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二十五円の夜

作者: 雨月 日日兎
掲載日:2026/03/24

 映画が始まる。観たかった映画だ。テレビで予告をチラと見て、あぁいいなと思ったのはひと月は前の事だと思う。当然それだけの時間が経てば上映期間も終わってしまう。そう分かってはいたけれど、時おり上映情報を見るだけで足はなかなか向けられないままだった。疲れただとか、理由はそんなものだ。

「それでも、二、三年前だったら観に来てたんですけどね」

 苦く笑いながら言った相手は狐だった。

「では、久しぶりの映画がということですか」

 穏やかに話す声は心地よく耳に響く低音だ。

「そうですね。随分と久しぶりの映画です」

「それは、楽しみですね」

 その声がほころぶ音につられて笑う。その口のまま――えぇ、とだけ返して大画面に映る予告に向き直る。意識はこの不可思議な夜の始まりに飛んでいた。


 夜に躓いたのだ。爪先を何かに引っ掛けた。重心が思いもよらない方向に傾き、踏み出した左足が強く地面を踏みしめた。妙に音が響いたのは夜の所為だろう。羞恥心が膨らみ辺りを確認させた。その時である。後方に、見慣れない屋台の明かりを見つけた。

 途端に背筋が凍りついた。ほんの数秒前通り過ぎた時には、屋台はたぶん無かったはずだったからである。あんなに目立つ存在なのに、気付かず通りすぎていたとでもいうのか。もしくは――有り得ないが――十秒にも満たない間にあそこへ現れ営業を始めたとしか思えない。どちらにせよ、不気味で怪しい。その屋台から、狐が一匹姿を現した。

 人のように後ろ足二本で立ち、草臥れた着物と前掛けを纏った獣だ。何もかもおかしい。目の前の光景に、狐に化かされるとはこういう事なのだろうかと冷静な自分が独りごちる。頭は思考を手放す直前だった。

「あぁ、こんばんは。いい月夜ですね」

 加えて低い声に言葉を使われたらもうお手上げである。何がなんだか分からずに立ち尽くす。脳は、狐の持つ暖簾に書かれた黒地に白抜きの「夜啼蕎麦」の文字に、腹が空いたと呑気なことを考え始めていた。

「どうです、一杯。いま、準備が出来たところなんですよ」

「は……え、いや、あの、」

 その内心を見透かしたかのようなタイミングだった。狐の言葉に心臓は跳ね上がり、喉に言葉を詰まらせた。相手はそんなこちらの様子を気にもせず喋り続けている。もう、獣が言葉を話すことなど、二の次の状況だった。

「まぁまぁ、こうして出会えたのも何かのご縁でしょう? 今夜は特に油揚げがうまい具合にできまして、ぜひ食べて、感想を聞かせて頂きたいのですよ。今ならいなり寿司おひとつサービス致しますよ。さ、いかがです?」

「や……あの、今は……その、お金が、ないので……」

「おや、それはお困りでしょう。財布でも落としましたか?」

「いえ、そういうんじゃなくって。単純に、今日のお昼を買ったら小銭しか残らなくなっちゃいまして。だから、あの……大丈夫です」

 何を、言っているんだろうかと自分でも思う。再度顔を出した羞恥に言葉も尻すぼみだ。こんな情けない事情を畜生に話してどうするのだと、冷静な自分がため息を吐き出した。

「そうですか、それは残念です」

 狐は大きな耳を下げてしょぼくれた。期待を裏切ってしまったのだろう。それは明らかなのだが、込み上げてくる罪悪感は飲み込むのが最善だ。分かってはいる。分かってはいるのだが。

「あ、でも、少しなら入ってますし、あの、おいくらですか。それか、あの、か、カードとか……使えますか?」

 しどろもどろ、なんとか笑みを浮かべながら言い募る。滑稽なその様に、どっちが怪しいか分かったものじゃないなと嘲笑う声を聞いた。ゆらゆら狐の髭が風に揺れる。

「一杯、十円頂いております。それと、かーどはたぶん、使えないかと、」

「じゃ、じゃあ大丈夫そうです。十円なら、あります……」

「本当ですか! あぁ嬉しい。おい、おひとりご来店だ!」

 大きな尻尾を膨らませ喜びを露に狐は「さ、どうぞ」と店先へ手招いた。今さら帰れるわけもないのに心の奥はぐずついたままだ。何とも情けない。ふらふらと流れに任せて漂う性分は「じゃあ……」などと訳の分からない言葉を吐いて、言われるがまま席についた。

