5:絵と現実のズレ
5:絵と現実のズレ
青い絵の前を離れたあとも、蒼の身体はしばらくそこに立ち尽くしているような感覚を引きずっていた。
広場から下る坂道は、上ってきたときより少し狭く見えた。白い壁、石垣、路地の曲がり方、そのどれもがさっきまでとは微妙に違う角度を持っている気がする。いや、実際に変わったわけではないのだろう。ただ、ひとつの光景が「知っていたはずのもの」と重なってしまったことで、島全体の輪郭までわずかにずれてしまったのだ。
蒼は歩きながら何度もメモ帳を開きかけ、そのたびに閉じた。もう確認しなくても分かっていた。あの絵は、昨日の自分が洗面台の前で無意識に描いた光景によく似ている。白い壁。青い矩形。そこに立つ人影が自然に想定される空間。完全に一致しているわけではない。けれど、「似ている」で済ませるには、心の奥に引っかかるものが大きすぎた。
――たまたまだ。
自分の思考としてそう唱える。
――たまたまじゃない。
すぐに声が返す。
その応酬が、少し前までならもっと激しく頭の中でぶつかり合っていただろう。けれど今は、両方の主張がどちらも完全には勝ちきれないまま並んでいた。理性は偶然を主張する。感覚は既視感を譲らない。その中間で蒼は、ひどく頼りない綱渡りをしている気分だった。
本村の路地は午後の光を静かに受け止めていた。壁に寄りかかる自転車、軒先の鉢植え、半開きの窓から漏れるテレビの音、遠くで誰かが食器を洗うような微かな水の気配。観光地であることを忘れさせるくらい、暮らしが普通に続いている。その普通さの中で、自分だけが別の層の現実に足を踏み外しかけている。その落差が、蒼には妙に苦しかった。
坂を下りきったところで、蒼は小さな自動販売機の前に立ち止まり、水を買った。冷たいペットボトルを頬に当てると、体温がやけに高いことに気づく。喉が乾いている。緊張していたのだ。あの絵の前では、自分でも思っている以上に身体が強ばっていたらしい。
少し離れた石段に腰を下ろし、蒼はようやくメモ帳を開いた。紙の上のスケッチは、さっき広場で見た光景よりもさらに曖昧で、輪郭の足りないものだった。線は少なく、余白が多い。なのに、それだけで十分だった。むしろ曖昧だからこそ、現実の風景と重なりやすいのかもしれない。人間の目は、欠けた形を勝手に補完する。そう思えば説明はつく。つくはずだ。
だが、ページの端にある「海の見える場所へ」という文字だけは、どんな説明も拒んでいるように見えた。
自分で書いたのだとしても、どういう気持ちで、どの瞬間に書いたのか思い出せない。誰かに操られた、などと考えたくはない。病気の症状として片づけることもできるだろう。けれどその場合でも、なぜその文字が、島のこの場所へ自分を連れてきたのかという問いは残る。
蒼はメモ帳を閉じ、深く息をついた。
風が路地を抜けていく。塩の匂いが薄く混ざった風だ。都会の風と違って、何かを巻き上げるというより、そこにあるものの輪郭を一度なぞってから去っていく感じがする。蒼はもう少し座っていたかったが、日が傾く前に海が見える場所へ行ってみようと思った。凪が教えてくれた「もう少し上」の場所。あの青い絵の近くからさらに海を見渡せる場所があるらしい。
どうしてそこへ行こうと思ったのか、自分でもよく分からない。絵を見たあとなら宿に戻って休むという選択もあったはずだ。けれど、ここでいったん畳の部屋に退避してしまったら、たぶんまた「あれはただの偶然だった」と自分に言い聞かせて終わってしまう気がした。終わらせたほうがいいのかもしれない。だが、終わらせてしまうには、あの青の静けさはあまりに強く残りすぎていた。
蒼は再び坂道へ向かった。今度は、広場のさらに先へ進む。
道はますます細くなり、家と家のあいだを縫うように折れ曲がる。人影は少なく、聞こえるのは風の音と、自分の靴底が地面を踏む音だけだった。ときおり軒先から鉢植えの葉が垂れ、白い壁に葉影が揺れる。その影が一瞬、何かの文字や絵の断片のように見え、蒼は目を細めた。島に来てからというもの、見えるものすべてが少しずつ意味を持ち始めている。意味が増えすぎると、人間は息苦しくなる。大学の頃、まだ病名を知らなかった時期に感じたのと同じ種類の危うさが、うっすらと戻ってきているのを蒼は感じた。
