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漂流物

 密閉容器の最後のロックが、内側から弾け飛んだ。甘い匂いと、焦げた金属臭が、地下ドックに溢れ出す。


 容器の蓋が少しずつ持ち上がった。中から現れたのは、白い肉だった。


 だが、それは肉片というには生々しすぎた。表面には細い脈が走り、黒い焼け殻のようなものがところどころに貼りついている。切り分けられた試料のはずなのに、まるで本体から離されたことを怒っているように震えていた。


 防護服の一人が叫ぶ。


『サンプル、拘束限界を超過』


『主検体との反応同期、上昇』


 羽喰が顔をしかめる。


「主検体?」


 白瀬の表情から、余裕が消えていた。

 永美が白瀬の本当に困った顔を見たのは、それが初めてだった。


「白瀬さん」


 永美が言う。


「あなた方も、制御できていないのですね」


 白瀬は答えなかった。代わりに、防護服の一人がタブレットを操作しながら早口で言った。


『主検体M-0、本体活動値上昇。過去観測値を更新。保存環境との適合、低下。反応周期、短縮』


 羽喰が怒鳴る。


「日本語で言え!」


 防護服は、機械のように続けた。


『年々、制御困難化しています』


 その一言で、地下ドックの空気が変わった。

 白瀬が舌打ちした。とても小さな音だったが、永美には聞こえた。


「隠せていたのですね」


 永美が言った。羽喰が振り向く。


「何をだ」


「原子力空母です」


 永美は黒い艦影を見た。


「日本とアメリカは、この巨大な空母をここまで隠し通した。航路記録を消し、工事を偽装し、研究施設で蓋をし、カルトで人目を逸らした。そこまでは、成功していた」


 羽喰は奥歯を噛んだ。


「成功なんて言葉を使うな」


「ええ。不快ですが、技術的には成功です」


 永美は密閉容器から這い出す白い肉を見た。


「だが、隠したものの片方が、もう隠れてくれなくなった」


 ギンが低く呟く。


「人魚の肉……いや、空から来たものの主か」


 防護服が叫ぶ。


『主検体反応、ドック内サンプルへ伝播』


『民間対象者の情動反応を検出』


『暴走兆候』


 白い肉が跳ねる。細い触手のようなものが伸び、防護服の足首に絡みついた。防護服は悲鳴を上げる間もなく転倒する。白い肉が床を這い、その胸部へ張りついた。


 羽喰が撃った。肉が弾け、白濁した液体が飛び散る。

だが、止まらない。撃たれた部分から、さらに細い繊維が伸びた。


「クソッ、増えやがる!」


 透子が皆川を抱えたまま後退する。


「撃つな。飛び散る」


「先に言え!」


「見ればわかる」


「見たくねぇんだよ!」


 防護服の一人が、火炎放射器のような装置を構えた。だが、白い肉は先に動いた。床を這い、足場を登り、装置の噴射口へ絡みつく。次の瞬間、装置が暴発した。


 炎が渡り廊下を舐める。信徒の一人が火だるまになり、水面へ落ちた。つんざくような悲鳴が響く。


