1:絵を探す
1:絵を探す
翌朝、蒼は鳥の声で目を覚ました。
最初は、それが本当に鳥の声なのか、それとも夢の続きなのか判別できなかった。眠りの底からゆっくり浮かび上がってくる意識の中で、細く短い鳴き声が、窓の向こうで何度か繰り返された。都会で目覚める朝には、まず車の走行音や隣室の生活音があり、その上にかろうじて鳥の声が重なる程度だった。けれど島の朝では、それが逆だった。最初に届くのは、空気の中に溶けた小さな生き物の声で、そのあとからようやく遠くのエンジン音や人の気配が薄く混ざる。
蒼は布団の中でしばらく天井を見ていた。昨夜は何度か目が覚めた。深く眠れたとも言えないし、眠れなかったとも言い切れない。ただ、途中で飛び起きるようなことはなく、頭の中を声が満たして眠りを破ることもなかった。そのことが、ひどく久しぶりに思えた。
枕元のスマートフォンを見ると、まだ朝の六時半だった。観光客が本格的に動き出すには少し早い時間だろう。蒼はゆっくり起き上がり、畳の上に手をついた。身体は少し重いが、都会にいたときのような、胸の中央に何か硬い塊が沈んでいる感じは薄い。
窓を開けると、朝の空気が部屋に流れ込んできた。路地はまだ静かで、白い壁に斜めの光が当たりはじめている。瓦屋根の向こうに細く見える空は薄い青で、その色が昨日見た絵の青とはまるで違うのに、どこか同じ系列のものに思えた。世界には青がいくつもある。そしてそのどれもが、自分の知っている一語の「青」では足りない何かを含んでいる。
――また考えてる。
声がした。
蒼は身構えたが、その声には以前のような敵意がなかった。皮肉めいてはいるものの、どこか離れたところから見ているような調子だ。昨日から、声の質が少し変わっている。島にいるせいなのか、たまたま波が引いているだけなのかは分からない。けれど少なくとも今は、その声を完全な脅威としてだけ受け止めずに済んでいた。
顔を洗い、朝食の時間まで少しだけ路地を歩くことにした。女将はまだ台所で準備をしているらしく、玄関を出るとき「朝の海はきれいですよ」と背中越しに声をかけてくれた。
本村の朝は、昨日の午後とはまた違う顔をしていた。観光客の姿はほとんどなく、路地は生活のための通路に戻っている。家の前を掃いている老人。玄関先に水を撒く女性。自転車で通り過ぎる中学生くらいの少年。そうした動きが、何の演出もなく島の空気に混ざっている。蒼はそれを少し離れたところから眺めながら歩いた。どこの土地にも朝の生活はある。けれど島では、その生活が海に向かって開いているように感じられた。
路地の先、昨日凪に教えられた高みとは別の小さな抜け道を通ると、海が見えた。朝の海は、昨日の午後よりもさらに平たく静かだった。光がまだ低いせいか、水面の反射は強すぎず、色も銀に近い薄い青灰色をしている。船は少なく、空気そのものが一枚の紙のように張っているようだった。
蒼はしばらくそこに立っていた。昨日のことが夢だったわけではない。青い絵も、凪も、白い小型船を見たときの一瞬の像も、すべて確かにあった。だが朝の海を前にすると、それらが遠い場所で起きた別の一日のことのようにも感じられる。風景には、昨日の自分の混乱をそのまま引き継ぐ義務はない。海は今日も海としてそこにあり、島は何事もなかったように朝を始めている。そのことが、少しだけ蒼を落ち着かせた。
宿へ戻ると、朝食は焼き魚と味噌汁、卵焼き、漬物という素朴なものだった。女将は「今日はどこ回るんですか」と訊き、蒼が少し考え込むと、「美術館のほうもいいし、昨日見たところの続きでもいいしねえ」と、特に答えを求めない口調で言った。蒼は曖昧に笑いながら頷いた。
どこへ行くかは、実のところ決まっていた。
昨日見た青い絵のことが、夜を越えてもなお頭から離れない以上、まずはあそこへもう一度行くしかない。そして、できるなら島の他の作品も見て回りたいと思っていた。昨日の一件が単なる偶然だったのなら、それは他の作品の中で相対化されていくはずだ。白い壁と青い絵に出会ったのがたまたま自分のスケッチと重なっただけで、この島には似たような空間や色の組み合わせがいくらでもあるのかもしれない。それを確かめたい。
