4:予言の一致
4:予言の一致
豊島の風は、直島で受けた風より少しだけ乾いていた。
海の見える高みで、蒼はしばらくスケッチブックを閉じたまま立っていた。紙の上に残った長い斜線が、単なる手癖なのか、それとも昨日から続く不穏な連なりの一部なのか、判断がつかなかったからだ。目の前の海は何も知らない顔で光を返している。遠くの白い船は、さっきから進路を変えることもなく、淡い反射の中を滑っている。何も起きていない。現実は穏やかで、自分の中だけが先に何かを見てしまっている。そういう順番の狂いが、じわじわと蒼の呼吸を浅くした。
――まだ描くのか。
声がした。
蒼はスケッチブックを抱え直した。描くつもりはなかった。少なくとも、今は。けれど指先の内側には、鉛筆を持ったときの残熱のようなものがまだ残っている。描くこと自体が危険なのか、描かずにいることで別のかたちに膨らむのか、それも分からない。何が正解か決められない状態が、いちばん消耗する。
高みから下りる道は、来るときより急に思えた。風が背中を押す。途中で何度か立ち止まり、蒼は振り返って海を見た。白い船はもうかなり遠い。さっき脳裏をよぎった像がただの不安の産物に過ぎないと証明するように、海は何事もなく広がっている。だが、紙の上に残った一本の斜線だけは消えない。ページを閉じても、視界の裏でその角度が残り続ける。
集落の方へ戻ると、島の生活の音が少し近くなった。どこかの家から鍋を置く音がし、原付が一台通り過ぎ、畑で作業している人の声が風に混じる。そうした音の一つひとつが、蒼にとっては救いでもあった。現実はまだ、自分の外側でこうして具体的に続いている。頭の中のざわめきだけが世界の全部ではない。
坂の途中で、蒼はふと小さな休憩所のような場所を見つけた。屋根つきのベンチと、自動販売機、それに港方面の案内板がある。観光客らしい二人組が地図を広げていたが、すぐに立ち去っていったので、蒼は空いたベンチに腰を下ろした。水を飲み、鞄の中からスマートフォンを取り出す。時計を見ると、まだ午後の早い時間だった。豊島に来てからそう長くは経っていない。なのに、もう一日ぶんくらい長い時間を過ごした気がする。
通知欄には、母からのメッセージが入っていた。
《海どう? 少しは休めてる?》
蒼はしばらくその文面を見つめた。「少しは休めてる」と返せば、それは嘘ではない。実際、島に来てから都会にいた頃のような息苦しさは少し和らいでいる。けれど同時に、別の種類の緊張が始まっていることも確かだった。海は静かだ。島の人は親切だ。風景はどこまでも広い。なのに、その広さの中で、自分の内側のずれが逆にはっきり見え始めている。そのことを、どう言葉にすればいいのか分からない。
《大丈夫。少し落ち着いてる》
結局それだけ返し、送信する。大丈夫、という言葉を使わずに済ませたのは、自分にしては少し誠実だったかもしれない。落ち着いているのは本当だ。完全にではないが、少なくとも都会で削られていく感じからは離れている。
メッセージを送り終えた直後、遠くの方から短い警笛の音が聞こえた。
蒼は反射的に顔を上げた。
ここからは海が少ししか見えない。建物と斜面の隙間に、水面が細くのぞいているだけだ。その見える範囲の中を、一艘の小さな白い船が横切っていくのが見えた。遠くて細部は分からない。けれど、白い船体が光に当たる瞬間、蒼の胸にあの像が再び差し込んだ。
傾く船。
斜めに走る線。
散る黒い点。
今度は昨日より鮮明だった。ただの断片ではなく、短い映像のように一瞬だけ脳裏を走る。船体が右へ傾き、甲板の上の何かが滑り、誰かの手が空を掴むように伸びる。次の瞬間には見えなくなる。現実の海は何も起こしていない。白い船は、ごく普通にそのまま進んでいる。
蒼は立ち上がりかけ、すぐにまた座り直した。心臓が早い。指先が冷たくなる。自分はいま何を見たのか。予感なのか、ただの恐怖なのか。それとも、同じ形が二度も頭をよぎっている以上、もう少し別のものと考えるべきなのか。
――合ってる。
声が囁いた。
「何が」
蒼は思わず、ほとんど声にならない声で言った。
休憩所にはもう誰もいない。自動販売機の低い機械音だけが、一定の唸りを続けている。
――線の向きが、合ってる。
蒼は背筋にぞっとしたものが走るのを感じた。スケッチブックを開く。さっき自分が無意識に引いた斜線は、たしかに右下がりだった。今、脳裏に見えた船の傾きも同じ向きだった。偶然だ、と言い聞かせたい。傾くものを想像すれば、右か左かのどちらかでしかないのだから、一致する確率は低くない。だが二度、三度と繰り返されると、その偶然の説明は薄くなる。