 中は、狐が二匹立ってやっとの狭さだった。先ほどの狐と洋装の狐の二匹だ。無口なヤツとお喋りなヤツである。

「すみません無理矢理。お出しできるものも、蕎麦かいなり寿司かアタラヨしかないんですけどね。まぁそれなりに好評頂いておりますので。ちょっとお待ちくださいね」

「アタラヨ?」

 聞き慣れない言葉が耳をつく。器用に箸を持った無口な狐の指は五本指。化けているのか、そもそもが化け物なのか。琥珀色の瞳を瞬かせた大きな口は「おや、ご存知ありませんか」と驚きを露にした。

「えぇ、初めて聞きました」

 お喋り狐は金の目だ。僅かな光にも煌めくそいつが楽しげに揺れている。

「ではでは是非とも味わって頂きたいですねぇ。というのも実はですね、元々こいつはアタラヨを売っていたんですよ。けどあんまりにも商売っ気がなくてですね。見るに見かねてウチヘ引き入れたってわけです」

「はぁ、なるほど」

「ですからね、お客さまがよければぜひ、ぜひご賞味ください」

 ご賞味って品じゃあないけどね。無口は穏やかな声で付け加えた。ならばどんなモノなのか。興味の芽が覗く。同時に心配の芽も生えてはきたがどうにも杞憂で終りそうである。

「なるほど……ですが、あの、」

「料金は、お客さまのお心次第で構いませんよ。五円でも十円でも、他の何かでも」

「ほらね、商売っ気がない」

「そもそも、商売になるって騒ぎ始めたのはお前だろう。端から無いんだよ、そんなもの。それに、この事に関してはもう口を出さない約束のはずだよ」

「そりゃあ、そうだけどさ」

「そうなんですよ。ですから、お気になさらず。まぁまずは食べてからお考えください。はい、お待ちどう様です」

 目の前には湯気の立つかけ蕎麦といなり寿司。いただきますと手を会わせひと口、食べてふと我に返った。目の前に立つ二匹の獣の存在にもはや疑念を持っていない自分自身に戸惑ったのだ。途端、疑問は溢れ出す。それはたくさんの数が溢れ出し、そのまま泡となって消えてゆく。考えたところで、または聞いたところで今さらどうしようもない事をどこかで分かっているからだ。

「いかがですか?」

「美味しいです」

 お喋りな狐との会話も楽しく箸を進められた。無口は静かにその話を聞いている。器はもう空になっていた。聞いていた通りうまい油揚げであった。満足気なこちらの表情にお喋りな狐もどこか嬉しそうである。

「あぁそうだ。アタラヨは、いかがいたしましょうか。私としてはやはり、ぜひとも味わって頂きたいのですが」

 話題はあの聞き慣れない単語へと戻ってきていた。アタラヨ。どう舌で転がしていいのかも分からない固有名詞だ。

「ちなみにそれは、どんなものなのですか」

「そうですね、漢字では、可能性の可に惜しむ夜と書きます。明けるのが惜しいと思う程の夜のことですね」

 金色の目に促され、説明を代わった狐は爪先で宙に文字を描き、そんな時間を提供しておりますと結んだ。

「はぁ、なるほど……」

 浮かんだ情景は男女の睦み合いだ。三千世界の鴉を殺しとでも唄うのだろうか。やはりイマイチ掴めはしない。なのに断る選択肢を持てない舌は「じゃあぜひ、」と肯定を返し可惜夜の購入を決めたのだった。

「ありがとうございます。では、蕎麦の代金をまず頂きまして……はい、確かに、ありがとうございます」

 両の目を細めた狐はどこまで察しているのだろうか。お喋りの様に喜びを露にはしない獣は穏やかな口調のまま、では行きましょうかと店の外を手で示した。

「どうもありがとうございました。またのお越しを!」

 追いかけてくる朗らかな声には会釈を返し、歩き出す。頭上には、煌々と満月が光を降り注いでいた。


 エンドロールの流れる大画面を後に、一人、二人と去って行く人影が眼下を過った。狐によれば、薄皮一枚隔てた向こうの夜に住む人々らしい。あなたも本来ならあちら側の方ですよねと問われもしたが、そうだとも違うとも答える事は出来なかった。