 銃声。警報。地下ドックは、一瞬で聖堂ではなくなった。そこは、実験場だった。そして実験場は、失敗していた。

 白瀬が叫ぶ。


「主検体への接続を切りなさい!」


 防護服が応じる。


『切断不能。M-0本体側からの反応が強すぎます』


「なら、観測者を固定する」


 白瀬の目が永美へ向いた。

 透子が即座に永美の前へ立つ。


「やはりそうか」


 羽喰が吐き捨てる。


「お前らが永美を欲しがった理由は、それか」


 白瀬は乱れた息を整えた。その顔に、また白い微笑が戻ろうとしている。


「M-0は、形を持ちません。正確には、見る者の反応によって形を変える。恐怖を与えれば暴走する。拒絶すれば崩壊する。願望を与えれば、それに寄生する」


 白い肉は、眠っていた客のカプセルへ伸びていた。蟠り、蠢き、肉が集まっていく。まるで人間の願いを読んでいるように。


「だから、永美様が必要なのです」


 白瀬は言った。


「あなたは恐怖より先に、美を与えられる。意味を与えられる。形を整えられる。M-0の暴走を、観測によって安定させられる」


「はぁ……ひどい買い被りようだ」


 永美は言った。


「いいえ。哀川様の記録が証明しています」


 その名が出た瞬間、永美の表情が変わった。

 透子が低く言う。


「乗るな」


「大丈夫。鴉宮さん。乗ってはいない」


 白瀬は続ける。


「哀川様は真実に近づきました。しかし、彼は拒絶した。見たものを、美として処理できなかった。だから、壊れた」


「黙れ」


 永美の声は静かだった。


「あなたが壊した」


 その時、艦内搬入口の奥から、さらに重い音が響いた。


 がん。がん。


 何かが内側から叩いている。防護服たちの動きが止まった。


『北東区画本体槽、圧力上昇』


『主検体、移動兆候』


 羽喰が唖然とする。


「本体槽って、さっきの地下施設の肉塊か」


 ギンが顔を上げる。


「排液したせいで、眠りが浅くなったのじゃ」


「俺のせいかよ!」


「責めとらん。逃げるためには必要じゃった」


 ギンは杖を握りしめた。


「じゃが、もうここには留まれん」


 白い肉が水面へ落ちた。黒い水の上で、ぼこりと膨らむ。水中で増えている。空母の影の下で、白いものが広がっていく。


 その一部が、女の顔のような形を取った。すぐに崩れた。次は老人の手。次は魚の尾。次は、皆川の妹らしき少女の横顔。皆川が意識を取り戻しかけ、うめいた。


「……妹」


 透子が彼の耳元で怒鳴る。


「違う!」


 羽喰が皆川の顔を押さえる。


「見るな、バカ!」


 白瀬の信徒たちも、もう統制を失っていた。逃げる者。祈る者。肉に触れてしまい、笑いながら泣き出す者。


 防護服は封鎖を叫んでいるが、白い肉は足場の隙間から次々と伸びていく。

 

 永美はそれを見ていた。見ないわけにはいかなかった。だが、言葉にしてはいけないとわかった。美しい、と名づければ、それは美しい怪物になる。哀れ、と名づければ、それは哀れな犠牲者の顔をする。