――やめるなら今だ。
声が言った。
――これ以上行くと、お前はまた間違える。
久しぶりに、その言い方にははっきりした棘があった。島に来てから少し遠のいていた声が、ここにきて急に輪郭を強める。蒼は立ち止まった。胸の奥で鼓動が速くなる。間違える、という言葉に反応してしまう。蒼はずっと、自分が世界の何かを見誤っているのではないかという恐怖の中で生きてきた。見えているもの、聞こえているもの、感じている順序、そのどれもが人とずれているのではないか。今回もまたそうなのかもしれない。
「……分かってる」
口の中で小さく呟く。
分かっている。自分の感覚は信用しすぎてはいけない。だからこそ、確かめたいのだ。何が現実で、何がそうでないのか。少なくとも、自分の目で見て、自分の手で確かめられることだけは、まだ最後のよりどころになりうる。
道を抜けると、唐突に視界が開けた。
そこは、凪の言った通り、海がよく見える場所だった。集落の裏手の高みにあたるのか、低い石垣の向こうに、瀬戸内の海が広く横たわっている。夕方にはまだ早いが、光は少し柔らかくなりはじめていて、水面の反射も昼間より穏やかだった。いくつかの島影が層のように重なり、そのあいだを小さな船が動いている。海は静かだった。正確には、完全な無音ではない。遠くでエンジン音がするし、風が草を擦る音もある。だがそのどれもが海の広さの中で薄まり、「静か」と呼ぶしかない質にまとまっていた。
蒼は石垣のそばに立ち、しばらく何も考えずにその景色を見ていた。
不思議と、声はそこでまた遠のいた。完全には消えないが、自分の内部に張りついていたものが、外へ広がる光景によって引き剥がされていく感じがある。狭い部屋、狭い通勤電車、狭い作業机の上では、蒼の頭の中のざわめきは逃げ場をなくして増幅された。だがここでは、それが風景の方へ少しずつ流れ出していく。世界の側に余白がある。
蒼はスケッチブックを取り出し、海を描き始めた。水平線。島影。白い船。絵として上手く描こうとは思わなかった。ただ、今ここにある形を線に移しておきたかった。鉛筆の先が紙を滑る。描いているあいだだけ、頭の中のいくつもの層が少し整う。見ることと、手を動かすことが一本の回路でつながる。
数分ほど描いたあと、背後で小さく砂利を踏む音がした。
「やっぱり、ここ来てた」
振り返ると、凪が立っていた。さっきと同じ布バッグを肩から下げ、片手に小さなペットボトルを持っている。息は上がっていない。ここまでの道に慣れているのだろう。
「……偶然ですね」
蒼が言うと、凪は少しだけ首を傾げた。
「半分くらいは。あの広場からこの先に来る人、そんなに多くないんです。でも、来るかなって思ってました」
「どうして」
「絵を見てる顔が、何か探してる人の顔だったから」
その言い方は冗談めいていなかった。蒼は一瞬返事に詰まる。探している。たしかにそうなのかもしれない。ただ、自分が何を探しているのか、本人がいちばん分かっていないだけだ。
凪は石垣の向こうの海を眺め、「今日は少しかすんでますね」と言った。
「でも、こういう日のほうが島の重なりがやわらかく見えて好きです」
蒼は「そうですね」とだけ返した。本当は、海の見え方の好みを語る余裕はまだない。けれど凪の声には、会話を強要する圧がなかった。答えなくても沈黙が不自然にならない。そのことがありがたい。
凪は蒼の手元のスケッチブックに目をやった。
「見てもいいですか」
蒼は少しためらった。自分の描いたものを他人に見せるのは苦手だ。評価されるのが怖いというより、線の癖や曖昧さの中に、自分の内側が透けて見える気がするからだ。けれど断る理由もうまく見つからず、スケッチブックを少し傾けた。
凪は覗き込み、「きれいに描く人じゃないんですね」と言った。
蒼は身構えたが、凪はすぐに続けた。
「いい意味で。見えた順番がそのまま線になってる感じがします」
蒼はわずかに目を見開いた。誰かに絵について何か言われた経験は少ない。それも「うまい」でも「下手」でもない、見えた順番、という言い方は初めてだった。自分でも意識していない部分に、触れられた気がした。
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「そうですか」
