第1話 普通の挨拶をしただけなのに
できるだけテンポよく読めるように書いています。
気軽に読めるけど、ちょっとだけ引っかかる話になれば嬉しいです。
朝、井戸端で「今日は静かだといいですね」と言っただけで、村の空気が凍った。
水桶を抱えたおばさんが口を押さえ、見張り台の青年が青ざめる。
僕だけが、何を間違えたのかわからなかった。
「……えっと。おはようございます?」
挨拶を重ねても、誰もすぐには返してくれない。
いや、返してはくれた。けれど、いつもの「おはよう」ではない。
「アオイくん……今のは、まさか」
「違いますよ?」
何が違うのかもわからないまま、とりあえず否定すると、おばさん――パン屋のマルタさんはますます神妙な顔になった。
「やはり。軽々しく口にできることではないのね」
「いや、軽いです。かなり軽いです」
「静かな朝を願うなんて……この時期に」
この時期に、と言われても困る。
この村ではここ数日、街道沿いに野盗が出るとか、森の奥で獣が騒いでいるとか、落ち着かない噂が続いていた。だから、静かだといい、というのは誰だって思うことだろう。
たぶん。
「アオイ!」
見張り台から飛び降りるみたいにして、幼なじみのリナが駆けてきた。赤い髪をひとつに結んで、寝ぐせがまだ少し残っている。
「聞いたよ! あんた、朝からすごいこと言ったんだって?」
「言ってない」
「言ってるじゃん! 『今日は静かだといいですね』って」
「それのどこがすごいの」
「わかんないけど、みんなすごいって」
この村には、たまにこういうことがある。
僕の言葉が、僕の思っていたよりずっと大げさに受け取られるのだ。
子どものころからそうだった。転んだ子に「前を見たほうが安全だよ」と言ったら、翌日には「アオイは未来を見通す」と言われていたし、壊れた荷車を見て「軸が曲がってるから進みにくいんじゃない?」と口にしただけで、「構造を見抜く慧眼」と広まった。
違う。見ればわかることだ。
でも、なぜか僕以外はそう思ってくれない。
「アオイくん」
静かな声で名前を呼ばれて振り向く。
井戸の向こう、白い外套の女の人が立っていた。旅の学者みたいな格好だけど、袖口はきれいすぎるし、靴もほとんど汚れていない。よそ者だ。
その人は、薄い金色の瞳を細めて僕を見る。
「今の言葉、誰に向けて言ったの?」
「誰にって……みんなにですけど」
「そう」
小さくうなずいたあと、その人はなぜか満足そうに笑った。
「では、確認だけ。あなたは“来る”と知っていたのね」
「来る? 何がですか」
「静かであってほしい何か、よ」
わかりにくい。
でも、聞き返す前に村の入口のほうから怒鳴り声が上がった。
「来たぞ! 街道側だ!」
ざわり、と人が動く。
見張りの青年が鐘を鳴らし、畑に向かいかけていた男たちが慌てて戻ってくる。僕もつられて振り返った。土煙が上がっている。馬じゃない。人だ。五人、いや六人。粗末な武器を持っている。
野盗だ。
「ほら!」
リナが僕の袖をつかんだ。
「来たじゃん!」
「来たけど、僕のせいみたいに言わないで」
「今そういうこと言ってる場合じゃない!」
それはそうだ。
村長のガラムさんが家から飛び出してきて、広場の真ん中で叫ぶ。
「若い者は柵の前へ! 女子どもは家に!」
みんなが走り出す。僕も動こうとしたけれど、白い外套の女の人が僕の前に一歩出た。
「あなたは?」
「逃げます」
「そう。では、ひとつだけ教えて」
この状況で?
と思ったけれど、その人は妙に落ち着いていた。周囲の騒ぎから、そこだけ切り離されているみたいだった。
「もしあなたが、この村を守る側ならどう言う?」
「どう言う、って……」
そんなの、決まっている。
というか、難しいことではない。
柵の前では、男たちが槍や鍬を持って並び始めていた。けれど数が足りない。たぶん真正面からぶつかったら押し切られる。だったら――
「前に出すぎないこと、ですかね」
「前に?」
「守る側って、守るのが仕事でしょ。追い払いたいからって前に出ると、隙ができます。守るなら、入れない形を作ったほうがいい」
「……なるほど」
白い外套の人は、今度ははっきり笑った。
すごくきれいな笑い方なのに、なぜか少し怖かった。
「ありがとう。十分だわ」
そう言って、彼女はくるりと踵を返すと、村長のほうへ歩いていった。
いや、歩く速さじゃない。落ち着いているようで、やたら早い。
「村長」
よそ者なのに、彼女は妙に通る声で呼びかけた。
村長が焦った顔のまま振り向く。
「今、賢者の助言を預かりました」
「け、賢者?」
「はい。『前に出すぎるな。守るなら入れない形を作れ』と」
待って。
誰のこと?
