第38話 マルガレーテ・ナハトシャッテン は、真実を妨害する(8)
授業が終わり、二人だけ残った教室で、補習は始まった。
議題は、そう──【ローテンブルクは如何にして、自由帝国都市の特権を与えられたか】。
前回の史学科の授業で落第点を取ったのが、俺とリリーだけしかいなかったのは、当然、偶然だった。
──「鞘楯君。あなたはこの問題、どう解く?」
隣に座ったリリーが、俺に意見を聞いて来た。
「それは、その価値があったから」 俺は時間をかけずに答えた。
「帝国の復権を考えるハプスブルク家にとって、交易都市として繁栄していたローテンブルクには、利用価値があったからだよ」
所詮は補習の課題。基本さえ押さえておけば、正しい答えに簡単に辿り着けるように出来ている。議論する必要もないほどに。
俺には、そんなことよりも、もっと気になることがあった──。
リリー・コンスタンス──俺は確かに、君に口づけをしたはずだ。
でもあれ以降、君からは一切何のリアクションもなく、今もこうして普通に会話している。
あのあと、壇上のライトがすべて消えたあと、君は姿を消していた。
アナスタシアと全力で戦ったんだ、どこかで休んでいるのかとも思ったが、結局あの日、最後まで姿を見ることはなかった──
◆
──「ねぇ、踊らない?」 壇上から降りてきた俺に、真っ先に声をかけて来たのはアンチューサ・ロッカだった。
だが、あんなことの後で、俺は誰とも踊る気になんてならなかった。その差し出された手に、顔を歪めた。
「取らないの? 新婦に逃げられた新郎を、慰めてあげようと思ったのに」
ロッカは、俺を真似るような表情を見せて、そう言った。
「独りでいる方が、大変なことになると思うわよ」 しかしすぐに、にやけ顔に変わって、指を小刻みに振り出した。
──確かにその通りだ。あんなことをしでかしたんだ。誰に何を言われるか……。俺は進んで手を取った。
「お疲れ様。エージェントさん」 踊るロッカは、笑っていた。
「生徒会との決着って、こういうことだったのね。私もすっかり騙されちゃった」
ああ、そうだな──。何も知らない彼女には、全部、演技だったって、そう思われてる方がきっといい。
「ああ、苦労したよ。ぜんぶ、秘密にしなくちゃいけなかったからね」 俺は話を合わせた。
「ふふっ──」 騙されたというのに、ロッカは楽しげに踊っていた。
ダンスの終わり。最後に体を寄せて向き合ったとき、彼女はふいに、こう言った。
「ねぇ。次は、こんな任務はどうかしら──」 直後、ロッカは跳ねるように背伸びした。
音楽が終わると、彼女はすぐにどこかに行ってしまった。俺を置いて。
独りとなった俺の前に、入れ替わるように、すぐに別の女生徒が手を差し出した。俺は、もう取らない訳にはいかなかった。
しばらくそうやって、名前も知らない人と俺は踊った。ただ──口元だけが、彼女の感触を覚えていた。
それから、何人かのダンスのお相手を務めたあと、次に巡って来たのは、マリー=バレリアンヌ。
律儀に順番を守って来た彼女は、何も言わず、ただ少し不機嫌そうだった。
「待たせて、ごめん──」 俺は頭を下げて、手を差し伸べた。
「本当に。でも──信じていましたわ」 マリーは微笑んで、俺の手を取った。
──マリーには、この一件はどう見えたのだろう。
彼女と踊りながら、そんなことを考えた。ロッカと違って、すべてが演技だなんて思ってないはずだ。
「お二人の剣を弾いたあの一閃。とても綺麗でした」
そんな俺の思惑をよそに、彼女からは意外な言葉が零れた。
あの時、夢中で放ったあの斬撃は、あれは神業だった。もう一度やれと言われても、出来はしないだろう。
「ぜひ一度、御手合せしてください」
マリーは、それ以外を口にすることはなかった。それ以外は、興味が無いかのように。
