3-2. 灰境からセルカへ
継暦六百二十七年 七月七日〜七月十日ごろ
オルディスを出てから、街道は緩やかに東へ下っていた。
砂海のように道そのものが失われることはなく、北側岩盤路ほど車輪を取られる場所もない。荷車の往来によって固められた地面の両側には、乾いた草と低い岩が点在し、ときおり灰を被った標杭が次の宿駅までの距離を示していた。
灰境の宿砦を経て、セルカを通り、エルデンへ向かう。
帰路も残りわずかになっていた。
ロアンは朝の出発前に、荷車を一台ずつ見て回った。車輪の軸へ手を当て、金具の緩みと油の残りを確かめる。夜露を吸った荷縄は荷役たちへ締め直させ、水樽の残量と栓の状態も見た。
予備車両には、補修材と空箱、水樽の一部、それからリゼのセルを収めた携行箱が載っている。箱を固定した縄に緩みはなく、留め金も動いていない。側面へ括りつけた検査札も残っていた。
リゼは荷台の奥へ座っている。
右脚の角材を前へ伸ばし、揺れによって荷台の床へ直接当たらないよう、その下には布が敷かれていた。帰路で買い足した革は予備として携行箱の近くへ収めてある。角材の先へ巻いた革も、宿駅や野営地で歩く程度なら、まだ交換するほど傷んではいなかった。
ベルグラートを出てから、リゼを街道で歩かせることはほとんどなかった。
角材の脚では隊列の速度に合わせにくく、転倒すれば本人だけでなく、後続の荷車まで止めることになる。荷車を移すときや、宿駅で休むときだけ降ろし、それ以外は予備車両へ載せてきた。
ロアンは右脚の固定布へ指を入れ、結び目が緩んでいないことを確かめた。
「警告は」
「ありません」
「セルは」
「稼働に問題はありません」
「なら、そのまま載ってろ」
リゼは「はい」と答え、荷台から降りるロアンを見送った。
そのやり取りを、予備車両の外側にいたガレスが眺めていた。丸盾の肩紐を引き直しながら、ロアンの背中へ声を掛ける。
「毎朝よく見るな」
「途中で問題が出たら困る」
「セル箱も脚も、昨日から何も変わってないだろう」
「見なければ分からん」
「隊列管理か」
「そうだ」
ガレスは何かを納得したように頷いたあと、口元をわずかに緩めた。
「便利な言葉だな」
少し先にいたティナが振り返った。腰の短剣へ手を添えたまま、二人を見比べる。
「何の話?」
「ロアンがリゼの世話をしているのか、隊列を管理しているだけなのか」
「どっちでも同じじゃない」
「本人にとっては違うらしい」
ロアンは返事をせず、五台目の荷縄へ手を伸ばした。
荷台の上から、リゼが三人を見ている。
その視線に気づいたティナが、予備車両へ近づいた。
「何か言いたそうね」
「隊列管理と世話の違いを確認していました」
ガレスが低く笑う。
ロアンは荷縄の結び目を締めながら言った。
「確認しなくていい」
「分かりました」
「そこはすぐ返事するのね」
ティナが呆れたように言うと、近くで小型弩の弦を確かめていたレナートが顔を上げた。
「世話は、特定の対象の状態を維持するための行動で、隊列管理は、商隊全体の運行を維持するための行動ですね」
ティナはレナートへ視線を移した。
「説明されると余計に分からなくなるんだけど」
「違いを確認していたので」
「私は聞いてないわよ」
レナートは少し考え、ガレスを見る。
「でも、合っていますよね」
「たぶんな」
「たぶんですか……」
「朝から面倒くさいわね、あんたたち」
ティナが言ったところへ、先頭の様子を見ていたミラが戻ってきた。弓を背へ掛けたまま、集まっている護衛たちを見回す。
「まだ出発もしてないのに、ずいぶん楽しそうね」
カイムが二台目の方から歩いてきた。片手には、外して点検していた鉈槍の留め革を持っている。
「何を揉めてる」
「ロアンがリゼの世話をしているかどうか」
ティナが答えると、カイムは予備車両を見たあと、ロアンへ目を向けた。
「世話してるだろ」
「隊列管理だ」
「そうか」
「納得するの?」
「本人がそう言うなら、それでいいんじゃないか」
ティナは肩を落とした。