朝食を終え、蒼はスケッチブックとメモ帳を鞄に入れて外へ出た。今日は昨日より少し観光客の数が多いようだった。とはいえ、混雑というほどではない。レンタサイクルの店先では何人かが地図を広げ、案内所の前にはゆるやかな列ができている。蒼はその人の流れから少し外れるように歩き、昨日の広場へ向かった。
坂道は、昼の光に照らされると昨日より普通に見えた。石段の端に小さな草が生え、白い壁には目立たない汚れや古いひびもある。昨日は既視感に引きずられて、この坂道自体が何かの前兆のように思えた。だが朝の視線で見れば、それはただの生活の中にある坂であり、その途中に観光客向けの案内札があるに過ぎない。
広場に着くと、青い絵はやはりそこにあった。
朝の光を受けたその色は、昨日の午後よりも少し明るく見える。けれど近づいていくと、表面の奥に沈んだ黒い線の気配は相変わらず微かに残っていた。蒼は少し離れた場所に立ち、しばらく黙ってその絵を見た。昨日のような強い動悸はない。代わりに、じわじわとした違和感が広がる。何度見ても、この絵は初対面の他人ではなく、既にどこかで会っていた相手のような顔をしている。
メモ帳を取り出し、見比べる。
やはり似ている。
そして、似ているという事実そのものより、自分がこの絵の前で自然にメモ帳を開く順番を体が覚えてしまっていることのほうが恐ろしかった。昨日、洗面台の前で無意識に描いたスケッチ。島でその光景を見つける。再びそこへ来て見比べる。そうした一連の動きが、最初から用意されていた手順のように感じられる。
――探してるな。
声が低く言った。
蒼は、絵から目を離さずに小さく息を吐いた。
そうだ。自分は探している。作品の意味なのか、自分の病気の輪郭なのか、現実と錯覚の境界なのか分からないまま、それでも何かを探している。そして、その「探している」状態そのものが、この島では奇妙なかたちで風景と噛み合ってしまうのだった。
背後で足音がして振り返ると、今度は観光客らしい若いカップルが坂を上ってくるところだった。二人は絵の前で少し足を止め、「これが例のやつかな」と話しながらスマートフォンで写真を撮っている。その仕草はごく普通で、作品の前に立つ人として正しいようにも見えた。蒼は少し離れ、二人の邪魔にならない位置へ退いた。
すると、彼らの背後に凪の姿が見えた。
今日は昨日と違い、白いシャツの上に薄い藍色のカーディガンを羽織っている。手にはファイルのようなものを持っていた。凪は蒼に気づくと、小さく目を細めた。
「やっぱり来てましたね」
「……また来てしまいました」
「いいと思いますよ。一回見ただけだと分からない作品、ありますし」
凪は観光客の様子を一度確認してから、蒼の方へ歩いてきた。ファイルには何枚かの紙が挟まれている。案内や管理の仕事をしていると言っていたから、その関係かもしれない。
「今日は仕事ですか」
蒼が訊くと、凪は頷いた。
「少しだけ。ここの様子見たり、別の展示の記録したり。島の中で細かい仕事がいろいろあるんです」
「じゃあ、忙しいところを」
「いえ。忙しいってほどでもないです」
凪は広場の白い壁に背を預けるでもなく、少し離れた位置に立って絵を見た。その立ち方が妙に自然だった。作品を支配しない距離、とでも言うべきか。蒼はその姿を見ながら、昨日の自分がスケッチに描いた人影は、もしかすると「そこに立つ誰か」全般を示していたのではないかと思った。自分かもしれないし、凪かもしれないし、これからここを訪れる別の誰かかもしれない。そう思うと少しだけ息がしやすくなる一方で、逆に不気味さも増す。人影が特定されていないのなら、あの絵はより大きな余白を持って蒼の前に現れていたことになる。
「この辺、この時間は光がいいんですよ」
凪が言った。
「午後だと青が少し沈んで見えるけど、朝は表面の擦れが見えやすい」
「擦れ」
「ほら、ここ」
