19話 構図
ガタン、と重い扉の音がした。
外はすでに白みはじめ、夜と朝の境目が曖昧に溶け合った頃だ。
マリーが戻ってきたのは、夜明け前。
肩にかけたマントはしっとりと濡れ、髪の先から雫が落ちている。足取りはふらつき、唇は血の気を失っていた。
「……おかえり」
そう声をかけたが、返事はない。
マリーは靴を脱ぐのも忘れて、そのまま寝台に倒れ込んだ。服も髪も湿ったまま、顔を横に向けて浅い息をしている。
ベットに沈むマリーを悠真はしばらく黙って見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。何かを責めるようなものではない。ただその疲れが痛いほど分かるだけだった。
彼は手を伸ばし、マリーの肩口に指先を滑らせる。
空気がわずかに揺れ、淡い熱が広がった。風が撫でるように衣の水気が消えていき、髪の雫が蒸気のように散っていく。暖かい気配だけが残り、冷たかった頬の色が少しだけ戻った。
「……おやすみ」
苦笑しながら、彼は毛布をもう一枚引き寄せ、マリーの肩に掛ける。頬に当たる布の感触がやわらかくなり、その瞬間、マリーは微かに眉に寄った皺が柔らかくなった。
机の上にあった水差しを手に取り、彼女の枕元に静かに置く。鞄の中から、小さなスライムが“ぷる”と鳴いた。
「しばらく休ませてやろう。偶には一人の時間だって必要だ」
返事代わりに、スライムが小さく震えた。
悠真はそっと立ち上がる。まだ夜の名残を残す空の下、宿の下の階から、微かな笑い声が静寂の中響いていた。
マリーの大きめのコートを借り身支度を整える。襟を整えながら、悠真は扉に手をかけた。その背後で、マリーが小さく寝返りを打った。
「……いってきます」
悠真は灯りを消し、静かに部屋を出た。外の廊下には、夜明け前の冷たい空気と、何かを予感させるような静寂が満ちていた。
マリーが寝息を立てるのを確認してから、悠真はそっと部屋を出た。まだ夜明け前。微かな光が階段の隙間からこぼれ、壁を照らしている。悠真は不意に歩みを止め、照らされた一面に手をやる。
壁一面に走る装飾的な線。
崩れた箇所の隙間から覗く、異様に精緻な浮彫り。野晒しにされひどく傷んでいる表面を指でうっすらと下から上へなぞった。天井には人の目に届かない細やかさで模様がびっしりと刻まれていた。
冒険者たちはダンジョンの壁など誰も気にも留めない。酒と戦利品と生存だけが彼らの関心事だからだ。しかし悠真の目には──恐怖に近いほどの感嘆が浮かび上がっていた。
「……なんだ、この構成」
もう一度指先が壁をなぞる。埃にまみれ、ひび割れた表面の下に、微かな黄金の輝きが眠っていた感覚。曲線と幾何が同居している線は明らかに人為的な設計思想──どこかバロックを彷彿とさせるものであった。
過剰、奔放、装飾の洪水。
線一つの抑圧された秩序のなかで、形が爆ぜるような美。
悠真の脳裏に、学生時代の教科書が蘇る。
自分の専攻は“バウハウス”。無駄を削ぎ、構造と機能の調和を追う現代建築の理想。豪華や装飾とは真反対の建築を好みとしていた。
──あぁ。なのに、どうしてこんなものに心を奪われる?
合理を極めた者ほど、非合理の造形に憧れる。
そんな皮肉を噛みしめながら、彼は壁の一角を見上げた。そこには、煤と汚れの隙間から、人のような、あるいは神のような顔のレリーフが覗いている。その眼窩の奥で、微かに光が瞬いた気がした。
「……イカれてる。この技術をただの廊下に使うかよ」
囁く声には、陶酔すら混じっていた。触れた指先に伝わる冷たい石の感触が、逆に熱を帯びてくる。このダンジョンを造った存在は、ただの建築家ではない。きっと“狂気を愛した創造者”だ。
胸の奥で何かが小さく、しかし確かに溢れる。そんな錯覚に包まれたまま、悠真はようやく階段を降りきった。
下の階には、明かりと喧噪があった。人の声、酒の匂い、木と鉄の混ざった暖かさ。
ダンジョンの一部を改装した酒場は、異様に天井が高く、奥では霧のような魔力の粒が漂っていた。現実と異界の境目──そんな空間で、悠真は深く息をついた。酒場の雰囲気が高揚から日常へ戻してくれたのだろうか。
目的は失踪事件の情報収集のはずだ。だが心のどこかで、壁の装飾の続きを見たくて仕方がなかった。
その時だった。
「うわっ!? す、すみませんっ!!」
突然、真紅の液体が宙を舞った──。




