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5話 レベルアップ




風呂場の奥から微かな光と水音が響く。

それは誰かが桶を落としたような、けれど穏やかな反響を伴う不思議な音だった。悠真は音の方へ目を向けたが、扉の隙間から覗く湯気以外、何も見えない。


「……気のせいか」


スライムが彼の足元で丸くなり、ぷるぷると揺れた。

その姿に苦笑しながら、悠真は掃除道具を片付け始めた。

赤の部屋はすっかり清潔で、淡く陽の光が差し込み、空気は乾いている。家具も少なくスライムが手伝ってくれた甲斐もあり、思ったよりもずっと早く終わったのだ。

スライムに礼を言うと返事をする様にぷるぷると震え、光と共に消えていった。


その日の夕方。

宿の廊下に軽い足音が響く。扉が開き、マリーが帰ってきた。


「ただいまー。隣の部屋、掃除してくれてありがとね」

「よくわかったな」

「中は流石に見てないけど、扉とかドアノブすごい綺麗になってるもん。廊下にも変な匂いが漏れ出してこないし、ありがたいわ」


マリーは羽織っていた上着を放り投げ、靴を足先のみで器用に脱いだ。


「今日は疲れたから昨日のお風呂入って寝るわ。おにーさんは先に寝てていいよ」


 そう言ってほぼ下着姿のまま、浴室へ向かう。流石に何か羽織れと言いたいが、お土産の焼き立てのパンを渡されれば何も言えない。悠真は綺麗に磨かれた床に腰を下ろし、暖かいミルクの味がするパンを頬張った。





「……なに、これ」


 マリーは思わず声を上げる。それは驚きと、わずかな陶酔を含んだ声であった。


浴室の湯は、淡く光を帯びていた。

まるで満月を砕いて湯船に沈めたような、柔らかな輝き。肌に触れる湯はぬるめだが、芯の奥まで温かさが染み込む。

ただの湯ではないことは火を見るより明らかだ。皮膚を包み込むような細やかな泡が浮かび、呼吸を整えるたび、体の重さが少しずつ抜けていく。


「……はぁぁぁ、なにこれ……やばぁ……」


マリーは湯船の中で力が抜け、肩まで沈んだ。

髪飾りをほどくと、金の束が水面に広がり、湯気に光を反射して揺れる。その髪を指で梳くたびに、滑らかさが増していくのがわかった。海風で傷んでいた毛先が自然に整い、手触りが変わっていく。


「これ……まさか……おにーさんが?」


自分が帰る前に悠真が浴室をいじったことはなんとなく察知していた。明らかにそわそわとしており、目線は何処かあさってへ向いていた。隣の部屋のことだと思いカマをかけたが反応は特になかったので、残るはこの風呂のことだろうと目処はつけていた。


 けれど、まさかここまでとは予想だにしていない展開であった。試しに湯をすくって頬に当ててみると、微かに甘い香りがした。キラキラと光を反射し、心地よい脱力感を与えてくれる。


「癒し付与?でも状態強化なんて一流の魔法士じゃないと使えないし……」


混乱とは反比例し、マリーは自分の脈拍がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。頭の中が静まり、思考が澄んでいく。これすらも湯の効果なのだろうか。

 こんなにも心地よく湯に浸かったのはいつ以来だろう。

 身体が、呼吸が、魂そのものが“ほぐれていく”感覚。


 ふと、瞼の裏に思い浮かんだのは――

 赤の部屋で掃除をしていた悠真の姿だった。

 黙々と働く横顔。

 奇妙に真っすぐな、無防備な眼差し。


「……ほんとに変な子だなぁ」


 呟いた声は湯気に溶けていった。



 一方、部屋のベッドでは悠真が毛布をかぶって欠伸をしていた。スライムが枕元でぷるぷると震えている。


「……あっち、静かだな。ちゃんと入れてるか」


スライムが“ぴちょん”と鳴いて返す。


「まあ、いいか。……明日も掃除だな」


そう言って目を閉じた彼の耳に、浴室から水音が微かに届く。それは波のように穏やかで、どこか神聖な響きを帯びていた。


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