「どう、なんですかね」

 曖昧に囁く合間にもエンドロールは続いている。違いましたかねぇ。目線は文字を追ったまま会話は続けられた。

「銀杏を見た時とても驚いた顔をしていましたから、そうなのかと思ったんですけどね」

「ぎんなん?」

「蕎麦売りの狐の名前です」

 あぁと感嘆詞が溢れる。あのお喋りな狐はそんな名前だったのかと驚いたのだ。

「ちなみに、私は蜂弥と申します」

 ついでと告げられた名前を尖った爪先が空に描いた。もちろん見ることは叶わない。その文字に眉をしかめつつ、拾った音をそのまま舌で転がした。

「はちや、さん」

「えぇ、蜂弥、です」

「あ、私は小金井有実といいます」

「ありまさん、ですね。改めてよろしくお願いします」

「お願いします」

 それでですね、と閑話休題。この夜は人々が永い年月をかけて作り上げてきた夜なのだと穏やかな声は説明を繰り返した。

「ですからあなた方が普段過ごす夜とは少し違う姿をしています。例えば狐が喋ったり、蕎麦を売ったり……きっかけになるようなこと、何かありませんでしたか?」

 何かと言われても、何かに蹴躓いたくらいである。その事を簡潔に伝えれば、たぶんそれだろうと狐は言う。なにせ薄皮一枚ですからねと雑に結んだのは、エンドロールが終わりを迎えたからだろう。観賞後の余韻はない。大きく伸びをして立ち上がった彼の背中を追いかけた。

「いやぁ、いい映画でしたね」

「そうですね。観れて良かったです」

「ではご満足頂けましたか」

 問いかけに言葉が詰まる。琥珀の瞳はゆるりと細められた。大体の検討はついているのだろう。その表情にこちらも無言で探りを入れ、かさついた唇を素早く湿らせた。

「満足はしてます。けど、」

「可惜夜ではないと」

「えぇ、申し訳ないのですが。明日の仕事が嫌で明けて欲しくない夜のまま、ですね」

「なるほど、ならば次を考えましょうか。まだ、夜は長いですからね」

 狐は、そう言って笑った。獣の面ゆえに分かり辛い変化ではあったが確かに笑って、狐はそう言ったのだった。その表情が、数時間前の声と重なる。この夜はあなたとたくさんの誰かが作った夜なのだと語る、琥珀の瞳は、こちらの表情を探りながら話を進めていた。

 例えば、誰かが星を結んで語った物語。例えば魑魅魍魎が跋扈する恐ろし気な話。絵本に綴られた物語や噂話もあるだろう。語り語られるそれらは口にする度に言霊を重ねに重ね、やがてこの夜を生み出したのである。いつの頃からか隣夜と呼ばれるようにもなった。ここは、そういった場所なのだと蜂弥はそこで一旦言葉を区切った。

 こちらの反応を伺っているのだろう。なるほど、と苦し紛れに打った相槌はどう聞こえたのだろうか。彼は片耳を細かく震わせ、説明を続けた。

「源夜――あちら側の夜からは隣夜を見ることは出来ませんが、こちらから働きかければ向こう側に触れることはできます。ぼんやりと印象のない誰かといった認識になるのだそうです。……いえ、以前にこちらへ来た人がそう言っておりましてね。私の友人が通いつめていた店の従業員の方でして、どうりで顔を覚えられないわけだと納得なさっていました。……えぇ、向こう側の夜にある店でしたら、カードも使えますよ。何か、買われますか? あぁ、失礼、それでは、説明を続けますね。

 大切なのは、この夜はあなたが望めばそのように姿を変えるという事です。行きたい場所に行くことも、会いたい誰かと会うことも、食べたいものを食べることも、基本なんでもできます。今すぐ元の夜に帰ることももちろんできますが」

 さて、と伺う視線が笑う。

 ――あなたは、どんな夜を望みますか?