あの一瞬。俺はアナスタシアさえ上回った。それは、マリーには捨て置けないことだったのかもしれない。
マリーとのダンスが終わって、次に流れたのは、このダンスパーティーを締めくくるスローワルツだった。
でも俺は、ラストダンスを踊るべき相手の姿を、見つけられなかった。だから、他の誰の手も取らなかった。
だけど──そんな俺の前に、青いドレスを着た女性が現れた。
俺は最初、それが誰だか分らなかった。顔を隠していたわけじゃない。あまりにも雰囲気が違い過ぎて、あまりにも突然過ぎて、同じ人に見えなかった。
その青いドレスの人が弱々しく伸ばした手を、俺は迷うことなく受け止めた。
意外だった、彼女はダンスが上手くなかった。信じられないぐらい。
いや、女性側に慣れていなかったのだろうか。そんな言い訳を、俺の方が考えるほど、その動きはぎこちなかった。
彼女は何も言わなかった。
俺も、彼女が何を言い出すのかに集中して、何も言わなかった。
スローワルツのゆったりとした時間の中、俺と彼女には、とても緊張した時間が流れていた。
音楽が終わる。その時ようやく、アナスタシアは口を開いた。
「誠……。私は負けた。でも、まだ諦めてないからな」
「ああ、いつでも来いよ。俺も、絶対負けないから」
それだけを交わして、パーティーの幕は下りた。
◆
──「そうかしら──」 だが、彼女は納得していないようだった。
「私は、こう考えているの」 キラキラとした温かな瑠璃色の瞳は、俺を課題に引き戻した。
「ローテンブルク伯家の最後の当主、ハインリヒ・フォン・ローテンブルク──」
「彼はその最後に、城をコムブルク修道院に遺贈するという遺言を遺した」
「でも、時の皇帝はそれを認めなかった。そして、甥のコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンに所領を与えた」
それは、このローテンブルクの始まりの歴史。俺は、黙って頷いた。
「──でも、どうして皇帝は認めなかったのかしら?」 その瞳を、真っ直ぐ俺に向ける。
「────」 俺は少し、考えた。考えるまでもないこの問題を。
当時の封建制度上、どの貴族の領地も、皇帝からの借り物に過ぎなかった。それを勝手に譲渡するなんて許されない。答えはとても簡単だった。
だけど──リリーは、そんな答えを望んでいない。俺は、それを知っている。
「……始まりの王、ハインリヒ。そして、現生徒会長、マルガレーテ。これは偶然では無い──と」
だから、彼女が納得しそうな答えを、即興で考えた。
「流石ね、鞘楯君──」 その俺に、リリーは笑顔を向けた。
「あなたなら、分かってくれると思っていたわ」
その二度目の笑顔は、慈愛に満ちた聖母のようだった。
「この地には、黒犬の悪魔が棲んでいる。だから、特別扱いしなければいけなかった」
「とってもお洒落な解釈だと思わない──?」
俺は、彼女の笑顔に笑顔で応えた。
思った通り、君は補習の補習なんて恐れていない。それでこそ、リリー・コンスタンスだ。
たとえどんな答えでも、俺は最後まで付き合うよ。
この共犯関係が続く間は、俺が君を標的にする理由は、無い。
ああ、俺は信じちゃいない。信じたい、とも思っていない。ハインリヒも、マルガレーテも、ドイツではありふれた名前。ただの偶然だ。
彼女の犬も同じ。現実の犬が、木片の中に封じ込められて、シミュラクラ現象のシミになったなんて有り得ないことだ。
俺は、リリー・コンスタンスを信じていない。君は、嘘をついている。
──けど、だけどね、リリー。俺は君に、俺を信じて欲しいと願っているんだ。
ああ、多分。この非対称な作戦目標は、達成までにとても時間のかかる、俺の最重要任務となるだろう──
真実妨害‐∀‐シミュラクラ ─完─




