再生へ
パソコンを開いて、キーボードに手をのせながら光男は最初の一文字を悩む。
『あなたの予定していたラストがハッピーエンドなら、それでいい。そうでないなら。万が一にも、狂気の中で死に向かうようなお話であるのなら、すぐさま、ハッピーエンドの道を考えたほうがいい』
山倉の言葉が頭をよぎる。
ーーハッピーエンドか……。
山倉の言いたいことはわかる。もはやこの物語は単なる絵空事でなく、自分や周りの者の人生を左右しているという山倉の推理は、おそらく事実であろう。
だが、この話はクトゥルフ神話を扱ったものだ。安易なハッピーエンドを果たして読者が望むのだろうか?
ラヴクラフトが書き始めたクトゥルフ神話は、コズミックホラーだ。神とはいうものの、それは一般的な概念とは違い、超常的で、善悪の概念すらない。大宇宙と大いなる海への神秘と恐怖のつまったジャンルである。
そして、紡がれているのは、生と死と、狂気のすれすれを綱渡りする物語なのだ。
とはいえ。
この作品を書き始めた時、自分は果たして、そこまで絶望的な話を書こうとしていただろうか?
一片の救いすらない、狂気の話を求めて書き始めていただろうか?
光男は自分に問いかける。
ーーいや、違う。
もともと光男は、娯楽小説を書きたいと思っていたはずだ。
日々の疲れを忘れさせてくれるような、荒唐無稽なエンターテイメントな話を書きたいとずっと思っていた。
『杉村と共に滅ぶのも、救われるのも、あなた自身がお決めください』
山倉はそう言った。
もちろん、滅びていく物語の美しさに心惹かれる自分がいるのも確かだ。
だが、自分が求めていたのは、もっと違う物語のはずだ。
光男は、キーボードに手をのせ、物語を紡ぎ始めた。
杉村は儀式をするために、山に入った。誰にも見られることなく、宇宙の力を得るためだ。
とはいえ。
山に入るにはいささか、準備が足りなかったようだ。道を失い、気が付けば沢に落ちていた。
冷たいせせらぎの中で寝そべりながら、杉村はぼんやりと青い空を眺める。
限界だった。冷えていく身体。案外、走馬灯は廻らず、空の色だけが心に染みる。
ーーもう、終わりか。
杉村は、
「兄さん、兄さん!」
光男は、肩を揺り動かされているのに気が付いた。
「真奈美?」
ぼんやりと後ろを見ると、真奈美の顔が青ざめている。
「ひょっとして、眠りかけていた?」
「ええ。兄さんから、何か黒いものがにじみ始めていたわ」
光男は慌ててディスプレイに目をやる。
ーー大丈夫だ。
まだ、自分が書いた文字だけが表示されている。
光男は立ち上がり、大きく伸びをした。
「助かった。また、書き続けるよ」
光男は再び、キーボードに手を置いた。
聞きなれぬ電子音が規則的な音を立てている。
目を見開くと、杉村は、病室のベッドにいた。
沢で意識不明になっていたところを、たまたま山菜をとりに入っていた地元の人間に発見されたらしい。
何もかも失い、生きている意味などないと思っていたのに、また、自分は生き延びてしまったようだ。だがこうしてベッドに横たわっていると、あれほどいつ死んでも良いと思っていたのにもかかわらず、素直に点滴を受けている自分が、妙におかしいと感じる。
「杉村さん、ご無事でよかった。捜していたんですよ」
誰も見舞いなど来ないと思っていたはずの病室に現れた男は、見覚えがあった。工場がつぶれたあと。例の企業について調べていると言って取材に訪れた新聞記者だった。
「ようやく、やりとげました。見てください」
杉村の前に新聞の朝刊を広げて見せた。
ショッキングな見出しとともに、例の企業の悪行が赤裸々につづられている。
「こ、これは……」
「これだけのスキャンダルが露呈すれば、役員の中で何人も逮捕者が出ます。大企業と言えど、ただではすみませんよ」
にやり、と男は笑う。
「ああ……」
杉村は手で顔を覆い、声をあげて泣いた。
光男は大きく伸びをした。
物語の方角が変わっていくと、身体がだんだんと軽くなっていく気がする。
書き進むにつれ、山倉と真奈美の表情も次第に柔らかく変わり、夜も眠れるようになり始めた。
「更新、順調ですね」
今日の更新分を読み終えた山倉が笑みを浮かべる。
「はい。ラストまで、もう少しです」
光男は頷いた。
「エンドマークを付けるまでは、油断ができません。くれぐれも、ご注意を」
山倉が告げる。
「そうですね」
物語は始めることより閉じる方がよほど難しい。光男は大きく息を吸い、覚悟を決めた。
杉村は、海に出ていた。
太平洋を渡るフェリーは、ゆっくりと夜の海を進んでいく。
潮風を感じながら、甲板に立つ。規則的なエンジン音が聞こえる。
「ここならば、よかろう」
杉村は懐から魔導書を取り出した。
相変わらず、ねっとりと絡みつくような肌触り。暗闇の中に引きずりこまれるような引力を秘めている。
「さらばだ」
杉村は魔導書を水面へと投げ捨てた。
魔導書は夜の海へと吸い込まれるように沈んでいく。
杉村をずっと呼び続けていた、暗闇からの声がようやく止まる。
ふと上を見ると、満天の星空がどこまでも広がっていた。
杉村が闇から出て、再生の道へと進むことを信じて、光男はエンドマークを入れた。そして、完結ボタンを押す。
終わった。そう、全てが終わったのだ。
光男は書き終えるとすぐに、パソコンに残っていたネクロノミコンのデータを削除した。