凪は絵に直接触れないぎりぎりの距離で、下の方を指した。蒼が目を凝らすと、たしかに青の層の下に、何かを塗り込めた痕のようなざらつきがあった。昨日は黒い線ばかり気になっていたが、今見ると青そのものも一枚ではない。何度も消され、塗り重ねられ、それでも完全には均されなかった時間が表面に残っている。
「失敗の跡みたいに見えることもあるし」と凪は言った。「逆に、下に何があったか想像したくなることもある」
下に何があったか。
その言葉で、蒼の胸のどこかがわずかに冷えた。自分の中にも、上から何かを塗り重ねて見えなくしたものがある気がしたからだ。病名がつく前の恐怖。人とずれはじめた実感。大学を辞めたときの、説明のできない羞恥。会社で何とか普通の顔を保ってきた薄い膜。そうしたものの下に、もっと原型の分からない黒い線があるのかもしれない。
「……この絵、作者のことは分かるんですか」
蒼は訊いた。
凪は少し考えたような顔をした。
「分かる部分もあるし、分からない部分もあります。島って、作品そのものより、作品がここにあることで生まれる空気のほうが先に知られてることもあるので」
「空気のほうが先」
「はい。説明文を読んで分かることより、ここで立ち止まる人が何を感じるかのほうが、たぶん大きい」
蒼は黙った。感じること。その言葉はやはり美術の場では許されても、自分の生活に持ち込むと途端に危険になる。自分の感じ方は、人より少し、あるいはかなり、信用しづらい形をしている。だから蒼は、作品を前にしても「何かを感じる」より「正しく理解する」ほうへ逃げたくなるのだろう。
凪は蒼の沈黙をどう受け取ったのか、「島の作品、ほかにも見ますか」と話題を変えた。
「もし今日時間あるなら、少し回り方を変えると面白いかもです」
「回り方?」
「大きい施設を順に追うんじゃなくて、気になった空間をつないで歩く感じです。この絵が引っかかったなら、たぶん蒼さんは作品単体より作品が置かれてる場所のほうを見るタイプだと思うので」
蒼は少し驚いた。自分でも明確には気づいていなかったことを言い当てられたような感じがした。たしかに昨日から気になっているのは、青の色そのものだけではない。それが白い壁に掛かり、海の切れ端が見え、広場のような余白があり、人がそこに立つことで初めて完成するような空間全体だった。
「……どうしてそう思ったんですか」
「絵そのものを見てる時間より、その前に立ってる空間を見てる時間のほうが長かったから」
凪はごく自然に言った。
「たぶん、作品より先に、自分がそこに立ってる感じを確かめてた」
蒼は何も返せなかった。凪の言葉は図星だった。昨日からずっと、自分は絵の内容より、その絵の前に立ってしまった自分のほうに圧倒されていた。見つけた、というより、見つけられてしまった感覚。作品を見るのではなく、作品のある場所に自分が置かれたことの意味を確かめていた。
「その感じなら」と凪は言った。「今日は少し島の別の場所も見てみたらいいかもしれません。海が見えるところ、見えないところ、古い家の中、白い建物の中。全部同じ島なのに、空間ごとに呼吸が違うので」
「呼吸」
「はい。合う場所と合わない場所、けっこうはっきり分かれると思います」
合う場所と合わない場所。蒼はその言葉を心の中で反復した。人との相性だけでなく、空間にも相性がある。凪の言い方は曖昧で、それゆえに妙に正確だった。実際、蒼は会社の作業室や通勤電車の中では、自分の内側のざわめきが増幅されるのを感じていた。逆に海の見える場所では、それが拡散する。この島では、その違いがよりはっきり可視化されるのかもしれない。
「どこか、おすすめはありますか」
蒼がそう訊くと、凪は少しだけ笑った。
「おすすめ、というより、蒼さん向きそうなのはあります」
そして地図を広げ、いくつかの場所に指を置いた。大きな美術館ではなく、小さな路地の先にある空間、家プロジェクトの一つ、海に対して横ではなく斜めに開いている場所。説明を聞くうち、蒼は自分が単なる観光案内ではなく、一種の読図を受けているような気分になった。島の表面にある点と点が、誰かの感覚によって別の線で結ばれていく。
