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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第2章 絵と予兆

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3:豊島へ

3:豊島へ


 昼を過ぎたころ、蒼は港へ向かう坂道を下っていた。

 朝から本村の路地を歩き、いくつかの展示空間を巡り、凪や三宅の言葉を反芻するうちに、頭の中では一つの地名が次第に重さを増していた。豊島。凪が昨夜も今朝も自然に口にした島。女将も、島巡りの話になると当たり前のようにその名を出した。直島の先にある、もう一つの島。蒼にとってはまだただの固有名詞にすぎないはずなのに、その響きだけが妙に湿度を持って胸の奥に残る。

 豊島へ行くべきなのかどうか、蒼は何度も考えた。

 直島に来た目的さえ曖昧なのに、その先の島へ渡る理由などさらに説明しにくい。けれど、ここへ来る前の自分からすれば、そもそも直島へ来ること自体が十分に突飛だった。会社を飛び出すように休みを取り、海の見える場所へ向かい、白い壁に掛かった青い絵と出会った。その時点で、予定や理屈の順番はすでに崩れている。ならば、今さら「理由が足りないから行かない」という判断だけが妙に現実的であることの方が、不自然に思えた。

 港へ向かう道の途中で、蒼は一度立ち止まり、スマートフォンでフェリーの時刻を確認した。次の便まではまだ少し余裕がある。今から宿へ戻って荷物をまとめ直すこともできるし、このまま切符を買ってしまうこともできる。画面の数字を見つめているうちに、蒼は自分がすでに半分、豊島へ行くつもりになっていることに気づいた。迷っているというより、最後の確認作業をしているだけなのだ。


 ――行くのか。


 声が言った。

 蒼はスマートフォンをポケットにしまい、心の中で答えなかった。声の調子は、以前のような嘲笑でも警告でもなく、ただこちらの動きを観察しているようだった。そのことが不気味である一方、少しだけ助かる。少なくとも今は、声と争うより先に、自分の足が向かう方向を見失わないことの方が大事だった。

 港に着くと、昼の光が水面で細かく砕けていた。昨日より少し風がある。海は依然として穏やかに見えるが、三宅の言っていた「静かそうで意外と表情がある」という言葉を思い出すと、その平らな表面の下に別の流れが潜んでいるようにも思えた。フェリー乗り場の周辺には、リュックを背負った観光客や、買い物袋を提げた島の人らしき姿が混ざっている。誰も急いでいない。けれどそれぞれに、乗るべき便を見定めて動いている。

 蒼は切符売り場の前に立った。窓口の向こうの係員が、こちらを見て「はい」と言う。その一言で、選択は現実になった。

「豊島まで」

 自分の口から出た言葉が、少しだけ他人のもののように聞こえた。

 切符を受け取り、待合のベンチに腰を下ろす。フェリーが来るまでの短い時間、蒼は海を見ていた。直島の港は、昨日初めて着いたときとは違い、もう完全な未知の場所ではなくなっている。白い建物の位置、自動販売機の並び、案内板、ベンチ、係員の制服の色。そうした細部が少しずつ記憶に馴染んできている。知らない場所が、完全には安心できないまでも、「いま自分が立っている場所」として身体に登録されていく感覚があった。そこからまた別の島へ渡るということは、いったん獲得した足場を手放し、もう一段階外へ出ることでもある。

 そのことに軽い不安を覚えながらも、蒼は心のどこかで、それを必要としていた。直島で見つけた青い絵は、明らかに自分の何かを揺らした。だが、揺らされた場所に留まり続けているだけでは、その意味は広がらない気がした。別の島へ行き、別の空間に立ってみることで、あの青の違和感が「たまたまの一致」なのか、それとももっと別の層に触れているのか、少しは見えてくるかもしれない。

 フェリーが入港すると、人々は静かに列を作った。蒼もその後ろにつく。船体に足を踏み入れた瞬間、金属の床がわずかに響く。昨日直島へ渡ったときよりも小ぶりな船で、座席の間隔も少し狭い。蒼は窓際の席を選び、鞄を膝の上に置いた。