「カイムは、考えるのを面倒がってるだけに見える」
「たまにじゃないぞ」
ミラが口を挟む。
予備車両の御者が笑い、レナートも口元をわずかに緩めた。ロアンは聞こえないふりをして一台目まで歩き、ラウルへ出発できることを伝えた。
御者たちが手綱を取り、ワトが順に重い身体を前へ動かす。車輪が軋みながら回り始め、五台の荷車と予備車両が街道へ出た。
灰境からセルカまでの道に、大きな問題は起きなかった。
昼には街道脇の開けた場所で休み、荷縄と車輪を確かめる。夕方には宿砦へ入り、水と飼料を補給した。ロアンは見張りの順番を決め、翌朝には同じ確認を繰り返した。
リゼは予備車両の荷台で過ごしている。
荷台を空ける必要があるときや、車体の下を調べるときだけ降ろされた。ロアンが腕を差し出せば、その手を取り、左足を踏み台へ掛ける。角材を地面へ下ろし、姿勢が安定したところでロアンが手を離した。
宿駅の広場で荷役たちが働いているとき、リゼは予備車両の近くへ座らされていた。水樽が運ばれ、飼料袋が積み直され、御者がワトの脚を確かめる。その一つひとつを、淡い青白い瞳で追っている。
「何か行うことはありますか」
何度目かの休憩で尋ねられ、ロアンは車輪の軸から顔を上げた。
「ない」
「荷を移すことはできます」
「荷役がいる」
「見張りは」
「護衛がいる」
リゼは少し間を置いたあと、「はい」と答えた。
命令を受ければ、それ以上は尋ねない。それでも、誰かが働いているあいだ、視線だけは動き続けていた。
レナートが弩を手入れする。
ティナが御者から水袋を受け取る。
ガレスが車輪の陰を覗き込み、ミラが先の道を見に行く。カイムは荷役の一人とともに軸金具を締め直していた。
必要のない会話も、増えていた。
セルカを出た翌朝、レナートは予備車両の横を歩きながら、小型弩の弦を指で弾いた。短く張った音が、車輪の軋みに混じる。
「聞こえますか」
リゼが顔を向ける。
「はい」
「この音が低くなったら、弦が緩んでいます」
もう一度、弦を弾いた。
「現在は正常ですか」
「正常です」
「なぜ私に説明するのですか」
レナートは小型弩へ視線を落とし、しばらく考えてから答えた。
「以前、見ていたので」
「構造を確認していました」
「なら、知っておいた方がいいでしょう」
反対側を歩いていたティナが、荷車越しに顔を出した。
「そんなものを覚えさせて、何に使うのよ」
「何かあったときに使えるかもしれません」
「何も起きない方がいいでしょう」
「それはそうです」
「じゃあ、教えなくていいじゃない」
「知っていて損はありません」
ティナは歩きながら両手を広げた。
「話が戻った」
前方から下がってきたミラが、レナートの持つ小型弩を見た。
「また弩の話?」
「リゼに弦の音を教えてるの」
「覚えた?」
ミラが尋ねると、リゼはレナートの手元を見たまま答えた。
「正常時の音は確認しました」
「本当に覚えるのね」
「忘れる理由がありません」
その言葉を聞いたカイムが、二台目の脇から振り返った。
「羨ましいな。俺は昨日、砥石をどこへしまったか忘れた」
「それは記憶じゃなくて片づけの問題だ」
ガレスが即座に返す。
「知っているなら教えてくれ」
「荷袋の右側だ。おまえが自分で入れていた」
「ガレスが覚えていてくれるなら、忘れても問題ないな」
ティナは額へ手を当てた。
「ガレスを記憶箱みたいに使わないで」
「本人が覚えているなら、有効に使うべきだ」
「それ、リゼに聞かせない方がよくない?」
カイムは荷台を見た。
「今のは忘れてくれ」
「もう記憶しました」
予備車両の御者が声を上げて笑った。カイムは何か言い返そうとして諦め、ガレスは丸盾の位置を直しながら肩を揺らしていた。
ロアンは四台目の外側を歩きながら、そのやり取りを聞いていた。
止める理由はない。
護衛たちが周囲への注意を失っているわけではなかった。レナートは会話の途中にも岩陰へ目を向け、ミラも数歩ごとに前方を確かめている。
それでも、街道の両側に岩が増え始めると、ロアンは隊列へ声を送った。