蒼はスケッチブックを閉じた。ここで描いてはいけない、という感じがさらに強くなっていた。もし描けば、今見えた断片にもっと輪郭が与えられてしまう。輪郭を持ったものは、現実へ近づく気がした。
港の方へ下りることにしたのは、その場に留まっていると自分の内側だけに閉じ込められそうだったからだ。海が見える場所へ近づけば、少なくとも今見た白い船が現実にどう動いているのかを確かめられるかもしれない。そう思う一方で、本当に確かめたいのは「何も起きないこと」なのだと蒼は分かっていた。何も起きず、自分の見たものがただの錯覚だったと分かれば、それが一番いい。そうでなければ困る。
道を急いで下りるうち、汗が首筋を伝った。風はあるのに、体の内側の熱が下がらない。港へ近づくにつれ、人の気配が少しずつ増える。レンタサイクルを押す観光客、買い物袋を提げた高齢の女性、軽トラック。現実はいつもどおり動いている。自分だけが先走っているようにも思え、そのことがかえって焦燥を強めた。
港へ出ると、海は広く見えた。
蒼は目を凝らし、さっき見えた白い船を探した。何艘かの船影がある。大型のフェリー、小さな漁船らしいもの、観光客を乗せる船。どれが先ほどの船かはすぐには分からない。水面は午後の光を散らし、白い点がいくつも浮かんでいるように見える。
「大丈夫ですか?」
後ろから声をかけられて、蒼は振り返った。港の案内所の近くにいた若い係員の男性だった。蒼があまりにも海を凝視していたせいだろうか。
「……ええと」
「何か探してます?」
探している。たしかにそうだ。だが何を、と問われると答えられない。起きるはずのない事故の兆しを探しています、とはもちろん言えない。
「白い小さい船が……さっき見えて」
曖昧な言い方しかできなかった。係員は海の方を見て、「ああ、こっちだと何艘かありますね」と言う。
「さっき、警笛鳴ってたやつですか」
その言葉に、蒼の胸がひやりとした。
「聞こえましたか」
「はい。あの辺、たまに近くを横切るから。危ないってほどじゃないけど、合図は鳴らします」
危ないってほどじゃない。その付け加えが妙に印象に残る。蒼は海を見た。白い船の一つが、別の船影の近くを少しずつ横切っていくのが見える。遠いので状況はよく分からない。けれど、さっきの像にあった接触の気配と完全に無関係とは言い切れない距離感だった。
――近い。
また声が言う。
蒼は歯を食いしばった。何が近いのか。現実が像に追いつくことがか。あるいは自分の理性が、もう偶然と片づけられない地点に近づいているのか。
数分のあいだ、蒼はほとんど身動きせず海を見ていた。係員は途中で仕事に戻ったらしく、もうそばにはいない。港の人々はそれぞれの用事を続けている。観光客が写真を撮り、島の人が歩き、フェリーの案内放送が短く流れる。世界は自分の内側の緊張に合わせてはくれない。だからこそ、何も起きないでくれと蒼は祈るような気持ちになった。
その瞬間だった。
沖の方で、白い飛沫が小さく跳ねた。
あまりにも遠く、小さい。何かが大きく壊れたわけではない。ただ、白い小型船が波を切る角度を変えたように見え、その直後に、船体がほんの少しだけ右へ傾いた。大げさに横転したわけではない。だが蒼の脳裏には、直前まで見えていた像があまりに強く残っていたため、そのわずかな傾きが決定的な一致に感じられた。
船の上で何かが滑ったようにも見えた。甲板の上に置いてあった荷物か、人か、遠すぎて分からない。ただ、白い点が一つ、水面近くへ落ちるような動きをしたのだけは見えた。
蒼は無意識に一歩前へ出ていた。
「おい、大丈夫か?」
港の少し向こうで、誰かの声が上がる。島の人らしい男が、海の方を見ながら手をかざしていた。別の人も立ち止まり、視線を沖へ向ける。ほんの小さな異変だったはずのものが、その場にいた何人かの注意を引いたことで、蒼の見たことが「自分だけのものではない」と示された。
現実だ。
その認識が胸に落ちた瞬間、蒼は強い眩暈を覚えた。大事故ではない。海はすぐにまた平静を取り戻し、白い船も完全に止まったわけではない。だが確かに、蒼が数分前に脳裏で見たのと同じ向きに、同じような小さなずれが現実に起きた。そして何か白いものが海面近くへ落ちた。
港の一角で、双眼鏡のようなものを持っていた年配の男性が「あ、クーラーボックスか」と言った。近くにいた別の人が「ああ、荷物か」と返す。人ではないらしい。その会話を聞いて、蒼はようやく肺に空気を入れた。落ちたのは荷物。人ではなかった。大きな事故ではない。だがその安堵は、別の種類の恐怖をすぐに呼び込んだ。
