お嬢さまにはかなわない
王女が暴走した夜会から2カ月が経過していた。
王女はヴィクトワールを害そうとしたとして、国に戻された。王女については隣国に任せているが、甘い処罰にはならないようだ。
親善大使として赴いた国の侯爵令嬢に短剣を向けたのだ。よくて修道院、悪くて幽閉になることだろう。慣れない清貧な暮らしに病にかかったり、精神が衰弱して命を落とすかもしれない。
晴れやかな笑顔でそう説明したのはお忍びで見舞いに来た王子だった。その笑顔にかなり怒りを募らせていたのだと理解した。王家の闇を見たような気がして、背筋がぞくりとした。
セバスチャンは久しぶりのお仕着せを着ると鏡でじっくりと自分の姿を見た。
こちらを見返す自分はどこから見ても執事見習いだ。少し動いてみても、どこにも違和感はない。怪我をする前に戻ったことに、セバスチャンはほっと一息ついた。後遺症が残って、執事見習いを外されたらどうしようかと、戦々恐々していたのだ。
長かった。
セバスチャンにとってヴィクトワールの側に控えていられないことがこれほどの苦痛を強いるものだと初めて知った。ヴィクトワールが城から帰ってこない日々よりも、同じ屋敷にいるのに彼女のために何もできないことが辛かった。
気持ちを引き締め、部屋を出て、アンナを探した。アンナはサロンでお茶の準備中だった。
「アンナ、今日は天気がいい。四阿に用意しよう」
「わかりました。お嬢様にお伝えしてきます。セバスチャン、復帰して張り切り過ぎないでくださいね」
アンナは前よりも少しだけ優しくなった気がする。怪我をしたセバスチャンを見たせいかもしれない。アンナに突っかかってもらえないとヴィクトワールに庇われる悦びが得られないので、何とかこちらも元に戻ってほしいものだ。
そんなことを考えながら、侯爵家の庭の奥まった場所にある四阿を手早く整えていく。
ほどなくしてアンナを連れてヴィクトワールが姿を現した。彼女はセバスチャンを見て、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「セバスチャン。今日から復帰なのね」
「お嬢さま、長い間、ご不自由をさせてしまい申し訳ありません」
「気にしなくていいのに。セバスチャンがいたから、わたしは無傷だったのよ」
嬉しそうな様子で、ヴィクトワールは居心地の良いクッションをおいた椅子に腰を下ろした。頬を染める彼女を見ているだけで、心の底から喜びがとめどなく溢れ出てくる。やはり、こうでなくてはいけない。
セバスチャンも彼女の隣にいられる幸せを噛み締めながら、お茶を彼女の前に差し出した。本来ならこれはアンナの仕事であるが、復帰した初日のお茶はどうしても自分で入れたかったのだ。アンナに嫌がられると思っていたが、彼女はあっさりと茶器を渡してくれた。
「いい香りね」
四阿を囲う小さな花々の甘い香りを殺さないように選んだお茶を気に入ってもらえたようだ。ヴィクトワールは美しい所作でカップを手に取る。
「先ほど手紙をもらったのだけど、殿下の婚約が決まったわ。ずっと好きだった相手だそうよ。手紙なのにデレデレと惚気ちゃって読んでいて嫌になるわ」
「は? 殿下の婚約者はお嬢さまでしょう?」
セバスチャンは茫然として呟いた。ヴィクトワールは側に立つセバスチャンをちらりと視線を上げて見る。お茶を一口飲んでから、しっかりとした口調でもう一度繰り返す。
「殿下の婚約者には伯爵家の令嬢が選ばれたの。前に一度お会いしたけれども、とても可愛らしい方よ」
「……何故です? 殿下の頭はおかしいのですか? 私のお嬢さまが伯爵家の女に負けると? あり得ない……断固、断固、抗議する!」
「さりげなく不敬なことを言うんじゃないわよ。わたしはこの家の跡取りなのよ。王族に嫁げるわけないじゃない」
ヴィクトワールは激高して、目の縁を赤くしているセバスチャンにため息をついた。セバスチャンがヴィクトワールを王子の妃にしたいと願っていることを知っていた。
だが現実には色々な王族ならではの事情があり、第二王子は王族を抜けることができず、ヴィクトワールはこの侯爵家の跡取りとして盛り立てる義務がある。そして何よりも、王子は幼いころから伯爵家の令嬢に恋をしていた。彼女を王女から守るために、人払いをした部屋の中とはいえヴィクトワールに頭を下げるほどだ。彼の恋は本気だ。
セバスチャンはこの世の終わりのような真っ青な顔をして拳を握りしめ、ぶるぶると震えていた。
「お嬢さまは殿下のことがお好きだったのでは?」
「そうねぇ。殿下とは仲がいいわよ。幼馴染ですもの。顔は良いし、優しいし、王子としても、人としても優れているし」
「だったら」