村長だけじゃない。周囲の視線が一斉に僕へ向いた。
リナの目まで、きらきらしている。
「アオイ……」
「違うよ」
「まだ何も言ってないのに!?」
「その目がもう違うから」
でも、村長は一瞬迷ったあと、すぐに叫んだ。
「柵の内側に引け! 広げるな、狭めろ! 荷車を持ってこい、入口を詰めるぞ!」
え、採用するの?
びっくりしている間にも、男たちが動いた。入口近くにあった空の荷車が押し出され、柵の切れ目を埋めるように並べられる。鍬や木箱まで使って、隙間をわざと細くした。
野盗たちが着く。
勢いのまま突っ込もうとして、狭くなった入口に詰まった。後ろの連中が押し、前の連中がつっかえて、先頭がよろめく。
「今だ!」
村長の声。
上から石が飛び、横から棒が打ち込まれる。狭いところに押し込められたせいで、野盗はうまく散れない。すぐに悲鳴が上がり、一人が尻もちをついた。
「あ」
思わず声が漏れた。
勝てそうだ。
最初に突っ込んできた勢いが完全に死んでいる。相手だって、柵の前でこんなふうに止められるとは思っていなかったのだろう。二、三人があわてて退き、仲間を引っ張る。後ろで怒鳴っていた男も、こちらの構えを見て舌打ちした。
「引け! 今日はやめだ!」
土煙が遠ざかっていく。
しばらく誰も動かなかった。動けなかった、が近いかもしれない。
それから一拍おいて、わっと歓声が上がった。
「追い払ったぞ!」
「けが人は!?」
「軽い打撲だけだ!」
広場が一気に明るくなる。
さっきまで青ざめていたマルタさんなんて、もう泣きながら笑っていた。
「アオイくんのおかげだよ!」
「違います」
「前に出すぎるな、なんて……なんて深い」
「深くないです」
「いや、深いな」
村長まで来た。
両手で僕の肩をつかみ、感極まった顔でうなずく。
「わしらは、守るために前へ出るものだと思い込んでいた。だが違った。おぬしは、守りの本質を一言で見抜いたのだな!」
「たまたまです」
「そうやって功を誇らぬところもまた大人物!」
会話が進まない。
リナは横でぴょんぴょん跳ねていた。
「ねえ、やっぱすごいよ!」
「なんで?」
「なんでって、当たったし!」
「当てにいってないんだけど」
白い外套の女の人が、そんな僕らを少し離れた場所から見ていた。
いつの間にか、村の中心にいるのに妙になじんでいる。
彼女は静かに一礼してくる。
「助かりました、アオイさん」
「いや、僕は別に」
「謙遜しなくていいわ。言葉で流れを変える方なのでしょう?」
「違います」
「そういうことにしておきましょう」
この人、話が早いようで全然通じていない。
「あなた、誰ですか」
「ミラ」
それだけ言って、彼女は少し考えるように首を傾げた。
「今は、言葉を集める者、とでも」
「今は?」
「ええ。肩書きは、状況で意味が変わるものだから」
よくわからない。
でも、その言い方だけは妙に耳に残った。
村人たちがまだ騒いでいる。
僕はその中心に立たされたまま、なんとも言えない居心地の悪さを味わっていた。
助かったのはよかった。
誰も死ななかったのも、本当によかった。
けれど、僕が褒められているのは、やっぱり少し違う気がする。
だって僕は、ただ思ったことをそのまま言っただけだ。
難しいことなんて、何ひとつ。
なのにミラは、僕を見て確信したように言った。
「じきに、この村だけでは済まなくなるわ」
「……何がですか」
彼女は答えない。
代わりに、村の外――野盗たちが去っていった街道の先を見た。
「あなたの言葉が、です」
その瞬間、背中が少しだけ寒くなった。
歓声の中にいるのに、そこだけ静かだった。
朝、僕が願ったはずの静けさとは、たぶん違う種類のものだった。
たぶん本人だけが、いちばん何もわかっていません。
でも、わからないまま動いた言葉が、少しだけ村の形を変えました。
次は「その一言を、もっと大きな場所で使いたがる人」が出てきます。
静かでいてほしい朝の続きが、あまり静かでは済まなさそうです。