自分は見てしまったのだ。
ほんの短い先の、現実のずれを。
それがたまたま白い船と斜線と小さな傾きとして一致しただけなのか、それとも本当に予兆だったのか、その言葉はまだ決められない。けれど、昨日から繰り返し脳裏に差し込んでいた像が、完全な空振りではなかったという事実だけは残る。
蒼の足元が少し揺れた。港のコンクリートの上に立っているのに、まだ船の上にいるような感覚がある。手の中のスケッチブックが異様に重い。そこにある一本の斜線が、いま急に意味を持ちすぎて見えた。
――合った。
声がもう一度言う。
その響きには勝ち誇った感じも、嘲りもなかった。ただ確認だけがあった。事実を指差すだけの声音。それがかえって蒼を追い詰める。
港の人たちはすぐに日常へ戻り始めた。荷物が落ちただけなら、大事ではない。白い船も、しばらくして体勢を立て直し、そのままゆっくり進んでいく。観光客の多くは何が起きたのかも分からないまま、それぞれの方向へ歩き出している。世界にとっては、ごく小さな出来事だった。
だが蒼にとっては、小さすぎるからこそ逃げ場のない一致だった。大事故なら、偶然見た不吉な想像がたまたま当たった、とどこかで処理できる余地もあったかもしれない。けれど今起きたのは、傾き、白いものが落ちる、というきわめて限られた断片だけが、自分の像とほとんど同じ順番で現実に重なったということだった。まるで現実のほうが、蒼の頭の中にあった粗い下描きに薄く色を乗せていったようだった。
蒼は港の端まで歩き、海風の強い場所で立ち止まった。吐き気に近いものが上がってくる。怖いのは、出来事そのものではない。自分が「先に見てしまう」側へ踏み込みつつあることだった。自分の感覚を信用しすぎることは危険だと知っている。病気を抱えてからずっと、その危険と距離を取ることで何とか日常を保ってきた。なのに今、島という静かな風景の中で、その感覚が一部だけ現実と噛み合ってしまう。
遠くで、風に運ばれて笑い声がした。子どもの声かもしれない。空は明るく、海も穏やかだ。こんなにも平和な午後の中で、自分だけが別の層の時間に触れてしまっている。その隔たりが、ひどく孤独だった。
しばらくして、蒼はようやくスケッチブックを開いた。さっきの斜線があるページを見つめる。線は変わらない。紙は何も主張しない。ただ一本の斜めの線が残っているだけだ。けれど、その沈黙の中に、現実と結びついてしまった重さがあった。
蒼はページをめくり、新しい紙を開いた。
描いてはいけない、という気持ちはまだあった。だが同時に、いま描かなければこの恐怖が別のかたちで膨らむとも思った。鉛筆を握る。手は震えている。ゆっくりと、今見た海の線を引く。水平線。その上に、ごく小さな白い点。その横に、少しだけ傾いた短い線。
描いた瞬間、蒼は後悔した。
紙の上の船影は、自分が思っていた以上に、今起きた出来事の形を固定してしまう。たしかに見た、という証拠のようにそこへ残る。そのことが怖い。だが目を逸らすこともできなかった。描くことでしか、自分の中に生まれたずれを外へ出せないのかもしれない。
港の放送が次の便の案内を告げる。日常の音が、遠くで淡々と続く。蒼はページを見つめたまま、これがまだ予言と呼べるものかどうか分からないと考えた。大げさすぎる。だが偶然と言い切るには、二度も三度も同じ形が先に現れすぎている。
小さな一致。
それだけが、今の蒼に与えられた事実だった。
そして事実は、ときに大きな物語よりも残酷だった。なぜなら、そこには意味がないまま確かであるという性質があるからだ。意味は後から人が付ける。蒼はいま、その意味をどこに置けばいいのか分からず、海風の中でただ立ち尽くしていた。豊島へ渡ってきたのは、直島で起きたことを相対化するためだったはずなのに、現実は逆に、あの青い絵から始まった違和感に小さな裏付けを与えてしまったのだ。
――次は何だ。
声が低く言った。
蒼は顔を上げた。海はもう何事もなかったように光っている。白い船は遠ざかり、ただの白点になっていた。だがその問いだけが、夕方へ向かい始めた空気の中で、妙に鮮明に残った。次は何だ。次に一致するのは、どんな小さなずれなのか。そしてそれが、いつか「小さい」で済まないところまで膨らんだら、自分はどうすればいいのか。
答えはないまま、豊島の午後だけが静かに続いていた。