「間を詰めろ。ミラは配置に戻れ」
返事が前後から続いた。
会話は自然に途切れ、護衛たちの目が街道の外へ向く。リゼも荷台の縁へ片手を置き、岩の間を見ていた。
最初の男が現れたのは、それから間もなくだった。
道の左にある岩陰から飛び出し、先頭車両へ向けて短槍を構える。ミラが足を止めるより早く弓へ手を伸ばした。
同時に、右側の草地から二人目が立ち上がった。手には曲刀があり、三台目と四台目の間へ走り込もうとしている。
「二人!」
ミラの声に重なって、後方からレナートが叫んだ。
「後ろにもいる!」
予備車両のさらに後ろから、鉈を持った三人目が近づいていた。
三人とも顔へ布を巻き、装備は揃っていない。隊列の前後へ同時に掛かり、御者を脅して荷車を止めるつもりらしかった。
「止めるな! 先頭は進め!」
ロアンは四台目の外側から、曲刀を持つ男へ向かった。
「ガレスは後ろ! カイム、三台目を守れ! ミラは前を止めろ!」
ガレスが予備車両の外側へ下がり、レナートは小型弩を構える。カイムは鉈槍を抜き、三台目の御者を荷台の陰へ伏せさせた。
先頭では、ミラが放った矢が短槍の男の足元へ突き立った。男は進路を変え、一台目の側面へ回ろうとする。
曲刀の男は、走ってくる勢いのままロアンへ刃を振り下ろした。
棒剣の柄で受け、外側へ流す。男の身体が前へ崩れたところへ、重い先端を脇腹へ打ち込んだ。息が詰まる音がし、男は身体を折りながらも曲刀を横へ振る。
ロアンは半歩下がってかわし、棒剣を返した。
柄頭がこめかみに当たり、男の身体が地面へ落ちる。手から離れた曲刀が、石の上を滑って荷車の下へ入った。
動かなくなったことを確かめる暇はなかった。
先頭の短槍の男が、ミラの二射目を避けて一台目へ取りつこうとしている。ロアンは車輪の外側を前へ走った。
その背後から、鉈を持つ男が近づいていた。
予備車両の御者へ向かうと見せてガレスを引きつけ、途中で進路を変えた。五台目の外側を抜け、前方へ走るロアンの背後へ回ろうとしている。
「ロアン!」
ティナの声が上がった。
ロアンが振り向くより先に、予備車両の側板が大きく鳴った。
リゼが荷台から降りていた。
踏み台を使ってはいない。両手を荷台の縁へ掛け、そのまま身体を外へ投げ出していた。左足が地面へつき、仮脚の先が遅れて土を打つ。勢いのまま上体が前へ傾いた。
普段の乗り降りとは比べものにならない速さだった。
鉈の男がリゼへ顔を向ける。
その一瞬で、リゼは距離を詰めた。
前へ傾いたまま、射出された矢のように前方に飛ぶ。男の腰へ両腕で飛びつく。予想していなかった重さを横から受け、男の鉈がロアンの背中から大きく逸れた。
リゼも姿勢を保てなかった。
男へ掴まったまま地面へ倒れる。
「離れろ!」
ロアンが叫んだ。
鉈の男が、しがみつくリゼを蹴り離そうとする。
その前に、ロアンは棒剣を振り下ろした。重い先端が男の肩口へ入り、身体が地面へ崩れる。続けて柄を返し、起き上がろうとした胸へ打ち込んだ。
鈍い音がした。
男は仰向けに倒れ、そのまま動かなくなった。
ロアンはリゼへ手を伸ばしかけ、前方から上がった声に振り向いた。
残る短槍の男が、一台目の横へ回り込んでいる。ミラは御者と荷車が射線へ重なり、矢を放てずにいた。
男が御者へ槍を向けるより早く、ティナが横から踏み込んだ。
短剣を持たない左腕で槍の柄を押し上げ、空いた脇腹へ刃を入れる。男が振り向く。ティナは短剣を引き抜くと、よろめいた男の首元へもう一度突き込んだ。
短槍が地面へ落ちた。
男は数歩後退し、一台目の車輪へ肩をぶつけて倒れた。
誰もすぐには動かなかった。
車輪だけが回り続け、御者の引いた手綱にワトが首を振っている。
「ほかはいない!」
ミラが弓を構えたまま叫んだ。
ガレスとカイムが道の左右へ出て、岩陰と草の間を確かめる。レナートは小型弩を後方へ向けたまま、予備車両の後ろを見ていた。
「全車、止まれ!」
ロアンの声を受け、御者たちが手綱を引く。荷車が順に止まり、街道へ再び静けさが戻ってきた。