 船が岸を離れる。

 ロープが解かれ、ゆっくりと港が後ろへ下がっていく。直島の岸壁、建物の輪郭、斜面の緑、白い構造物、すべてが少しずつ距離を取りながらひとまとまりの風景になっていく。蒼は窓の外を見つめていた。島を離れるたびに、自分の中の何かも一緒にほどける感じがする。都会を離れたときは、日常の圧迫から抜け出すような感覚だった。直島を離れる今は、もう少し個人的な場所――あの青い絵の前で立ち尽くした自分の姿――から一歩外へ出るような、妙な寂しさが混じっていた。

 海の上では、時間の進み方がまた変わる。

 エンジンの振動、船底を打つ水の音、遠くを滑る別の船影。陸にいるときより、すべての動きが少しだけ間延びして感じられる。その伸びた時間の中で、蒼の頭の中に昨日と今日の断片がゆっくり浮かんでは沈んだ。洗面台の前で無意識に描いたスケッチ。白い壁に掛かった青い絵。凪の「始まる前の色」という言葉。三宅の「海のほうが絵を見てる感じがする」という言い方。海辺で一瞬だけ胸を貫いた白い小型船の像。スケッチブックの端に残った斜線。

 それらはまだ、一つの筋書きになっていない。ただ、互いを呼び合うように少しずつ近づいている。蒼はそのことを感じながらも、明確な結論を出すのを避けていた。結論にしてしまえば、どちらかの箱に入れなければならないからだ。病気の症状か、偶然か、予知か、勘違いか。だが今は、そのどれか一つに固定すると、かえって見えなくなるものがある気がした。

 窓の向こうに、小さな島影が見え始める。直島とはまた違う輪郭だ。緑が重なり、そのあいだから白い建物が点のように覗いている。海面の光も、こちら側では少し質が変わっているように思える。もちろん同じ瀬戸内の海なのだから、大きく違うはずはない。けれど島が変わると、光の反射の仕方まで少し違って見えるのが不思議だった。


 ――また探すのか。


 声がした。

 蒼はわずかに眉を寄せた。探す。たしかにその通りだ。直島で絵を探し、空間を探し、予兆を探し、今は次の島で何かの続きを探しに行こうとしている。だが、何を探しているのかはまだ分からないままだ。ひょっとすると、自分が探しているのは「探すべき何か」そのものなのかもしれない。ずっと何も見つけられないまま、探している状態だけが先に確かな形を持ってしまっている。

 船が豊島の港へ近づく。岸壁には数人の人影があり、その向こうに簡素な待合スペースが見える。直島の港ほど整ってはいないが、そのぶん余計なものが少なく、海と陸の境目が近い感じがした。船が接岸し、降りる人々がゆるやかに動き出す。蒼もその流れに乗って船を下りた。

 最初に感じたのは、静けさの質の違いだった。

 直島も十分静かだった。だがあちらはアートの島として知られているせいか、静けさの中にも「見に来る人」を受け入れる構えがあった。豊島の港には、その構えがもう少し薄い。観光客はいるが、島そのものが彼らを意識している感じが弱い。海の匂いと風の音と、低い建物の影が、先にある。人の視線より島の空気のほうが強い、とでも言うべきか。

 港の待合所で地図を確認し、蒼は近くにあった案内板を見上げた。いくつかの展示施設やルートが示されている。その中に、有名な美術館やアート施設の名前もあったが、蒼はそこを最初の目的地にはしなかった。凪から聞いた話では、豊島にも、作品そのものより「そこへ至るまでの空気」が強い場所があるらしい。地図の上ではそれがどこかまでは判然としない。それでも、海沿いではなく少し内側へ入る道筋のほうに、蒼の目は引かれた。

 港から伸びる道は、直島の路地よりも広いところもあれば、急に細くなるところもある。斜面に沿って家が建ち、畑があり、道の先にふと海が開ける。人影は少ない。観光客の姿は点々と見えるが、彼らもこの島の広さの中では小さく見えた。蒼は歩きながら、豊島の空気が直島より少し湿って感じられることに気づく。風の匂いも、塩気だけでなく土の気配が強い。島ごとに呼吸が違う、という凪の言葉がここでも思い出された。

