エピソード1 見知らぬ朝
ピピピピッ! ピピピピッ!
突然、けたたましい電子音が部屋中に響き渡った。
「ひゃっ!? な、何事ですかっ!?」
少女は飛び起きた。
何者かの襲撃か。それとも、何かの警報か。
寝ぼけた頭で周囲を見回すと、枕元で震える小さな長方形の物体が目に入った。
「な、なんでしょう、これ……。ぶるぶる震えていますし、生き物でしょうか?」
恐る恐る手を伸ばし、指先でつんつんと触れてみる。
その様子は、まるで初めて見る虫に好奇心を抑えきれない子供のようだった。
すると――。
ピコン!
「ひゃあっ!?」
今度は音まで鳴った。
少女は思わず手を引っ込めたが、すぐに好奇心が勝ったらしい。おそるおそる、その物体を持ち上げる。
そこには、見慣れない文字が表示されていた。
『みずきー!! 今日の1限一緒に行こうよー! ほら! 刑法入門の授業! 出席厳しいらしいから行かないと! 食堂の前で待ち合わせで!』
「みずき……? 刑法入門……? 出席……?」
少女は一文字ずつ、声に出さずに読み上げた。
「いったい、何のことでしょう……。それに、この文字。見たことがないはずなのに、どうして読めるのでしょうか?」
うーん、と唸りながら首を左右に傾ける。
そして、何かに気づいたように、ぱっと顔を輝かせた。
「はっ! もしかして、私には文学の才能があるのでしょうか!?」
どうやら、文字が読める理由を考えるよりも、自分の新たな才能を発見した可能性のほうが魅力的だったらしい。
……いや、そんなことを考えている場合ではない。
「ん? ところで……ここは、どこでしょう?」
起床から、早くも三分。
少女はようやく、自分が置かれている状況を確認することにした。
まず目に入ったのは、机と椅子。
その隣には本棚があり、そこには分厚い本が何冊も並んでいた。
『民法』『刑法』『会社法』。
どれも見慣れない言葉ばかりだ。
その重厚な装丁は、まるで王宮の書庫に並ぶ魔法書を思わせた。
さらに視線を巡らせると、ベッドのほかにも小さなキッチンがあり、その奥には二つの扉が見えた。
片方はどうやらトイレ、もう片方は浴室らしい。
「……どなたかが、私をここに連れてきたのでしょうか?」
少女は額に手を当て、記憶をたどろうとした。
しかし、何も思い出せない。
「うーん……。困りましたね」
無意識に、肩まで伸びた黒髪をかき上げる。
さらり、と指の間を髪がすり抜けた。
その瞬間、少女の動きがぴたりと止まった。
「…………え?」
ゆっくりと、自分の髪をつまみ上げる。
艶のある、黒い髪。
少女はしばらくの間、それをじっと見つめていた。
「……黒?」
なぜだろう。
この髪の色は、どこかおかしい。
そう思った瞬間、頭の奥に奇妙な違和感が走った。
まるで、もっと違う色の髪を知っていたような。
もっと長く、美しい髪を、当たり前のように持っていたような。
しかし、いくら考えても何も思い出せない。
「……うーん?」
少女は首を傾げた。
「まあ、いいでしょう!」
そして、あっさりと顔を上げる。
「髪の色が変わったくらいで、慌てても仕方ありませんものね!」
……いや、普通はもう少し慌てるべきなのだが。
少女はそんなことには気づかず、再び部屋を見回し始めた。
「……とりあえず、顔を洗いましょうか」
考えても分からないことは、ひとまず後回し。
少女はそう結論づけると、部屋の奥にある扉を開けた。
そこは、小さな洗面所だった。
白い洗面台に、蛇口。そして、その上には大きな鏡が取り付けられている。
少女は蛇口をひねり、水が流れ出したことに目を丸くした。
「わあ……! 何もないところからお水が!」
しばらく水の流れを眺めていたが、やがて本来の目的を思い出したらしい。
両手で水をすくい、顔を洗う。
ひんやりとした水の感触に、眠気が少しずつ引いていった。
