8-27.ヴォマーノ川戦線
未明の無彩色の空気が、聖堂広場に満ちている。この季節のこの時刻、普段なら冴え冴えとしていただろうが、今は群衆の熱気に温められていた。アミュウと聖輝、それにロサの三人も、その中に加わっている。
「同胞の戦士たちよ、我らが我らの手に我らの街を取り戻すまで、あと一押しだ! 王都の犬を蹴散らすまで戦い抜こうぞ!」
仮設の演壇で声を張りあげる領主マグダ・ディ・ブリランテの影で、姫将軍はじっと動かない。アミュウは広場の隅から彼女を見つめているが、むろん、アモローソの側からはアミュウを探し出すことはできないだろう。声をかけたとしても、周囲の雄たけびにかき消されてしまうに決まっている。
(私にできることは、きっともう、何もない)
たとえアモローソと一対一で話したとしても、アミュウの声は届かないのだと、先の邂逅でよく分かった。それでも彼女の後を追って戦場に向かおうとしているのは、彼女の戦いを――戦闘行為ではなく、生き様を見ていたいからだ。そして、彼女に危険が及ぶなら、守ることのできる距離にいたい。きっと、隣にいる聖輝も同じ思いなのだろう。
マグダの演説はいつの間にか終わっていた。今回は、姫将軍からの激励の言葉はないらしい。正規軍が行進をはじめ、義勇軍が後に続く。市民たちは最後に行軍した。作戦に加わる市民の数は、昨日よりも減っていた。
夜明け前の街道を進むのは二度目だ。知らず知らずのうちにアミュウは早足になった。
東に横たわるデウスの山並みの形は判然としない。星空ならば稜線が見えていただろうが、今は厚い雲が垂れこめているようだ。月も隠れていて、奇襲にはもってこいだ――もっとも、連合軍側も警戒しているはずだから、危険な作戦であるのには違いがない。
周囲の軍勢を見回しても、一度目の行軍のときほどの昂ぶりは見られない。高揚感は薄れ、かわりにもっと現実的な緊張感が漂っているように感じられる。殴られたら痛いし、怪我をする。人を殴れば怪我をさせる。そして、いつ、どこから矢が飛んでくるのか分からない。ブリランテ独立という錦の御旗の陰に隠れていた当たり前の現実を、市民たちは思い知ったのだろう。軽口をたたき合う中にも、なんとなく白々しさが漂う。
昨晩歩いたからか、ペリアーノ川までの道のりはあっという間に感じられた。橋は既に燃やされていたが、ブリランテ側の想定の範囲内だったようで、先を行く正規軍が丸太を架けていた。たっぷりの雪解け水に濡れた橋脚が残っていたから、簡易の丸太橋をかけるだけなら、さほど難しくなかっただろう。
しかし、もともと幅の広かった橋がたかだか数本の丸太に置き換わったことで、橋の手前は大渋滞となっていた。中には泳いで渡ろうとする者も見える。だいぶ暖かくなったとはいえ、夜の川の水は冷たかろう。アミュウたちは順番を待ち、丸太橋を歩いて渡った。なだらかに曲がった丸太は不安定で、川音がやけに大きく耳に響いた。
ペリアーノ川から先、ヴォマーノ川までは遠く、重苦しい空気をかきわけるように一歩一歩足を進めた。はじめ、己を鼓舞するように威勢よく軽口をたたいていた面々も、今は押し黙って歩いていた。アミュウも聖輝も、沈黙したままだった。ロサも口を開かなかった。戦線が近いと、誰もが覚悟していた。まだ夜明けの遠い草原は、暗く静かだった。雄たけびも叫び声も轟音もない。
だから、もう間もなく戦闘が始まるとは理解していても、今いるこの場所が突如戦場になると考えている者はごくわずかだっただろう。
靴の裏で微かな揺れを感じたとき、アミュウは行進による振動かと考えたが、ロサは違ったようだった。
「道から離れて! 道が割れる!!」
叫ぶや否や、ロサはアミュウの腕をひっつかんで街道脇へと駆け出した。聖輝も路肩へ横ざまに飛んだ。わけも分からないまま同じように街道から離れる者、隊列を守ろうとする者、さまざまにいたが、その数秒後にはロサの宣言どおり、轟音とともに街道が崩れ落ちた。
すこし離れた草むらに退避したアミュウの目には、前方のヴォマーノ川方面から街道を巨大なモグラが突き進んできたように見えた。街道の路面の土が、腰ほどの高さまで盛り上がったかと思うと、深い穴となって崩落したのだ。
(こんなときに大型獣が現れたの!?)