 坂道を上っていくと、港の方角から見えていた海が背後へ回り、その代わりに斜面の緑と白い空が視界を占める。蒼は途中で立ち止まり、水を飲んだ。日差しは強いが、風があるので耐えられないほどではない。けれど身体の奥では、昨日から続く緊張がまだ細く張りついている。新しい場所へ来るたびに、その緊張は少しずつ姿を変える。都会では「人にどう見られるか」という圧が強かった。島では「何を見つけてしまうか」という別の種類の圧へ変わっている。

 道の脇に、使われていない小さなベンチがあった。蒼はそこで少し休み、スケッチブックを膝に置いた。海は見えない。代わりに、向かいの斜面に白い家が二軒、そのあいだに木々の影が落ちている。何を描くつもりもなかったのに、鉛筆を持つと自然に線が走り始めた。屋根の傾き。壁の明るさ。木の輪郭。描きながら、蒼は自分の目が直島にいるときよりも「形」を追っていることに気づく。あちらでは空間や色の呼吸が強く、自分はそれに引っ張られていた。こちらでは、まず斜面と建物と道の構造が入ってくる。その違いが面白く、少しだけ安心でもあった。


 ――ここは違うな。


 声がした。

 蒼は小さく息を吐く。たしかに違う。だが「違う」というその感触が、すぐに危険や拒絶を意味しないことも分かってきた。直島の青い絵の前では、自分は何かに見つけられたような感覚を覚えた。豊島ではまだそこまでのことはない。ここでは、島がまず輪郭のある地形として、自分の前に現れている。

 ベンチを立ち、蒼は再び歩き出した。途中、小さな商店の前を通りかかる。入り口の横に野菜が並び、店先には冷たい飲み物のケースが置かれている。中からラジオの音が聞こえた。島の人が普通に暮らしている匂いが濃い。蒼はその前を過ぎようとして、ふと足を止めた。店の前に、白い猫がいたからだ。

 猫は日陰に丸まっていたが、蒼が立ち止まると片目だけ開けた。逃げるでも寄ってくるでもなく、ただこちらを見る。その視線に、なぜか青い絵の前で感じた「見られている」感覚が一瞬だけ重なった。もちろん猫の目は猫の目でしかない。意味を与えるのは人間の側だ。そう分かっているのに、蒼は数秒、そこから動けなかった。

「その子、人にはあんまり懐かんよ」

 店の中から声がして、蒼は我に返った。

 出てきたのは七十代くらいの女性だった。エプロン姿で、手にタオルを持っている。彼女は蒼を見て、「観光の人?」と訊いた。

「はい」

「どこから来たん」

「……東京のほうです」

 都会の名前を口にするのが、急に遠いことのように感じられた。女性は「ああ」と頷き、猫の頭上あたりを眺める。

「この子、いつもここにおるけど、触ろうとしたら逃げるからね」

 蒼は「そうなんですね」と言った。会話はそれだけで終わるかと思ったが、女性は少し蒼の顔を見てから、「暑いから、座って休んでいきなさい」と店先の椅子を示した。

 断ろうかとも思ったが、ちょうど足が少し重くなっていたこともあり、蒼は礼を言って腰を下ろした。女性は奥から麦茶を持ってきてくれた。冷たいグラスが手に当たると、緊張していた身体がようやく少し遅れて疲れを自覚する。

「島、初めて?」

「はい。直島には昨日行って、今日は豊島に」

「そう。よう来たねえ」

 女性は穏やかに言った。直島でも感じたことだが、島の人の会話には「どうして来たのか」を細かく問わない気配がある。ただ来たという事実をそのまま受け取り、その上で必要なことだけを言う。その距離感が、蒼にはありがたかった。