 ——そして人魚、と名づければ、人魚になる。

 だから、永美は言葉を飲み込んだ。

 白瀬がそれに気づく。


「なぜ黙るのです」


「あなたの道具にならないためです」


「見ているでしょう」


「ええ」


「なら、書けるはずだ」


「あえて書かぬことも、作家の仕事です」


 白瀬の顔が歪んだ。その瞬間、白い肉が彼の背後へ伸びた。信徒の一人が庇おうとしたが、間に合わない。触手のような繊維が白瀬の肩を掠め、白い衣が裂けた。

 白瀬が初めて後退する。


「下がりなさい! まだ選別段階です!」


 羽喰が笑った。


「選別してんのは、もうお前じゃねぇみたいだな」


 防護服の一人が叫ぶ。


『撤退を推奨。ドック封鎖準備』


「封鎖したら客はどうなる!」


 羽喰が怒鳴る。


『民間対象者は記録済みです』


「答えになってねぇ!」


『記録済みです』


 羽喰は歯を剥いた。


「こいつら、見捨てる気だ」


 ギンが言った。


「百年浜へ行く」


 全員が振り向いた。ギンの顔は青ざめていたが、目だけは強かった。


「あれは、ここに閉じ込めたから暴れる。肉も、人も、死者も、願いも、みな押し込めすぎた。百年送りの浜へ出る」


「浜へ出てどうする」


 羽喰が訊く。


「返す」


「何を」


「全部じゃ」


 ギンは言った。


「返せるものは返す。返せぬものは、せめて外へ出す。ここは蓋じゃ。蓋の下で腐ったものは、もう止まらん」


 透子が即断した。


「全員を連れて出る」


「客もか」


「動ける者だけでも」


 羽喰が頷く。


「皆川は俺が持つ。佐伯は?」


 佐伯は、足場の下で白い肉へ向かって歩いていた。


「若さ……私の……」


 ギンが走ろうとする。

 だが、永美が先に声を上げた。


「佐伯さん!」


 佐伯は振り向かない。

 永美は一瞬迷い、それから言った。


「それは若さではありません!」


 佐伯の足が止まった。


「あなたが欲しいのは、若い肉体ではない。失敗しなかった人生です」


 佐伯の肩が震える。


「黙れ……」


「でも、失敗しなかった人生など、どこにもない」


「黙れ!」


 佐伯が振り向く。その顔は怒りで歪んでいた。だが、肉からは一歩離れている。

 透子が即座に走り、佐伯の首筋へ手刀を入れた。


 佐伯は崩れ落ちる。

 羽喰が叫ぶ。


「また気絶かよ!」


「運びやすい」


「さっきも聞いた!」


 透子は佐伯を肩に担ごうとして、顔をしかめた。


「重い」


「当然だろ!」


「羽喰、持て」


「俺は皆川持ってんだよ!」


 永美が手を挙げる。


「私は?」


「お前は自分を持て」


「手厳しい」


 防護服たちはすでに後退を始めていた。

 彼らは自分たちの記録機材と密閉ケースだけを運び、眠っている客たちを置き去りにする。

 白瀬が叫ぶ。


「待ちなさい! 対象者を回収する!」


『優先順位変更。研究員保護を最優先』


「契約が違う!」


 その言葉に、羽喰が反応した。


「契約、ね」


 白瀬は一瞬だけ口を閉じた。

 羽喰は笑わなかった。


「後で全部吐かせる」


「その後があれば、ですが」


 白瀬が言った。地下ドックの奥で、空母の艦体が低く震えた。肉が、艦腹の搬入口へ伸びている。まるで、艦の中の何かを探しているようだった。


 永美は艦内配置図を思い出す。格納庫甲板。機関部。推進区画。


 グリッター・アイランド——。青白い光——。


 白い肉は、人間の願いだけでなく、あの艦そのものにも反応しているのかもしれない。


 空から来たもの。海に隠されたもの。炉心を抱えた空母。異質な二つが、島の腹の中で何十年も隣り合っていた。その結び目が、今ほどけようとしている。


「出口は」


 透子がギンに訊いた。


「百年浜へ続く古い搬出路がある」


 ギンは足場の奥を指した。


「昔は、浜へ返すものをそこから出した。今は封鎖されとるはずじゃが、八尾が開ける」


「なぜわかる」


「開けねば、あの女の舞台も終わるからじゃ」


 その時、天井の古い放送機が鳴った。


『皆様』


 八尾の声だった。


『左手奥、旧搬出門を開けます。百年浜まで一直線でございます』


 羽喰が怒鳴る。


「聞いてたのか!」


『舞台の袖から見える程度には』


「便利すぎんだろ!」


『ありがとうございます』


 透子が言う。


「全員走らせろ」


 羽喰が客のカプセルを開ける。


「起きろ! 死にたくなきゃ動け!」


 眠っていた客たちは混乱していたが、白い肉が足場を這う音を聞いて、悲鳴を上げながら立ち上がった。

 ギンが先頭に立つ。


「浜へ! 百年浜へ走れ!」


 白瀬はなお密閉容器のそばにいた。

 崩れた儀式を、崩れた商売を、まだ取り戻そうとしている。


 永美は彼を見る。


「白瀬さん。あなたは来ないのですか」


 白瀬は顔を上げた。


「私は、管理する側です」


「もう管理できていない」


 その言葉が、最も深く刺さったようだった。

 白瀬の顔が白くなる。だが、次の瞬間、彼の背後から白い肉が伸びた。


 透子が叫ぶ。


「永美、走れ!」


 永美は走った。

 白瀬の悲鳴が聞こえたかどうかは、わからない。警報と銃声と、客たちの叫びが、すべてを飲み込んでいた。


 旧搬出門が開く。その向こうから、昼の光が差し込んだ。海風が吹き抜けた。塩の匂い、百年浜の白い眩しさ、地下の甘い腐臭とは違う、荒い現実の匂いだった。

 ギンが叫ぶ。


「走れ! 振り返るな!」


 全員が、地下ドックから百年浜へ向かって駆け出した。背後で、何か巨大なものが崩れる音がした。そして、空母の腹の奥から、白い肉が波のようにあふれ出した。

 

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