「女として向ける愛情はないのよ。家族のように親しい人とは思っているけれど。二人の婚約はわたしもちょっと手伝っているのよ」
予想外の答えに、セバスチャンが絶句した。ヴィクトワールはふっと笑うと、静かにカップをテーブルに置いた。
「わたし、実は好きな人がいるの」
「はい?」
信じられない言葉を聞いたかのように、茫然として目を瞬いている。ヴィクトワールはセバスチャンに手招きした。その仕草は昔から変わらない。内緒ごとを教えてくれる時には必ずこうした仕草をする。
反射的にセバスチャンは身をかがめた。ヴィクトワールがその耳にそっと囁いた。
「セバスチャンが好きよ。だからわたしをお嫁さんにしてね」
「はい……はい!?」
セバスチャンは弾かれたように顔を上げた。にこにこと笑みを浮かべるヴィクトワールを見つめる。何か言わなくては、と思いながらも頭の中は真っ白で何も言葉が出てこない。
「ふふ。本当よ。セバスチャンもわたしのことが好きでしょう?」
「お嬢さまは私にとってすべてですから。お嬢さまの幸せが私の幸せ。ですが、相手が私ではいけません。お嬢さまに相応しいのはもっと身分が確かな……」
ヴィクトワールは彼の手を引っ張った。それ以上話すなと目で告げられ、セバスチャンは口を閉ざす。強い意志を持つ瞳がセバスチャンを逃さないと伝えていた。
「セバスチャン……いいえ、ダニエルは王弟殿下の息子だもの。お母さまの身分が低くても、立派に王族でしょう?」
ダニエル、と呼ばれてセバスチャンは目を見開いた。
「いつから……」
「教えてくれたのは殿下よ。従兄殿はこんなところにいたんだ、って呟いたのを聞いたの」
きっと王子は無意識にこぼしてしまったのだろう。セバスチャンはどうにもならない現実にうなだれた。
王弟の子供を身ごもった母親は王弟の正妃によって王宮を追い出された。王弟は外遊で留守にしていたため、頼れなかったようだ。
行く当てもなく、路頭に迷っていたところを侯爵に保護された。王弟の子供だとわかると命が危ないと、生まれたセバスチャンは家令の子供として引き取られた。セバスチャンの母親は出産後、心労がたたって亡くなっている。だから知っているものはほとんどいないはずなのだが。
「ですが、私は認知されておりませんから」
「うふふふふふ。どうして殿下を味方につけたと思っているの。過去にさかのぼって認知させたわよ」
「させたって……どうやって」
ヴィクトワールは笑みを消すと、目を細めた。唇が笑みの形になるが、どこか歪な感じだ。
「そうね、色々よ。我が侯爵家はそれなりに権力があるの。陛下にだって、ねぇ。色々あるじゃない?」
脅したんだな。
セバスチャンは原作のヴィクトワールは非常に頭がよく、悪事には天賦の才があるのを思い出した。今回の脅しは悪事ではないかもしれないが、息を吸うように気軽に人の弱みに付け込んだに違いない。
「それでもお嬢さまのお相手は私ではいけません」
「セバスチャンはわたしのことが嫌い?」
「嫌いなわけないじゃないですか! お嬢さまの幸せが私にとっての幸せなのです。だからこそ、この国で一番の栄華を極めてもらいたいのです」
ヴィクトワールはため息をつくと、立ち上がった。そのままセバスチャンの首に自分の腕を伸ばして、背伸びするようにして彼に抱きついた。
至近距離からまっすぐに見つめられ、セバスチャンは息を呑む。この目に昔から弱いのだ。自分の心を隠そうとするが、どうしても揺らいでしまう。
「わたしの幸せが貴方の幸せなら、わたしと結婚して相思相愛になるのが貴方の幸せになるじゃない」
「そうじゃない。そうじゃないんだ……」
セバスチャンは混乱した頭で首を振った。
「どうして?」
「どうしても」
「じゃあ、命令しようかしら?」
でもね、命令はしたくない。
大好きな人を愛したいし、愛されたいの。
ヴィクトワールは小さく呟いた。思いの籠った呟きを無視することができず、セバスチャンは目を閉じると、大きく息を吐いた。
彼女の願いを叶えるためには相当の覚悟がいる。一度だけ顔を合わせた王弟を思い出し、自らが認められるまでにどれほどの時間と努力が必要か算段する。
しばらくじっとしていたが、ゆっくりと目を開けると抱き着くヴィクトワールの腰にゆるく両手を回した。ヴィクトワールは驚いたような顔をしたがすぐにとろけるような笑顔になった。
「大好きよ。ずっとわたしの側にいてね?」
「もちろんです、お嬢様。私も……俺もヴィクトワールを愛している」
ヴィクトワールはそっと彼の唇に自分の唇を押し付けた。
Fin.
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