「作品、見に来たんでしょ」

「たぶん……そうです」

「たぶん?」

 女性は少し笑ったが、からかう感じではなかった。

「まあ、たぶんで来る人もおるわね。最初からちゃんと目的がある人ばっかりやない」

 その言い方に、蒼は少しだけ救われた。たぶん、としか言えない自分の曖昧さが、この島ではそれほど異常なものではないように思えたからだ。

 店先の白い猫は、相変わらず日陰で目を細めている。風が吹くたび、毛がわずかに揺れる。蒼はグラスの冷たさを感じながら、ぼんやりその姿を見ていた。島に来てから、何度も自分の内側の違和感に飲み込まれそうになった。けれどこうして、知らない土地の小さな商店の前で麦茶を飲み、猫を見ている時間は、その違和感がいったん風景の中に薄まっていくようでもある。

「この先、少し行くと景色のいいとこあるよ」と女性が言った。「海が広く見えるところ。作品見る前に、そっち寄る人もおる」

 海が広く見えるところ。

 その言葉に、蒼の胸が少しだけ強く打った。海の見える場所。あのメモ帳の文字が、また静かに浮かび上がる。

「……ありがとうございます」

「迷ったら戻っておいで。誰かしら知っとるから」

 女性はそう言って店の奥へ戻っていった。猫だけが変わらずそこにいる。蒼は麦茶を飲み干し、礼を言って立ち上がった。

 道を先へ進みながら、蒼は豊島でもまた、自分が「作品」より先に「海の見える場所」へ引かれていることに気づく。海そのものが好きなのかもしれない。あるいは、海の見える場所に立つと、頭の中のざわめきが少し秩序を持ち始めるからかもしれない。いずれにせよ、その場所でまた何かを見る可能性もある。白い小型船の像のようなものが再び現れるかもしれない。それを恐れながらも、足は止まらなかった。

 坂を上り切った先で、視界が一気に開けた。

 そこには、直島で見たのとはまた違う海があった。より広く、より明るく、島影も遠い。風が強く、草が波のように揺れている。蒼は立ち尽くした。胸の奥で何かがゆっくり緩んでいく。けれどその一方で、海の上を走る一艘の白い船が、視界の端に小さく見えた瞬間、昨日の像がまた薄く脳裏をかすめた。

 傾く船体。斜線。散る黒い点。

 蒼は息を止める。

 だが次の瞬間、その像は霧のようにほどけ、目の前にはただ、風の強い午後の海があるだけだった。船は遠くを普通に進んでいる。何も起きていない。自分の内側だけが、一拍先に何かを見てしまう。その順番のずれに、蒼は静かな恐怖を覚えた。

 それでも、豊島へ渡ってきたことを後悔してはいなかった。

 ここではまだ、違和感が違和感のまま、急いで意味にされずにいられる気がしたからだ。直島の青い絵は、あまりにも強く蒼の前に現れた。豊島の海と斜面は、もう少し距離を保ったまま、こちらが何を見るかを待っているように思える。

 蒼はスケッチブックを開いた。

 海を描くつもりだった。けれど最初に紙の上に現れたのは、海ではなく、一つの長い斜線だった。船の傾きを思わせる角度の線。蒼ははっとして手を止めた。

 自分で引いたのか。

 たしかに鉛筆は自分の指のあいだにあった。だが、意識がその線を命じた記憶がない。昨日のページの端に残っていた斜線と、ほとんど同じ傾き。蒼は紙を見つめたまま動けなかった。

 風が強く吹き、ページがめくれそうになる。蒼は慌ててスケッチブックを押さえた。海の上では、白い船が遠くで光の点になっている。何事もなく進んでいるように見える。なのに紙の上には、また同じ角度の線が残った。


 ――近い。


 声が囁いた。

 蒼の背筋を冷たいものが走る。近い。何が、近いのか。出来事がか、意味がか、自分が限界に触れる地点がか。分からない。分からないまま、午後の光だけが海面で激しく砕けていた。豊島の空気は直島より少しだけ遠く、少しだけ寛容だと思ったのに、その寛容さの中で、自分の内側の異変は逆に輪郭をはっきりさせつつあった。

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