野盗は三人だった。
二人はロアンが倒し、残る一人はティナが仕留めた。三人とも動かず、逃げた者はいない。
荷役と御者に怪我はなく、荷縄も切られていない。積荷にも目立った損傷はなかった。戦闘自体は、始まってから長い時間が過ぎていない。
それでも、先ほどまでの会話がそのまま戻ってくることはなかった。
ロアンは周囲の確認をガレスへ任せ、地面に倒れたリゼのところへ戻った。
「リゼ」
声を掛けると、淡い青白い瞳がこちらへ動く。
「動けるか」
「はい」
「腕を出せ」
ロアンは差し出された左手首を掴み、上体を起こした。リゼの左脚は不自然に曲がっていない。右脚の角材も残っているが、固定布の巻き目がわずかにずれていた。
「立てるか」
「はい」
「急ぐな」
腰へ腕を回し、身体を支える。角材の先が地面を擦ったが、ロアンが支えたため、再び倒れることはなかった。
五台目の側板へ寄りかからせると、ロアンはその場へ膝をついた。
「脚を見せろ」
角材と膝の下をつなぐ固定布を確かめる。強く引かれた跡はあるが、外れかけてはいない。左脚にも目立った損傷はなかった。
両腕を上げさせ、肘と指を動かさせる。外殻を地面へ打った箇所には擦れた跡が残っていたが、稼働に問題はなさそうだった。
確認を終えたあとも、ロアンは立ち上がらなかった。
「何をした」
リゼはロアンを見た。
「あなたへの攻撃を防ごうとしました」
「荷台にいろと言った」
「はい」
「何かあれば伏せろとも言った」
「はい」
「それで、なぜ飛び降りた」
「鉈を持った男が、あなたの後ろへ移動していました」
「見えていた」
「あなたは前方の男を見ていました」
「俺の仕事だ」
リゼは口を閉じた。
ロアンはずれた固定布へ指を入れ、結び目を解いた。布を正しい位置へ戻しながら、何度も同じ箇所を確かめる。
無事だったことへの安堵が先にあった。
それが少し引いたあとで、遅れて腹が立ってきていた。
角材の脚で、踏み台も使わず荷台から飛び降りた。着地に失敗すれば、左脚や腕まで壊していたかもしれない。鉈の男へ飛びついたところで、刃を振り下ろされていれば、外殻が無事だった保証もない。
「俺が避けられなかったように見えたか」
「確認できませんでした」
「なら、声を上げろ」
「ティナが声を上げました」
「おまえは黙って降りただろう」
「はい」
ロアンは固定布を引く手を止めた。
「はい、じゃない」
少し離れたところで、ティナが咳払いをした。
顔を上げると、護衛たちが戻ってきていた。ガレスは丸盾を背へ戻し、カイムは鉈槍の穂先についた土を布で拭っている。ミラは弓を下ろしていたが、顔にあった笑みは消えていた。レナートも小型弩の弦を緩め、倒れた野盗の方へ一度だけ目を向ける。
「荷の確認は終わった」
ガレスが言った。
「異常はない」
「なら、野盗を見ろ」
「見た。三人とも死んでる」
その言葉が、乾いた街道へ落ちた。
ティナは自分の短剣へ目を向けた。刃についた血は、布で拭っても溝の奥に残っている。先ほどまでロアンへ軽口を返していた顔には、もう同じ色がなかった。
ロアンはリゼの固定布へ視線を戻した。
「続けていいぞ」
ガレスが静かに言う。
「見てないで、周りを警戒しろ」
「してるさ」
それ以上、ガレスも言い返さなかった。
ティナがリゼの前へ屈み、巻き直される途中の固定布へ目を落とした。
「すごい勢いだったわね」
「褒めるな」
ロアンが結び目を引き直しながら言う。
「褒めてないわよ。あんな降り方、二度としちゃだめ」
「もうしません」
返事があまりに早かったため、ティナはわずかに眉を上げた。
「私が言うと、ずいぶん素直ね」
「二人から同じ指示を受けました」
「そういうこと」
ティナは立ち上がり、服の膝についた土を払った。
レナートは少し離れた場所から角材の固定を見ていたが、やがて小型弩を背へ回し、近くまで歩いてきた。
「でも、本当に危なかったですよ。あの高さから、その脚で降りて、固定が外れなかったのは運がよかったと思います」
リゼが顔を向ける。
