1-1. 砂海
継暦六百二十七年 五月十四日
砂へ沈んだ左の車輪が、乾いた音を立てた。
軸が鳴ったのではない。
ロアンは荷車の横を歩きながら、鉄帯の下で押し固められていく砂へ目を落とした。車輪は半ばまで沈み、回るたびに細かな砂を後ろへ掻き出している。荷台はわずかに左へ傾いていたが、荷縄に緩みはなく、積まれた木箱も水樽も揺れに合わせて動いてはいなかった。
御者が手綱を引くと、荷車の前にいたワトが鼻を鳴らし、太い首を振った。
ワトは、都市間の荷車を引くために飼われる大型の荷獣だった。
人間の胸ほどの高さがある胴は厚く、首から肩にかけて盛り上がっている。短い毛は灰褐色で、砂や土が付着しても目立ちにくい。脚は長くないが太く、先の広い蹄は、硬い道だけでなく浅い砂でも身体の重さを支えられた。
馬ほど速くは走らない。
その代わり、重い荷を引きながら長い距離を歩き、水や飼料が十分でない日にも急には力を失わない。おとなしい個体が多く、銃声や荷車の軋みにも慣れるため、街道を行く商隊では最もよく使われていた。
ただし、一度疲れきれば、力だけで歩かせることはできない。
人間が進めても、ワトが止まれば荷車は止まる。
御者は耳の向き、鼻息、脚の運び、口元の泡を見ていた。
いま目の前にいるワトの口元にも、白い泡が残っている。脚の運びは乱れていないが、前脚を砂から抜くたび、蹄の周囲が深く崩れた。
「止めるか」
ロアンは前方を見た。
十六台の荷車が、砂の上へ長く伸びている。先頭は旧舗装の残る硬い地面へ差しかかり、最後尾はまだ砂礫の多い緩やかな斜面にいた。
ここで一台だけ止めれば、後ろが詰まる。追いついた車両が間隔を狭めれば、地面へ伝わる振動も重なる。
「そのまま行け。次の舗装で見る」
御者はうなずいて手綱を緩めた。
ワトが身体を前へ傾ける。肩から胸へ渡された革具が張り、荷車がゆっくり動き出した。
車輪のきしみが戻った。
商隊は昨日、ナディルを出た。
エルデンを発ってから十一日が過ぎていたが、ロアンは日数を数える必要を感じていなかった。車輪を見れば分かる。
鉄帯には瓦礫地でついた擦り傷が残り、木の輪には灰が入り込んでいる。革具にはセルカを出たころにはなかったひびが増え、荷台の下へ吊った水袋は、ナディルで油を入れ直したものだけ色が濃かった。
人も、ワトも同じだった。
御者は声を出す回数が減り、荷役は座れる時間があれば車輪にもたれた。護衛は歩きながら眠りはしないが、休憩へ入るたび、誰からともなく靴を脱いで砂を払うようになっている。
ワトの背には汗が乾いた白い筋が残り、革具に隠れた毛は押し潰されていた。休憩に入っても飼料へすぐ顔を向けない個体が増え、水を飲んだあと、首を下げたまま動かないものもいる。
疲れていないのは、昨日から加わった二体だけだった。
隊列の右側を、黒髪の機械人形が歩いている。その少し前には、赤髪の機械人形がいた。
二体とも、人間の女に似た姿をしていた。白い人工皮膚の上には、砂埃の目立ちにくい灰褐色の作業着をまとっている。肩や肘だけが革で補強され、脚の動きを妨げないよう裾は細く絞られていた。歩幅は一定で、息をする必要もなく、砂へ足を取られても姿勢はほとんど崩れなかった。
ナディル支部から追加された、エゼル商会の護衛設備だった。
ロアンは名前を知らないし、知る必要もなかった。赤髪の方は前方寄り、黒髪の方は中央から後ろ。配置と髪の色が分かれば、仕事には足りた。
二体は昨夜の見張りにも入っていた。
ただし、夜番を任せきりにはしていない。
機械人形は眠らず、暗闇でも人間よりよく見える。決められた場所から離れず、異音があれば人間を起こす。それでも、風向きが変わった意味や、遠くの灯りが旅人のものか囮かまでは、機械だけに判断させなかった。
少なくとも、この商隊ではそうしている。
疲れないことと、すべてを任せられることは違った。
前方から短い笛の音が二度響いた。
隊列を詰める合図ではない。
ダリオが片手を上げていた。大柄な身体の横に短槍が斜めに立っている。彼は先頭から三台目の脇を歩きながら、後方へ腕を回した。
間隔を広げろ、という合図だった。
ロアンが振り返ると、六台目と七台目の距離が近い。
七台目の御者も気づいていた。手綱を引き、ワトの速度を落とそうとしている。しかし、積荷が重い。下り気味の砂地では、車体の重さが前へ押した。
