Play×Tag×Vampire09
アタシは逃げ切れないと分かっていても、足が痛くとも、ゆっくりでも確実に近づいてくるお兄さんが怖くとも、逃げるしかない。
階段を上りきり、三階に来たアタシは上るのを止めて階を縫うように走った。錯乱できるとは思っていない。でも上るだけではいずれ突き当たりに来てしまう。
「あっ!」
壊れて落ちていた天井のコンクリートに躓いて転んでしまった。ドシャッという音に続いてスマートフォンが転がる音がする。
足が、痛い! ふと揺らいだ目はあの傷から流れる血を見た。走った所為でひどくなったらしい。
最悪だ! アタシは床を両手で叩きつけ、そのまま手を突っ伏して立ち上がり、再び走り出した。もうスマートフォンなんてどうでもいい! アタシの心にあるのはお兄さんから逃げたいということだけだ!
埃が立つ中を走り続けてからしばらく経ち、アタシは絶望に近い心境に陥った。くるっと回ってまた階段まで戻ってこられると思っていたのだが、いつの間にか壁がアタシを囲んでいた。怖れていた突き当たりだ……! こうなってしまったらもう走ることも出来ず、為す術が無くなったという失意が満たしていくだけになる。それに加えて、死への恐怖。アタシはうるさい心臓を押さえつけて荒い息をする、だけ。
「もう、逃げ道は無くなったぜ」
全身の血がすごい速さで引いていった。ゆっくり、声のした方を向こうと身体ごと動かす。
「頑張ったとは思うけど……残念だ」
お兄さんがこちらに歩いてきている。アタシはお兄さんを凝視しながら少しずつ、すり足で後退した。でも背中に冷たい壁の感覚がして、がくりと膝から床に崩れ落ちてしまった。身体が、動かない。
「怖ぇか? 俺が」
闇に揺れる赤い瞳。それだけで十分アタシの恐怖を駆り立てる。恐怖というものが人を支配すると、ホントに動けなくなるのだ。
「そりゃ怖ぇよな。俺はお前を殺そうとしてんだもんな」
……お兄さんは何を言っているのだろう。アタシは恐怖を忘れようと頭の隅に抱いた疑問にすがりつくことにした。お兄さんは、どうしてそんなことを言うんだろう。どうして、そんなにも泣きそうな顔をしているんだろう。どうして……?
「ごめん、な」
お兄さんが申し訳なさそうな、いや、今にも涙を流しそうな顔で微笑む。ごめんって、どうして謝るの? アタシは訳が分からなくなってスローモーションのように動くお兄さんをじっと見つめていた。ゆっくり、ゆっくり、鋭い爪の伸びた白い手がアタシに向かってくる。
ガシャァァァァン!
いきなり凄まじい音が聞こえたと思うと目の前でキラキラ光る何かが舞った。それが窓ガラスだと気づいたのは月に照らされた白い背中がお兄さんを吹っ飛ばし、アタシに笑いかけてきてからだった。
「無事みたいだな、ホノカ」
口の端だけを吊り上げて笑う彼は、少し濡れた白髪とこの青い瞳は、アイゼンバーグのものだ……! 光を反射させて飛び散るガラスの中の彼の姿は一種幻想的なものだった。
アタシはそんなアイゼンバーグをぼうっと見つめ、落ち着いていく心臓の鼓動を聞いていた。アイゼンバーグも吸血鬼なのに、アタシをこれからどうするかも分からないのに、アタシは彼の登場に安心している。不思議だった。アタシは多分、こうなることを望んでいた。
「アイゼン……バーグ……」
呟く。彼はアタシのそんな小さな声さえも捕らえ、どうした、と顔を近づけてきた。優しい瞳。少なくともアタシはそう感じる。
「……まさかデインまで来ているとは思わなかった」
アイゼンバーグはしばらく何も言わないアタシを見ていたが顔を近づけるのを止め、お兄さんが飛んでいった方を見た。よく見るとアイゼンバーグの身体は傷だらけだった。すでにあの切り傷は治っているようだったが、アタシの足と同じ切り傷のような焼き傷のような傷が無数にある。それに何かが貫通したのか穴が空いて塞がりかけているようなものもある。また血みどろだ。男の人と激しく戦ったのだろう。
「面倒なことに、今ので彼奴は気絶しただろう」
アタシは首を傾げて立ち上がった。まだ少し足がガクガクするけど、身体が動くということは素晴らしい。
「気絶したならいいんじゃない?」
死ぬということよりは比べものにならないくらい良い状態のような気がする。まぁ死と比べるのも良くないし気絶させるというのも良くないことだろうが、相手が意識を失ったのならここから逃げやすいだろう。
「他の奴ならな。だが相手はデインだ。彼奴はいったん意識を失うと戻るまで見境無く暴れ続ける」
「なにそれ!?」
それでは為す術がないのではないか? ……そうか、だからお兄さんに会った時に気絶していないか聞いたり、あまり戦わずにその場を離れたりしたのだ。
アタシは一人、納得しながら未だ変化のない瓦礫の山を見つめた。お兄さんはまだ動かない。ホントに気絶しているのなら、この状況は絶体絶命か?
ヒュンッ
瓦礫から目にも止まらぬ速さで何かが飛び出してきた! それはどうやら赤い目が二つあるもので、鋭い爪を突き立ててきていた。アイゼンバーグは伸ばされた腕を払いのけるが、爪が彼の頬に一筋の傷をつける。続いて首を取ろうとしてきた腕をアイゼンバーグが掴み、取っ組み合い状態になる。
「やはり」
笑うアイゼンバーグ。向かい合うのはどこを見るでもない濁った瞳のお兄さん。ホントにこの人気絶している! それに信じられないくらい動きが速くなっているではないか!
この人はホントにアイゼンバーグにぐしゃっと頭を屋根に押しつけられた人と同一人物なのか? 全く同じ人には見えない。それに、さっきごめんと言って泣きそうな顔をしていた人にも。
ガッ
お兄さんが左足でアイゼンバーグの横腹に蹴りを入れた! しかしアイゼンバーグは笑ったままお返しと言わんばかりに右足を振り上げて顎を砕く。そして仰け反ったお兄さんの胸に回し蹴りを食らわせたが、それはお兄さんの右手一枚が阻止し、アイゼンバーグは足を掴まれて放り投げられてしまった!
ドゴゴゴッ
壁を突き破り、アイゼンバーグの姿が消える。自然と大きくなった目で姿を追うと、視界の端にキラリと光るものが映った。
お兄さんの手! アタシの首を狙っていることに気づいた時にはもう、遅いと思った。
バゴッ
しかしアタシに向かっていた手は突然飛んできた大きなコンクリートの塊に移り、あっという間に粉々にした。間髪入れずに跳んできたアイゼンバーグの膝蹴りでお兄さんは飛ばされ、着地するものの床を滑る。
「面倒だ」
アタシを背中に隠してアイゼンバーグが吐き捨てる。お兄さんはどうやらアタシもアイゼンバーグも機会がある方から殺そうとしているらしい。お兄さんの攻撃を防ぐことが出来ないアタシは少しでもアイゼンバーグから離れれば命はないということだ。もしかしたらさっきの攻撃で……。
怖い。恐怖で身体が固まってしまう。アタシはアイゼンバーグの後ろにすっぽり隠れ、彼の冷たい腕を掴んだ。迷惑かもしれないが、アタシはアイゼンバーグから離れたくない、死にたくない。
「ホノカ、死にたくないなら走れ」
「?」
知らず俯いていた顔を上げる。彼は、笑っていた。




