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私の足は動かない。  作者: 胡夜
2/2

あなたは人気者。

真っ白な病院の廊下を、指定された部屋まで歩く。


周囲には看護師や子どもの声で満たされているはずなのに、俺の耳には膜が貼ったように遠くのできごとに聞こえた。


1101号室、蓮野奈緒。


報道では「被害女性は軽傷」と報じられているが、それが事務所が流した誤情報であることはわかっていた。

葉山は扉の前で一度立ち止まると、重い手を胸の高さまで上げ、静かに扉をノックする。


------


最初に聞こえてきたのは微かな音だった。

続いて二度。コンコンという音が扉から聞こえてくる。


「はい」


扉に声をかけると、真っ白なドアがゆっくりとスライドして動いた。


立っていたのは、テレビで何度か見た姿。

スラリとした身長に、細身の体躯。目にかかりそうな前髪の奥には端正な顔立ちがのぞいている。

少し痩せすぎな気もするが、いかにも売れっ子アーティストといった風体だ。


男はなんと声をかければいいのかわからないまま、口を開いてはギュッと結んでを繰り返した。


扉の前で突っ立つ男と、ベッドに腰掛ける女。

どちらも何も言葉を発しないまま数秒が流れるが、その心境には雲泥の差があるだろう。


「あの…」


男が声を発しかけたとき、後ろから少し慌てたような足音が聞こえた。

男の後ろから、先ほど顔を合わせたマネージャーの沢田が声をかける。


「蓮野さん。お加減いかがですか?」


この1ヶ月間、何度もしたやり取りだ。


「はい、大丈夫です。」


沢田は軽くうなづくと、葉山の背を軽く支えるように押す。


「あの、二人で話を…ということだったんですが僕、扉の外で待機してますので。もし、もし、困ったことがあったら…その…声かけてください」


そう言って沢田は葉山を心配そうに見やり、ゆっくりとドアを閉めた。


部屋には事故の被害者と…本当の加害者が残された。


-------


事故後、彼女が目を覚まして、医師・看護師の診察を受けたあと、まず面会に現れたのは沢田と事務所の職員だという女性だった。


事故を起こしたのはこの沢田です。

本当に申し訳ありません。

治療費も今後の生活の補償も、十分にさせて頂くつもりです。


そう言って頭を下げる2人を、彼女は呆然と見つめていた。

謝罪と補償、いわゆる示談の交渉だった。


ふと顔を上げた彼女は、加害者だというマネージャーの男を見つめる。

目があって、緊張した表情をさらに強張らせた沢田は、「本当に申し訳ありませんでした!」と言いながらものすごい勢いで頭を下げた。


「あの、私裁判を起こすつもりも、マスコミに何か言うつもりもありません。」


まるで天の救いかとでもいうように、沢田と職員の女性が顔を上げる。


「ただ…あなたじゃないですよね?」


奈緒は沢田の目を見て、静かに言った。

途端に、それまで緊張の糸が緩みかかっていた二人の表情が、氷点下の湖にダイブしたかのように強張る。


「いや、それは違います。」

「そうです、僕が、」


何度も否定を繰り返す2人に、奈緒は少し困ったように続けた。


「人気者のマネージャーって大変なんですね。本人の代わりに加害者にまでならないといけないんですか?」


暗がりで雨が降っていたとはいえ、奈緒はしっかり覚えていた。


あの夜、車の眩しい光の中で目があった運転席の人物。体に走った衝撃。

慌てたように駆け下りてきた細身の体躯。

朦朧とする意識の中で目があったのは、渋谷の大型ビジョン映っていたアーティストの顔だった。


青ざめて押し黙ってしまった沢田をフォローするように、職員の女性がさらに強く否定する。


奈緒は2人から目をそらして、ふっと息を吐いた。


「本当の犯人を責めるつもりはありません。そちらが困るのであれば、警察にもマスコミにも言うつもりはありません。」


「不運な事故ですよね。誰にでも起こりうること。ただそれだけです。」


思った以上に軽い雰囲気で滔々と話す奈緒に、職員と沢田は「これなら…」と希望を抱く。


「けれど…身代わりに誰かに償って頂くことではないと思うんです。そんな償いして欲しくない」


ピシャリとした発言に、室内に不穏な空気が漂う。


「私のいまの状況は聞いていますか?」


前を向いたまま呟いた奈緒の視線の先には、真っ白なシーツに覆われている。


しかし、そこに本来あるべき膨らみはない。


痛いほどの沈黙。沢田と職員は気まづそうに俯く。


彼女の足はもうない。これからの人生を健常者として生きることはできない。


それほどの怪我を負わせた相手を自分たちは謀ろうとしていたのだ。


奈緒は足から目を離し、沢田と職員に顔を向けて微笑んだ。


「償いは本人がしてください。それだけが私の望みです。」


沢田と職員は、絶望的な顔をして立ち尽くした。

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