ワトは指示に従おうと首を引いたが、革具に押され、蹄が砂を滑った。後ろから来る荷車の重さを、自分の身体だけでは止めきれない。
ロアンは荷車の横へ寄った。
「右へ切れ」
御者が片側の手綱を引くと、ワトは太い首を右へ向けた。前脚が砂礫の多い場所へ入り、それに続いて片側の車輪が硬い地面へ乗る。
抵抗が増し、荷車の速度が落ちた。
前との間に、少しずつ空きができる。
「そこで戻せ」
御者が手綱を戻すと、ワトは元の轍へ身体を入れた。
七台目の荷は、染料と陶器だった。どちらも売れば金になるが、水や薬より先に守るものではない。
荷車の側面には、切り離す順序を示す札が留められていた。危険が迫れば外側の陶器箱から捨て、次に染料の樽を落とす。車両そのものを残せないなら、牽引縄を切ってワトだけを逃がす。
それを決めるのは、襲われてからでは遅い。
ロアンは札を見て、次の荷車へ移った。
八台目には、ナディルで増やした水樽が積まれている。
代わりに、急いで運ぶ必要のない貨物はいくつか支部へ預けてきた。それでも水樽を増やせば、荷車は重くなる。沈み道では重い車両ほど深く沈み、強い振動を砂へ伝えた。
積まなければ進めない。
積めば、ワトへ掛かる負担も、砂へ伝わる振動も増える。
どちらかだけを選べる道ではなかった。
白塔までは、まだ一日半ほどある。
地下槽は残っているが、十六台の荷車と、それを引くワトへ十分な水を与えられる量ではない。旅人が生き延びるための避難所であって、大型商隊が計画的に補給する場所ではなかった。
次に十分な水を取れるのはシャルガになる。そこまで人と荷獣が届く量を、ナディルで積んでおく必要があった。
セルも同じだった。
白塔では小型のものしか扱えない。機械人形二体を動かす十二型セルは、シャルガまで持たせるか、商会が用意した予備へ交換するしかない。
ロアンは黒髪の機械人形へ目を向けた。
歩調に乱れはない。
表示を確認できる位置まで近づこうとは思わなかった。セルの管理は商会側の担当であり、いまのロアンの仕事ではない。
見るべきなのは、隊列の速度についてこられるかどうかだった。
問題はなかった。
人間よりも、ワトよりも安定している。
前方で重い音がした。
金属の脚が荷台へ当たる音だった。
ベックが二台目の荷車へ重弩を載せている。
弩本体だけで、人間一人が抱えるほどある。弦を引くには巻き上げ具が必要で、撃ったあと、すぐに次の矢を放てるものではない。
その代わり、当たれば大型の獣でも止められる。
ベックは弩の脚を荷台の縁へ掛け、射線を確かめていた。荷箱が邪魔にならない位置へずらし、太い矢を一本、手の届く場所へ置く。
「少し左だ」
ダリオが言った。
ベックは振り返らず、重弩の向きを変えた。
「これでどうだ」
「前の車輪を越えて撃てる。右から来たら捨てろ」
「高いんだぞ、これ」
「お前よりは安い」
ベックは笑ったが、固定具を締める手は止めなかった。
ダリオはそのまま隊列の中央へ戻ってきた。
正式な護衛責任者は彼だった。
前後の配置、夜番の割り振り、危険区間で誰をどこへ置くかを決める。ロアンより年上で、砂海を越えた回数も多い。
ロアンは命令されなければ動けない護衛ではない。
だが、全体を見る者が二人いれば、判断が割れる。必要な意見は出す。最終的な配置はダリオが決める。それでこれまで問題はなかった。
「七番が重い」
ダリオは七台目を見た。
「陶器を二箱、九番へ移すか」
「今動かすと隊列が止まる」
「次の岩盤でやる」
「ああ」
ダリオが後方へ手を上げると、最後尾にいた若い護衛が気づき、小走りで寄ってきた。
ネリクだった。槍と小盾を持ち、顔には十日分の砂が焼きついている。
「次の停止で七番の陶器を二箱、九番へ移す。荷役へ伝えろ。そのあと後ろへ戻れ。間隔が狭くなったら笛を鳴らせ」
「分かった」
ネリクはうなずき、隊列の後方へ走っていった。
その足元を、黒髪の機械人形が半歩だけ避ける。
ネリクが通り過ぎると、何事もなかったように元の位置へ戻った。
ロアンはその動きを見た。
正確だった。
人間なら、相手がどちらへ避けるか迷い、声を掛けることもある。ワトなら、急に脇を走られれば耳を動かし、足を止めることもある。
機械人形はネリクの進路と速度を測り、必要な分だけ動いた。