 なんて急に問われたとて、すぐに答えられる人間は稀だろう。日々を無難に、平坦に暮らしてきた自分には尚更、その問いかけは難題だった。結果黙りこくってしまったこちらを見かねた狐の助け船に乗っかり、なんとか映画鑑賞を提案したのだが、これが可惜夜かと問われればやはり違うとしか答えは返せなかった。

「あぁそうだ。少し前に、子どもの頃に憧れた観覧車に乗りたいと仰った方がおりましたね」

 珈琲を片手に歩く狐が思い出したと記憶に視線を漂わせた。季節限定の文字に惹かれて買ったそいつは、甘く胸を焼き腹を満たした。昔は苦もなく飲めていたのにと思うのは歳を食った証だろう。内心苦笑しつつも口を付ける。懐かしくも新しい味は残り半分にまで量を減らしていた。

「観覧車、ですか。じゃあどこかの遊園地にでも行ったのですか」

「いいえ、そういった場所にあるモノではなかったんですよ」

「そういった場所にない観覧車ですか?」

「えぇ分かりませんか?」

 うぅんと唸る。

「ちょっと思い付かないですね」

「ご存知ないのかもしれませんね。もう昔の話だとその方も懐かしそうに話していらっしゃいましたから。なんでも、子どもの頃にはデパートの上に、そういった遊べるスペースがあったそうです」

「あぁ、聞いたことは、ありますね」

 もしくは映像で見たことがあった。今ではその姿をほとんど消してしまった存在のはずである。いくつかは残っているとその時聞いた記憶もあるのだが、既に曖昧だ。

「あったんですか、まだ残っているところが」

「さぁ、残っている所はあるのかもしれませんが、彼が憧れた観覧車はもう随分前に建物ごと無くなってしまったそうです」

「え、じゃあ乗れなかったんですか?」

 いいえ。否定する語尾がトラックの走行音に呑み込まれた。

「ここは隣夜ですからね、望めばその通りになります。潰れたはずのデパートも、中の店も、もちろん屋上の遊園地も当時のまま存在できるのですよ」

 今度はバイクが通りすぎていった。怖いもの知らずの若者が数人、唸りを上げ猛スピードで走り去っていったのだ。

「少し騒がしいですね」

 と、狐は右手を上げ何かを撫でるようにまっすぐ下ろす。それだけで、周囲の音がまるで音量を下げたように小さく変わった。ドクドクと耳の後ろで鳴る鼓動は逆にボリュームを上げたようだ。不安と興奮に震えているのである。

 ここは、いつもの夜じゃあない。

 ぼんやりと理解していたものを、今ようやく実感したのだ。

 望めば叶うとの言葉も今なら理解できる。ならばと伸びた指先はペンダントに触れた。真夏の空を思わせる青色の、雫の形をしたトップが付いたものだ。昔読んだ童話の主人公が持っていたものとよく似たそれは、お守り代わりとして毎日身に付けていた。勇気を貰える気がしたのだ。あの日彼が冒険へ出ることを決めた、あの勇気を。

「蜂弥、さん」

「はい」

 狐は穏やかに返事をする。

「行きたい場所が、あります」

「ほぉ、それはどこでしょう」

「島です。小さな島なんですが、そこは、本当は、本の中にある場所で実際には存在しない場所なんです」

「なるほど」

「それでも、あの、」

 興奮に言葉が詰まる。それでも全てを言わずとも、彼には理解して貰えたようだ。

「えぇ。それでも、大丈夫ですよ。有実さんが望むのならば、どこへだって行けるのですから」

 穏やかに肯定を返される。その言葉に、何故だか泣きそうになった。


 男の子には姉がいた。歳は少し離れていた。男の子は、忙しい両親の親代わりをしてくれていた彼女のことが大好きだった。姉も、男の子のことをとても可愛がっていた。中睦まじい兄弟だった。

 そんな姉が知らない男の人を連れてきたのは、男の子が十一歳になった時だった。結婚をするのだと言う幸せそうな二人の姿に、男の子は大喜びで祝福の言葉を送ったのだった。

 次に男の子を悩ませたのは姉へのプレゼントである。うんうんと悩み続け思い付いたのは人魚の涙だった。海の向こうの遠い島に住む人魚の涙はその時の空の色を取り込み、それは美しい宝石になるのだと聞いたことがあったのだ。ならば姉の瞳と同じ真っ青に晴れた空色の宝石がいい。そう思い立った男の子は荷物をいっぱいリュックに詰め込んで、海の向こうの遠い島を目指して冒険を始めたのだった。

