あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
……と、しみじみ書き始めたいところなのですが、まず一つだけ確認させてください。
あなたは今、「鼻にワサビを入れたい男の話」のあとがきを読もうとしています。
本当によろしいですか。
よろしいですね。では、続けます。
この話を書きながら、ずっと考えていたことがあります。
「変な衝動」というものについて、です。
ケンジは半年間、自分の中の衝動を「おかしい」「どうかしている」と思い続けました。実際、おかしいんです。客観的に見て。好きな人の鼻にワサビを入れたいなんて、どう取り繕っても、おかしい。
でも、おかしい衝動を持ってしまうこと自体は、たぶん、誰にでもあることだと思うんです。
規模や内容は違えど、「なんでこんなこと思うんだろう」という感情を、人は時々、好きな人に対して抱く。理屈では説明できない、言葉にしたら絶対引かれる、でも頭の中には確かにある、そういう感情。
ケンジのそれが、たまたまワサビだっただけで。
そういう話として、書きました。
ハナというキャラクターを作るとき、一番大事にしたのは「引かない」という一点でした。
ケンジの告白を聞いて、ハナは怒りませんでした。引きませんでした。「なんで今まで言ってくれなかったの」と言いました。
これは、ハナが「変なことを受け入れられる寛大な人」だから、ではないと思っています。
ハナ自身も、「好きな人が寝てるとき鼻をつまんだことがある」と白状しました。変な衝動を、ハナも持っていた。だからケンジのことを、笑えたんだと思います。
自分の変なところを知っている人は、他人の変なところにも、優しくなれる。
そういうことを、ハナという人物を通して書きたかったのかもしれません。
トモについても、少し書かせてください。
トモは、この話の中で一番まともな人間です。毎回ため息をついて、毎回「どうかしてる」という顔をして、でも毎回、ケンジの話を聞きました。
「俺はお前の味方だ」と言いました。ワサビの話の意味はわからないけれど、ケンジがハナを大事にしているのはわかる、と言いました。
友情というのは、相手のすることを全部理解することじゃなくて、理解できなくても隣にいることなのかもしれない。トモを書きながら、そんなことを思っていました。
ため息の数が、愛情の深さでした。
それからワサビについて。
なぜワサビだったのか、という問いに、ケンジは最後まで答えられませんでした。
実は、書いている側も、答えを持っていませんでした。
わからなくていい、と思っていました。
好きという感情は、いつも理由の説明に失敗します。なぜ好きなのかを突き詰めると、最終的には「好きだから好き」にしか辿り着かない。
ワサビへの固執も、同じ構造をしているような気がして、あえて答えを出しませんでした。
説明できないものが、人間の中にはある。
それでいいんじゃないか、と。
最後に、一つだけ。
冷蔵庫のドアポケットに、ワサビチューブが残り三本あります。
ケンジは捨てませんでした。
捨てる理由が、なくなったから。
この一文が、この話の中で、個人的に一番好きな一文です。
悶々とした日々の果てに、ワサビの存在意義が変わった。脅威でも、執着でも、秘密でもなくなった。
ただ、二人の間にある、ちょっと変な、でも笑える何かになった。
それが恋愛というものの、一つの形なのかもしれないな、と思います。
ワサビの話で、すみません。
読んでくださって、本当にありがとうございました。
あなたの冷蔵庫のワサビチューブが、いつか誰かとの笑い話になりますように。
……なりませんね、普通は。
でも、まあ。
人生、どうなるかわかりません。
田中ケンジと佐藤ハナに、幸あれ。
トモのため息が、いつか笑いに変わりますように。