「ふぅ……。さっぱりしました」
濡れた手を振りながら、何気なく顔を上げる。
そして。
「…………え?」
鏡の中の少女と、目が合った。
黒い髪。
透き通るような肌。
大きな瞳に、少し驚いたように開かれた口。
そこに映っていたのは、見知らぬ少女だった。
少女はゆっくりと右手を上げた。
鏡の中の少女も、右手を上げる。
今度は左手。
やはり、同じ動きをした。
「…………」
少女は鏡に顔を近づけた。
鏡の中の少女も、顔を近づける。
「…………」
さらに近づく。
当然、向こうも近づいてくる。
「……なるほど」
少女は、何かを理解したようにうなずいた。
「私の真似をする、不思議な方なのですね!」
違う。
そうではない。
鏡に映っているのは、紛れもなく自分自身だった。
しかし、そんな当たり前の事実に、少女はまだ気づいていなかった。
「でも、どうして私と同じ動きをするのでしょう……?」
しばらく真剣に考え込んでいた少女だったが、ふと、鏡の中の自分の頬に目を留めた。
ぷにっ。
自分の頬を指で押す。
鏡の中の少女の頬も、同じようにへこんだ。
「…………あ」
少女は、ゆっくりと自分の顔を両手で包み込んだ。
「こ、これ……私、ですか!?」
ようやく理解したらしい。
鏡に映っていたのは、他の誰でもない自分自身だった。
「えええええっ!?」
洗面所に、少女の悲鳴が響き渡った。
「ど、どうして!? どうして私、こんな姿になっているのでしょう!?」
黒い髪を引っ張ってみる。
痛い。
頬をつねってみる。
痛い。
目を閉じて、もう一度開いてみる。
……やっぱり、黒髪の少女がこちらを見つめていた。
「ゆ、夢ではないのですね……」
少女は呆然と鏡を見つめた。
けれど、不思議なことに、怖いという感情はあまりなかった。
困惑はしている。
自分の身に何が起きたのか、さっぱり分からない。
それでも、少女はしばらくすると、小さく息を吐いた。
「……まあ、考えても仕方ありませんね!」
そして、いつものように明るく笑った。
「とりあえず、今は落ち着いて状況を整理しましょう!」
その笑顔は、まるで何度も困難を乗り越えてきた人のように、妙に堂々としたものだった。
……本人には、そんな自覚などなかったけれど。
少女はもう一度、鏡を見た。
そこには、やはり見知らぬ少女が映っている。 綺麗な黒髪が、肩より下にまで降りている。身長は155センチほどで、歳は20歳くらいだろうか。若々しく肌、洗面台には美容品が多く置かれているあたり、美容には日頃から気を遣っていることがわかる。
なぜだろう。
その顔を見ていると、ほんの一瞬だけ、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
何か、大切なものを忘れてしまったような。
そんな気がした。
「…………?」
少女は首を傾げた。
けれど、その感覚はすぐに消えてしまった。
結局、彼女は何も思い出せないまま、洗面所を後にしたのだった。
* * *
部屋に戻ると、机の上に置かれた長方形の物体が目に入った。
先ほどから何度も音を鳴らしている、あの不思議な道具である。
「そういえば、さっき何か書いてありましたね……」
彼女はそれを両手で持ち上げた。
表面には、相変わらず文字が表示されている。
『みずきー!! 今日の1限一緒に行こうよー! ほら! 刑法入門の授業! 出席厳しいらしいから行かないと! 食堂の前で待ち合わせで!』
「みずき……」
彼女は、その文字をゆっくりと読み上げた。
どうやら、これは誰かに宛てた文章らしい。
しかも、相手は『みずき』という人物。
「このお部屋に住んでいる方のお名前でしょうか?」
彼女は室内を見回した。
当然、返事はない。
「うーん……。では、私の名前なのでしょうか?」
そう口にした瞬間、彼女は少しだけ考え込んだ。
自分の名前。