「自分では、ちゃんと描けてないと思ってたので」
「ちゃんと、って難しいですよね」
凪は海のほうを見たまま言った。
「私は美術の専門家じゃないけど、作品を見るとき、ちゃんと分かろうとすると急に見えなくなることがあるんです。逆に、意味が分からなくても『この色は嫌だな』とか『この光は好きだな』とか、そういうところから入ったほうが近づけることもある」
蒼は黙って聞いていた。
意味より先に感覚がある、という話をされると、どこか救われる気がする。その一方で、蒼にとって感覚はいつも危険と隣り合わせだった。見えるはずのないものが見えたり、聞こえないはずの声が聞こえたりする。その感覚にどこまで従っていいのか、自分には判断がつかない。だから、美術の話として凪が口にしたことを、そのまま自分の生き方に引き寄せるのは怖かった。
しばらく沈黙が落ちた。風が強まり、凪の髪の先が揺れる。
そのとき、海の向こうを横切っていた白い小型船が、急に進路を変えたように見えた。
蒼は目を細める。
船自体が大きく向きを変えたわけではない。けれど次の瞬間、その船が何かにぶつかるような、ひどく嫌なイメージが頭の中に差し込んだ。白い船体。傾く甲板。海面に散る荷物。誰かの叫び声。映像とも記憶ともつかない断片が、一瞬で脳裏をかすめる。
蒼の手から鉛筆が落ちた。
「どうしました」
凪の声がしたが、蒼はすぐに答えられなかった。胸が急に冷え、喉の奥が詰まる。今見えたものは何だ。想像か。連想か。あるいは、ただの不安の形か。けれど、それはあまりにも突然で、具体的だった。
――見えただろ。
声が近くで囁いた。
蒼は反射的に立ち上がった。海をもう一度見る。白い船は、何事もなく進んでいるように見える。水面は穏やかだ。衝突の気配などどこにもない。自分の内側だけが、先走るような不吉さでざわめいている。
「……いえ、大丈夫です」
無理にそう言ったが、声は明らかに掠れていた。
凪は蒼をじっと見た。観察するような視線だったが、そこに露骨な警戒はなかった。
「顔色、あんまりよくないですね。少し座りますか」
「大丈夫です。本当に」
蒼はしゃがみ込み、落とした鉛筆を拾った。手がわずかに震えているのを隠したかった。凪はそれ以上追及しなかったが、代わりにペットボトルを差し出した。
「冷たいですよ。よかったら」
蒼は一瞬迷ってから受け取り、小さく礼を言った。水を飲むと、喉の渇きより先に、自分がどれだけ強く緊張していたかが分かる。
「この島、たまに変な感じになる人いますよ」と凪が不意に言った。
蒼は顔を上げた。
「変な感じ?」
「悪い意味じゃなくて。静かすぎて、普段聞こえないものまで聞こえる、みたいな。都会にいるときは気にならない癖とか、不安とか、昔の記憶とか、ここに来ると急に前に出てくる人がいるんです」
その言葉に、蒼はすぐには返せなかった。自分の状態を説明された気がしたからではない。もっと危ういところで、凪の言葉が現実的すぎたからだ。島のせいにすることもできる。けれど本当は、元から自分の中にあったものが、ここでは隠れにくいだけなのだろう。
「……ありますね、そういうの」
蒼はようやく言った。
「ね」
凪はそれだけ言って、海へ視線を戻した。蒼もつられて海を見る。
白い小型船は、今ではもう少し遠くへ進んでいる。何事も起きていない。さっき脳裏をかすめた映像が、ただの一瞬の誤作動だったのだと安心するべきなのかもしれない。なのに、胸の内のざわめきは完全には引かなかった。何かがずれていた。現実の出来事と、自分の中で先に立ち上がるイメージの順番が。
蒼は無意識のうちにスケッチブックの次のページを開き、さっき見えた断片を描きそうになっている自分に気づいた。白い船。傾いた線。散る黒い点。慌てて手を止める。描いてしまったら、それが本当に起こるような気がした。馬鹿げている。因果が逆だ。分かっているのに、指先は紙の上でひどく危うい熱を持っていた。
「蒼さん?」
凪が少しだけ近くで呼ぶ。
蒼は顔を上げた。
「宿、どこなんですか」
あまりに自然な話題の変え方で、蒼は一瞬戸惑った。それから宿の名前を答えると、凪は「あ、じゃあ帰り道はこっちから下ると近いですよ」と、来た道とは別の細い路地を指した。