悲鳴と怒号が飛び交う。舞い上がる砂塵の中、アミュウは蓮飾りの杖をしっかりと構え、周囲の様子を窺った。地面の崩落は、街道に沿って後方まで続いているようだ。道に残っていたブリランテ勢は、土中へと消えていった。穴の中を覗こうと一歩踏み出したアミュウの手を、再びロサが掴んだ。
「この馬鹿! 崩れるわよ!!」
「今のは何? 爆弾? それともモグラのけもの?」
混乱するアミュウに、聖輝はかぶりをふった。
「いや……今のは」
聖輝は言いよどんでからちらりとロサを見る。彼女は、いまだに砂塵のけぶる、崩れ落ちた街道の先を見据えながら言った。
「ええ、精霊魔術よ」
土ぼこりの向こうに浮かぶ影を、アミュウも凝視する。戦塵がおさまるにつれて明瞭さを増していく人影は、案外小さかった。
「やっぱりね……あんたが来ると思ってたわ」
華奢な身体に革鎧をまとい、武器も持たずに身一つで立つのは、アミュウの知る、アミュウと同じ年ごろの少女だった。黒染めの皮革と黒髪に包まれて浮き出す小さな顔は、さながら闇夜にひっそりと咲く白薔薇だった。アミュウは息を呑んでその名を口にした。
「リゼットさん……?」
穴ぼこだらけの草原を吹き抜ける風が砂塵を吹き流すと、国王派筆頭枢機卿の秘蔵っ子、リゼット・ドゥ・ベランジェが姿を現した。彼女はアミュウを一瞥したきり無視して、ロサのほうを向いた。
「ああ……あんた、精霊鉄道が止まったときの。成金ディムーザンとこの飼い犬だっけ?」
「あのグレミヨンのおっさんが、このド派手な舞台にあんたを送りこまないわけがないって思ってたわ」
舌打ち混じりにロサがこぼす。リゼットは顔周りに落ちてきた後れ毛を、気だるそうに耳にかけた。その指の白さや細さが、アミュウの位置からもよく見える。彼女はロサの着ているコンバットスーツとよく似た鎧を見に着けていたが、まったく似合っていない。戦争に来たとは到底思えない可憐さだった。鈴を振るような声は、しかし滴るほどの毒を帯びている。
「派手でもなんでもない。私はただ、掃除を言いつけられただけだから」
「掃除?」
「そう、掃除」
リゼットは、ロサのオウム返しにこれまたオウム返しを繰り返す。
「私の役目は、ゴミをなるべく減らすこと。ただの掃除屋なの。
主の威光は曇りなく 王の御前に一片の塵なし
熾天使ウリエルの法典に御名あり
唱和せよ アドナイ・ハ・アレッツ
いま来たる裁きのとき、
逆徒は奈落へ堕ちろ!」
会話から流れるように呪文の詠唱へと移ったリゼットが、右の拳を地面に突き立てる。すると四方へ地割れが広がり、さらにブリランテ勢の兵を飲みこんでいく。アミュウは咄嗟に言霊を紡ぎ結界を張った。
「葦舟は衆生をのせて光の家へと至れり!」
光の壁の中で、アミュウは地獄を見た。
草原の広がる大地はまるでガラス板のように砕けていく。地面の振動が伝わったのか、断崖の筋となり果てた街道のふちまでもが脆く崩れていった。
一帯は、ちょうどアミュウたちがヴェレヌタイラを断ってブリランテへ道すがら、休憩した水場のあたりだった。馬に水を飲ませ、変装の似合わない聖輝を笑った場所は、もっと山側へ上った場所だったか。今となっては見分けもつかない。
地響きは鳴りやまない。はらわたを震わせる轟音が逃げ惑うブリランテ兵の叫び声と共鳴し、まだ暗い空いっぱいに広がっている。アミュウの結界は半径にしてほんの数メートル、すぐ近くにいたロサと聖輝を守るので精いっぱいだった。鳴動の合間に、アミュウの傍らでロサが何やら呟くが、耳を貸す余裕はまったくなかった。結界が一秒でも長く維持できるよう、ただただ集中していた。聖輝が「危ない」と鋭い声を上げても、アミュウは大した注意を向けることもできなかった。その制止の声が、ロサに向けたものであると、遅れて気付いた。
ロサは、アミュウの結界から転がるように飛び出していた。彼女が手を振りあげると、どこからともなく炎が燃え上がり、火柱となった。火炎は渦を巻き、リゼットへ向けて突き進む。迎え撃つリゼットは、何かを唱えながら地表を剥いで土の壁を生み出した。
業火が地を焼く。土の壁に跳ね返った熱気の塊が、アミュウたちを通りすぎていく。ロサはすんでのところでアミュウの結界に飛びこんできた。
アミュウの両手に熱が伝わってくる。蓮飾りの杖が熱い。まるで料理をしているときの木べらのようだ。地上に残っていたブリランテ兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていったが、割れた地面の穴ぐらに取り残された者たちが悲鳴を上げた。火の粉が降り注いでいるのだ。
たまりかねたように、聖輝が声を上げた。
「周りへの被害が甚大です! アミュウさんもこれ以上はもたない。水の精霊魔術で火を消してください」
「あのガキだって長くはもたないわよ! あともう一押し、踏ん張ってアミュウ!」
「そんな無茶苦茶な……わっ」
アミュウを挟んでロサと聖輝が言い争っているのを、風切り音がかき消した。突如として横から暴風が殴りつけてきたのだ。台風のときにも経験したことがないような風の勢いで、バランスを崩しかけたアミュウを聖輝が支える。ロサはそのまま吹き飛ばされて尻もちをついたが、すぐに身体を起こす。
「……グレミヨン卿の懐刀が来てるってのは予想してたけど」
ロサが頭を抱えて呻くずっと向こうで、土壁が焦げて崩れ落ちた。むくりと起き上がったリゼットが、熱を振り払うように手をひらひらとさせて言った。
「あんたの持ち場はもっとうしろじゃなかったっけ?」
山側から現れた男の顔が、炎に照らされて闇に浮かび上がる。彼の巻き起こした旋風で、ロサの火はいっそう燃え広がっていた。今やもう、彼の顔を充分に見分けられるほど明るい。懐かしいその顔を見て、アミュウは動くこともうめくこともできなかった。聖輝がアミュウを抱えたまま歯を食いしばる。ギリリという歯ぎしりの音が、アミュウにも聞こえた。
「……なぜあなたがここにいるんですか、アルフォンス=レヴィ・コンスタン!!」