「きっとその男の子は私たち以上の大冒険をするのでしょうね」

「えぇ、そうですね。こんなにすんなり進むとは思っていませんでした」

 帆に風を受けて進む小舟の上、漕ぐこともなく快適に進む船首はまるで行き先を知っているかのように海を進んでいた。

「目的が違いますからね。割愛させて頂きました」

 朗らかに笑った狐はおどけた様子で言う。時間があまり無いのだろう。頭上に浮かんでいた満月はいつの間にか大きく傾いて遠くなっていた。朝が来るのだろう。その事実に少し、胸の奥が痛んだ気がした。

「本当にあっという間でしたね。蜂弥さんと話すのが楽しくて時間を忘れていました」

「それは嬉しいですね。可惜夜に一歩近づいたでしょうか」

 えぇ、返事は海風に紛れた。視線の先には大きな影が見え始めている。島はもうすぐそこだ。ざわめく内心は、人魚の不在を危惧する不安からくるものだろう。他にも何か混じっているとは思うのだが、突然揺れた船に思考は霧散した。

「あら、久しぶりに陸の人を見るわね。迷子? それとも私たちに何か用事があるのかしら」

人魚である。童話の挿し絵で見た通りの美しい女性が、船の縁に腕をかけていた。

「こんばんは、突然申し訳ありません。人魚の涙の噂を聞きましてここまでやって来ました。夜明けの空を閉じ込めて頂きたいと思っているのですが、お邪魔してもよろしいですか?」

「あらあら、そんな噂話も久しぶりに聞くわね。えぇどうぞ、貴石の涙は姉の方が得意なの。案内するわ」

「ありがとうございます」

 そつなく会話を進める狐の隣で心臓は未だに大きく鼓動を打っている。人は心底驚くと声も出ないらしい。意識も半分どこかへ飛んでいたようだ。二度目の振動によろけた頃には、船は小さな入り江の砂浜に乗り上げられその動きを止めていた。

 岩場の多い小さな島である。人魚の住む島とはいったものの実際は休憩場所くらいなものなのだろう。少し離れた場所で手を振る人魚は半身を海へ浸したままだった。

「さぁ、行きましょうか」

 蜂弥はやはり迷いなく彼女らの元へと歩きだす。その背中の向こうでは闇が光に溶け始めていた。

「待ってください」

 思わず、声が震えた。

「どうか、しましたか?」

 己でも掴みきれない心の揺れに、足は動かなくなっていた。

「もう、夜が明けるのですか」

「えぇそのようですね」

 ひどく寂しくなったのだ。どうしようもなく溢れるその寂しさの理由を探したくて、問いは重ねられた。

「僕が願えば、ここは夜のままでしょうか」

 瞬きをひとつ。狐はいいえと答えた。

「いいえ。残念ですが、夜は必ず明けます。何をしようとも、何をせずとも、必ず明けます」

「じゃあ、また会えますか」

「誰と?」

「あなたと、」

「……さぁ、どうでしょう。夜が望めば、もしかしたらまた、お会い出来るかもしれませんね」

「蜂弥さん」

「はい」

 琥珀の瞳が柔らかに細められる。その表情につられて笑う両の目は、今にも泣き出しそうだった。ぐるぐると渦巻く感情はうまく言葉に出来るだろうか。分からないまま口を開いた。

「僕は、こうして貴方とずっと、夜を歩いていたいみたいです」

「これは、これは。熱烈な告白ですね」

「あはは確かに。でもそれくらい、貴方と過ごした時間が楽しかったんですよ。本当に、今すごく寂しいんです。貴方とこうして話せなくなる事が、ひどく寂しい。……この夜が明けなければいいと思うくらい、寂しいんですよ」

 それは、友人をひとり失ってしまうような悲しみだった。馬鹿らしい話だろう。たった数時間共に過ごしただけだというのに、自分はこの狐をずっと昔からの友人のように感じているのだ。そんな風に思っているのも自分だけなのだろうと思えば寂しさは募るばかりである。だから、こちらから一線を引いておいた。自分と彼とは客と売り手なのだと己に言い聞かせる為に、鞄から取り出した財布をひっくり返した。

