭和五十八年生まれの高校三年生。体力差も、言うまでもないはず。
「まったく、この小生意気な孫はー・・・・・・。部活も真剣にやれば、街中で余計なことをする気も起きんだろうによー。せっかく高体連の空手道部に所属してても、だめだんべや?」
「じーちゃん! あたしは、部活の空手なんかには、そこまで興味ないんだ! だって、空手は不当な暴力や悪事から身を守るためのものなんだろ? だったら、スポーツ競技より実戦で活かした方がいいじゃないかー。弱きを助け、悪きを挫くのが、あたしの空手!」
「やれやれー・・・・・・。危なっかしくて、困ったもんだ。・・・・・・どれ、今日もじーちゃんが、小紅の雑な空手を正してやるから。好きにかかってくりゃよかんべー」
源五郎は、やや前傾に腰を曲げ。両腕を後ろに組んで、笑っていた。つるりと光る頭と、横からふさふさした白髪、そして口元の白い髭がふわふわ揺らぐ。
「今日も・・・・・・いろいろ教えてよねーっ! さぁ、じーちゃん、覚悟ーっ!」
タアァンッ! タタタンッ!
小紅は、両足を前後に大きく開き、腰を落とす。そして、左足を前、右足を後ろへ引く。
左拳をゆるく握って肩の高さに構え、右拳はぎゅっと握って、みぞおち前に構えた。
「・・・・・・ほれ。どーした、孫? じーちゃんと遊ぶんだべー?」
「いっくよぉーっ!」
ダシュンッ! ダァァンッ!
強風が吹き抜けるが如く、小紅は床を蹴り、一気に二メートルほどの間合いを詰めた。
「てああぁーーーーーーーぃっ!」
ヒュヒュンッ! ヒュウンッ!
踏み込みと同時に、気合いの声が響く。小紅の両拳が源五郎の首元と腹部へ放たれた。
「・・・・・・酔ってても、わかるわい。雑な突きだんべやー・・・・・・」
ガチンッ バチンッ
「いっ・・・・・・た!」
源五郎は固く拳を握り、小紅の拳を二発ともその場で受けて打ち弾いた。
「素人相手なら何とでもなるんだべが、きちんと稽古と研鑽を積んだ者に、小紅の雑な突きなど効かなかんべやー・・・・・・」
「いったいなぁ! ・・・・・・糸恩流、受けの五原則。『落花』かー・・・・・・」
小紅は右の拳をさすりながら、一歩後退。
「ふぁっふぁっふぁ! そういうものは、よく覚えとんじゃなー? いかにも。落花じゃ」
「『大地が、落ちてきた花をそのまま受け止めるが如く、その場で相手の技を力強く受け止める』ってことよね・・・・・・。あたしもできるけど、じーちゃん、さすがだなー」
「ほれ? まだ遊ぶんだべ? 遠慮せず、来ぉー」
源五郎はまた腕を後ろに組み、小紅を誘う。にやっと笑って、小紅もまた踏み込んでいく。
シュバアッ!
カミソリのような、中段回し蹴り。しかし、源五郎はまるでイスに座るかのように、片膝を曲げて後ろに重心をかけた。小紅の蹴りは、空を切る。
「な! 酔ってるくせに、じーちゃんめー・・・・・・。『屈伸』か! 酔拳かよ、じーちゃん!」
「『自分の身をその場で屈するか伸ばすかで、相手の攻撃を無駄なく躱す』のじゃ。小紅の蹴りは、これで十分だべやー」
「・・・・・・甘いよ! こんなこと、じーちゃんできないでしょーが?」
クルッ ギュルンッ ヒュバアアァッ
空を切った蹴りの勢いを殺すことなく、小紅は一回転して源五郎の側頭部へ後ろ回し蹴りを放った。止める気のない、力とスピードの乗った蹴りだ。
ススッ・・・・・・
源五郎は、さらに片足を引いて身を開き、体を入れ替えて蹴りを躱した。
「あー、もう! やっぱ、じーちゃん、すごいや! あたしの連続蹴りが決まらないわ! 落花、屈伸、そして『転位』まで織り交ぜたなーっ!」
「『身を転じて体を開き、相手の攻撃を捌く』。ふぁふぁふぁ! 転位は、朝飯前だべや!」
「じーちゃん・・・・・・。あっ! そこ! ナメクジがいるよっ!」
「なに! どこじゃ?」
「・・・・・・スキありーーっ!」
ヒュゥゥンッ! キュンッ!