「立つことはできました」
「今回は、です。転んだときに左脚まで傷めていたら、もう動けなかったかもしれません」
普段のレナートなら、もう少し順序立てて説明していただろう。いまは言葉がわずかに早く、目も角材から離れなかった。
ロアンは顔を上げた。
「本人も分かったと言ってる。もういい」
レナートは何か付け足そうとして口を開いたが、ロアンの表情を見て閉じた。
そのやり取りを見ていたカイムが、街道に倒れた野盗とリゼを交互に見た。
「あいつが飛びつかなかったら、後ろから鉈が来てたぞ」
「分かってる」
「助かったんじゃないか」
「それも分かってる」
カイムは少し間を置いた。
「なら、先に言ってやればいい」
ロアンが顔を上げると、カイムは視線を外した。
少し離れた街道の先では、ミラが倒れた短槍の男を見下ろしていた。乾いた風が草を伏せ、土と血の匂いを薄く運んでくる。
リゼは護衛たちの顔を順に見ていた。
ロアンは固定布を巻き直し、結び目を締めると、角材を前後へ押してずれないことを確かめた。
「立て」
リゼは五台目の側板へ手を置き、左足と仮脚で身体を持ち上げた。ロアンはすぐ横へ立ち、上体が傾けば支えられるよう腕を構える。
一歩進ませ、戻らせる。
姿勢の乱れはなかった。
「異常は」
「ありません」
「本当にないか」
「はい」
左脚も両腕も動いている。角材の固定も、いまは元の位置へ戻っていた。
ロアンはようやく息を吐いた。
「助かった」
リゼの瞳がわずかに動く。
「何がですか」
「おまえが男を止めたから、後ろから斬られずに済んだ」
リゼは黙ってロアンを見た。
「だが、勝手に飛び降りたこととは別だ。次は先に呼べ」
「同じ状況でもですか」
「近くにはガレスもティナもレナートもいる。おまえ一人でどうにかしようとするな」
「間に合わない場合は」
ロアンはすぐには答えなかった。
倒れた三人のうち、二人は自分が殺した。ティナも一人を殺している。何とかできたという結果が、誰も傷つかないことを意味するわけではない。
「その可能性はある」
否定せずに言った。
「それでも、おまえが脚まで壊せば、そのあと動けなくなる。助けに入ることも、逃げることもできない」
リゼは少し間を置いた。
「はい」
理解したのか、命令として受け入れただけなのかは分からなかった。
ロアンはそれ以上繰り返さず、リゼの左腕を取った。
「荷台へ戻るぞ」
踏み台を使わせた。左足を置くように言って、仮脚を持ち上げる。身体が傾く前に腰へ腕を回し、荷台の奥へ座らせる。
「エルデンまで勝手に降りるな。宿駅では俺が降ろす」
「はい」
「今度は守れ」
「守ります」
ロアンは一度だけ固定布を見てから、荷台を降りた。
ラウルと荷役たちは、三人の野盗が持っていた武器とわずかな所持金を集めていた。遺体は街道脇の岩陰へ移し、次の宿駅で場所と状況を報告する。
短槍と曲刀、刃こぼれした鉈。どれも手入れの行き届いた武器ではなかった。男たちの財布に入っていた金も少なく、名前や所属を示すものはない。食料の入った小さな袋も、ほとんど空になっていた。
御者たちは言葉少なに手綱を握り直した。
ティナは短剣についた血を布で拭い、溝に残った赤い筋を一度見てから鞘へ戻した。レナートも小型弩を肩へ掛け直したが、先ほどまでリゼへ弦の話をしていたときのようには口を開かなかった。
商隊に大きな損傷はなく、戦闘による遅れも長いものではなかった。
それでも、隊列が再び動き始めてから、しばらく会話は戻らなかった。車輪の軋みとワトの足音だけが、岩の間へ続いていく。
ロアンは四台目と五台目の間を歩きながら、ときおり予備車両へ目を向けた。
リゼは荷台の奥へ座り、こちらを見ている。
「何だ」
「異常がないか確認しています」
「誰の」
「あなたです」
「ない」
リゼはロアンの歩き方と背中をしばらく見たあと、前方へ顔を戻した。
その横を歩くレナートが、小型弩の肩紐へ手を掛ける。何か言おうとして一度口を開いたが、結局そのまま閉じた。
宿駅へ着いたころには、日が傾いていた。