それは、分かっていて当然のはずなのに。
どうしてだろう。
何も思い出せない。
彼女は困ったように眉を下げた。
「……まあ、今はそういうことにしておきましょう!」
あっさりと結論を出した。
深く悩んでも、答えが出るわけではない。
ならば、まずは目の前にある情報を頼りにするべきだ。
彼女は、もう一度画面を見た。
「刑法入門……授業……食堂……」
知らない言葉ばかりだった。
けれど、不思議なことに、文字を読むこと自体には何の苦労もない。
見たことがないはずなのに、意味は自然と頭に入ってくる。
「文字というものは、ずいぶん便利なのですね!」
彼女は感心した。
どうやら、今の彼女には自分が文字を読めることのほうが、名前を思い出せないことよりも重要らしい。
さて、ここで一つ問題がある。
画面に書かれた文章によれば、誰かが『みずき』という人物を待っているようだ。
しかも、どうやら時間には限りがあるらしい。
彼女は窓の外を見た。
明るい日差しが差し込んでいる。
「……もしかして、急いだほうがよいのでしょうか?」
そう思ったときだった。
ピコンッ!
「ひゃっ!?」
突然、手元の物体が音を鳴らした。
彼女は危うく放り投げそうになりながらも、なんとか両手で受け止めた。
画面には、新しい文章が表示されていた。
『みずき? まだ寝てる? 遅刻するよー!』
「お、お返事をしなければ……!」
彼女は慌てて画面を見つめた。
しかし、どこをどうすれば返事ができるのか分からない。
画面を指で触ってみる。
すると、文字が消えたり、別の画面が表示されたりした。
「わわっ!? な、何かしてしまいましたか!?」
慌てて指を離す。
画面は元に戻った。
「…………」
彼女はしばらく黙り込んだ。
そして、真剣な表情で頷いた。
「なるほど。これは、なかなか手強い相手ですね……!」
相手はただのスマートフォンである。
しかし、彼女にとっては未知の機械。
そう簡単に攻略できる相手ではなかった。
彼女は少し考えたあと、ふと部屋の隅に置かれた鞄に目を向けた。
その横には、衣服がきれいに畳まれている。
さらに、壁には時計が掛かっていた。
針の位置を見る。
正確な時刻は分からない。
それでも、のんびりしている場合ではなさそうだった。
「よし!」
彼女は小さく拳を握った。
「まずは、この『大学』という場所に行ってみましょう! そこに行けば、私のことを知っている方にも会えるかもしれません!」
そうと決まれば、行動あるのみ。
彼女は鞄を手に取り、衣服を整えた。
服を着替える際には、なぜか迷うことなく適切な順番を選び、襟元の乱れを丁寧に直した。
自分でも理由は分からない。何も知らないはずなのに体が次の行動を暗記している。
最後に、鏡の前でもう一度だけ自分の姿を確認する。
「……よし。大丈夫ですね!」
鏡の中の少女は、相変わらず見知らぬ顔をしていた。
それでも、先ほどよりは少しだけ落ち着いて見えた。
彼女はスマートフォンを鞄にしまい、玄関へ向かった。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
そして、勢いよく扉を開けた。
「いざ、出発です!」
こうして、彼女の新しい一日が始まった。
自分の名前さえ分からないまま。
自分が何者なのかも知らないまま。
これから向かう場所がどんなところなのかも、まったく知らないまま。
ただ一つ確かなのは――。
「ふふっ! 今日は、どんな出会いが待っているのでしょう!」
彼女が、驚くほど前向きだということだった。
オリジナル小説の連載を始めました!
記憶を失った少女??が、現代日本で大学生活を始める、コメディと人情を中心とした物語です。
笑える日常の中に、少しずつ明らかになる少女の謎を盛り込んでいく予定です。
ぜひ!読んでくださると、嬉しいです!!