「ただ」と凪は最後に言った。「無理はしないでくださいね。合わない場所、ほんとに合わない人いますから」
「合わないと、どうなるんですか」
「息が詰まったり、急に疲れたり、変な記憶が出てきたり」
変な記憶。その言葉が、蒼の中で少し濁った音を立てる。凪はもちろん蒼の事情を知らない。ただ一般論として言ったのだろう。けれど蒼にとっては、それは十分具体的な警告になった。
「……分かりました」
観光客がまた何人か広場へ入ってきたので、凪は少し仕事の顔になった。「じゃあ、私は一回向こう見てきます」と言ってファイルを持ち直す。その背中を見送りながら、蒼は地図をもう一度見た。凪が示した点はどれも近いようでいて、まだ自分の中では一つの線になっていない。
広場を離れ、蒼は凪の勧めた最初の場所へ向かうことにした。そこは大通りから外れた、少し奥まった路地の先にある小さな展示空間らしかった。歩いていく途中、蒼は何度も周囲を見た。白い壁、黒い板塀、空の切れ端、塩の匂い。昨日は不安と既視感のせいで、島のすべてが象徴に見えた。今日はもう少し具体的に、壁は壁、道は道として見えている。だがそれでも、ところどころで視界がひっかかる場所がある。路地の曲がる角度、光が急に落ちる場所、家と家のあいだから見える海の細さ。そういう点で、心が小さく反応する。
蒼は気づき始めていた。
自分は作品を探しているのではなく、作品に似た感触を探しているのだと。青い絵に引かれたのも、色や構図だけではない。そこに立ったとき、自分の内側の何かと空間の呼吸が奇妙に一致したからだ。もしそうなら、同じような感触を持つ別の場所が、この島のどこかにあるのかもしれない。
最初の展示空間へ入ると、そこは暗かった。外の白い日差しから一転して、ひんやりとした影の中に目が慣れるまで数秒かかる。古い家屋の構造を残したまま、内部に作品が置かれている。木の軋み、土壁の匂い、微かな湿気。その中に、ガラスや光を使った現代的な要素が差し込まれている。蒼はその組み合わせに少し戸惑い、同時に強く引かれた。古いものの中に新しいものが入り込むのではなく、互いに相手の輪郭を変えている感じがある。
作品の前で立ち止まっていると、ふいに耳の奥がざわついた。
――ここは違う。
声が言う。
蒼は呼吸を整えた。嫌な感じではなかった。むしろ、単純な判定のような声だ。ここは違う。何がどう違うのかは説明できない。けれど、その一言は自分の感覚とも一致していた。この場所は面白いし、惹かれる部分もある。だが、昨日の青い絵の前で立ち尽くしたときのような見つけられた感じはない。ここでは自分はまだ観客でいられる。
外へ出て次の場所へ向かう。歩きながら蒼は、その違いを頭の中で整理しようとした。合う、合わない。惹かれる、惹かれない。苦しい、苦しくない。島の空間は、今や単なる観光地の点ではなく、身体の反応で分類されるものになりつつあった。
そのとき、前方の路地の奥で何かが白く光った気がした。
蒼は足を止める。
そこにはただ、日差しを受けた白壁があるだけだった。だが一瞬、その壁の前に誰かが立っているように見えた。輪郭の曖昧な人影。次の瞬間には消えている。見間違いだろう。光と影の加減だ。そう思いながらも、蒼の胸の内側には、昨日の絵の前に立ったときと似た冷たい波が走った。
――追え。
声が囁いた。
蒼はすぐには動けなかった。追うべきなのか、無視するべきなのか。その判断の遅れのあいだに、白壁の前は再びただの路地へ戻っている。何も起きていない。何もいない。
それでも、蒼はゆっくりその方向へ歩き出した。
絵を探していたはずなのに、いつの間にか、自分の感覚の先に現れる小さな予兆そのものを追いはじめている。そう気づいた瞬間、蒼は微かな恐怖を覚えた。だがその恐怖とほとんど同じ強さで、抗いがたい引力もまたあった。
島の中に点在する作品を巡るはずの一日が、少しずつ別のかたちを取り始めていた。蒼はまだ、その変化の意味を知らない。ただ、白い壁と青い絵を見つけた昨日から、自分の中の「見る順番」が静かに変わりはじめていることだけは、もう否定できなかった。