「うぉ! こ、姑息な真似を!」
小紅は、源五郎が目を逸らした隙を突いて、素速い正拳突きを放つ。
シュルンッ フワッ
「あ! ・・・・・・な、流されたーっ!」
小紅の突きを、紙一重で源五郎は手刀を使って柔らかく緩やかに受け流した。
「受けの五原則、『流水』じゃ。『流れる水のように、相手の力に逆らわず受け流す』。お前の技は、力が乗ってるから余計に流しやすいのぉー」
「わたたたっ・・・・・・。姿勢が崩されちゃったー。・・・・・・と、見せかけて!」
受け流され、勢い余って前につんのめった小紅。しかし、絶妙なバランス感覚で体勢を戻し、腰を切って至近距離で突きを放った。
「やれやれ。・・・・・・まだまだ子供じゃのー。小紅、甘くてだめだんべー」
ヒュンッ! シュバッ! バチンッ ・・・・・・ピタアッ!
「う・・・・・・っ! く、くやしーなぁー・・・・・・。これも、だめか・・・・・・」
小紅の突きに対し、斜め下から源五郎も突きを放ち、その勢いで小紅の腕を弾き飛ばした。
源五郎の拳は、小紅の喉元に、ピタリと止められている。
「まだまだ、わしもいけるべや? 『相手の攻撃に対して攻撃で返す』という・・・・・・」
「五原則の中の『反撃』・・・・・・だよね? わーん。あたし、酔っ払ったじーちゃんにすら、まだ敵わないのかー。あー、ショックだわー・・・・・・」
「最近、基本稽古も全然足らんみたいだべな? てっきり学校できちんと稽古してるのかと思っとったが、組手ばっかりやっとるな? 見りゃわかるべ」
「だってー、基本稽古、地味なんだもん。あたしは、思いっきり実戦本意で動きたいよー」
「ほんなことさ言ってるから、じーちゃんの基本技にすら、手も足も出ないんだー。いいか小紅? 糸恩流の開祖、和文仁賢摩先生は、歌にこう遺しておってな・・・・・・」
ふくれっ面をして胡座をかいている小紅に、源五郎は和やかに、諭すよう語りかける。
「それも、昔からよーく聞いた! 『何事も うち忘れたり ひたすらに 武の道歩み ゆくが楽しき』、でしょぉ? それ、学校の武道場にも飾ってあるんだもんー・・・・・・」
「わかってんなら、ただもうひたすらに、ちゃんと稽古しなきゃだめだんべや。小紅は、今のままじゃ、そこらの素人には勝てても、いざという時に困ることになるぞぃ。そのためにも、基礎からしっかり磨いておくんじゃ。それが、武道ってもんだべやー」
「・・・・・・あたしは、バカなやつらから、この町や地域が守れれば良いの。空手のチャンピオン目指してるわけじゃないもん。じーちゃん、また、実戦技や護身技、教えてねー?」
「まったく・・・・・・。中学までは、良い選手だったのによぉー。あれ以来、お前は、そっちにばっかり目が行ってしまってるんじゃなー・・・・・・」
「あたしは絶対にこの手で、あいつらを捕まえてやるの! ろくでなしどもに、あたしが正義の鉄槌を下すの! じーちゃんだって、気持ち、わかるでしょ?」
「・・・・・・わかんなくもねーが、もう、どーしようもなかんべ。小紅、頼むから、命の危険だけは避けんだぞ? じーちゃんの古くからの知り合いで、『人に打たれず 人打たず』って信念をずっと守ってる人も、いるんだかんな?」
「だいじだってば! 心配しすぎ! あたしだって、自分からは仕掛けたりしないもん!」
道場での祖父と孫の声は、それからしばらく晩春の夜に響いていた。
激しい踏み込みの音に、砕けた笑い声も交えながら。