「なのに、手持ちがこれだけで。本当にお恥ずかしいのですが……」

 差し出した小銭を狐はじっと見つめ、それから笑った。

「……いえ、ご満足頂けたのならそれで充分ですよ」

 何を思っているのか。その顔つきからは分からないが、出来たなら同じ寂しさを持っていてくれたらいいと願ってしまう。浅はかな心が軋む音を聞いた気がした。

「商売っ気がないって怒られますよ」

「元より無いものは仕方がないでしょう。さぁ、本当に夜が明けてしまいますよ、お早く」

 待ちぼうけの人魚たちはどこか呆れ顔である。

「私たちがオマケだなんて、随分と贅沢な夜ね」

「えぇ本当に。それ相応の物を貰わないと割に合わないわね」

「例えばそうね、その石とかいかがかしら」

「あらお姉様、私もあれが気になっていたの」

「なら丁度いいわね」

「えぇ丁度いいわ」

 口を挟む間もなく指し示されたのは鞄につけられたガーデンクォーツのストラップである。確かに丁度よく二つ揺れている。

「こんなので、いいんですか?」

「あら、こんなのなんて言わないで。それがいいんだもの」

「そうよ、それがいいの」

 やはり、口を挟む暇がない。急かされるままに渡した石に彼女たちは喜んで口づけし、ついでとばかりにこちらの頬にも唇を触れてきた。両目が落ちんばかりに開かれる。クツクツ笑い声を上げるのは蜂弥だ。

「申し訳ない」

「……楽しんで頂けたのなら幸いですよ」

 赤い顔で睨めつけた。その先の空はいつの間にやら明るさを増していた。どうやら、もう朝が来てしまうらしい。どんなに願おうとも変わらないその事実に、胸は何度目かの痛みを覚えた。

「あぁもうまた二人だけで楽しんでるわ。もう朝が来るというのに」

「陸の方はのんきなものね」

 困ったものね、えぇ本当に。くすくすと笑う人魚の声が、束の間放心した意識を呼び戻す。申し訳ない。小さな謝罪はまたくすくすと、笑みの狭間に流された。――いいの、いいのよそんなこと。それよりも、さぁ、早く。さぁ早く。早口に鈴の音は鳴らされる。

「もう日が昇るわ」

「夜が明けるの」

「だからさぁ早く、両手を器にして、落とさないように」

「あなたもよ、狐さん。こちらにいらして」

「さぁ、早く」

「さぁ早く」

 さぁ早くと促されるままに手を伸ばした。その瞬間、遠い水平線から強い光は現れた。ほぅと思わず吐息が漏れる。空は、赤く、青く燃えていた。雲はさらに多くの光を閉じ込め揺蕩った。星は頭上で微かに瞬き、月は白く姿を変える。――夜明けが、手のひらに収まっていた。

「あぁこれはスゴい」

 蜂弥が感嘆の声を溢した。どこか興奮した様子でもある。朝陽に両目を煌めかせた彼は、急かすようにこちらを手まねいた。

「ほら、ここに来るとそっくりそのままの空ですよ。有実さんも来てみてください。早く、色が変わってしまいますよ」

 くすくす、人魚が笑っている。

「ほら、呼んでるわ」

「早く行かなきゃ」

「えぇお早く、」

 口々にせっつかれるも、足場は悪い。それに、夜もまだ残った場所で歩くのは一苦労なのだと、文句を垂れた。

「そうは言っても、蜂弥さんほど、身軽じゃあないの、でっ」

 あっと思った時には岩場に爪先を引っ掛けていた。重心が思わぬ方向に傾き、バランスを崩す。あぁ倒れると、どこか思考はゆったりと流れた。そのまま――……全身をびくつかせた両目がうっすらと開かれる。身体は、見慣れた寝具に横たわっていた。まるで、全部が夢だったかのように。代わり映えのない自室を昇ったばかりの朝日が照らしていた。どうやら、カーテンを閉め忘れたらしい。風呂にも入っていない。昨日のままの自分の姿にぼやけた思考を巡らせる。

 本当に全部夢だったのだろうかと。眠気の残る頭を働かせ、残念なことに今日が仕事だったことを先に思い出す。なんとも憂鬱な目覚めだ。ため息も溢れる。加えて、時間も余裕はなさそうだと憂鬱を重ねた所為だろう。

 気付いたのは、部屋を飛び出る間際であった。思わず息を飲み、足を止めてしまった。

 そこには、夜明けを閉じ込めたかのような、美しい雫の形をした石が、落ちていたのだった。

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