「夜は道が暗いところもあるから、日が沈みきる前がいいです」
「ありがとうございます」
「明日、豊島に行くならフェリーの時間、早めに見たほうがいいかもです。便、そんなに多くないので」
豊島、という言葉に、蒼の中で何かが小さく反応した。まだ直島に着いたばかりなのに、次の島の名を聞くと、旅の先にさらに別の層があることを思い出させられる。
「行くかどうかは、まだ」
「たぶん、ですね」
凪が少しだけ笑った。
蒼も、ごくわずかに口元を緩めた。こういう瞬間があると、自分が完全に世界の外へ落ちているわけではないと感じられる。誰かと同じ空気の中で、短く笑うことができる。それだけのことが、今の蒼にはひどく貴重だった。
日が少し傾き、石垣に落ちる影が長くなってきた。凪は「私はこのあと少し用があるので」と言って、先に路地の方へ歩き出した。数歩進んでから振り返り、「またどこかで」と手を軽く上げる。蒼はそれに小さく会釈した。
一人になると、さっきまでの会話が波の引いたあとの砂のように静かに残った。蒼は海をもう一度見た。白い小型船はもう視界の端へ遠ざかっている。やはり何事もない。自分の見た断片は、予感ですらなく、ただの不安の映像だったのかもしれない。そうであってほしいと蒼は思う。
けれど、スケッチブックを閉じようとしたとき、ページの端に、いつ書いたのか分からないごく短い線が入っているのに気づいた。鉛筆で走らせた、ほとんど癖のような一本の線。だがその傾きは、さっき脳裏に浮かんだ「傾いた船体」とよく似ていた。
蒼は息を止めた。
こんな線、自分で引いたのだろうか。たぶんそうだ。無意識に手を動かしたのだろう。だが、その無意識の速さが恐ろしい。自分の内部では、もう「見えたもの」と「描くこと」がほとんど同時に起きているのかもしれない。
――まだ始まったばかりだ。
声が言った。
その響きに、蒼は強い寒気を覚えた。脅しではなく、事実を告げる声だった。始まったばかり。何が。予知なのか、錯覚なのか、病気の波なのか、それともこの島でしか起こりえない何かなのか。
答えはないまま、夕方の光だけが静かに濃くなっていく。
蒼はスケッチブックを閉じ、凪に教わった近道の路地へ足を向けた。石段を下りながら、何度も後ろを振り返りたくなった。海の見えるあの場所に、自分の何かがまだ置き去りにされている気がしたからだ。青い絵の前で感じた既視感。白い船の一瞬の像。スケッチブックの端に残った一本の斜線。それらが、まだ互いに関係を持たないまま、蒼の中で並んでいる。だが、その並び方自体が、何かひとつの図を作り始めているようにも思えた。
宿へ戻ると、女将が夕食の時間を知らせてくれた。畳の部屋に入ると、窓の外はもう橙色に染まりはじめている。蒼は鞄のそばに座り込み、ゆっくりと靴を脱いだ。疲れているはずなのに、頭の中は妙に冴えていた。島に着いたばかりの一日で、起こったことは多くない。絵を見た。凪に会った。海を見た。それだけだ。なのに、その「だけ」の中に、都会で何週間も生きたより濃い何かが詰まっている。
夕食を食べながら、蒼は何度も海の方角を思った。島のどこかで、あの白い小型船はもう港に着いているかもしれない。何も起きなかったのかもしれない。だが、自分の中で起きてしまったことは消えない。現実が無事でも、先に立ち上がってしまう像がある。その順番の狂いが、これからどこまで大きくなるのか分からなかった。
布団に入ったあとも、すぐには眠れなかった。窓の外では、島の夜が静かに更けていく。街灯の少ない夜は、都会の夜よりずっと深く感じられる。耳を澄ませば、遠くで波があたるような気配がある。蒼は暗闇の中で目を開けたまま、今日一日の光景を何度も反芻した。
青い絵。
凪の「始まる前の色」という言葉。
海の見える場所。
白い船。
そして、スケッチブックの端に残った、たった一本の斜めの線。
それはまだ意味になっていない。けれど、意味になろうとしている気配だけが、夜の底で静かに息をしていた。蒼は薄い眠りに落ちる直前、自分が島へ来たのは逃避だったはずなのに、逃げた先でむしろ現実の別の形に追いつかれつつあるのではないかと思った。
全てはここで、ようやく本当に始まったのかもしれなかった。




