第一話 捕らわれの姫将軍
「跪け(ひざまずけ)、楠木の小倅!」
降りしきる泥雨の中、多門の背中に罵声が浴びせられた。
背後から蹴り飛ばされ、濡れた土に膝を突く。
四方を囲むのは、松明の火に顔を赤く光らせた足利軍の将兵たちだ。
(……ここまで、か)
多門は、泥にまみれた楠木の勇将としての仮面を必死に保とうとしていた。
直垂の下、きつく巻き付けられた晒が、雨を吸って重く胸を締め付ける。
その痛みが、自分が「多門」という名を纏った女――結であることを、静かに告げていた。
亡き父の志を継ぐため、女であることを捨てて戦場に身を投じてきた彼女にとって、多門としての死こそが唯一の救いのはずだった。
男たちの野卑な笑い声が響く中、一人の将が進み出た。
石堂頼房。
その瞳には、捕虜に対する憎悪ではなく、獲物を値踏みするようなねっとりとした欲望が張り付いている。
「楠木正成の隠し子、多門と聞いたが……。ふん、戦場に似合わぬ、随分と小綺麗な顔立ちではないか」
石堂は多門の顎を指先で乱暴に持ち上げ、その唇を親指でなぞった。
「その辺の稚児よりも余程、見どころがある。……殺すには惜しい。今宵は俺の天幕で、その気高い楠木の誇りがいつまで持つか、じっくりと試してやろう」
周囲から下卑た歓声が上がる。
結の背中に、嫌悪と恐怖が混じった戦慄が走った。
男として辱められることは、女であると暴かれることと同義の、最悪の終わりを意味する。
「やめろ……。殺せ! さもなくば、その喉元を――」
石堂の手が多門の胸元にかかり、その柔らかな輪郭を確かめるように指を潜り込ませようとした、その時。
「石堂。見るに堪えぬ。そこまでにせよ」
闇を切り裂くような、氷のように冷え切った声が響いた。
兵たちが波のように割れる。
そこに現れたのは、漆黒のマントを纏い、圧倒的な威圧感を放つ男。
足利直冬であった。
直冬は石堂の前に立つと、多門に伸ばされたその腕を、無造作に、だが力強く掴み取った。
「若君……。これは楠木の小倅への『教育』でございます」
「教育など不要だ。……俺が見ていた限り、この小倅は敗軍の将として、最後まで刀を捨てず、毅然として立っていた」
直冬は石堂を退かせ、泥にまみれた多門を見下ろした。
その視線は、石堂のような卑俗な欲望とは無縁だ。ただ、戦場に散った数多の命を見てきた者特有の、冷徹な「審判」の目。
「楠木多門。貴様の覚悟、しかと見届けた。……貴様を石堂のような俗物の玩具にはさせぬ」
直冬は周囲の将兵を射すくめるように一瞥し、言い放った。
「こいつの身柄は、俺が預かる。……連れて行け」
直冬の言葉に、多門は息を呑んだ。
救われたのか。……いや、違う。
自分を見据える直冬の瞳の奥には、石堂の欲望よりも底知れない、巨大な闇が渦巻いている。
結は、多門として直冬の足跡を追うように、本陣の奥深くへと連行されていった。
それが、彼女にとってさらなる「女としての深淵」への入り口になるとは、まだ知る由もなかった。