ロアンはリゼを荷台から降ろした。左手を取らせ、踏み台へ足を掛けさせる。角材が地面へついてから腰を支え、姿勢が安定するまで手を離さなかった。
「異常はありません」
聞くより先に、リゼが言った。
ロアンは固定布と左脚、両腕を改めて確かめた。問題は見つからない。
「そうか」
それだけ答えた。
宿駅の詰所へは、ラウルとロアンが野盗の件を報告した。場所、人数、武器、遺体を移した岩陰。商隊側に死傷者がなく、積荷も無事であること。
帳面へ記された内容は、それだけだった。
誰がどの男を殺したのかまでは聞かれなかった。
夜の食事では、護衛たちも御者たちも必要なことしか話さなかった。レナートは小型弩を壁へ立て掛け、ティナは匙を持ったまま時折手を止めた。カイムはいつもより早く食事を終え、ガレスは酒を頼まなかった。
食事のあと、ミラがティナの隣へ座った。
二人が何を話したのか、ロアンのところまでは聞こえなかった。
翌朝になれば、隊列はまた進んだ。
荷縄を締め、車輪を確かめ、水と飼料を数え、街道へ出る。やるべきことは変わらない。
野盗のことを口にする者は少なかったが、忘れたわけではなかった。
時間が経つにつれて、会話も少しずつ戻ってきた。
昼の休憩で、カイムが荷袋の中をしばらく探し、ガレスを見た。
「砥石がない」
「右側だ」
「昨日もそこだったか」
「昨日も教えたな」
ティナが水袋から顔を上げる。
「本当にガレスを記憶箱にしてるじゃない」
「覚えてる奴がいるなら、使えばいいだろ」
「その言い方がよくないのよ」
ミラが小さく笑った。
レナートは予備車両の横で弩を確かめていたが、今度はリゼへ説明しなかった。リゼの方からも尋ねなかった。
それでも、張った弦が短く鳴ると、荷台からそちらへ顔を向けていた。
セルカを過ぎると、街道の両側に畑が増えた。低い石積みが土地の境を作り、細い水路には木の板が渡されている。すれ違う人や荷車の数も増え、エルデンまでの距離を示す標杭が、一定の間隔で道脇へ立っていた。
帰還が近づくにつれ、御者や荷役たちの声は明るくなった。
エルデンへ着いたら最初に何をするか。湯を使う前に酒を飲むか、酒のあとに湯を使うか。どこの食堂なら、この時間でも温かいものが残っているか。
「南水路の店は、夕方だと混む」
ガレスが言った。
「混んでても入れるでしょう」
ティナは荷車の外側を歩きながら答える。顔色は普段に近づいていたが、腰の短剣へ触れる回数は以前より増えていた。
「立って飲むことになる」
「立ったままでも飲めるわよ」
「俺は座りたい」
カイムが言う。
「三十日も歩いたんだから、せめて座って飲ませろ」
前方から戻ってきたミラが肩越しに振り返った。
「カイムは休憩のたびに座ってたでしょう」
「あれは仕事のうちだ」
「座るのが?」
「身体を休めるのも護衛の仕事だ」
レナートが小型弩の肩紐を直しながら頷いた。
「疲れていると、周囲を見るのも遅れますから」
ティナはレナートへ顔を向けた。
「着いたら、どこへ行くの?」
「ギルドへ報告したあと、弩を工房へ持っていきます」
「そのあと」
「宿へ戻ります」
「面白くない答えね」
「ほかに予定がないので」
「そういうところよ」
予備車両の荷台で、リゼが会話を聞いていた。
ティナは少し考えてから、荷台を見上げた。
「リゼは、着いたら何をするの?」
リゼはすぐに答えず、ロアンを見た。
「私への指示は、まだありません」
今度はティナだけでなく、ガレスとカイムもロアンを見る。
「だそうよ」
「着いてから決める」
ロアンは答えた。
「何も考えてないのね」
「荷を着ける前に考えることじゃない」
「三十日近くあったでしょう」
「歩いてた」
カイムが横から言った。
「リゼはずっと荷台だったぞ」
「俺の話だ」
カイムは一度頷いた。
「そうか」
ミラが前方へ戻りながら、声だけを後ろへ送った。
「カイム、本当に会話が雑ね」
笑い声が隊列の中を短く流れた。
以前とまったく同じではなかった。それでも、笑えるところまでは戻ってきていた。