便利なものだと思った。
やがて、先頭の荷車が沈み道へ入った。
旧時代の舗装が、砂の下からところどころ露出している。黒ずんだ平らな路面は、何十年も砂に削られながら、まだ荷車の重さを受けていた。その両側では細かな砂が深く積もり、場所によってはワトの膝近くまで沈む。
先頭のワトが前脚を舗装へ置いた。
広い蹄が硬い面を捉えると、首から肩へ力が入り、荷車の車輪が砂の縁を越えた。鉄帯が舗装へ乗り、砂を噛む鈍い音が硬い連続音へ変わる。
二台目が続く。
三台目。
荷車の間隔は、平地の倍近くまで広げてある。
前の車両が硬い路面へ乗りきるまで、次は深い砂へ入らない。停止するときも一台ずつではなく、前から合図を送り、できるかぎり同時に速度を落とす。
一頭だけ急に止まれば、後続の荷車が詰まる。
一頭だけ急に引けば、地面へ伝わる振動が乱れる。
動きが揃わなければ、砂の下にいるものへ、長い隊列の位置を教えることになる。
ロアンは七台目の外側へついた。
ダリオは中央より前。ベックは重弩のある二台目。ネリクは後方。残る護衛も、槍や盾を持って荷車の間へ散っていた。
赤髪の機械人形は前方右側。
黒髪は中央左側へ移されている。
二体には長杖が一本ずつ渡されていた。
人間が持つ槍より少し短く、太い。刃はなく、先端だけが細く絞られている。刺すというより、大型生物の口や関節へ押し込み、動きを止めるためのものだった。
黒髪の人形は杖の中央を右手で持ち、石突きを左手で支えていた。構えに力みはなく、足元の砂へもほとんど視線を落とさない。
それでも、舗装が途切れる場所では歩幅を変えていた。
何も考えていない機械ではない。
ロアンは前へ目を戻した。
五台目のワトが、急に耳を伏せた。
御者が手綱を引く。
「どうした」
返事の代わりに、ワトが喉の奥で低く唸った。
普段なら、荷車の軋みや人の声にそのような反応はしない。耳を後ろへ寝かせ、首を上げ、広い鼻孔を何度も動かしている。
御者は急かさなかった。
荷獣が嫌がるものを、人間より先に感じることはある。地面の振動か、砂の下から上がる匂いか、それとも耳に届かないほど低い音かは分からない。
ロアンは足元を見た。
砂面に変化はない。
風は右から左へ吹き、細かな砂が路面を流れて、車輪と蹄の跡を少しずつ消していた。
前方では、先行の護衛が片膝をつき、手袋を外して砂へ掌を当てている。
ダリオが腕を上げた。
隊列の速度が落ちる。
完全には止めない。一台目が動き、二台目が続き、後方が詰まらない程度に歩幅を狭める。
御者たちは強く手綱を引かず、声と手の動きだけでワトの歩調を揃えた。ここで一頭が暴れれば、その荷車だけでなく、前後の車両まで動けなくなる。
ロアンは七台目の御者と荷役を見た。
御者の手は手綱にある。荷役は荷台の左右へつき、ワトが暴れた場合に切る牽引縄へ手を伸ばせる位置にいた。
水樽のある八台目まで、間隔は保たれている。
左側には深い砂。
右側には、三十歩ほど先に旧舗装が広く露出した場所がある。
退避させるなら右だった。
先行者が顔を上げた。
「沈んでる」
声は大きくなかったが、隊列の前方にいた者たちは動きを止めた。
「どこだ」
ダリオが訊く。
先行者は砂の上を指した。
荷車の轍とは違う、幅の広い浅い窪みが、道を横切るように延びている。風で崩れ、輪郭はほとんど消えていた。
古い痕跡にも見える。
だが、窪みの端だけ、砂がまだ滑り落ちていた。
一台目のワトが足を止めた。
御者が低く声を掛けても動かない。太い首を持ち上げ、鼻孔を広げたまま、砂の向こうを見ている。
ロアンは棒剣の柄へ手を掛けた。
まだ抜かない。
砂の下から、細かな震えが伝わっていた。
車輪が進む。
鉄帯が舗装を打つ。
ワトの蹄が砂へ入る。
革具が張る。
荷台の木枠が軋む。
いくつもの振動が足裏から途切れず上がっていた。
それが、一度消えた。
荷車はまだ動いている。
車輪も鳴っている。
ワトも歩いている。
それなのに、砂の下から返ってきていた震えだけがなくなった。
ロアンは顔を上げた。
先行者も同じことに気づいたらしい。
笛より先に、声が飛んだ。
「下だ!」
ロアンは隊列全体を見なかった。
七台目の御者。
荷役二人。
右の硬い路面。
八台目との距離。
黒髪の機械人形。
そこまでを一度に見る。
砂が盛り上がった。




